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これを書くのがすっごく辛かったので遅れました
もっと話が早く流れるはずだったのに、どうしてこんなことに
仕事を終えたアヤネは、ギルドのカウンターに依頼品を納めに来ていた。
モンスターから剥ぎ取ったものや採集したものがカウンターテーブルいっぱいに並ぶのは、病み上がりだろうと変わらない。
いつも対応してくれている受付の女性が少しばかり眉尻を下げる。
「もっと休んでもよろしいのですよ」
どんなに大量の依頼品を納めに来ても眉一つ動かさない彼女の言葉に、アヤネは困ったように笑った。
「もう十分休みました」
「あなたの十分は昼休憩程度ですか」
「昼ごはんに何日もかけませんよ。わたしだけの昼休憩なら、五分から……十分ほどです」
「それだけ口がまわるのなら大丈夫なのでしょうけれど、くれぐれも無理はなさらないくださいね。
あなたをとやかく言う方もいますが、多くの人はあなたに感謝しています」
依頼品を処理する手のはやさを変えることなく、彼女は静かにそう言った。
「そうかな」
「あなたは当然だという顔をしてやっていますけど、玄人数人でこなすような仕事をお二人で軽々とやってのけたり、後輩の育成にも協力的だったりというのは、感謝されて然るべきかと」
「相棒が優秀なだけです」
「うちのギルドにはへカテリーナがおりますが、あなたが来るまで、魔法使いの育成は彼女が一人で請け負っていたのですよ」
へカテリーナと一緒に食事をしたとき、非常にありがたがられたのを思い出した。
このギルドで全ての魔法を使える魔法使いは彼女しかいなかったらしく、優秀な魔法使いはいたのだが、幅広く教えるとなると、どうしても彼女が必要になる状態だったらしい。
もう歳だし、そろそろキツくなってきたし、と悩みながら後継者を育てようと必死になっていたところに、アヤネが現れたのはまたとない幸運だったようだ。
これなら隠居しても大丈夫だよ〜とほっとしていた彼女の表情に嘘はなく、アヤネの存在は自分の地位を脅かすもの、という認識ではないらしい。
「魔法使いなら、ミドリがいますよ」
「彼女はまだ新人です。あなたも長年いるというわけではありませんが、仕事ぶりで玄人だと誰もが分かります」
「彼女が育てば、わたしと変わりませんよ」
「それをへカテリーナの前で言ってごらんなさい。育つまでに顔に何本シワが増えるか、と泣かれますよ」
机に突っ伏してうめき声をあげているへカテリーナの様子が思い浮かんだ。
ロッパーがその背中をさすっているに違いない。
新人の育成は一朝一夕では終わらない。長い時間をかけて訓練を重ね、経験を積ませなければならない。
これを短い期間で終わらせようという考えの輩は、所謂ブラック企業というところの上層部と変わらない。
アヤネが、ミドリがいるなら自分はいらないのでは、と言うと、へカテリーナが机に突っ伏す理由はこれである。
依頼をこなしながら新人の育成。その他の魔法使いからの相談等。
全ての魔法を使うことができる上に、おせっかい焼きだった彼女がそれを断るということは考えにくい。
若いころはそれでも良かったのだろうが、最近は膝が痛い、重いものを持ち上げると腰がやられそうになる、と呟いている。
そこにアヤネが現れ、彼女が担っていたことをそれなりにやってくれているとなれば、飲み物の一つも奢りたくなるだろう。
「へカテリーナが泣くと、ロッパーがかわいそうですね。思っても言うのはやめておきます」
「あの子は随分と特殊な子ですからね。たまに機械生命体だということを忘れそうです」
「へカテリーナと一緒になってから、本当に人間くさくなりましたね」
「へカテリーナと一緒だからでしょう。機械生命体だろうが、人間だろうが、態度が変わらない」
「友人にも恵まれていますし」
「アンヘルはその代表のような若者でしょう。差別なんて言葉は、彼の辞書にないのでしょうね」
そう話していると、スキュブがはっとしたように後ろへ振り向いた。
誰かが背後から近づいてきたのだろう。振り返ると、そこにはダリアがいた。
彼女も迷惑をかけてしまった人の一人だ。
お礼を言いに行こうと思っていたところに、ちょうどよい遭遇である。
「この間はごめんね。」
アヤネがそう言いながらアイテムポーチに手をのばすと、ダリアは顔を強張らせた。
「……こんなにはやく出てきていいのかよ」
「問題ないよ。顔色、いいでしょ?」
「そういう問題じゃねぇだろ、お前の……」
ダリアが何か言いたげに口ごもる。
その表情は影っていた。深淵を見てしまったことを思い出したような、薄い影の膜を一枚かませた目の色だ。
アヤネは内心でため息をつく。
――随分と、察しの良い。
もう少し鈍ければ楽なのだが。
「ギルドにはもう配慮してもらってるよ。レーナが気を利かせてくれたの」
「……」
ダリアはそれでも何か言いたげだった。
「……ちゃんと、説明したほうがいい?」
「お前が、可能なら」
「場所、変えたほうがいいよね」
「……ああ」
「スキューも一緒だけど、大丈夫?」
ダリアは頷いた。
アヤネはスキュブに目配せし、ダリアの後に続いた。
・ ・ ・
ダリアの家は柔らかな静けさに満ちていた。
整理されているが、暮れ始めた日のオレンジが射し込んでくると、誰かが支度を始め、今にも動き出しそうな気がする。
床に広がった夕日の色に影が踊り、会話が耳をくすぐるような雰囲気だ。
もっと静かな部屋だと思ったが、やはり彼女の内側には柔らかな部分があるようだ。
優しい空気が漂っている。
一人のときは、彼女はどんな表情をしているのだろう。
促された椅子に腰掛け、何となく窓辺を眺める。
子どもたちが帰る頃合いの空だ。夏は昼が長いが、この時間帯になると、未だおいかけっこをやめない子どもたちに、大人たちが声をかけ始める。
空はまだ明るいが、夜というのは足がはやい。
ついさっきまであった空の色が、いつの間にかなくなっていることがしょっちゅうある。
太陽と向き合った方の空では、もう夜が始まっているものだ。やさしい紫だったり、オレンジだった色が、知らぬ間に夜を一滴、二滴滲まされて、色を失っていく。
夜が夕方を奪っていくのか、夕方が夜を呼んでいるのかは分からない。
だが、昼の青がうっすら残る今日の空は、やがて夜を呼び込むのだろう。
飛んでいく鳥の影がくっきりと映り、去っていくのが見えた。
「……アヤネ」
隣でスキュブが身じろぎする。
「どうしたの?」
「……大丈夫?」
意外な質問にアヤネは首を傾げた。
「大丈夫だよ。ダリアしかいないし」
「……なんだか、そうじゃない気がする」
スキュブの勘はあなどれない。目を向けたと思ったら、そこにモンスターが出てきた、ということもある。
目が良いから、というのもあるが、感覚で分かるらしい。
ディートリッヒにも同じことがあるので、混血ゆえの特徴なのだろう。
「それでも……いざというときはお前を頼るから大丈夫だよ。」
「……うん。」
スキュブは納得したように頷いた。
ダリアがお茶を持って台所から出てくる。
「急にごめんな」
「聞きたいことはあるだろうからね。問題ないよ」
冷たいグラスを受け取って、結露のひんやりとしたここちを感じる。
ダリアの表情はどこか暗い。まつげが瞳に影をおろし、深い色を差していた。
「……何から聞いたほうがいいか」
独り言のような呟きだった。
「何でもいいよ。レーナが聞いたことでも、何でも」
「レーナが先に聞くこととなると、あれが先だろうがな……聞くのはなかなか気合がいるというか、勇気がいるっていうのか。
――お前の方が、それは大きいだろうけど」
お盆をテーブルの上に置いて、ゆっくりと瞬きをする。
それからほんの少しの沈黙があったが、ダリアは重い言葉を喉から引っ張り出すように細い息を吐き、唇を微かに動かした。
「……お前、魅了耐性があるのは間違いないんだよな」
「間違いないよ。こころは奪われないさ」
「……じゃあ、やっぱ……無理なのか?ああいうことが……」
最後の言葉は小さくなって、口ごもっているようだった。
抽象的な言い方だが、何を言いたいかは分かる。
アヤネは、ダリアの落ちた視線に寄り添うように、そっとほろ苦い笑みを浮かべてみせた。
「……うん。何年もたってるんだけどね、たまに夢にでてくるくらいは、無理」
「そういうことは……何年たっても消えはしない。
あたしも未だにそういうことがある」
「人間誰しも、あることさ。
癒えないものを抱えながら生きなきゃいけない」
「誰しもあること、か。それでも我慢すべきじゃねぇ。」
「それはそうだね。抵抗しなくちゃ、生きていけない。」
ダリアは微かに眉をひそめた。
「……お前は何でもかんでも一人で抵抗しようとか思ってるんだろ」
「スキューに叱られたよ。次からは色々頼るさ」
「……言いづらいってのは分かるけどよ、無理しないでくれよ……なんていうんだ、心臓がギュッとなる……」
「ダリア、根っこは優しいもんね」
「優しかろうが優しくなかろうが、付き合いのあるやつがそうなったらなるだろ」
アヤネは薄っすらと笑みを浮かべた。
鉄の女と呼ばれる彼女が、こうもやわらかな感性を持っているのが、どこか嬉しい。
――やわらかな感性を持つ者は、生きづらい。
どこかやさしいひとは、鉄の鎧でも着ていなければ、生きづらい。
やわらかな心根を持って生まれた者は、鉄を纏わねば生きていけないのだ。
小さな悲しみに涙を湛え、誰かと痛みを共にする……
そういう人間は、すぐに手折られてしまうか、自分を見捨ててしまう。
鉄の女、ダリア。
ギルドではどんな痛みにも、どんな悲しみにも、眉一つ動かさぬ、強さの象徴のような人。
それなのに、今の彼女の横顔は、小雨の窓辺でひっそりと待ち人を想う少女のよう。
そんな彼女の胸の内を想って、アヤネは目を細めた。
「スキュブもお前がいないと調子が悪いっていうか……すげぇ辛そうだしよ……」
「……ひとりになったことが、ないからね」
アヤネが目尻にしわを寄せた。
「……生まれてから、ひとりだったことはない。
わたしのそばには、いつも家族がいる」
スキュブがぼそりと呟いた。
「お前にとってのアヤネは……」
ダリアは眉間に指を当てて、言葉を探すように間を置いた。
「……命綱、か……」
スキュブは表情を変えず、ダリアの方を見た。
「いのちづな……。命綱。そうだね。切れたら死んじゃうから」
当然のように、淡々とそう言ったスキュブに、ダリアは微かに眉をひそめ、複雑な色の目を向ける。
「お前みたいな若いのが、そういうことを簡単に言うもんじゃねぇよ」
「どうして?アヤネはもっと死が近かった。
アヤネがわたしくらいの頃は、死がとなりにいたよ。
若いから死が遠いのは、うそ。ずっととなりに死があって……大人になっても人生は辛い」
その発言にはアヤネも唇を噛んだ。
スキュブがそういうことを口に出すのは辛いものがある。
「……そりゃ、アヤネは一回殺されただろうからな。
でもな、若いうちからそういう目に遭うってのはクソッタレで理不尽なことなんだよ、当然のように言うんじゃねぇ、お前らはもっと怒っていいだろ」
ダリアが痛みに耐えるように目を細めた。
「……何もしちゃいねぇ。普通に生きていただけで、そんな目に遭うなんておかしいだろ。
どこぞの野郎は神が与えた試練だの何だのって言うがな、ふざけんじゃねぇ。何が試練だクソ野郎。
お前らはそれがあっての今の自分だ、なんて思ってるかもしれねぇが、それで片付けていいことじゃねぇ」
ダリアの目に、怒りの色が揺れている。
深い暗がりから静かに燃えるそれは、密かに滲んだ血液だ。
拳の裏に爪が突き刺さったときに似た、どろりと混ざった色。
その目の裏側に、何があるのだろうか。
悲しみよりも、悔しさのような。
他人のことなのに、こんな風に怒れるなんて。
「やっぱり、優しいんだね。ダリアは」
「関係ないだろ。当たり前のことを言ってるだけだ」
「鉄の女、なんて呼ばれてるけど……お前は刀だよ。内側は柔らかくて、外はかたい。
折れにくくて、斬れ味が良くて、きれい。」
アヤネは既に火の消えた煙草の残煙をぼうっと見つめるようなまなざしで、テーブルを眺めた。
「快刀乱麻、そういうのを見たような気分だね。自分の人生に怒りを感じたこととか、なかった。
どうあがいてもどうしようもないからね。濁流に抗えないのと一緒で、強い力に流されるまま、仕方ないよねって思ってたし……」
夕日が傾いてきた。
窓から鮮やかな茜色が射して、アヤネの頬を照らした。
「スキューも、多分……そうだよね。そう感じてる。
スキューの身に起こったことは、怒っていいことだけど……そう思ってるのはわたしで、スキューじゃない。
わたしの身に起こったことも同じで……自分の人生に降り掛かった理不尽に、怒れない。怒ることすら、頭になかった。
どうしてだろうね……わたし、酷い目にあったはずなんだけどな……」
卑屈な笑みを浮かべると、スキュブが手を握ってくれた。
心配そうな顔で、アヤネのことを見つめている。
「……アヤネも、ここにあなが空いてるの?」
スキュブが自分の胸に手を当てた。
「アヤネと一緒にいると感じないけど、ここにはあなが空いてるよ。
アヤネも、そうなの?寒いの?からっぽで……中身が出ちゃったの?」
スキュブの素直な言葉選びに、胸の中心を突かれたような気がして、一瞬目をそらす。
「寒くは……ないけど。いつも隣に誰かいたから。
だけど……からっぽなのは……どう、だろう。昔はそうだったけど……今は……」
昔のことが頭をよぎった。
何も感じることができなくて、何を食べても味がしないあの頃を。
毎日話しかけてくるカヨの笑顔だけが鮮明で、他は灰色の記憶だった。
それから、次第に喋ることができるようになってきて、感情を取り戻せたのはいつだっただろうか。
内臓が全部抜け落ちたようにからっぽだった。大切な何かがなくなってしまったみたいで、でもそれの正体は何なのか分からないまま、大人になっていった。
今、何となくだが、その正体に指が引っかかったような気がする。
「何年も……たってる。小さいころの、はずだから。
それでも……何年たっても消えはしない。
それくらいに無理だってことは……」
「とても、つらかった」
スキュブが低い声で付け加えた。
「わたし、ずっと見てたから、分かる。アヤネがつらかったの、ずっと知ってる。
出会ったときから、アヤネはずっとつらかった。」
スキュブは俯いた。伏せた睫毛の影が、目に深い影を落とす。
「お前ら……似た者どうしなんだな」
ダリアがぼそりと呟いた。
「ずっと辛いのが普通になってるようで、でもお前ら自身はずっと痛みを訴えてる。
そういう二人が……寄り添いあって生きてる……互いの身体を寄せ合って、支え合ってるみたいな……」
ダリアは二人の間を見つめていた。
二人を繋いでいる、糸を眺めているような、一瞬、きらりと光って見えた蜘蛛の糸を目で追うような、そんな目で。
「……そう、かもね」
アヤネは寂しそうに笑った。




