33
全身に冷たさがひっつくここちで、アヤネは目を覚ました。
カーペットよりもかたく、土のようにじゃりじゃりしていない、例えるなら、タイルのようなひんやりとした感触が肌を通して伝わる。
裸足で歩けば、ぺたぺた、ひたひたと、夏の暑さに晒された足は、ここちよい涼しさを味わえるだろう。
見渡すと、部屋は隅から隅まで、人工的な明かりで照らされていた。
蝋燭などの明かりではない。火のあたたかい色にしては、熱のない色合いだ。
――見覚えのある風景だった。
多種の素材が収納されている棚、この世界の時代とはそぐわぬ、未来的なデザインの装置たち。
ここは自宅の地下で間違いないだろう。
こんな部屋、カヨと自分の所以外にあったら大騒ぎだ。
絶対に人を家に上げない質の人間で、盗人に侵入されないセキュリティがなければ、そのうち噂が広まって、そこは蟻にたかられた砂糖のようになっている。
アヤネは身を起こし、自分の身体を確認する。
何もつけていない。
衣類も、装備も、何もない。
アヤネは全裸の状態でそこにいた。
「……おはよ、あーちゃん」
すぐ側で声がした。
アヤネが振り仰ぐと、服やアイテムポーチを持ったカヨが立っていた。
彼女はしゃがんで、床に服を置く。
「あーちゃんも素っ裸リスポーンなんだね。
ほんと、このシステムどうにかならないかな。やられたところにアイテムポーチも含めて全部落としてきちゃうとか、ヤバくない?」
カヨは下着をアヤネに渡しながら、ため息まじりに言った。
「……それより、本当にリスポーンできるんだね。
ここに来てから死んだことなかったから、お前の話聞いたときは実感なかったけど」
「わたしもビックリだったよ。リスポーンってマジでするんだ〜って。」
「その確証がないのに、お前さぁ……」
「Travelers from the moon」には、リスポーンというシステムがある。
某ドラゴンなRPGでもおなじみの、セーブした所から再スタート、というものではなく、何が何でも、やっと辿りついた場所で、そこにもう一度行くには、かなり骨を折るのだとしても、自宅の指定位置から復活するのだ。
しかも、全裸で。
その時持っていたアイテム、装備諸々は、自分が死んだ場所に落としてしまう。なかなかの鬼畜仕様である。
そのため、攻略掲示板においては、自宅のクローゼットには予備の装備を置くことを推奨している。
これを読まずにリスポーンし、泣いた初心者はかなり多い。
「まあ、ディーくんと一緒になれたんだから、最初にやっておくこととしたら、丸呑みだよねって思ってさ。
それに、顔にヴェールもつけないで街に出ちゃったし。
ディーくん丸呑みルート一直線だったって感じ?」
「それで死んじゃったらどうしたのさ」
「ディーくんと共に……ディーくんの血と肉になって生きる所存でござったよ」
「自分の命をぽいぽい差し出さないでよ」
「ブーメランだよ?あーちゃん特大ブーメランだからね、それ」
アヤネはばつの悪そうな顔で、下着をつけ始める。
「ほんと、あーちゃん痩せてるなぁ……一緒に住んでた時と変わらないんじゃない?」
「食べられる量も少ないっていうか、あんまり食べてなかったし」
「ここに来てからはちゃんと食べてるってスーちゃん言ってたけど」
「うるさく言うやつがいてね。それにスキューが影響されちゃったみたい」
アヤネは涼しげなワンピースに袖を通しながら、口元を微かに緩めた。
「……だぁれ?そいつ」
カヨが目を細め、頬杖をつく。
「……どうせ知ってるでしょ。目星はついてるくせに」
アヤネは着替えを終えて、立ち上がった。
手を握ったり開いたりしてみたが、特に何ともないし、立ちくらみ等がするわけでもない。
「カヨ、ちょっといい?」
「いいよ」
カヨは立ち上がって、どうぞ、と言うように両手を軽く広げる。
「アタック・ウー」
物理的な攻撃力を上げる魔法でも、最高位の魔法をカヨにかける。
カヨは自分の手のひらを見つめ、頷く。
「力がみなぎってきた感じかな?」
「ちゃんと確認して」
カヨは指を鳴らし、メイドを呼んだ。
メイドはサンドバッグを持って現れ、カヨにそれを渡すとすぐに消える。
「ほんとにちゃんとやっていい?」
カヨはいたずらな笑顔を浮かべた。
「いいよ。掃除はわたしがやっとくから」
「そこはうちのメイドに任せてくれない?」
サンドバッグが宙に投げられ、カヨの足が素早くそれをとらえる。
サンドバッグは振り上げられた足に勢いよく振り抜かれ、凄まじい音をたてて破れた。
砂があたりに散り、床がざらざらとした色に変わる。
「……うーん、いい感じ」
「お前いっつも破るから比較にならないんだけど」
「いつもよりパワーが溢れてます!当社比!」
「……お前がそう言うならそうなんだろうけど」
アヤネは口元を緩めながらため息をついた。
「じゃあ、次は……バリア・ウー」
物理的な防御力を上げる魔法でも、最高位のものをかけた。
アヤネはカヨへ手を差し出す。
「わたしでも使えそうな武器、ある?」
「勿論」
カヨはアイテムポーチから、メイス型のモーニングスターを取り出した。
アヤネは思わず差し出した手をひっこめる。
「ちょっと。耐久テストでも身内をそれで殴るのは嫌なんだけど……」
「魔法使いの物理武器といえば、これじゃない?」
カヨは軽く、モーニングスターをバトンのように回しながら言った。
「だからって。ほら、物干し竿とかない?」
「スーちゃんじゃないんだから……」
唇を尖らせながらアイテムポーチの中を探るカヨが次に出した物は、赤い糸で『中』と刺繍された、四角いクッションだった。
「それ、武器なの……?」
「武器だよ。中に重り入ってるから鈍器!」
受け取ったクッションの重さは、確かに少しだけずしりとしているように感じた。
しかし、触り心地は相変わらずもふもふとしており、これで相手を殴っても、もふん、として、ダメージを与えられるかは疑わしかった。
それでも、カヨがこれを使って戦闘をしているのは見たことがあるので、まあ武器としては成立しているのだろう。……多分。
「他に、白と發があるけど、どれがいい?」
「なんで三元牌クッションシリーズなの?」
「ダメージがでかいかなぁって」
「もしかして、各種三つずつ揃ってる?」
「勿論!ね、デカいでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
アヤネはクッションをつつきながら、カヨとプレイした、麻雀のゲームのことを思い出した。
大体アヤネが勝つのだが、カヨはツキに乗ると止めるのが大変だったりする。
点数が増える、ドラというものに該当する牌を、なぜか大量に持っている状態で和了ったりしてくるのだ。
カヨは特別、三元牌と呼ばれるものに固執しているわけではないのだが、白の牌が豆腐やチーズケーキに見えたり、中の牌が串カツに見えたりするので、お気に入りだそうだ。
因みに發は青とも呼んだりするので、青のり枠らしい。
……若干無理やり感がある。
「それじゃあ、構えて」
アヤネがそう言うと、カヨはミット打ちの構えをとる。
何故ボクサーのようなスタイルなのか、と心の中でツッコみながら、アヤネは容赦なくクッションをカヨに叩きつけた。
カヨは眉ひとつ動かさずそれを受け、手のひらをぼーっと眺める。
「すっごい何ともない。普段より何ともない」
「それならいいよ。わたし、とりあえず正常に動けてるみたいだし」
「攻撃魔法はいいの?」
カヨはからかうように笑った。
「こんなところで使わないし、身内を焼く趣味はないから」
アヤネは笑い返した。
不器用で、よく見ないと、とてもじゃないが笑っているようには見えないものだが、表情の柔らかさが心情を物語っている。
「いつもありがと、カヨ。」
「ふふ、当然のことでしょ?」
ウインクをして、カヨはアヤネの腰にアイテムポーチを取り付けた。
内容物の多さの割には軽すぎる重さだが、その微かな重みがあると、いつもの感覚が戻ってきた感じがする。
ローブも杖も持っていないが、この足で遠くまで行けそうな気がするような、そんな気分だ。
「……スキュー、落ち込んでる?」
アヤネは俯きぎみに言った。
「落ち込んでる。ディーくんが傍にいるから、暴走するほどじゃないけど」
「……ディートにも、いつも助けられてるね」
「あとで撫でておいでよ。それで伝わるからさ」
カヨはアヤネの肩に軽く触れ、微笑みかける。
アヤネは静かに頷いて、顔を上げた。
「色々確かめられたことだし、行かないとね」
「テストはオッケーだもんね。スーちゃんにも、もうちょいであーちゃんが帰ってくるからって言っちゃったし」
アヤネはテレポートを唱え、森の奥、カヨの屋敷を思い浮かべる。
「ところでさ」
一旦集中を解き、アヤネはカヨの方へ目をやった。
「うちに、どうやって入ったの?全部鍵かけてるんだけど」
カヨはニヤリ、と企みがうまくいった、敵が罠にかかった、というような笑みを浮かべた。
「合鍵、持ってるんだけど?」
カヨの指で、ちゃり、とリングに繋げられた鍵が揺れる。
合鍵を渡したことはない。
彼女がここに来るときは、いつも鍵をあけておくから。
しかし、驚くようなことではない。
アヤネが一人暮らしになったときにも、同じことはあった。
カヨとは長い付き合いだ。
こんなことで驚いていては、彼女と同居などできない。
アヤネは返事をする代わりにため息をついて、テレポートを唱えた。
・ ・ ・
屋敷につくと、すぐにスキュブのいるところまで通された。
早足で向かうと、部屋にはソファでうずくまっているスキュブと、隣で背中をさすっているディートリッヒがおり、ドアの開く音でディートリッヒは顔をあげた。
「お兄様、お姉様が来ましたよ」
「……こないもん。あんなに守るって誓ったのに、傷つけないって言ったのに、わたしが一番……傷つけたから、アヤネ、こない」
「そういう推測は、顔を上げてから言ってください。
それに、お姉様はお兄様のこと、嫌ってないですよ。
お姉様の愛が冷めるなんてこと、ありえません」
アヤネは早足の勢いそのまま、スキュブの元へと向かった。
そのとき、弟の説得でようやく少し顔を上げたスキュブと目が合う。
赤くなった目が見開かれるのが分かった。
息を飲んで、ゆっくりと顔を上げるその表情は、呼吸の仕方を忘れてしまったみたいだ。
葬儀を終え、疲労と薄闇に浸る部屋で座り込んだ者が、蘇ってきた故人と対面したような、驚愕の色。
二度と帰ってこないなら、死んだも同然。
棺に入ったようなものだと思おうとした愛する人が、今目の前にいる――
「スキュー」
声をかけると、スキュブの目尻にしわがより、涙が盛り上がった。
「……ごめん、なさい」
ぽたぽた、ぽたぽた、スキュブの頬に涙が伝う。
何度目の涙なのだろう。
涙痕の上を流れていく涙は枯れることなく、アヤネのことを想う限り止まらない。
「いいよ、わたしが食べてっていったじゃない」
「……でも、わたし、アヤネのこと……守るって、傷つけないって……アヤネに傷つかないでって言ったのに……」
「大丈夫。ほら、おいで、スキュー」
アヤネは両腕を広げ、優しく微笑みかける。
スキュブは俯いて、嗚咽で肩を震わせていた。
自罰の涙が、ぽろぽろ落ちる。
太ももには、染みがいくつもできていて、夜雨に打たれたアスファルトみたいになっていた。
「……お兄様」
ディートリッヒが囁くように語りかける。
「お兄様の気持ち、分かります。誓いも、約束も破った自分が、再びお姉様の腕に抱かれることなど、許されない……そう思っているのでしょう?」
スキュブはぴくりと震えた。
「でも、このままでいいんですか?
お兄様は、お姉様と離ればなれになったままでいいんですか?」
「……ちが、う」
スキュブは絞った喉から、声を押し出すように言った。
「ええ。なら、するべきことは一つです。
罰をうけるのも、償いも、それからだっていいでしょう?
……まあ、お姉様は全然気にしていないから、罰も何もないと思いますが」
ディートリッヒはアヤネの方へ目をやった。
スキュブを励ましているものの、その目には痛みが漂っていた。
痛みは伝染するものである。
ディートリッヒには、後でゆっくりできる時間をとり、お礼の言葉と共に、抱擁を贈らねばならないな、と思いながら、アヤネは微笑んで頷いた。
ディートリッヒの目元に、少しだけ穏やかさが戻る。
ディートリッヒはスキュブに向き直った。
「ほら、お姉様がお待ちですよ。
お兄様に会いたくて、リスポーンしてすぐ、駆けつけてくれたんですから」
スキュブの嗚咽が、だんだんとおさまってきた。
スキュブは腕で涙をごしごしと拭い、ゆっくりと立ち上がる。
申し訳なさそうな目でアヤネを見つめ、ちらりと俯いた。
「……アヤネ、ごめんなさい
痛いことして、傷つけて、ごめんなさい……」
「大丈夫。痛くないし、傷ついてもないよ、本当に。
……この大丈夫は、本当だからね?」
アヤネは優しくスキュブを抱きしめた。
本当は頭を撫でてやりたかったが、身長差があるせいで、手が届くのは背中までだった。
だから、せめて呼吸が楽になるように、胸に溜まった重たい気持ちが言葉と一緒になって、空へのぼっていくように、背中をゆっくりと撫でる。
「……わたし、アヤネのことは一番、傷つけたくなかった。
なのに、いつも、こんなことばかり……
すごくお腹が空いても、寒くても、食べないようにって、誓っていたのに……」
スキュブの口から、なみだ色の言葉がぽろぽろと出てくる。
「……寂しかった、よね」
アヤネはスキュブの胸に頬をつけ、そっと囁いた。
「餓えのように苦しくて、凍えるように寒いのは、寂しいって感情なんだよ。
わたしのことが心配だったって気持ちもあったし、一人ぼっちだったし。
だから、熱が欲しかった。ずっと隣にいてくれる、熱が欲しかった。そうでしょう?」
スキュブは息をのんだ。
そして、ゆっくりとアヤネの背に腕を回す。
蜘蛛のときとは違う、壊れものを扱うような抱擁だった。
「そうさせちゃったのは、わたしが原因なんだけどさ……
ごめんね、スキュー。ひとりにさせて、ごめんね」
スキュブの目から、温い涙が溢れた。
胸の内が溶け、春に溶かされた雪のような涙が、ひとすじ、ひとすじ、頬を伝っていく。
「……さみしい。わたし、さみしかった。……さみしかったんだ。
アヤネのためだからって頑張ったけど、やっぱり……アヤネがいないの、さみしいんだね。
どうしてだろう、アヤネのためなのに、どうしてさみしくなっちゃうのかな……どうして、できないんだろう。
傷つけたくないのに傷つけて、アヤネを休ませたいのに、さみしくて。」
「……難しいね。愛してるって、難しい。
だから、これからも一緒にいてくれるかな。二人で、考えて、話し合って、失敗してもいいから……
これがわたしたちの正解だねって言えるまで、時間をかけて……」
スキュブは頷き、静かに涙を流した。
痛みの嗚咽はもうそこにはない。
あとは雪が川へ流れ、萌える緑が風に揺れるのを待つだけだ。
窓の向こうで木々が揺れた。
暮れの残滓が葉に踊って、青い闇を呼んでいる。
星々の時間まで、あともう少しだろう。




