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少年の名はアンヘルと言った。
身長はアヤネより低く、幼さが残るその顔立ちから、年齢は若いのだろうと思っていたが、聞いたところによると本当にそうらしい。
日本であったらまだ学生であってもおかしくはない年齢であった。
そうであるにも拘わらず、いのちの危険と隣あわせな仕事が飛び回ることで有名なギルドに所属しているのだという。
本人曰く、
「他のみんなよりも丈夫だったりしたので、みんなを守れる職につきました!」
とのこと。
若いのに大変だねぇ、と声をかければ
「確かに大変なこともありますけど、先輩たちが助けてくれるので大丈夫ですね!!」
と輝くような笑顔で返される。
その様を見ていると、暗い部屋から急に明るいところへ出たときのような気持ちになった。
何を食ったらこんな明るい人間に育つのだろうか。
その明るさの半分でも持っていれば、とアヤネは思った。
そうであれば、俯きながら歩く毎日とは無縁であっただろう。きっと、色んな言葉を気にすることなく、少々生きやすい人生になったかもしれない。
過ぎたことを、どうしようもないことを、変えられぬことを気にしても仕方ないが。
それに、明るいが故に苦労することもあるだろう。こういう子は味方は多いが、それを妬む層は確実にいる。
だから、その明るさが自分にもあったら、などと軽率に羨むのはあまりよくない。
アヤネは少々反省した。
アンヘルが所属しているギルドがある街は、そこそこ栄えた街であった。
辺境の田舎というわけでもなく、都のような、というわけでもない。
一戸建ての家々と様々な商売を営む店があり、穏やかな顔をした人達が行き交っている。
買い物籠を腕に下げる母親と、それを手伝おうとパンの入った紙袋を両手で抱える子ども。
値段の交渉をしているのか、世間話でもしているのか、露店商と大声で喋りあっている女や男。
道の隅っこで、地面に模様を描いたり、小石で顔を描いたりして遊ぶ子どもたち。
賑やかな人の営みで満ちた街は、静かな寂しさとは無縁で、重たい騒々しさとまではいかない、ちょうど良いところだ。
マイホームを建てるのにベストな場所というのはこういうところをいうのだろう。
アヤネの場合、スキュブのこともあるので森の中という辺鄙な場所にマイホームを建てたが、通常のプレイヤーはお金が溜まり次第、こういった場所を選ぶと良い、と攻略掲示板に書いてあったような気がする。
――関係のない話だが、このゲームのプレイヤーであった友達は、それを読んだ上で森の深いところに無駄に大きな屋敷を建てていたのを思い出した。
彼女もパートナーのことを考えてそうしたらしい。
そのときパートナーの設定やら自分との関係やらを小一時間語られて、その内容の変態性に若干「うわ……」と思わずにいられなかったが、こちらも人のことをとやかく言えるほど普通の設定を書き込んでいるわけではなかったので、アヤネもパートナーの設定や、ここがエモいよパートナーというところを小一時間語り返してやったのでおあいこだろう。
友達も若干引いていたような気がするが、類は友を呼ぶ、似た者同士で出会ってしまったのだから仕方ない。
さて、街に来たわけだが、アンヘルを送り届ける以外に用事はない。
さっさとダンジョンに戻って全ての敵を締め上げ、素材を絞りとったらスキュブの装備を強化しよう。
もうスキュブの装備は強化しなくても良いほどになっているのだが、状態異常に対する耐性など、ステータスアップに関係ないところも強くして、完全無敵と言えるような状態にしてみたい。
毒も混乱も麻痺も効かないスキュブに、状態異常にするのが得意な奴があたふたするのを見てみたいのだ。
そして、どうだうちの子は強いだろうと後ろでドヤ顔を決め、帰ってきたスキュブをベタ褒めしたい。
俺TUEEEならぬ、うちの子TUEEEである。
時間は貴重だ。やるなら効率よく、なるべく短時間で。
強化周回はRTAだ。アヤネは軽く片手を上げて、踵を返す。
「そんじゃーね、アンヘル。次からは気を付けるんだぞ~」
「はい!気を付けます!!
……ってちょっと待って下さい?!」
すんなりと別れることができたと思ったアヤネは思わず「へ?」と間抜けな声を出してしまった。
「いやいや!あんな危険なところから助けてもらったのに、何のお礼もしないまま返せませんって!!」
アンヘルは何の御礼も受け取らずに去ってしまうアヤネの行動に驚いているらしい。
彼にはアヤネの脳内が既にダンジョン周回でいっぱいになっていることなど知るよしもないのだから仕方ない。
「えー。別にいいよ。あのくらいでお礼とか必要なくない?」
「いえ!!アヤネさんたちが通りかからなかったら今頃僕は命の危険にさらされていたかもしれないんですよ?!」
「そうだけどさー……いいじゃん別に……正直いってお礼もらえるようなことしてないし……」
「救出はお礼を受け取るべき行為では?!」
「あそこ、まだ楽勝なとこだったし……」
「アレが楽勝だったんですか?!?!」
アヤネは先程から「お礼とかどうでもいいから、はやくダンジョンに行かせてくれ」と暗に言っているのだが、アンヘルには伝わっていないようだ。
それならそうと隠さずに言えば良いのだが、はっきり言ってしまうと失礼であるし、アンヘルが悲しそうな顔をするのが目に見えていたので、アヤネはどうしようかと眉をひそめそうになっていた。
アンヘルがアヤネの言っていることに気づかないのも無理はない。
もし、あの高難易度のダンジョンから救出せよ、という依頼を出したのなら、それはベテランの中でも限られた者でしか行けないような難易度となり、当然報酬は誰もがそれを手にいれることができたら、と夢見るほどの金品となる。
依頼を出していないにしろ、常人であれば相当骨を折ることになるだろう。これを見返りなしにこなし、去っていく者といえば、頭がおかしなヒーロー気取りくらいしかいない。
アヤネにはヒーロー気取りなキザっぽさはなかったし、聖人君子、という雰囲気もなかった。
その代わり、ぱっつんと切った前髪と鬢削ぎが特徴的なぬばたまの黒髪と、黒曜石をはめ込んだような虹彩が目を惹く、絶世の美女――おとぎ話からそのまま出てきたような、完璧な美貌を持つ女性ではあった。
アンヘルも気を抜けば、暫く見とれて動けなかったかもしれない。
しかし、頻繁に見せるものぐさな顔や、敵に対して言うちょっとした文句が彼女の印象を「意外と普通の人」まで落ち着かせていた。
そのため、最初こそアヤネのことが気になってちらちらと表情を窺っていたが、ダンジョンから出るころにはその気持ちは失せ、興味はスキュブの太刀筋へと移ろっていた。
だからこそアンヘルには分からないのだ。
強さと美しさ以外は常人と変わらぬアヤネが何一つ受け取らずに帰ってしまうのが。
「あーーうーーん……そうそう、あそこしょっちゅう行くからさ、楽勝なんだよね。だからさ……君を拾ってここまで届けるくらいで、お礼とか……ちょっと過剰な報酬かな?って思うんだよね……」
「それだって……アヤネさんが拾ってくれたのは僕のいのちじゃないですか、せめて食事くらいでも……」
アンヘルの言葉に悪意がないのが辛かった。
これが宗教勧誘の類いであったら容赦なく断れる。こちらを金を出すカモくらいにしか見ていないのだから、情けも何もいらない。適当にあしらえるのだ。
しかし、この場合は違う。
アヤネは年下や後輩からの善意の押しに弱かった。
誰もがそれなら仕方ないと思えるような理由がなければ、どれだけ面倒であっても首を横には振れぬ質であった。
アンヘルのどこかに悪の片鱗が見えたら、と思ったが、人間の屑特有の嫌な感じはしないし、何よりスキュブがひどく警戒をしていない。
どんなに目を凝らしてもそこにいるのは、少しおっちょこちょいで元気いっぱいの少年である。
「これがギルドで出された依頼であったら、今頃英雄扱いってくらいなんですよ。アヤネさんは自分がしたことを過小評価していると思います!」
そろそろ本当に断りにくくなってきた。
アヤネの口から無意識に小さなうめき声が漏れ始める。
何と言ったらこの子は諦めてくれるのだろうか。
しかし嘘をつくのには罪悪感があるし、本当のことを言えばそんな理由で、と思われるだろう。結果、この子を納得させることはできないのだ。
そもそもいのちを救った礼を断る理由とはなんなのだろうか。
このくらいして当然、とどこぞの映画や漫画のヒーローの如く、笑顔で去っていけば良いのだろうか。
いや、それは精神的にキツい。
前述した通り、アヤネにはヒーロー気取りの素質は一切ないのだ。
そんなアヤネがキザな笑顔で歯の浮くようなセリフを言えば、確実にそれは黒歴史と化す。
かっこいいと思い込んでやっていた数々の恥ずかしい行為リストに新たな項目が追加されることとなるだろう。それだけは絶対に避けねばなるまい。
はやくダンジョンに行きたいから、という理由で黒歴史を増やすのは健全ではない。
ここは大変面倒ではあるが、アンヘルの提案を受け入れたほうが後々楽だ。
「えーーと……じゃあ……食事、くらい、なら……?」
「わぁあ……!やったぁ!それじゃあさっそく僕の家に――」
聞こえるか聞こえないか、というくらいの声量で言ったにもかかわらず、それをしっかりと聞き取り、目を輝かせていたアンヘルの言葉が、急に止まる。
どうしたのだろうかと改めて見てみると、目の輝きは失せ、表情が少々強ばっていた。
いたずらをしたことが親にばれたときの子どものような顔だ。
周囲に原因となるものは今のところ見当たらないが、彼は耳が良いらしいので、もしかしたらその”親”たる者が近づく足音が聞こえているのかもしれない。
「……あの~アヤネさん、お願いがあるんですけど……」
「何?」
「ちょーっと……怒ると怖い人がですね……いや、いつもは優しくて、面倒見がよくて、お兄ちゃんみたいな人なんですけどね、こちらに近づいている足音が聞こえているので……大変申し訳ないんですけど……」
予想は的中しているようだった。
それから逃げようとしているのだろう、アンヘルの目がきょろきょろとし始める。
「君の家までダッシュって?」
「あぁ……はい、そうですね……」
「ごめんそれは無理」
「む、無理ですかぁ……?」
「うん。だってわたし、めちゃくちゃ足遅いし。スキューは逆にはやすぎるし。
それともスキューに乗って走っていく?高身長のイケメンが女の子担いで超高速で走っていったら、絶対に目立つと思うけどね」
アンヘルが眉尻を下げ、今にも涙ぐみそうな顔で訴えるが、これはどうにもできない。
アヤネのステータスは魔法関係に極振りしたものになっている。それ故魔法以外のステータスはそこらへんの雑魚と変わらないと言っても過言ではないほど、貧弱な数値になっているのだ。
攻撃力は殴ればたんこぶができるかどうか怪しいところ、防御力は紙装甲、素早さは幼稚園児と同じくらい。HPは数発叩かれれば蒸発する。
勿論、レベルはMAXなので、この比喩が必ず当てはまるというわけではない。ある程度の敵であれば杖で殴って倒すことも可能であるし、攻撃されても膝をつくことはない。
高難易度のダンジョンに挑むとなるとそうではないというだけだ。
「てか、怒ると怖いひとがこっちに来てて、それから逃げようって君……なんかマズいことしたわけ?」
「……うぅ、はい。ギルドからの依頼ってどんなものでも基本的には二人以上で行くってことになってまして。ほら、万が一のことがありますから。今回の僕みたいに。」
「それをやぶって、一人で行っちゃったってこと?」
「はい……」
「じゃあ走れても走らない。ちゃんと叱られな。」
「ぅううう……反省してます……」
アンヘルは走って逃げることを諦めたようだ。
身体は縮こまって一回り小さく見えるし、顔は心なしか青ざめているように見えるが仕方ない。
彼が決まりを守らず、一人で依頼をこなしに行ってしまったが故に、死んでいたかもしれないと言えるほどに危険な目にあったのは事実だ。
恐らく彼のことだ、難易度の低い採集クエストか何かを、一人で大丈夫だと言って請け負ってしまったのだろう。
その道中であの高難易度ダンジョンに迷いこんで通過儀礼、となって笑い話にできるのは、不死の力を持つ月の民であるプレイヤー達だけだ。
普通の人間であればそこで死を向かえる。
その遺体を回収にきた人間も同じ道をたどる。
そもそも、あのダンジョンで遺体だと判別できる状態で発見されるかどうかは分からない。
あそこに人骨と思われるものが見当たらないのはそのせいだ。
あの黒い肉塊のモンスターの攻撃は、肉はおろか、骨すらも粉砕する。その威力は高層から落とされた鉄骨に相当し、もろに食らえば即死は免れない。
そんなモンスターが歩き回っているのだ、倒れでもしたら容赦なく踏み抜かれ、やがては判別不可の肉と化し、最終的には地面のシミとなる。
今回、アンヘルが五体満足で帰ってくることができたのは奇跡に等しい。
彼は身のこなしが常人より素早かったのが幸いした。
そしてアヤネたちが通りかかったから助かった。
そうでなければ、彼も地面のシミとなっていただろう。
反省はしっかりとしてもらわねばなるまい。
「……やっぱ、逃げません?僕、反省はしてるんです……」
「ダメ。たっぷり叱られな。君、死ぬとこだったんだから。」
「ですよね……」
お兄ちゃんみたいな人、というのは話の通り、怒るとかなり怖いようだ。アンヘルは反省していると言っているのにもかかわらず逃げたいらしい。
彼の胃はキリリと痛んでいそうだった。顔色が一層悪くなっている。
やがて、賑わいの中から一際通る声が聞こえてきた。
声の主は二人いるらしい。女性と男性の声が互い違いになっている。
「うぅう~~アンヘル、こんなに帰りが遅いなんて……わたしがもっとはやく気づけたら……」
「あなたは悪くないでしょう。とにかくあの子を探さねば。」
家の影から男と女が走って出てきた。
男は大弓を背負っていた。
肌は浅黒く、髪は優しい印象のある黒色で、そのきびきびとした動きからくる印象を少し和らげている。
身長はスキュブと変わらないくらいで、周囲の人より頭一つ程大きい。そのため、それだけでもやや目立つのだが、何よりも目を引いたのはその目の色であった。
朝方の空の青に、うっすらと薄い雲がかかった色、とでも言ったら良いのだろうか。白いようで、水色のような不思議な色をしていた。
一度見たら忘れられぬ、という言葉が相応しい。
女は杖を両手で握りしめていた。
薄桃色のうねった髪の毛を後ろでルーズな編み込みにしてまとめている。
キリッとしたつり目はレモン色で、柔らかそうでありながらしっかりとしてそうな、話しかければ容易く応じ、楽しい話題を提供してくれそうな、接しやすい雰囲気を醸していた。
「あいつ、ちゃんとポーションとか持ってったのかな。あぁ、昨日の夜に耳にタコができるほど言えばよかった!ぅうううう~……無事じゃなかったらどうしよう……」
「そんな縁起でもないことを。私とあなたがいれば大抵のことはどうにでもなるでしょう、ヘカテリーナ。」
「そりゃあそうだけど……傷だって回復してみせるけどさ……」
二人の声が近づいてくる。
アンヘルはそれが聞こえる度にビクッと震えていた。
会話からすると、アンヘルは捜索されるくらいに心配をかけているらしい。
男の方は少々たれ目気味なのが優しい印象を与えているが、こういった人が怒ると恐ろしいというのはよく聞く話だ。おそらく、アンヘルが怒ると怖いと言っているのはこの男のことだろう。
遂に二人の視線がこちらへ向いた。
両者共々目を見開いて、動きを止める。びくびくと震える縮こまった背中を、確実にアンヘルだと認識したようだ。
ヘカテリーナと呼ばれた女性は目にうっすらと涙を浮かべて指を指している。
ここから先は修羅場だろうか。
アヤネは帰りたい気持ちでいっぱいになった。
しかし、アンヘルの情状酌量を求める状況説明のなかで、アヤネとスキュブの名前が出てくるのは必須である。
大変面倒ではあるが、ここを立ち去るわけにはいかないだろう。
「ルイスーーーー!!!あれ!!!アンヘル!!アンヘルだよ!!!!!」
「……!本当だ。向かいましょう、ヘカテリーナ。」
会話が聞こえているはずなのに、アンヘルは絶対に振り返ろうとしない。死んだ目で地面をじっと見ている。
どうにかして逃げようという考えはもうないようだ。酷く叱られることを受け入れ、自分の過ちをどう話そうか考えている。そうしたところで結果は変わらないし、考えたとおりに話が進むわけでもないのだが、悪あがきというのは誰でもしたくなるものだ。
ルイスと呼ばれた男性がすぐそこまで駆けてくると、覚悟を決めたようだ、アンヘルは恐る恐る振り向いてその顔を覗き込む。
「……ぅう……ルイス、ヘカテリーナさん、ご心配……おかけしました……ごめんなさい……」
「……自分がしたことがどれだけ危険であったかは理解しているようですね。
それで、どうしてこんなに帰りが遅くなったのですか?あの依頼であれば、もっと早く帰ってくることができたはず。」
「えーと、それは……」
アンヘルの目が泳ぐ。正直に言おうとしているようだが、嘘をつきたい気持ちもあるらしい。
「道に迷った、道草を食っていた、なんて言うつもりはないでしょうね。それなら、あなたの防具が大きく破損し、血で汚れているのはおかしい。これは前からありました、なんて言わないでくださいね。昨日見たときはなかったのですから。」
ルイスはアンヘルのそれを見抜いた。
目は鋭く、声は地面から響いてくるようだ。
一瞬、雷がおちたときの地響きを思い出す。
怒られることを雷が落ちる、というのは案外正解なのかもしれない。
「……その……頼まれたのを採集してましたら、見たことのない洞窟をみつけまして……
危険な匂いはしたんですけど、つい、好奇心で入っていってしまって……そしたら、すごく強いモンスターに襲われて……もう少しで死ぬかもってとこで、この……お二人に助けてもらったんです……」
今にも消えそうな声で説明しながら、アンヘルは目をこちらにやった。
それに従い、ルイスとヘカテリーナの視線もこちらへ向いたので、アヤネは一応会釈をする。
スキュブが視線に気付き、前に出ようとしたが、アヤネが小声で大丈夫だと告げると、元いた位置――アヤネの隣である――へ戻った。
ルイスが前に出て来て、アヤネたちに向かって礼をする。その動きはどこか洗練されていて、アンヘルがダンジョンで見せた綺麗な礼はこの動きを真似たものだろうと推測できた。
「はじめまして。私はルイスと申します。この度はアンヘルを助けていただき、ありがとうございました。」
「そんなご丁寧に……お礼をされるほどじゃないよ。ついでに拾ってきただけさ。」
「それでも助けていただいたことは事実ですから。お礼は後日、そちらのご都合がよろしいときにこちらから伺います」
お礼の話が大きくなってきた。
食事くらいなら、から相手側からこちらへ来るというところまで大きくなってしまった。
これはマズい。
あの家は人をもてなすようにできていない。効率を重視した結果、家にへ入ってすぐの正面に、アイテムを保管する箱が設置されているだけの部屋があるという謎の構造をしている。その隣の部屋はテーブルや椅子などの一般的な家具が置いてあるものの、スキュブのおやつにするために干してある人間の太もも――勿論クローンである――があるので、とてもじゃないが人を呼べる状態ではない。
「あーいや。うち、人を呼べるところじゃないから……」
「それではお迎えにあがりますが」
「うちが森の深いとこにあるから……そこまでしてもらうのは……そしたら、こっちから行きたいかな……」
「そうでしたか。それではそのように。」
その後、日時や場所などが決まっていき、話は円滑にまとまっていった。
ルイスはアヤネの物言いがはっきりしなくても、アヤネが避けたいと思っていることを察し、すばやく話を進めてくれる人物であった。
判断がはやい、というのだろうか。仕事仲間であったら大変ありがたいと思ったが、こういった優秀な人材は、自分が勤める会社の無能さを見抜くと辞めていってしまうため、共に仕事をすることができる時間が短い場合が多い。
こちらが最低限のことしか言わなくても会話が成立する存在は、プライベートでも話しやすいので、なるべく辞めないで欲しいのだが。
彼もそうなのだろうか。
しかし、彼はきびきびとし、さっぱりしているだけの人間ではないように見えた。
どこでそう感じるのかは分からない。勘というやつかもしれないが、たまに見せる微笑みに、静かに沈む影が見える気がした。
「それでは明日、お会いしましょう。」
ルイスは一礼し、踵を返してアンヘルの元へ歩いていき、一言二言声をかけてから去っていった。
アンヘルが言葉にならぬうめき声を上げ、それをヘカテリーナが肩に手を置いて慰めている様子から、これから説教を受けるのだろうと分かる。
怒鳴るわけでもなく、鋭く響くようなあの声で叱られるのはやはり恐ろしいのだろう。
誤魔化しもきかぬ、嘘などついたら後が恐い上にすぐに見抜かれてしまう、叱られる側としては最も恐ろしい存在であろうが、客観的に見れば良い大人に恵まれたと言える。
アンヘルは案外良い人たちに囲まれているのかもしれない。
アヤネはふと、離れて小さくなったルイスの背中を見た。
スキュブほど目が良いわけではないので本当にそうであったかは分からないが、一瞬だけルイスが振り返っていたような気がした。
空と雲を混ぜたような、綺麗なあの色はどこを見つめていたのだろうか。
そういえば、会話のなかでその色が揺れたことがあったような覚えがあった。
しかしそれも少しの間だけだ。
本当のことを知るのは、もっと後のことである。