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ざっ、と身体が冷たくなり、心臓がぐっと掴まれたように脈動する。
敵の前だということもすっかり忘れて、今すぐスキュブを抱え、安全な場所まで走り去ってしまいたいような衝動と、手が震えるほどの焦燥が、波のようにアヤネの胸へ押し寄せてくる。
だが、深淵を見つめているような虚ろな目を見てはっと我に返る。
自分がやらないで誰がやるというのだ。愛する者を、自分の半身と呼べる者を、自分が助けずに誰が助けるというのだ。
アヤネはすぐさまスキュブを抱え、人魚から距離をとり、間髪入れずにテレポートを唱えた。
普段なら抱えられない体重であるが、そんなことは関係ない。事実、重くて抱えられないかもしれないという考えは頭になかった。
仲間に合図も連絡もなく戦線を離脱することは良くないが、事が事だ。
アヤネは自宅近くの森を思い浮かべる。
あそこなら暴走しても大丈夫だ。
アヤネはスキュブをきつく抱きしめて、光に身を任せた。
・ ・ ・
光が晴れ、木々のざわめきが二人を包む。
近くで虫の鳴き声が聞こえて、アヤネははっと顔を上げ、スキュブの顔を見た。
まだ悪夢を見ているような顔だった。薄っすらと白い毛が生えてきており、頭の側面にある真っ赤な目が露出している。
暴走一歩手前、というところだ。何とかしなければならない。
苦しい呼吸を聞いていると胸が締め付けられる。心臓の太い血管を締められたような痛みだ。
アヤネはスキュブをしっかりと抱きしめ直す。
背中に回した手で優しく背中をさすり、少しでも痛みが和らぐように、その全てがこちらへ移っても構わないからと祈るように目を瞑る。
「スキュー、もう大丈夫だよ。ここは家の近くの森で、わたしがずっとお前の傍にいる。
お前を傷つけるやつはもういない。だから大丈夫……大丈夫だよ……」
静かだが強く芯のある声色だった。
スキュブは震える呼吸で、必死に手繰り寄せるようにアヤネの背中に腕を回す。
肋骨が軋みそうな力だったが、アヤネはたじろぐことも、眉をひそめることもしない。
次第に、スキュブの背中から生えてきた脚がアヤネの身体を覆った。
ぐっと加わった力に息が苦しくなる。思わず呻きそうになるような圧力に、普通の者なら跳ね除けたくなるだろう。
だが、そんなことは覚悟の上だった。アヤネは睫毛を震わせもしない。
「あの、にんぎょ、みたの」
途切れ途切れの声が唇から漏れ出た。
白い記憶の隙間から、一欠片ずつ閃きを取り出すような言い方だった。
「おかあさんと、てを……つないで……」
呼吸が荒くなる。
スキュブが唇をつけ、もたれかかっているアヤネの肩に涙が落ちた。
静かに頬を伝っている。感情の間から逃げ出してきたようなそれは、悲鳴の欠片を抱えて流れ出していた。
「おかあさんが……つれてきて、つれてきて……わたし、のこと、い……い、ら……」
「それ以上思い出さなくていいんだよ、スキュー。いいんだ……お前は今を生きているから……本当は、そんな言葉に振り回されなくたっていいんだよ……」
アヤネは抱きしめる力を強くした。
記憶の渦へ落ちてしまいそうなスキュブの身体を離さんと、逞しいけれど年相応な身体をぎゅっと抱き締めた。
「おもいだすの、なにをいわれたかぜんぶ、わかるの
わかって、くるしくて、でも、おもいだせなくなって、わからない、わからないよ……」
「そうだよね。なんの前触れもなく思い出しちゃってさ、つらくて……でも思い出せなくなる。
ふとした拍子にひどい目に遭って、つらさはずっと長引いて……
それだけ、つらかったんだよ。お前の身に降り注いだことは、それだけつらいことだったんだ……」
アヤネが優しく言い聞かせるように言うと、スキュブは声を震わせた。
子どものように泣きじゃくり、涙は堰を切ったように溢れ出す。
「怖かったね……つらかったよね……もう大丈夫だよ、わたしがずっと傍にいるから……」
スキュブが頷くのが分かった。
涙は止まらないが、少しだけ腕の締めつけが緩くなった気がした。
アヤネはまぶたを微かに開け、安堵の息を細く吐く。
これでスキュブの全てを救えるわけじゃないが、痛みはよくなったはずだ。
なにより、暴走を防げてよかった。今の状況でアヤネを食べてしまったら、後がこわい。こころが不安定なときに、追撃が加わることは何があっても避けたかった。
何が何でも、自分の内にある熱や言葉を全て擲っても、スキュブの痛みをとってやりたい。
この子がこころの底から笑い、過去の支配から抜け出すときまで、ずっと道を照らしていたい。
その道中にどんな障壁があろうとも、こちらが折れることは絶対にない。
アヤネの瞳で決意が光った。
あとは時間が必要だ。カヨにも相談しなければならないだろう。
「……アヤネ」
掠れた声が聞こえた。呟くようで、すがりつくような、喉から絞り出された声だ。
「……なあに、スキュー」
「……おいてかないで……いなくならないで……
わたしを、みすてないで……」
最後の言葉に、アヤネは目を見開き、息を飲む。
胸を刺されるような感じがした。
うっすらと自分の母の顔が思い浮かぶ。再婚した途端、徐々に自分を避けるようになった母の顔。
忌み嫌うように眉をひそめ、懺悔室で膝をつくような目でこちらを見る母の顔は、今思うと複雑だった。
「見捨てるわけないでしょ。お前はわたしの半身で、かけがえのない存在なんだから。」
「うん……しってる……しってるけど、どうしようって、もしもっておもっちゃって……」
「大丈夫。分かるよ。不安は簡単に消えたりなんかしないから……」
アヤネはスキュブの背中をとんとん、と優しく叩く。
それから暫く、スキュブは静かに泣いていた。
木々の中を、爽やかな風が走り抜けていく。
風は、手を繋いで駆けていく子どものように、二人の隣を流れていった。
これで終わりだと思うなよ




