29
なんでこんなことになっちゃったんだろう
さらさら、さらさら。
スキュブが歩く度に、白い髪が朝日を受けながら揺れ、まばゆさを纏う。
髪を結わないだなんていつぶりだろうか。
毎朝アヤネが三つ編みにして結ってくれるこの髪は、スキュブにとっての宝物だった。
アヤネがきれいだと褒めてくれる。
アヤネが櫛ですいて、結ってくれる。
アヤネが撫でてくれる。
この髪は、ぬくもりを持ったアヤネの指先を呼んでくれる。
アヤネに拾われる前は邪魔で仕方なかったが、今となっては重要なものだった。
だから、他人の視線が集中するのは嫌だったが、納得はできた。
この髪には価値がある。
羨まれるのも当然だろう。
スキュブは顔をしかめながら、ギルドの中へ入った。
途端、視線が刺さる。
二度見する者もいたが、首を傾げながら眺めている者もいた。
指をさし、近くにいる人に何やら話している。
皆、遠巻きに見ていた。
まるで珍しい獣でも見たような態度に、スキュブは更に顔をしかめた。
だが、その中に例外がいた。
それは、手を大きく振りながら、駆け寄ってくる。
アンヘルだ。アンヘルはいつもと変わらない笑顔で挨拶をしてきた。
「おはようございますスキュブさん!髪の毛おろしてるのもかっこいいというか、美人さんですね!
アヤネさんと並んだら、ダブル美人さんに……」
アンヘルはそこまで言って、首を傾げた。
スキュブの周りをきょろきょろと見渡し、困惑した様子を見せた。
「……あれ?アヤネさんは?
今日はお休みなんですか?もしかして、体調悪いとか……」
「……だいたい、あってる」
スキュブが頷いてみせると、アンヘルはあんぐり開けた口を手隠した。
「そうなんですか?!
いつも過密スケジュールですもんね……体調悪くなっちゃうのも無理ないなって思います。
はやく良くなるといいですね……!」
アンヘルは心配そうな顔をしながら、祈るように拳を胸にあてた。
「ありがとう。絶対によくしてみせる」
アンヘルは、あとで果物でも持っていきますね、と言って、仕事に戻っていった。
さて、自分も今日のタスクは処理せねばならない。
アヤネは一週間先くらいまでは予定をたてている。
これらを全てこなさなければ、アヤネは仕事のことを忘れてくれないだろう。
アヤネがスケジュールのメモを共有してくれていてよかった。
タイムアタックでもしているのかと思われるほど、ぎちぎちに詰められたスケジュールは、メモがなければ把握できないものだった。
アヤネはこれら全てを頭に入れている。
それでも、万が一のことがあってもスキュブが困らないように、会話での伝達に加え、メモを渡してくれている。
それに助けられる日が来てしまうとは。
スキュブは唇を薄く噛んだ。
胸にざらつきを感じながら、隙間時間に達成できそうなものがないか、スキュブは早足で受付へと向かった。
・ ・ ・
ルイスは昼の町を歩いていた。
丁度、ギルドに登録したばかりの新人との依頼が終わり、次のアンヘルとの依頼まで時間があった。
今夜も、近くの町まで行かねばならない。
あのユウと呼ばれた捕獲対象を捕まえるにはかなり骨が折れそうだ。なるべく昼は休んでおきたい。
だから真っ直ぐ家まで帰るつもりだった。
時間になるまで仮眠でもとっておこう、そう考えていたから。
だが、運命というのは悪戯なものだ。
ルイスは見逃すことのできないものを、目の端で見た。
ルイスは思わず足を止め、そちらへ振り返る。
路地裏へと入っていく細い道の曲がり角に、うっすらときらめく白い髪が消えていった。
太陽に妬かれるくらいに美しいその色を、見逃すはずがない。
己でもなぜだか分からない程の引力にひかれて、ルイスの足は路地裏へと向かった。
人気のない、薄暗い場所。
昼の活気の裏にある、長く伸びた影の延長線。
子どもがここへ入ったなら、きっと、不安になって引き返すだろう。
ルイスは足音を消して前へ進んだ。
耳を澄ますと、苦しげな呼吸が聞こえてくる。
小さな子が泣いている。そんな気がした。
白い髪の、ちいさなおとこのこ。
ルイスはその存在へ向かって、歩みを進める。
暫く歩くと、苦しげな呼吸がはっきりと聞こえるようになってきた。
歯の間から押し出されるような呼吸の音だ。
胸が締め付けられるような、苦い音。
どうしてだろう、はやく駆けつけて楽にしてあげたい気持ちが、足を急かした。
ルイスが早足で曲がり角を曲がると、その正体が明らかになり、ルイスは目を見開く。
白くて長い髪が震え、はっとこちらへ振り向いた。
その顔も髪も、返り血で汚れていたが、誰だか分かる。
雪が憩うような白いまつげ、春のぬくもりを思わせる薄紅色の瞳。
今は血で汚れているが、真っ白な陶磁器を彷彿させる肌は、見まごうことはない。
スキュブだ。
アヤネの隣にいる、儚いひかりのおとこのこ。
今はひとりのようだ。アヤネは昨晩のダメージが残っているのだろうか。
「……ルイス?」
スキュブは震えながら、消え入りそうな声で言った。
こちらを見ている見開かれた目には、恐れと緊迫が揺れている。
「……そうです。私です。
どうしたのですか、こんなところで……」
それは自分もだろう、と自分の冷静な部分が脳裏で呟いたが、今はそれどころではない。
様子が明らかにおかしかった。
状況を正確に見極めなければならない。
「こないで」
スキュブは膝をきつく抱きしめるようにかかえ、目をそらした。
「明らかに苦しそうなのに放っておくなんてできません。
首を縦か横にふるだけでいいですから、私の質問に――」
「いいの、よくなること……暫くこうしていれば……大丈夫」
スキュブはルイスの言葉を遮った。
まるでこちらの言葉を予測していたかのようだった。
彼はよく、体調をくずすのだろうか。
「……よく、こういうことが?」
会話できない程ではないようだったので、ルイスは隣に座って優しげな声をかけた。
「……たまに。でも、アヤネがいてくれるから、いつも大丈夫」
「今は……?彼女がいない、今は大丈夫なのですか?」
スキュブは深く、ゆっくりと息を吐いた。
薄紅色の瞳が、ゆっくりとこちらへ向く。
白い前髪で半ば隠れたそのまなざしは弱々しい。
熱をだした子どもが、何かを持ってくるために去ろうとする親を、理解しながらも留めようとするときのようなまなざしだ。
ルイスは脳裏にちらついた記憶を感じて、ちかちかと瞬きをした。
「……大丈夫。寒いのも、空腹も、大丈夫だから……」
ルイスは眉をひそめる。
涼しい夜風が恋しくなるこの季節に、寒いと言うのは違和感があった。
悪寒を感じていなければ出ない言葉だろう。それなら熱がでているはずだ。
アヤネのことでかなり心配したのだろうか。
疲れが出たのかもしれない。
ルイスは失礼、と一言言って、スキュブの前髪をさらりと上げ、額に触れた。
スキュブがびくりと震えたのが分かったが、必要なことだと自分に言い聞かせて、彼の熱をさぐる。
……熱はないようだ。
モンスターの毒にでもおかされたのか、とも思ったが、麻痺や毒など、幅広い身体の異常を治す魔法、デトックスを覚えているはずの彼が――アヤネが過去に、スキュブは全ての魔法を使えると言っていたのを聞いたことがある――それを治さないままでいる可能性は低かった。
ルイスは額から手をはなし、スキュブの前髪を優しく流した。
「ごめんなさい、熱があったらと思って」
「大丈夫……よく、アヤネもやるから、びっくりしただけ……」
スキュブは顔を上げて、頬についた髪を耳にかける。
「ねえ、ルイス」
暫しの静寂の後、スキュブは目を伏せて、ルイスの方を向かずに呟いた。
ルイスはその何とも言えぬ表情を見つめながら、軽く首を傾げた。
「……はい。何でしょう」
「わたしのはなし、聞いてくれる?」
「ええ、勿論。」
「変だって思わない?」
「感じ方は、人それぞれですから。気にしませんよ」
スキュブは意を決したように、目を細めた。
「……人の記憶って、どうして食べられないの?」
幼子のような、純粋な問いだった。
スキュブは締まった喉から声を押し出すようにして続ける。
「悪い肉は取れる。毒は吸える。でも、悪い記憶も、毒の記憶も取れないし、吸えない。
なんで?どうしてつらい記憶ははんぶんこできないの?」
スキュブは視線だけを向け、ルイスの目をじっと見た。
この子の問いがどこから来ているか、というのはすぐに分かった。
アヤネのことなのだろう。スキュブはアヤネのことが大好きだ。二人の様子を見ていれば分かる。
この子は、アヤネと変わってあげたいのだ。
いつも、スキュブの好物があれば、はんぶんこして分けてくれるアヤネのように、その痛みを半分でもいいから背負いたい。
そんな、単純でありながら、大切な、身のうちから自然と出てきた優しさ。
それがこの問いを生んでいる。
しかし、現実はそうはいかない。
ルイスは胸の痛みを感じて、ぴくりと眉をひそめた。
「……記憶は、半分にはできないものなんです。
あったことは、一滴たりとも、無かったことにはできないから」
スキュブは唇を噛み、目尻にしわを寄せる。
「でも……痛みは。痛みはきっと、あなたが傍にいれば和らいでいくはず……」
――そんなことを、自分が言うのだろうか。
言いながら、ルイスはこころの端でそう思った。
――痛みがずっとなくならないことは、自分が一番知っているのに、そんなことが言えるのか?
ルイスの片方の口角が、震えるように上がった。
ルイスははっとして口元を手で隠す。
しまった、と思ってももう見られてしまった。
ルイスはすかさず謝罪する。
「すみません、あなたを笑ったわけじゃないんです。
その――」
スキュブは目を見開いて、口を微かに開けていた。
引かれてしまっただろうか。
ルイスは後悔の苦味を感じて奥歯を噛んだ。
だが、スキュブから返ってきた言葉は、意外なものだった。
「……ルイスも、いたいの?」
スキュブが心配そうな顔で首を傾げる。
「……痛い?」
ルイスが聞き返すと、スキュブはこくりと頷いた。
「アヤネ、たまにそういう顔するの。
自分を笑ってるときとか、痛いときとか。
だから、ルイスもいたいのかなって思った」
ルイスは、卑屈な笑みを浮かべるアヤネの姿が思い浮かんだ。
どんな依頼も容易くこなし、新人のサポートもさり気なく行いながら、驕らず、威張ることもしない。
そんな彼女が自分を笑う必要などないだろうに。
「アヤネが?彼女が、そんな……」
スキュブは俯いた。
「……昨日も笑った。無理して、いたいのに笑ってた……」
スキュブは拳を握りしめる。
「……あなたに、心配をかけたくないんでしょうね」
「笑ってもわかる。アヤネがつらいの、わたしもつらいからわかる。
だから、笑って無理してるほうが心配」
「それでも、痛い思いをさせないようにと思ってしまうのでしょう」
「いたいの、はんぶんこにしたいのに、分けてくれないの?」
「……相手に痛い思いをさせたくない、そういう思いが前に出てしまっているのでしょうね。
でも、あなたは優しい子だから、その痛みを分かちあいたいと思っている。」
ルイスの手が、スキュブの頭へと伸びた。
優しい手付きで撫でると、最初はびくりと震えたが、次第に肩をおろしていった。
「あなたの悩みは、難しい。解決には時間も、言葉も、たくさん必要になる。
でも、あなたの存在が……アヤネの痛みを少しずつ良くしていくことは確か。
とても時間はかかるけど……あなたの想いは彼女に届くはず」
「……ルイスは?」
スキュブは伏せがちな目でルイスを見た。
その目にある、もの悲しさにルイスはスキュブを撫でていた手を止める。
「アヤネがいたいのは、わたしが。わたしがいたいのは、アヤネが。
じゃあ、ルイスは?ルイスのいたいのは、誰がとるの?誰が食べるの?」
「……それ、は」
ルイスの息が止まった。
スキュブの瞳が、こころの芯を覗いている気がする。
今までの繕った笑みや言葉の裏を全て見抜かれた気がして、さっと血の気が引いた。
言ってはならぬ答えが、胸の底で疼いた。
深夜の色より黒い感情が、ぷつり、ぷつりと古傷を破って垂れてくる。
「そんな、私のは、誰かにとってもらうほどでは……」
「……おとなのひとは、うそをつくのが得意だね」
スキュブは目を伏せて、口を結んだ。
「いたい思いをさせたくないの、わかる。わたしもそう思う。
でも……一人でいたがってるのを、何もしないで見ていられない……」
スキュブは立ち上がって、ルイスを見下ろした。
うっすらとした影に覆われて、ルイスはふと顔を上げる。
「わたし……ルイスのことが、あんまりわからない。
身内でもない、わたしにあたたかいのをくれるのも、中身をみせてしまいそうで、隠そうとしてるのも……
信じてしまいそうなくらい、優しいのも……アヤネのことも、ちゃんと見てくれるのも……」
スキュブは痛みを感じたように目をそむけた。
「わからない……少しだけ、安心してしまうのも、何もかも。
お願い、これ以上優しくしないで……わたし、これ以上踏み込んだら、捨てられたときに怖い……
それに、ルイスの目の奥にある、いたいのを見たら……きっと……」
泣きそうなスキュブの顔を見て、ルイスは堪えきれず、立ち上がった。
この子の泣き顔は、胸を引き裂いてくる。
はやく抱きしめて、何もかも、凍ったこころさえ溶かしてしまいたい衝動にかられる。
だが、スキュブはルイスが手を伸ばそうとしたときには、既に二三歩後ずさっており、距離を詰めようものなら逃げていってしまいそうだった。
「……こないで……きっと、わたし……壊れちゃう……」
薄紅色の瞳の色が、ひびの入った氷のように壊れる。
泣いている……
複雑な色が揺れて、悲しいくらいに溢れている。
ルイスは何も言えず、伸ばしかけていた手を止めた。
「ごめんなさい……自分の気持ちも、ルイスの気持ちも……わからなくて……どうしたらいいか、わからない……」
スキュブは駆けていった。
路地裏の暗闇に、とけていくように。




