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家族のかたち  作者: メデュ氷(こんにゃく味)
第一章 始まり
5/74

 この街のギルドは酒場と一緒になった賑やかな場所であった。

 常に人の声が絶えず、皿やジョッキの音があちらこちらから聞こえ、注文をとる者も声をはって対応しなければならないほどだ。

 耳が良いアンヘルはこの場所が苦手らしい。色んな音で頭がいっぱいになって、慣れた今でも不快なのだという。加えて鼻も良いので、新人の頃はかなり辛かったと聞かせてくれた。

 スキュブも少々表情が固い。初めての場所である上に、こんなに人がいっぱいいるところは今まで行ったことがなかった。

 大丈夫かい、と声をかけると、小さな声で大丈夫と応えたが、慣れるまでは普段よりストレスがかかるだろう。帰ったら沢山ケアしてあげねばなるまい。


 アヤネはルイスに連れられて、ギルドの受付まできていた。

 書類を書けば大丈夫らしいが、細かいところはルイスが捕捉してくれるという。

 丁寧なサポートだ。どんな会社でもこうであって欲しい。今更願ったところで無駄だが。


「いらっしゃいませ、本日はどうされ……」


 出てきた受付の女性がアヤネを見て言葉を失う。

 顔になにかついていただろうか。アヤネが首を傾げると、女性は今の自分の状態に気づいたようで、慌てて一礼した。


「し、失礼しました。その、あまりにもお綺麗だったので……」


 女性は照れたように笑った。

 それを見て、アヤネは月の民には見た者を魅了する能力があったことを思い出した。

 一発殴れば倒せるようなレベル差のある相手は、近くでその顔を見るだけで魅了される。服従まではいかないが、行動不能にすることが可能だ。

 雑魚戦においては戦闘を避けることができる便利な能力であるが、そうでない場合はいちいち会話を止めてしまう不便なものとなるだろう。

 次からは顔を隠すベールを着けたほうが良いかもしれない。


「ルイスさんも一緒なんですね。加入される方ですか?それとも……もしかして……?」


「新しく加入される方です。それだけですよ。」


 クスクス笑う女性に、ルイスはため息をついた。

 女性が何を聞きたくてそう言ったのかアヤネには分からなかったが、こういった絡まれ方をするあたり、ルイスは本当に人気が高いのだろう。女性の声のトーンが先程よりも高い。


「こちらの方の他に、連れの子が一人いるのですが、そちらの登録もしていただけますか?」


「かしこまりました。書類をお持ちしますので、暫くお待ちくださいね」


 女性が笑顔でバックヤードへ歩いていった。


「……いやぁ、君、人気だねぇ。めんどくさそう。刺されたりしない?」


 からかうような笑顔でそう言うと、ルイスは首を傾げる。


「いえ、先程注目されていたのはあなたの方ですよ?」


「は?わたしが?君じゃなかったの?」


「……あなたね……ああ、いや。何と言ったらいいんでしょう、これ。とにかく、気をつけてくださいね。出歩くときは特に。それと……」


 ルイスの目に強い光が宿る。


「昨晩の夕食は、ちゃんと食べましたか?」


 お前はわたしのパパかよ。

 アヤネはそう言いたいのをぐっとこらえた。


「うわ……じゃなかった。うん。スキューがご飯わけてくれてね。いやーあの子ってば優しいよな!優しさ大会とかあったら絶対にチャンピオンでしょ。世界の優しさかき集めてもあの子の足元にも及ばないね!!」


 食生活を改善する気がなかったことを悟られぬよう、つい言葉に言葉を重ねてしまった。ちょっと変な発言をしたことにアヤネは顔をくもらせる。


「うわって何ですか。本音が漏れてますよ。

 ……まったく、本当に心配したんですからね。これであなた達が親元を離れていない、と言ったら虐待を疑うところだったんですから。」


「虐待?なんで?」


「扶養されるべき子どもが複数人いる家庭で、気に入らない方にだけ食事を与えない、最低限のお金だけ置いて後は放っておく、なんてことをするところもあるんですよ。

 実際に見たことがあります。家にお金を入れるためにギルドに加入しに来た子でした。お金を入れれば両親が振り向いてくれるかもしれない、と言ったその顔を見たときは、耐え難いものがありましたよ。」


 ルイスが苦虫を噛み潰したような顔をする。


「……それって虐待なの?」


 アヤネは実家の風景を思い出した。

 帰ってきて真っ暗な部屋のあかりをつけると、テーブルに紙切れと一枚の千円札が置いてあるのだ。

 買ってきたご飯は、どんなものを試しても、何の味もしなかったのを覚えている。

 口のなかで無味な固形物が唾液と混じってぐちゃぐちゃになるだけで、飲み込むのが難しかった。

 その頃あたりから、今の食生活が始まったのだと思う。

 食べるのがひたすらに億劫だったし、そちらのほうがお金が浮く。

 ――でも、浮いたお金で何を買ったんだっけ。思い出せなかった。


「あなた、まさか……本当に――」


 その時、受付の女性が書類を持ってバックヤードから出てきた。


「お待たせしました。書類はこちらに……あら、私、お邪魔しちゃいました?」


 ルイスの意識が女性のほうへと移る。


「いえ、そういうわけでは。」


「遠慮されなくてもいいんですよ。美男美女でお似合いですもの。」


「だから、そのような関係では――」


「こんなに美人な女性を連れてやってくるなんてもう、そうでしょう。私、応援してますからね!」


 女性は書類をカウンターに置くと、早足でバックヤードへ消えていってしまった。

 ルイスがいるから書類についての案内はつつがなく進むだろうが、これは少々問題なのではないだろうか。

 仕事を放棄されてしまってはこちらが困る。アヤネは片眉を上げて小さなため息をついた。


「……ごめんなさい、普段はあんな様子ではないんですが……もっと、ちゃんと仕事をする子なんです」


 ルイスもこれには困ったようだ。まさか受付の女性が去ってしまうとは思っていなかったらしい。


「まあ……それならいいさ、何かあったら片っ端から……受付にいるやつら全員に聞くし」


 スキュブ絡みの目的のためなら容赦はしない。そちらの都合もあんまり気にしない。めんどくさがりもしない。

 愛する彼のためならば、普段の怠さなどふっとんでいく。軽くアクセルを踏むだけでぐんと加速する車のように、活発に、積極的に、手際よく事を進めることができるようになるのだ。


「……あの子のこととなると、やる気が出るんですね」


 ルイスはそれを察したらしい。困ったような笑みを浮かべている。


「あったりまえでしょ。スキューはわたしの太陽だからね。

 さて、そういうわけだから、書類の書き方とか色々教えて。とっとと済ませてスキューのとこに行きたいから。」

 

「ふふ、分かりました。迅速に対応しましょう。」


 アヤネは備え付けてあったペンを手にとって、ルイスの案内のとおりに書類を書き進めていった。



 

 ・ ・ ・



 

 一方、スキュブはアンヘルと行動を共にしていた。

 ギルド内を案内してくれていたのだ。依頼の受け方、受ける場所から、食事を注文できる場所、オススメのメニューまで。

 所々ふわっとした説明だったりして、周囲にいた人から捕捉説明を受けることもあったが、概ね理解できる内容だった。後でアヤネにも説明しなければならないだろう。

 

 さて、アンヘルの方はというと、どうやら案内するのが余程楽しみだったらしい。目をキラキラとさせてスキュブの隣を歩いている。


「ふふふ~!スキュブさんを案内できるなんて、なんだかワクワクですね!」


 鼻歌まじりにそう言うのだから、その言葉に嘘偽りはないのだろう。

 スキュブには何が楽しいのか理解できなかったが、アンヘルがそうであれば、それでいい。

 個人の感性に口をだすほど面倒な性格ではない。


「それにしてもスキュブさん、みんなから沢山注目されてましたね!やっぱりスラッとしてかっこいいと女の子はキャーキャー言いますし!」


 そこまで言って、アンヘルは何かに気づいたように首を傾げる。

 

「あれ。でも男性の方々も見てましたね。なんでだろ。やっぱり強さって、雰囲気から出てくるものなんですかね……?」


 アンヘルは腕を組んで、うーんと唸った。


「……アヤネが、心配だ」


 スキュブがぼそりと呟く。


「アヤネさんですか?アヤネさんも美人さんですからね。そのうちお花とか渡されそう!」


「……はな?どんな目的で。」


「え~………好意、の表しかた、ですかねぇ。『わたしはあなたのことが好きっぽいです』ってことだと思います。

 それなら、直接言っちゃえばいいのに、回りくどいことしますよね!」


「そうか……はなを持った奴には気をつけねば……」


 アヤネはどんな生き物より美しかった。

 花に集う蝶よりも、羽をめいっぱい広げる孔雀よりも。どんなに称賛される生き物であれ、その美しさは彼女の足元にも及ばない。

 人間がアヤネに寄ってたかって、軽々しく声をかけるのは容易に想像できた。

 彼女は人混みが嫌いだ。知らない人と話すのが苦手だ。しつこく迫られるのは酷く不快だ。

 自分の容姿で注目を集めてしまうなら、アヤネはもっと注目を集めてしまうだろう。

 守らなくてはならない。彼女は自分だけの太陽だ。


 考え事をしていると、視界の端で何かが動いた。

 スキュブはその正体を確認するために顔を上げると、四人の人間がアンヘルの後ろあたりまで近づいていた。

 

「よぉ、犬っころ、女連れて散歩かぁ?」


 その中の一人、身体つきが良い男がアンヘルの肩を叩く。


「はえ?女?女ってどこですか?」


 アンヘルは質問が理解できなかったようだ。きょとんとした顔をしている。


「そこの白い髪の女だよ。なんだぁ?いつも一緒にいる『魔眼の射手』はどうした?」


「ああ!スキュブさんのことでしたか。スキュブさんは男ですよ。ちゃんと見てくださいね!

 それと!ルイスの目は普通です!魔眼じゃないですよ!とっても綺麗ですけど!」


「男だぁ?こんなに細くて、真ッ白い顔をしたやつがかぁ?」


 男がスキュブのほうへズカズカ歩いてきた。

 ……食べても美味しくなさそうな人間だ。

 スキュブの全身を……爪先から頭までを舐めるように見るその目は、口に入れたら吐き気がしそうなほど臭うだろう。


「確かに胸はないけどよぉ……ちゃんとタマついてんのかぁ?こいつ?」


 男の手がスキュブの下半身に伸びてきた。

 ふと、アヤネの言葉を思い出す。


 ――デリケートゾーン……すなわちお前が持っている、生殖に関わる器官があるところだ。それは他人に見せたり触らせたりしちゃいけないからな!!絶対!!弱点だし!

 因みにそこを触ろうとしてくる変態は半殺しにしていいから。お前にスーパー不埒なことしてくるやつは地面にでもキスしてろってね!!!――


 アヤネの友人のところにいる弟――彼はアヤネの友人のパートナーである――に身体中をペタペタされたと話したときに言われたことだった。

 確かに弱点である部分を晒してはならないし、そこを他人に攻撃されるような隙を見せてはならない。

 しかし、半殺しとはどの程度のことをいうのだろうか。

 縦に斬っては死んでしまうし、上半身と下半身を別けても死んでしまう。そもそも斬ると人間は死んでしまうのだから、斬るのは諦めざるを得ない。

 それなら素手で殴るしかないだろう。いや、それでも内臓が潰れてしまって死んでしまうかもしれない。

 骨を折るしかないのだろうか。肋骨や鎖骨は強めに摘まめば簡単に折れる。その他は加減して殴ればきちんと半分は生きてくれるはずだ。

 

 ――だが、この作戦は無駄となった。

 スキュブが殴りかかる前に、アンヘルが男を止めたからだ。


「きゃー!何しようとしてるんですか!そんなことしたらえっちですよ!だめです!!

 だいたい!そんなに近くに寄ったら分かるでしょう?!何となくでわかるじゃないですか!!」


 アンヘルが男の腕を掴んでぐいぐいと引っ張る。

 男は予想外の横やりに驚いたのか、引っ張られた方向に二、三歩よろめいた。

 

「近くに寄ったら分かる?それはアンタだけじゃないのかい、ワンコちゃん。

 ”人間”のアタシたちには分からないのよぅ。混じりっけのない”人間”のアタシたちにはねぇ」


 杖を持った女が嘲るように笑いながらそう言った。

 特に『人間』という言葉を強調して。

 すると、側にいた男がわざとらしく便乗する。


「そうそう!”人間”のオレたちにゃあ分かんねぇよなぁ!!

 あ、すまねぇすまねぇ犬っころ!お前は違かったもんなぁ!だってアレだろ?お前のおふくろは犬とヤってお前を産んだんだろ?」


 刹那、アンヘルの目付きが変わった。

 少年らしかったころころと変わる表情は消え失せ、その鋭さは牙を剥いて唸り声をあげる狼を彷彿とさせる。


「ふざけるな!!今の発言を取り消せ!!僕のお母さんは関係ないでしょう!!」


 アンヘルの剣幕に、男は情けない声をあげて後ずさった。

 女も肩をびくりとさせていたが、何か言わないと気が済まないらしい、負けじと言い返した。


「な、なにさ!なにが”お母さん”よ!知ってるわよ、アンタ拾われたんでしょう!!血の繋がりもないくせに、お母さんだと思ってるのはアンタだけなんじゃないのかい!!」 


 ――怒りに染まっていたアンヘルの顔が途端に変わる。

 それは今にも泣き出しそうな、寂しそうな、悲しそうな……胸を杭で打たれて、割られてしまったときの表情だった。 

 スキュブはその横顔を見ていた。

 そして弾けるように思い出す。

 スキュブとして生まれ変わる前の記憶を。

 アヤネと出会う前の記憶を。

 

 自分も、そんな顔をしたことがあった。

 『おかあさん』に酷いことを言われたときだ。

 

 お前なんてうちの子なんかじゃない。

 何がおかあさんだ、お前のような失敗作は私の子どもでもなんでもない。

 お前のヘラヘラと笑う顔が最初から嫌いだった、その顔を見ただけで吐き気がする。

 

 ――もう、新しい子を作った。お前の居場所はここにはないからね。


 そう言われたときの痛みがよみがえってくる。

 最後まですがるようにして抱き締めていた何かが、音を立てて壊れてしまった。

 おかあさんとなかなおりして、また変わらぬ日々を過ごす夢がバラバラに割れて、ああ、本当に自分はいらなくなったんだ、本当に愛されなくなってしまったんだという絶望。

 それなら、新しい子が自分と同じ道をたどらぬことを祈りながら、まだ嫌いになれないおかあさんのもとから離れてしまった方がいい。

 新しい子がおかあさんの愛を一身に受けるその様に、自分のこころが殺されてしまう前に。

 新しい子への嫉妬を募らせ、やがて首を絞めに襲いかかる前に。

 

 その日は涙が枯れるまで泣いて、一睡もできなかった。

 おかあさんに一寸刻みにされて、まだ治りきらない足を引きずりながら家を出た、朝の空気の冷たさを今でも忘れることができない。


 スキュブの足は勝手に動き出していた。

 女に肉薄し、無意識に剣を抜く。

 女が目を見開くのが分かった。いつの間にか首にピタリと当てられた冷たい刃の感触に、女は後ずさることもできない。

 

「取り消せ……今の、言葉を」


「……え?」


「取り消せ!!嘘だと言え、否定しろ!!そんなことを言うお前らのほうが、ずっとずっと非人間だ!!!

 痛いのが分からないのか?!苦しいのが分からないのか?!分かるなら今の言葉は出てこないはずだ!!

 次、同じ言葉を言ったら二度と口をきけなくなるよう、その首はねてくれる!!」


 怒りに、悲しみに、苦しみに、突き動かされるままスキュブは叫んだ。

 胸がじくじく痛む。負傷しているわけでもないのに、血が滲んでくるようだった。

 その上、息苦しい。何度呼吸をしても酸素が足りなくて、心臓も苦しそうに鼓動をはやめている。

 このままだと、蜘蛛になってしまうかもしれない。

 思い出した苦しみで頭がいっぱいになりそうで、お腹がきゅうきゅう空いてくる。

 何かあたたかいものを口にしないとおさまりそうにないそれは、どんどん大きくなっていった。

 ああ、こんなときにアヤネが傍にいてくれたならどんなに楽だろう。

 彼女が抱き締めてくれたなら、彼女の肉を食らい、血で喉を潤すことができたなら、全てが元通りになるに違いない。

 彼女の愛さえあれば、この身もこころも楽になれる。


 そうして、しばしの間静寂が続いた。

 すると、四人いた中でもずっと黙っていた気弱そうな男がへっぴり腰で一歩前に出た。


「お、お前!新入りのくせにでかい口を叩くなよ!だから、その……剣を、おろせ……!」

 

 声が上ずっている上に、最後の方は小さくなってあまり聞き取れなかった。

 死にかけのネズミの鳴き声ようなそれに苛立ったスキュブが男をキッと睨み付けると、男は何やらもごもごと呟いて、何も言わなくなった。

 先程のが最大の強がりだったらしい。

 弱々しいにも程がある。踏めば簡単に潰れるだろう。

 それなら最初から黙っていればよいのに。


 そう思ったのはスキュブだけではなかったようだ。


「ハハッ、おいおいポール、テメェそれが限界かよ。

 てかよ、その発言に関しちゃあ、新人もクソもねぇだろ。なぁ?」


 軽鎧の擦れる音と共に女性の声が割って入ってくる。

 短く整えられた金髪が爽やかなその女性は、しっかりとした眉もあってか中性的な印象を受ける。

 虹彩は少し黒がかった濃い赤色で、それは熟れたザクロに似ていた。


「げ……ダリアじゃない、アンタ……!」


 女がそう呟いたのをダリアは聞き逃さない。


「よぉサラ。なんだよ、アタシがいちゃマズいのか?

 それよりよ、テメェ何なんだよ、あれは。詳しいことはあえて言わねぇけどよ、テメェは同じような経験してたはずじゃねぇか。

 この前会ったテメェんちの親父、アタシのことを自分のとこの店員かなんかと勘違いして話しかけてきたけどよ、何つったか分かるか?娘が働きに出ちまった、ちゃんと飯食ってるか心配だ、だってよ。

 これを聞いて、何か思うことねぇのかよ。」


 女の目が揺れた。目を伏せ、下唇を噛んでじっと黙っている。

 首に当てられた刃に映るその表情は遠い誰かのことを想っていた。

 随分前に呆けてしまって、店の経営を部下に譲り渡したのにも拘わらず、自分が若々しく働いていた頃の時間軸に生きている父。

 その傍らに妻がいたことはなかったが、捨てられた赤子がいたことはあった。

 女が働きに出た時期と、父が生きる時間軸は合わない。

 それなのに、父は遠くにいる血の繋がらぬ娘のことを想った。

 これがどういうことか、女は理解したのだろう。ばつが悪そうな顔をしながらではあったが、謝罪の言葉を口にした。


「……悪かったね、二人とも」


 それを聞いてスキュブは剣を降ろした。謝罪が欲しかったわけではなかったが、否定に関してはダリアがしてくれた。それだけで、少しは落ち着くような気がする。


「ほら、この話は終わりだ!分かったらとっとと散れ!

 トニー!テメェはデカい借金があんだろ、油売ってる場合か?

 デヴィッド!ノロノロしてると元嫁に追いつかれんぞ!この前血眼になって探してたぜ!」


 ダリアの一言で男たちはビクッとし、すぐに歩きだす。

 皆心当たりがあるようだ。一人は青い顔をしている。


「何で知ってんだよお前!事実だがよぉ!!」


「ヒィ……あのストーカー女、まだ追ってんのかよ……!」


 借金を抱えた男が「行くぞお前らぁ!」と言うと、他の三人はそれに従ってこの場を去っていった。

 奴らがいなくなって、やっと騒がしさがなくなった。

 スキュブは剣を背におさめてため息をつく。

 まったく、嫌なことは思い出すし、胸は痛いし、急にお腹が空いてくるし、散々だった。

 アヤネと二人きりになったら抱き締めてもらおう。一口食べてしまいたくなるかもしれないが、そこはきっと我慢できる。


「……ダリアさん、その……ありがとうございました……色々、いつも……」


 アンヘルが一礼とすると、ダリアはその頭をわしゃわしゃと撫でた。


「わー!!へこんだ気持ちなのにダリアさんにナデナデされると嬉しくなって、なんだか明るいんだか暗いんだか分かんない気持ちですー!!!」


「ハハッ、なんだそれ!あぁでもお前らしいっちゃお前らしいな。

 あんな言葉でへこんでんじゃねぇぞ、アンヘル。お前は何も悪いことないんだからな。」


「えへへー、ダリアさんがそう言うならそうですね!じゃあ凸した気持ちで行きます!!」


「凸した気持ちって何なんだよ……」


 二人の関係は姉と弟のようだった。

 アンヘルはダリアに懐いているのだろう。距離が近いし、頭を撫でられて嬉しそうにしている。

 気軽に接しあえるその様が、スキュブには眩しく見えた。

 人々はこうも簡単に分かりあえるのだろうか。

 これが真実だというのなら、アヤネの苦しみは何だったのだろう。

 スキュブは俯いて、拳を握りしめた。


「よぉ、新入り。お前もアレの言ったこと、あんまり気にすんなよ。」


 ダリアがスキュブに向けて、手を差し出した。

 スキュブはその行為の意味が分からず、ダリアの顔をちらりと見て、またその手を見つめる。

 女性の手だが、しっかりとした手だ。アヤネのと比べると大きくて太い。


「ん?分かんねぇか?……ほら、手ェ出せ、手」


 スキュブは促されるまま、おずおずと両手を出す。

 何をされるのだろうか。少し不安だ。


「ふふっ、ハハハハッ!両手か両手!!いいぜ、ダブルか!ノってやんよ!」


 ダリアは豪快に笑って、スキュブの両手を握ると、ブンブンと上下に振った。

 ちょっと勢いのある握手だ。これを受けたのがアンヘルだったら、「わー!」とか「わふー?!」とか言っていそうだ。


「へぇ、見た目の割にはしっかりしてんな。まあ、あれだけはやい太刀筋だ、これくらいはあるか」


 ダリアはニイっと笑う。


「お前、使えるのは剣だけか?鈍器とか使えんのか?」


「……全部、使える」


「はぁ?!全部?!へぇへぇそいつは興味深いな!じゃああれか、弓も杖もいけるってか?」


「杖は、アヤネほどじゃない」


「アヤネ?……ああ、飲んだくれどもが美女が来たって騒いでる例の。あいつは魔法使いか。」


「……すごい、魔法使い。すごい」


「ほう。そんじゃリーナが喜ぶな。じゃあ、お前らは魔法使いと全部使えるっていうチームだな。」


「すごい、魔法使い。すごい、が抜けている」


「そこは譲らねえのかよ……お前案外頑固だな……」


 当然だ。アヤネはすごい魔法使いなのだ。

 どんな敵でも焼けるし、凍らせることもできるし、隕石だって降らせることができる。

 どんな傷でも治せるし、毒だって麻痺だって、アヤネの手にかかればあっという間だ。

 それに、胸が痛いのも、お腹が空くのも和らげてくれる。

 あれはどんな魔法なのだろうか。くれる言葉一つ一つが胸をあたたかくしてくれる。

 アヤネの言葉があれば痛いのも寒いのも平気だった。

 胸のちくちくも、あたたかいものを口にしたい衝動も、アヤネが頭を撫でながら語りきかせてくれることで、溶けるように消えていく。

 これこそ魔法なのだろう。

 ……自分には使うことができるだろうか。

 もし使うことができるのなら、両手で顔を覆って、声を殺して泣いているときのアヤネに使いたい。

 しゃくりあげながら無理に笑って、「大丈夫だよ、スキュー」と言うのを見ると、こちらも泣きそうになってしまうし、何よりアヤネにはいつも笑顔でいてほしい。


「まあこれからよろしくってこった。暇なときは言えよ、是非とも手合わせしてみてぇからな!」


 ダリアは踵を返しつつこちらに手を振って去っていった。


「ダリアさーん!また今度会いましょうね~!」


 アンヘルはその背に手を振り返す。

 突如現れて、素早く事態を収束させた女だった。

 他のギルドメンバーのことにも詳しいように見えるし、何より話しやすい相手だった。

 直感的に話しやすいというのはスキュブにとって大切なことだ。モンスターの血が入った彼の勘は鋭い。その勘が警戒する対象ではないというのなら少しは安心できる。

 そのような相手であったらアヤネと会うことがあっても大丈夫だろう。アヤネも面倒がらず話せるかもしれない。

 ――先程の四人は威嚇しなければならないが。

 

「スキュブさん」


 アンヘルがスキュブの名を呼んだ。

 スキュブは目をやってそれに反応する。


「スキュブさんも、ありがとうございました。あの時、前に出てくれて嬉しかったです。」


 アンヘルの口から出たのはお礼の言葉だった。スキュブはそれに驚いて、思わず目を丸くする。

 人間に「ありがとう」と言われるとは思っていなかったのだ。

 そもそも、アヤネ以外の他人に感謝されるとも思っていなかった。

 スキュブは困惑した。自分が感謝の言葉をかけられる程、想われていたなんて予想外だ。

 何て返したら良いのか分からない。視線は右往左往して、眉尻は下がってしまう。

 暫くそうして、ハッと気づいた。

 素を出しすぎていた。脆弱性のあるそのままの自分を他人に見せてはならない。それは弱点を晒すことと等しいからだ。

 スキュブは一呼吸置くと、いつもの無表情に戻って、淡々とした口調で言葉を返す。


「――別に、おまえのためじゃない。感謝の必要はない。わたしは、わたしのために……ああ言っただけだ」


「それでも、ありがとうですよ。あの言葉がスキュブさんのためのものだったとしても、僕のこころを元気にしてくれたんです」


 アンヘルは笑顔を崩さない。


「えへへ……その、ですね。僕……本当に、あの人が言った通り、拾われた子なんです。お父さんもお母さんも、そんなの気にしないで……いつも、神様が授けてくれた子だって、僕を可愛がってくれましたけど。」


 アンヘルの目にふっと影がさす。


「僕、誰のお腹から産まれたか分からないんです。だから、鼻がいいのも、耳がいいのも、どうしてか分かりません。

 あはは……分かって、ますよ。僕、普通の子と違うって。それでも、両親はそれは神様からの贈り物だ、祝福の証だって、言ってくれましたけど……」


 普通の子と違う。そう感じるまでに、そう気づいた後に、どれだけ傷ついたことだろう。

 愛する者にとってはそれは些細なことに過ぎない。どんなに才能があろうとなかろうと、愛する者はそこを愛しているわけではないからだ。

 存在そのものを愛している。一緒にいられる時間を愛している。そこに秀でた力があるかどうかなど、関係ない。

 だが、本人はそうではない。

 どれだけ気にしないように教えられても、そうしていられるのは最初だけで、そのうち段々と不安になっってくるのだ。自分が異物なのではないか、と。

 話しているうちに気づいたのだろう。他の子の鼻はそこまで良くないことを。

 ふれあっているうちに分かってしまったのだろう。耳がここまで聞こえてしまうことは、不気味がられることがあると。

 嫌でも理解してしまったのだろう。他の子には当然のように血の繋がった両親がいて、それが世の言う普通なのだと。

 スキュブにも心当たりがあった。

 こころが乱れるとどうしようもなく生えてくる蜘蛛の脚。

 異常なまでの視力、脚力。

 人を不快にする笑顔。

 母胎から出てきたわけではなく、巨大な筒の中で産まれ、育てられ、飽きられて捨てられた、価値のない身体とこころ。

 アヤネはこれらを全く気にしなかった。蜘蛛の血が混じっていることをむしろかっこいいと言い、視力と脚力に関しては、右に出るものがいないだろうと頼ってくれ、笑顔をかわいいと褒めてくれる。

 スキュブそのものを愛していた。弱かったころから変わらないそれは、スキュブの能力や才能に帰属していないことを証明している。

 だが、スキュブから不安が取り除かれることはなかった。

 アヤネに触れてもらうのが嬉しくて嬉しくてたまらなくて、めいっぱい笑いたいのに、声をあげて笑ってみせたいのに、いつもおかあさんの言葉がよぎってしまう。

 そう――『お前のヘラヘラと笑う顔が最初から嫌いだった、その顔を見ただけで吐き気がする。』という言葉がずっと頭に染みついてはなれないせいで、笑っているのか笑っていないのか分からない顔になってしまうのだ。

 失敗作だったという言葉も、かわいくもなんともない化け物だという言葉も――

 ずっと、ずっと、はなれない。

 ダニの顎のような、蟻の顎のようなそれは心臓の肉に深く食い込んで、ちくちくと残り続けている。


「それ以上、言うな。違うのなんて、本当は……関係のないことだ。

 だから、言うな。……ちくちくする」


 スキュブは思いを言葉にするほど歪んでいく自分の顔を両手で覆った。

 こんな自分を見られたくなかった。できることなら逃げてしまいたい。逃げて、アヤネの胸に飛び込んで、あらんかぎりの声をあげて泣きたかった。

 そんなことはできず、いつも声を殺してしまうのだけれど。


「ちくちく、ですか……ふふ、そっか。やっぱり、そうなんですね。スキュブさんは、本当は優しいから……ちくちくするんですよ。」


「……やさしい?わたしが?」


「ええ。痛いのが分かって、痛いのを庇ってくれて、誰かの傷を、半分こにして受けてくれる。だからちくちくするんです。

 スキュブさん、そっけない態度をとるから、ぱっと見ただけじゃ分かりませんけど……痛いのが分かって、それを他の人も受けるべきだ!って僕に痛いことをしませんでした。それを優しいっていうんだと、僕は思います。」


「あれは……身体が勝手に動いただけだ。」


「自分の損得を考える間もなく動けたってことですよ。

 あの時、ここで前に出たらこれからの活動に影響があるかも、とか考えましたか?そう思って躊躇しましたか?

 違いますよね。そう思ったら、あんなにはやく剣を抜くことなんてできません。

 ほら、こう考えると、スキュブさんには優しさがちゃんとあるでしょう?」


 アンヘルの裏のない言葉がどこか痛かった。

 今までアヤネ以外に褒められたことがなかったスキュブにとって、それは今までの世界の概念を否定するものであったからだ。

 おかあさんにすら愛されなかった自分を愛することができるのはアヤネだけ。自分の存在価値を証明してくれるのもアヤネだけ。

 自分の平穏な世界にはアヤネと自分と、それ以外の邪魔者しかいなかった。

 アンヘルの嘘のない、真っ白であたたかな言葉はその常識に罅をいれかねないものである。

 ――アヤネ以外にも自分を愛してくれそうな人がいる。

 孤独に苦しみ続け、それを信じられなくなったスキュブにとっては、あまりにも苦くて、受け入れることのできない真実であった。

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