21
花贈りの日の夕方。
日は傾き、空を漂う白い雲には茜が差し、街の建物はオレンジ色で染まっていた。
風に乗る花の香りはだいぶ薄まり、窓を開けてみても祝日の残り香が微かに鼻をくすぐるだけである。
午前に花を贈った者はその余韻を味わいながら明日をむかえる準備をし、夜に花を贈る者はそわそわとしながらも緊張した足取りで、あちこちに花弁が落ちている道を歩いていった。
その中に、貰った花を抱えて家路を歩く二人の姿があった。
一人は抱えると花で胸がいっぱいになるくらいの花束を、もう一人は一輪の花を包装紙とリボンで包んだものを持って、にこやかに言葉を交わしていた。
特に花束を持っている方は足取りがいつもよりはやくなるくらいに嬉しいらしく、花束を大切そうに両手で抱えている。
それを贈ったのは一輪の花を持つ方だった。
彼は機械生命体であるため、人間のように豊かな感情表現をすることはできないが、どうやらいつもより調子がいいようだ。油をさしたばかりのように動きが軽やかである。
「いやぁ、この歳になってこんな豪華なお花をもらえるなんてびっくり!若い頃以来だよ、こんなに大きいの!」
輝くような笑顔でそう言ったのはへカテリーナだった。
彼女はロッパーから花を貰った以降、ずっとこの様子だ。
「メンテナンスのお礼、という意味もあって大きくした。へカテリーナが嬉しいなら、とても良い」
「メンテナンスのお礼でこんなに良いの貰えちゃうなんて、次は色々オマケしちゃうぞ?」
ニッと笑うへカテリーナ。
その笑顔を見ただけで、ロッパーは幸福を感じていた。
処理が追いつかないほどの感情だった。ただ、それが熱いということと、幸福感というもので構成されているということだけ理解できる。
「そうだ!この前読みたいって言ってた本があったでしょ。昨日部屋の掃除してたら見つけてさ。よかったらうちに寄っていかないかい?」
予想もしてなかった誘いだった。ロッパーは今日、これ以降のスケジュールの優先順位を全て低くして、首を縦に振る。
「寄っていく。とても楽しみだ」
「よーし!そうと決まればわたしの家へダッシュ……すると疲れるから早足で!」
こんなに嬉しいと歳も忘れてはしゃいでしまうと呟いて、弾むようなステップで歩く彼女は若々しかった。
そこには彼女らしい美しさがあった。年齢など関係のない、変わることない美しさ。
時間がたっても、例え彼女が歳をとり、その顔がしわだらけになったとしても、それは不変であるとさえ思える。
彼女は芯から美しかった。胸に抱えている花よりも、自分たちを染めている夕日よりも、どんなものよりも。
彼女と歩いている時間が永遠であれば、なんて思った。
永遠などない。いずれ自分たちは目的地へたどり着き、この時間は終わりをむかえる。
そんなことは十分承知である。十分承知で、思ったところで叶うことでもないのに、そう思わざるを得ないのだ。
これは無駄な思考だろうか。ロッパーは一瞬疑問を抱いたが、すぐに思い直す。
この感情は素晴らしいものだ。見える景色全てを明るくしてくれた。何とも表現できないが、どこか落ち着く安らぎをくれた。
それらが無駄と言われるものだって、廃棄する気はさらさらない。
消えてしまったとて、自分はまた彼女に恋をするだろう。
自分はそういう定めなのだ。彼女と出会う前はこれを偶然と呼んでいただろうが、出会ってしまったのだからそうは呼べない。
自分が他機体より人間らしい感情を学ぶことが得意であったのは、きっとこのためだ。
全てが彼女と出会うためにあったと思い込まずにはいられない。そんな異常だって異常と認知できないほどだった。
恋というものは認知機能に多大な影響を及ぼす。重大なエラー、隔離すべき脅威、とも言えるかもしれない。
そうだと分かっているのに、そんなことはとっくに理解できたことなのに、この感情を廃棄することはついぞできなかった。
人間もそうなのだろうか。自分の認知機能がどんどん侵食されていくこの感情を、それでも捨てられないと抱え続けるものなのだろうか。
――へカテリーナは、どうだろう。
美しく、優秀な彼女のことだ。恋多き時代もあったに違いない。
今は異性の影もないが、きっと彼女が恋することも、恋されることもあったはずだ。
人間と比べ、感情の薄い自分でさえ彼女に恋をしたのだ。過去に恋人の一人二人はいたのだろう。
しかし、それを問うことはできなかった。
何故だろう、口に出したら――いや、そう考えるだけで身体のあちこちが急に劣化してしまったように、機能が低下していくのだ。
人間はこれを苦しみと呼ぶ。
自分は、彼女であれば当然であろうことを考えただけで、苦しみというのを感じてしまっている。
まるで、彼女の隣には自分がいるのが良いと思っているみたいだった。
実際そうなのかもしれない。まだ分からないが、恋というものがそのような感情を生むというのなら、それは偽ではなく、真であるのだろう。
彼女の隣には自分がいて、同じ場所で時を過ごし、寄り添いながら生きていく。
それを幸福と呼ばずして何と呼ぼう。
それ以上の幸福などあるだろうか。どんな将来を予測しても、彼女と共にあることが絶対なる幸福なのである。
「……おーい、ロッパー。何か考え事かい?」
へカテリーナがこちらへ振り返った。
その声と姿を認識して、物思いから覚める。
まるでスリープ状態から急に起動したような感覚だった。
「考え事……正解だ。何故分かった?」
「めっちゃ、ぐぉーーーーって音立ててたよ。何だい何だい?悩みごとかなんか?」
へカテリーナはいたずらっぽく笑った。
それが夕日に染まって、いつもより一層鮮やかに見える。
色はそんなに美しさを際立たせるものだっただろうか。自分の認識がどんどん上書きされていっているようだった。
「悩み事、といえばそうかもしれない。しかし……もう少しで解決する。」
「そっか。それじゃあ心配ないか。それでも、解決までの過程でイレギュラーが起きたら、ちゃんと相談するんだよ?」
「……分かった」
たったそれだけの会話だったが、随分と長い時間話したような感覚だった。
体内には熱が残り、ちかちかとしたきらめきが頭の中を駆け巡っているみたいだ。
人間の感覚で表現するなら、嚥下したあとでも舌に残りつづけている甘酸っぱさというべきだろうか。
ロッパーは視線を前へ戻す直前のへカテリーナの顔を記録する。そして、彼女から貰った補助記憶装置に保存した。
万が一記憶がなくなってしまっても再び彼女を思い出せるようにと、彼女の表情や声を保存しているのだ。
彼女の記録に割と大きな容量をさいている。どれも削除できないものなので、新しいものを購入したほうが良いだろう。
そうこうしているうちに、二人は家に着いた。
いつもメンテナンスに訪れるへカテリーナの家は、一人で住むには少し大きい。だが、機械生命体のメンテナンスを行う作業部屋もあったりするので、彼女にとってはちょうど良いのかもしれない。
斜陽が滲んだ外装はどこか寂しそうで、昼間のときよりもこころなしか縮んで見えるような気がした。
そんな見え方になるのは気のせいなのだろうが、ロッパーには何故かそう見えるのである。
ちょうど今頃の時間帯に一人で帰るへカテリーナの背中に似ているからかもしれない。
斜陽が滲む彼女の後ろ姿も、この家の外装のようにどこか縮んで見えるのだ。
その時だけは、いつも若々しい彼女が年老いて見える。
振り向いた顔は、しわが目立って疲れが浮かんでいるのだろうか――
振り向いた顔を見たことがないので、その真相は分からない。
「中に入ってゆっくりしてて〜。ちょっと取ってくるから」
そう言うや、へカテリーナな奥の方へと消えてしまった。
ロッパーは言われるまま家へと入り、キッチンとテーブルある部屋へ向かう。
その部屋は遊びに来た人と歓談するのにも使われる場所だった。
四人分ほどの料理を並べられるテーブルに、二脚の椅子がぽつり、ぽつりと置いてあり、客人が来ても十分な広さがある。
キッチンは綺麗で掃除が行き届いているが、長年使われてきたのだろう。落ちない汚れのあとや、摩耗した調理器具がちらほら見える。
ロッパーは部屋を何気なく見渡すと、部屋の隅に麻袋があるのに気づいた。
前回メンテナンスにここを訪れたときには無かったものだ。そもそも彼女が部屋に何かを置きっぱなしにすることが珍しい。
ロッパーはそれが何なのか気になって――他者のものを勝手に暴くのは良くないことは知っているが――口の開いた袋の中をふと覗く。
劣化した写真がたくさん入っていた。
しかも、へカテリーナが写った写真だ。彼女が写ったものは、ざっと見ただけで数十枚はある。
日光を浴びていないおかげか、色は褪せていない。そのせいで写真の彼女が随分若いということが分かってしまった。
よく観察すると、割れた写真立てもあって、それは半分切り取られている。
切り取られた部分には何が写っていたのだろうか。写真立てだけだったら判別できなかったが、ここには他の写真もある。
――若い彼女が同い年くらいの男性と幸せそうに笑っている。
輝いている笑顔だった。心の底から幸福を感じていて、このままずっと、未来も明るいものだと信じて疑わぬような、昼間の日射しを想起させる笑みだった。
――しかし、それなら。
この写真たちは何故捨てられているのか。
何故彼女の隣にはその男の影がないのか。
何故彼女は、どこか小さく、しぼんだように見えるのだろうか。
そのとき、ロッパーの記憶で何かが繋がった。
彼女の姿を保存し続けてきたところで、次々と記憶の連鎖が起き、その表情、言葉の理由が明らかになっていく。
夕暮れ時、一人になった彼女がどこか小さく見えるのは。
結婚したと言う後輩たちを祝福した後、どこか遠い場所を見つめてひとりぼっちなのは。
すれ違う親子の姿を時折、なんとも言えない顔で見ているのは。
今まではどうしてそんな顔をするのか、どうしてそんなことを言うのか分からなかった。
しかし、この写真を見た今、その全てに理由があったことに気づく。
本当は愛する者がいる家に帰るはずだったのに、誰もいない家に帰る彼女の胸の内、結ばれて家庭をもつはずだったのに、隣が空白である苦しさ。
家族で住んでちょうど良いこの家の、何とも悲しい広さが、彼女の全身に影を落としているのだ。
そういえば、機械に関する技術も誰かに教えてもらったのだと話していた。
魔法使いで十分生活できるのに、少し毛色の違う技術をもっていたのは、きっとこの男に教わったからだろう。
観察すれば分かる。写真の中の男の服にはしょっちゅう機械油の汚れがついていた。
きっと将来夫になる者に寄り添って生きていけるように学んだのだ。
それなのに、どうして彼女は一人になってしまったのか。
花のような人だ。
太陽のような人だ。
全ての美をその身に宿して、優しさを誰にでもかけてくれる人だ。
そんな彼女の隣から離れ、置いていってしまうなんて。
ロッパーの感情は今にも破裂しそうなほど膨れ上がり、渦を巻いていた。
悲しみとも言えるし、怒りとも言えるような、人であれば眉間にしわを寄せながらも泣いているような状態になっている。
ロッパーはそれぞれ違う方向の感情のベクトルに、大きく胸を裂かれる痛みを味わい、思いがけず胸部を手でおさえた。
そしてその痛みに混乱する。外傷はなく、内部に損傷もない胸部に何故痛みが走ったのか分からなかったからだ。
人はこれを胸を刃でざっくりと裂かれたような、というのだろうか。
痛んだところから身体の大切なものが流れ、こぼれていく気さえする。
今まで経験したことのない異常だった。
深刻なエラー、活動継続に大きく損害を与える感情。
抑えようにも、膨張し続けて止まらず、目を反らそうにも大きすぎる。
やがて、このままでは壊れてしまうと思ったときに、活動を継続させるためのシステムが強制的に働いた。
胸を抉りつづける刃であるこの感情を、その原因となる記憶を隔離し、削除するよう、目にもとまらぬ速さで記憶の中へ介入していく。
さっき見た写真の記憶が消えていく。
夕日の中を彼女と歩いた記憶が消えていく。
彼女のために花を選んだ記憶が消えていく。
徐々に、彼女という存在を忘れていくような、彼女の存在、輪郭を消されていくような感覚にロッパーは安心感を感じると共に、激しい拒絶感を覚えた。
薄れていく視界のなかで、段々と消えていく記憶を少しでも掴もうと、動かなくなっていく腕を動かした。
そうしても意味はないけれど、せめてあの記憶たちだけは消させないと、システムの手が届かぬように、認識できないように――
ロッパーは小さくもがくような動作をした後、麻袋の上に倒れた。
その後、持ってきた本を落とし、彼の元へ駆け寄るへカテリーナの姿があったが、その姿も、その声も、感じることはできなかった。




