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「この度は、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

 

 アヤネは、朝のギルドで、受付にいたレーナに頭を下げた。

 スキュブもつられて、アヤネの動きを真似するようにお辞儀をする。

 

「いやいや、大丈夫よ。それより大丈夫?これまでパニックになったなんて報告なかったけど……もしかして、体質的にダメだった?」

 

 レーナは受付のカウンターから早足で出てきて、心配そうに歩み寄った。

 

「いや、フェロモンとかは大丈夫で……体質的は大丈夫なんだけれど……」

 

 アヤネは口ごもった。どうにも、言葉として出すことのできないもどかしさに、微かに眉をひそめる。

 

「……アヤネ、大丈夫?」

 

 スキュブがそっと、アヤネの肩に触れた。

 

 一呼吸置く。大丈夫、と反射的に言おうとした胸にあるしこりが、ふっとほどけたような気がした。

 

「……あんまり、大丈夫じゃない、かも」

 

 アヤネが頑張って声を押し出すと、レーナは真剣な顔つきになって、ちらりと周囲を確認する。

 

「……誰もいないところの方がいいわよね?」

 

 レーナは声をひそめてそう言った。

 アヤネがこくりと頷くと、ついてくるように目配せをして、優しく手を引いてくれた。

 

 受付のカウンターの中へ通され、奥の方にある扉へ向かって歩いていく。

 依頼や報酬の品を整理する人たちであふれる中を歩いていくのは、少々目を引いたが、特別にここを通る人には何か事情があることを知っているのだろう。皆、ちらりと見ただけで、しげしげと視線を向けてくる人はいなかった。

 

 レーナはすれ違った年嵩の女性に一言二言話し、扉を開けた。

 おそらくレーナの上司にあたる者だろうか。アヤネが請け負った大量の依頼の処理を手早く処理してくれる人なので、認識は間違っていないはずだ。

 

「さあ、入って」

 

 レーナに促されるまま、部屋に入る。

 中には誰もいなかった。年季の入った長い机がいくつかと、ところどころ補修された跡のある丸椅子が、机にばらばらと群がるように置いてある。

 

「座って大丈夫よ。椅子、ガタガタするのあるけど、ごめんなさいね」

 

 アヤネはスキュブにも座るよう目顔で促し、自分も椅子に座った。

 椅子は申告通り少しがたついたが、長年にわたって色んな人の話を、こうして聞いていたみたいだ。座り心地はどこか柔らかだった。

 

「さてと……まずは二人とも、本当に大丈夫なのよね?隠してたりなんかしたら、医者か自宅に強制連行よ?」

 

 レーナは机に置いた手を組んで、少し前のめりになる。

 

「本当に大丈夫。スキューももう回復したし……ね?」

 

 アヤネがスキュブに目をやると、こくりと頷いた。

 

「それならいいんだけど……心配したのよ?受付の皆は勿論、あなたたちに世話になった人たちは心配してたんだから……」

 

 レーナはため息をついた。

 

「……どうして?」

 

 スキュブが首を傾げる。

 

「どうしてって……いつも平然と仕事をこなしてくるあなたたちが不調だったら、誰しもそう思うじゃない。」

 

「そうなのか?心配する必要はない、わたしがいても、いなくても、変わらない」

 

「変わるわよ。依頼の処理が滞ってないの、誰の活躍だと思ってるの?

 それに、あなたたち面倒見いいじゃない。あなたに剣の使い方を教えてもらったっていう新人の子、すごい心配してたわよ」

 

「……そう、なのか?」

 

 スキュブは本当に分からない、という顔だった。

 レーナは目を見張り、アヤネに視線を移す。

 

「ねえ、この子自己肯定感低いって言われたりしない?」

 

 アヤネは半ば閉じた目で身じろぎした。

 

「……わたしが心配してるって言ったら、信じてくれるけれど」

 

「でもこういう子って、大切な人に心配かけてるとしたら大変!って感じじゃない?」

 

「確かに……そうだけど……」

 

「ていうかそもそも、あなたたち二人とも、自分がやってることがどれだけすごいことかって分かってないわよね。

 あなたたちのおかげで、新人教育の負担は減ったし、ギルドメンバーの死亡者数もぐっと減ったのよ?

 受注されずに残る依頼もなくなったし……」

 

 レーナは指を折って数える仕草をしたが、やがて額に手をやった。

 

「ああ……この話をするためにここに連れてきたんじゃなかったわね。

 ごめんなさい、話がどんどんそれちゃって」

 

「大丈夫、話題がコロコロ変わる友達がいるから慣れてる」

 

「良い友達ね。何時間でも話していられるでしょ?」

 

 アヤネはカヨの顔を思い受けべながら頷いた。

 お菓子を片手にあれやこれやと喋り、話題が最初とは全く違うものになっている彼女の表情は、喜怒哀楽がたくさん詰まっている。

 

「と、また話がそれちゃうわね。本題本題。

 この前、パニックになっちゃったのは色々あったのよねって話よね。

 言える範囲で構わないわ。あなたたちが苦手そうだったり、無理そうな依頼はなるべく他の人がやるように手配するってだけだから」

 

 レーナはそう言い終えると、念を押すようにアヤネを見た。

 

「……言っておくけど、申し訳なく感じなくっていいからね?そもそもあなたたち、こなしてる仕事の量が尋常じゃないのよ。

 だから、ちょっとくらい誰かに仕事を分配したって、あなたたちがここに来る前よりずっとマシな状態なんだから安心してよね」

 

「……お見通しだね、色々な人を見てる人は」

 

 アヤネはほろ苦い笑みを浮かべた。

 

「真面目な人は大歓迎だけどね、一人で色んなものを背負って、病んでいっちゃうのを見るのは嫌よ」

 

 レーナも影のある笑みを浮かべた。

 そのような人たちを実際に見てきたのだろう。目には重く沈んでいくような、悲しみの色が見える。

 

「さて、前もって言うことはざっと言ったから……そうね、ある程度報告は受けてるけど、あの時何があったのかを、順を追って話してもらっても構わないかしら」

 

「分かった。できる範囲で、やってみる」

 

 アヤネはゆっくりと息を吐いてから、説明を始めた。

 

「あの夜、接敵するまでは何の問題もなかった。

 目印から細い道に入って、目標を発見して……それから……」

 

 アヤネは眉をひそめた。

 やはり記憶に靄がかかって思い出せない。

 スキュブから何があったのかは聞かされたが、そこだけ抜け落ちてしまったように思い出せないのだ。

 

「一言、二言、交わした……と思うんだけど、それで……多分、パニックに……」

 

「アヤネ、もうやめて」

 

 スキュブが割って入り、アヤネの手に触れた。

 しっかりと握られて、ようやく普段の感覚が戻ってきたようなここちがして、はっとした。

 手の表面に、汗が浮かんでいた。心臓の音が胸を内側から打っている。

 

「……大丈夫、じゃなさそうね。無理しないで」

 

 レーナが気遣う口調でそう言ってくれたので、アヤネは頷き、息を整えた。

 スキュブの手を握り返すと、落ち着きが戻ってくる。

 どんなことがあっても大丈夫、そう思える温かさだった。

 

「あなたが言った通り、フェロモンが原因ってわけじゃないのね。

 そこで何か言われたのがきっかけなのよ。……夢魔が人間を見て言うことといえば、予想はつくけれど」

 

 レーナはゆっくりと席を立った。

 

「ちょっと待っていて。飲み物を取ってくるわ」

 

 てきぱきとした足取りで、レーナは部屋を出ていった。

 

 窓から入ってきた風が頬を掠める。

 風自体はぬるいが、汗をさらっていくので、ここちが良い。

 窓に目をやれば、目覚めの早い朝日がさんさんと射し込んでいる。

 日射しをたっぷり浴びて、背の高くなった草が風で揺れると、朝日もちらちらと踊った。

 朝の元気な瞬きに、アヤネは思わず目を細める。

 

「……アヤネ」

 

 スキュブが肩を寄せた。

 白い髪が朝日できらきらしているように見える。

 

「わたし、助けるから、安心して。」

 

 薄紅色の目が、真っ直ぐにアヤネを見つめた。

 

「大丈夫。お前をちゃんと頼るよ」

 

 アヤネも肩を寄せて、見つめ返す。

 スキュブの口元が微かにほころんだ。

 やわらかで、穏やかな微笑みだった。

 

 扉の開く音がした。

 振り返ると、レーナが水の入った大きめのグラスをトレイに乗せていた。

 

「おまたせ。朝から暑いでしょ?

 風は心地いいけどね、動くとどうしたって暑くって」

 

 グラスを置く手付きは慣れており、てきぱきとしているが、大きな音は立てない。

 氷がグラスにあたる音が、ころころと静かに聞こえる。

 結露で表面についた水滴がテーブルへ伝っていった。

 

「ありがとう」

 

「ふふ、夏に飲む冷たい水は絶品よ。

 ゆっくり飲みながら話しましょ」

 

 グラスに口をつけると、ひんやりとした感触がした。

 氷にちょっぴり口づけたような冷たさを味わいながら、グラスを傾けると、しんと冷えた水がほてった喉を通り流れていった。

 

「……わたし、その日のこと、あまり覚えていないの」

 

 アヤネはグラスを置いて、静かに語り始めた。

 

「こうなるようになった原因のこともね、何を言われたかは分かる、と思うんだけど……覚えているはずなんだけど……思い出せないの。記憶に……靄がかかったみたいになって……白くなって……思い出せない」

 

 窓のむこうで鳥が羽ばたく音が聞こえた。

 近くの枝にとまったのか、窓にたわんで揺れる枝の影が踊る。

 

「今まで、そういう危険のあるやつは、スキューが察して、すぐに殺してくれてたから何も起きなかったんだけど……今回のは、生け捕りだったから。

 わたしが魔法でどうにかできてたら良かったんだけどね」

 

 アヤネは苦い笑みを浮かべた。

 

「ごめんなさい、多分……こういうことって、ずっと、影みたいについてくるみたい。

 子どもの頃におきたことなのに、ずっと忘れられないなんてね」

 

 アヤネは目を細めて、スキュブの手をぎゅっと握る。

 

 スキュブがはっとこちらを見た。

 これから何を言うのか、察しがついたようだ。

 

 それでも口を開いた。

 

「わたしがね、今回……こんなことになったのは……子どものころ、父親に……むりやり、されたから」

 

 レーナが目を見開いた。アヤネの言葉を止めようと口を開きかけていたが、アヤネは震える心臓の苦しさの間から、ぐっと声を押し出した。

 

「なにをされたか、覚えてる……思い出せないけど、覚えてる……だから、そういう目で見られるのが、そういう言葉をかけられるのが……こわくて……」

 

「もういいわ、無理しないで」

 

 レーナが真剣な顔つきで立ち上がり、アヤネの元へ歩み寄ってきた。

 ふと顔を上げると、レーナの潤んだ瞳と目があった。

 苦しみに耐えているような表情に、はっとする。

 何だか、身内以外にそんな表情をされたのが意外で、一瞬、どうしてなのだろうかと感じた自分のこころに、苦い感情が湧き上がってきた。

 

「……スキュブが、あなたに寄ってきそうな男に、ものすごく警戒してるのはそれがあったからなのね」

 

 アヤネは俯いて頷く。

 

「決して、誰にも言わないわ。

 ――つらかった、でしょう。」

 

 レーナの腕が肩に回され、優しく包まれるように抱きしめられた。

 

「……たまにね、そういった子が、ここに相談しに来ることがあるの。

 みんな、なんとか日常には帰っていくけれど……以前の自分には戻れなくなって、いつ襲ってくるか分からない恐怖と共に生きてるって様子だったわ。

 誰かのクソみたいな行動で、人生が狂わされるなんて、嫌な話ね」

 

 レーナはため息をついた。

 

「……そういう危険のありそうな仕事は、他の人にまわすようにするわ。

 無理しちゃだめよ。こころの傷は、身体の傷よりずっと治りが遅いんだから」

 

 レーナは腕を解き、スキュブの手を握っているアヤネの手を見た。

 

 等身大の、人間の手。

 震え、怯える者のそのままの手がそこにあった。

 日常に帰っていこうとしながら、もう戻れないのだと気づいた、孤独に握りしめた小さな手が、ようやく拠り所にしがみついている。

 

 ひっそりと眉をひそめる。

 ギルドでは天才だ、百年に一人の逸材だと祭り上げられ、奴らは悪魔に身を売っているか、それとも悪魔そのものなのだと影で言われている彼女が、人知れず痛みを抱きながら生きていると思うと、胸に鈍い悲しみが広がった。

 

「……皆、黒曜の魔女だとか、白い悪魔だとかいうけれど、あなたたちだって、私たちと変わらない……普通の人間なのよね。当たり前のことだけど。

 前代未聞の天才だ、っていうのは本当だけど……色んな理不尽に苦しんで、今日を生きている人間には変わりない……」

 

 悲しげな笑みを浮かべて、レーナは席に戻った。

 

「アヤネも、スキュブも、周囲の人間より優秀なのに、偉そうにふんぞり返らないで、これぐらいやって当然だーなんて感じだけど、ダメなこと、無理なことがあったら言って。なるべく、言われる前に察するようにはするけれど」

 

 アヤネはスキュブの方を見た。

 心配そうな顔をしたスキュブと目が合う。そうは言われても、アヤネのことが心配なのだろう。握り返してきた感触が、きゅっと強くなる。

 

「大丈夫……大丈夫。お前がいてくれるし、カヨたちもいる。きっと、大丈夫さ」

 

「……本当?」

 

「本当。約束したんだし」

 

 スキュブは暫くアヤネの目をじっと見ていたが、納得したのか、こくりと頷いて、手の力を緩めた。

 

 もう無理はしない。いざというときはスキュブを頼り、一人でどうにかしようとしない。そう約束した。

 この約束を違えることがあれば、スキュブは今度こそどうしようもない程の暴走をおこすだろう。

 急に足元に大穴があいて、底のない暗闇に落ちていくような悲しみに襲われた彼が、次にするのは完全なる監禁だ。

 糸で巻いて、ずっと安全なところへ閉じ込める、もしくはアイテムポーチの中にしまい込む。

 そして、自分も寂しさや、アヤネを食べ続けなければならない苦しみで、終わらない痛みのなか生きていくことになるだろう。

 

 そんなスキュブの姿を想像すると、胸を絞められるような苦しみに襲われた。

 絶望と悲しみで感情を失っていたあの頃のような顔を、二度とさせてはならない。

 

 アヤネはふっと息を吐いて、レーナのほうを真っ直ぐに見据えた。

 

「ありがとう。言えてよかった」

 

 レーナは少し穏やかな笑みを浮かべて見せた。

 

 扉の向こうで、活気のある話し声が聞こえ始めてきた。

 仕事の時間がやってきたようだ。

 アヤネは氷が溶けかけたグラスを静かに煽り、涼しく、爽やかになった息をふっと吐いた。

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