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 今日の街は、人で賑わっていた。

 皆、手には花を持っている。

 色とりどりの花、目をひくラッピング、溢れる花籠。

 いつもはパンや野菜を抱えている手はカラフルで、それら全てが美しい。

 空気には花の香りが漂っていて、目を閉じて空気を吸うと花畑の中にいるような錯覚を覚えるほどだ。

 

 初夏の香りで満ちている。

 この時期に窓をあけると、風が香りを運んでくるのだという。

 街の人々はそれを嗅ぐと、夏の始まりを感じるらしい。

 

 花屋には人が出たり入ったりしており、店員はひっきりなし来る客にバタバタと対応していた。

 夏めいてきた季節が、目を回す店員の額に汗をじわりと浮かばせている。

 

 なぜこのようなことになっているかというと、花贈りの日、という行事が間近に迫っているからである。

 以前、アヤネたちが花屋で仕事を手伝ったのもこれがあるからだった。

 

 この花贈りという行事は、日頃の感謝を伝える等を目的とし、近しい者に花を贈る行事である。

 名前のまんまだ。とくにひねりとかそういうのはない。

 感謝を伝えるのが主であり、家族や友人に花を贈る者もいれば、それとは別に、恋を叶える目的で好きな人に花を贈る者もいる。

 日本のバレンタインを穏やかにしたようなもの、という例えが近いだろうか。

 そういうわけで、気合いの入った花束が多かったり、かわいらしい花束を小さな手で一生懸命に持って、渡す練習を繰り返す幼子がいたりするのである。

 

 アヤネとスキュブもその人波の中にいた。

 本当は賑わう前に行きたかったのだが、色々と依頼がたてこんでそれどころではなかったのだ。

 

 スキュブがちょっとだけピリピリとしている。

 人混みが苦手、というのもあるが、警戒の強さが上がる、というのもある。

 アヤネに何かするような輩がいないか、常に気を張っているのだ。

 優秀な相棒が故にそうなってしまう。

 はやめに終わらせて、しっかり休ませるべきだろう。

 

 それに、今日は別行動になる。

 いつもは小ぶりのひまわりを一輪あげるだけだが、であって十年近い記念も含め、今年は特別に豪華にしたい。

 プレゼントなので当日までどんな花束なのかスキュブには知らないでいて欲しいし、スキュブの花もどんなものか知らないままでいたい。

 スキュブも同じ気持ちであるとのことなので、二人は別々の花屋で買い物をすることとなった。

 

 ……そうと決めたが、心配だ。

 スキュブはひとりで大丈夫だろうか。

 いや、いつまでも子どもではないのだし、十歳くらいの子どもだっておつかいくらいできることは知っている。

 心配しなくても良いのだろうが、心配なものは心配だ。

 アヤネはしっかりと息を吐いて、スキュブの方へ振り返る。

 

「それじゃあ……ここからは別行動ね。

 わたしはあっちの花屋に行くから、何かあったら遠慮しないで声を掛けて。

 あと、心配なことがあっても呼んでいいから。些細なことでも呼んでいいから。それと、変なヤツがいたら手加減しながら地面にめりこませていいからね」

 

 少々強めの語気の早口だったが、スキュブは素直に頷いた。

 

「わかった。何かあったら呼ぶ。

 アヤネのほうこそ、変な男がいたら呼んでくれ。わたしがちゃんと埋めるから」

 

 それが重要な使命であるかのように話すスキュブは、真剣な表情でそう言った。

 スキュブもアヤネのことが心配なのだろう。

 

 互いに頷きあって、二人は別れた。

 互いを心配しながらも、花束をどうしようかというワクワクをその胸に抱いて、人波の中へ入り込む。

 その姿は賑やかさと夏を招く空気の中へ溶け込んで、あっという間に見えなくなった。

 

 

 

 ・ ・ ・

 

 

 

 バラの花が置かれているコーナーでスキュブは眉間にシワをよせていた。

 真剣に考え込んでいるからなのだが、これを何も知らない他人が見たらバラを睨んでいるようにしか見えない。

 実際、スキュブの顔を何気なく見た客の中には、びくっとして一瞬足を止める者もいた。

 

 スキュブ本人は集中しているせいで、そんなことには全く気づいていないのだが。

 だって、はじめてなのだ。花屋で花を買うのも、こんなに沢山の種類の中からアヤネにふさわしい花を選ぶのも。

 

 毎年、白くて小さな花をいっぱいつけた花をとってきてあげていた。

 ガマズミ、という名前の花らしい。

 その名前を調べてくれたディートリッヒ曰く、花言葉もまあまあ良いものであるとのことだったし、自分の気持ちにもぴったりだったので、毎年それをあげていた。

 

 アヤネも毎年、小ぶりのひまわりを一輪くれる。

 お前はわたしの太陽みたいなものだから、という理由でそれを選んでいるらしい。

 自分が太陽のようになれているのかは不安だが、そうだと感じるくらいに想ってくれているのは嬉しいことだ。

 

 アヤネにとって自分が必要不可欠であればあるほど好ましい。

 手ばなせないと思われるほど、求められるほど、安堵する自分がいる。

 もしもアヤネがいなくなってしまったら、という不安が薄まっていく気がするからだ。

 

 アヤネがいなくなってしまったら、生きていけない。

 食糧の調達ができなくなるからではない。衣食住は問題ないのだ。

 しかし、服を着ることはなくなるだろう。

 彼女がいなくなったら、森のなかでクモとして生きていた頃に戻るから。

 食事も喉を通ることはなくなるだろう。

 彼女の「おはよう」と「おやすみ」がない日常など考えられない。

 自分の中心に穴があいて、全てがそこから流れ出ていく。

 自分の中身が全部なくなってしまう。

 そこに何かを詰め込む意味はない。何を詰め込んだところで意味はない。

 アヤネがいなければ生きている実感を得られない。

 それなら自分の住処はこの世ではなくなってしまう。

 

 だから、アヤネを手ばなすことがないように、アヤネがどこかへ行ってしまわぬように、生きている。

 そういう意味では、彼女も自分にとっての太陽であった。

 太陽のない場所で、人は生きていけない。

 彼女は命であり、生きる理由であり、スキュブの魂をこの世に留めている命綱である。

 

 絶対に誰かに盗られてはならない、かけがえのない人。

 それがアヤネだ。

 

 それなのに、アヤネは眩しすぎて見ることができない、ということがなかった。

 太陽は命だ。そして、その光は目を奪うほど美しい。

 

 厚い雲を裂いて注ぐ美しさ。

 雨粒たちに宝石の煌めきを差す美しさ。

 草木たちに濾過されて、目蓋をくすぐる美しさ。

 それら全て、目を奪うほど美しい。

 

 そうだというのに、太陽はいつもいじわるだ。

 直接見つめることはできないのだから。

 にじいろをいっぱいに詰めた光を見つめさせることがない。

 見つめあうことを許さない。

 いつも一方的だ。こちらのこころにその美しさを刻んでおいて、こちらの想いにはそっぽを向いている。

 こういうときに胸に広がるもやもやは、”わたしはお前なしでは生きていけないが、お前は一人で明日をむかえることができる”という言葉に似ている気がする。

 

 こちらが苦しいほどに想っているのに、相手も苦しいほどに想ってくれないのはとても苦しい。

 わがままだと思われるので言いはしないが、こちらの真剣な愛が手のひらでころころと転がされて、弄ばれているような気がする。

 そんな状態では不安で眠れない。

 いつ、その手のひらから自分という存在が転がり落ちて、用済みだと捨てられてしまうか分からないから。

 

 でも、アヤネは違う。

 太陽のように目を奪って、こころを奪っても、見つめ返してくれる。

 抱き締めれば、抱き締め返してくれる。

 微笑めば、微笑み返してくれる。

 好きなんだ、愛しているんだ、食べてしまいたいくらいに!と自分の中身をぶちまけても全て受け止めて、わたしもお前が好きなのだと、愛しているのだと返してくれる。

 その手でぎゅっと握って離さないでいてくれる。

 アヤネは太陽のようであるが、いじわるなそれとは違うのだ。

 

 だから、白くて小さな花をいっぱいつけた花が似合った。

 まっしろな眩しさがあるけど、見つめあえる優しさを持った色合いに、風とそよそよ戯れるかわいらしさ。

 まぶしい朝の草原で、名前を呼んでくれたときのアヤネにそっくりだ。

 きらきらの朝日に洗われたばかりの涼しい風が、アヤネの綺麗な黒髪をふわふわと揺らして、あたたかな瞳もどこかつやつやに見える。

 そのときの笑顔は、正に花だ。

 

 優しい花。愛しい花。

 根を自分の肉に張らせて、枯れることのないよう、永遠にこの身で包み込んでしまいたい花――

 

 ――しかし、今年はガマズミの花ではないものをあげたい。

 であって十年近くはたっているのだ。その記念に何か特別なものを贈りたい。

 

 毎年、ディートリッヒはカヨにバラの花束をあげている。

 本当は千本近く……正確には九百九十九本あげたいらしいのだが、自分で育てるには場所も環境も良くないので、少ない本数にしているらしい。

 花言葉も愛に関するものが多いらしいので、自分もバラをあげようかと思ったのだが、バラのコーナーにはなかなかアヤネに似合うバラがない。

 困った。花言葉を知っているのはこれくらいなのに、全部のバラが何だか違う気がする。

 

 カヨには似合うだろう。

 彼女は赤いバラのように華やかだ。

 そして、その甘く明るい言葉の根っこには、棘を持った蔓でこちらを離さんとする薄暗さがある。

 

 だが、アヤネはそうではないのだ。

 華やかではない、というわけではないのだが、もっとひっそりと咲いているけど美しい花が似合う。

 

 非常に困った。ディートリッヒと一緒に選んだほうがよかったと今更後悔する。

 

 

「……お困りですか?」

 

 突如、声がかかる。

 集中していて隣に人間が来ていたことに気づけなかった。

 スキュブはハッとして二三歩下がる。

 

「あ、ごめんなさい。驚かせてしまって……」

 

 声の主が申し訳なさそうに眉尻を下げる。

 

 その姿を見て、気づけなかった理由が分かった。

 彼は――ルイスはそこそこに警戒しなくてもよい人間だからだ。

 

「……驚いたわけではない。気づけなかっただけ」

 

「そう……ですか。それなら、いいですけど……」

 

 何か言いたげな声色だ。

 何をためらっているのだろうか。

 スキュブがルイスの顔に目を向けると、視線が合った。

 一瞬、その空色の目が揺れる。

 だが、記述した通りそれは一瞬のことだった。言葉を口にしたときにはもうそれが本当だか分からなくなっていた。

  

「……もしかして、アヤネに贈る花ですか?」

 

 ルイスは、先程の目の揺らぎが本当に気のせいだったと思えるくらいに優しい笑顔でそう言った。

 こういったものをどこかで見たことがある気がする。どこだっただろうか。

 

「……そう。でも、これじゃない。これじゃないけど、これしかことばが分からない」

 

 暫く視線を彷徨わせて、地面を見つめるようにして出した答えに、ルイスは穏やかに頷く。

 

「言葉が分からない、というのは……花言葉のことでしょうか」

 

「……そう。」

 

「なるほど、それでバラを見ていたんですね。

 でも、バラはアヤネにそぐわない、と」

 

「……はなやかじゃない、というわけじゃない。」

 

「ふふ、分かりますよ。もっと適切なものがあるはずだ、ということですよね」

 

 ルイスがくすくすと笑う。

 こころなしか、いつもより穏やかに聞こえる。

 

「去年は何をあげたんですか?」

 

「ガマズミ。白くて、小さくて、そよそよ揺れる。アヤネにそっくり。

 でも、今年は記念だから、特別なのをあげたい。」

 

「そのような花が彼女に似合うと感じているのですね。

 ふむ。白くて小さい花、か……」

 

 考え込むルイスの腕で、小さな花籠が揺れた。

 そこには白くて小さな花がある。

 よく見てみると、白い蝶がゆらゆらしているみたいでかわいらしい花だった。

 アヤネにはこういう花が似合う。

 

「……これ」

 

 スキュブが花籠を指さすと、ルイスは一度首を傾げかけて、はっと息を飲んだ。

 

「……これは?」

 

 スキュブは名前を聞きたくてそう言ったのだが、言葉が足りなかった。ルイスは慌てて取り繕った笑顔で答える。

 

「ああ、これですか?これは家族にと思って買ったものです。私の実家には家業を継いだ兄がいましてね、毎年この花をあげているんです」

 

「……違う、名前」

 

「え、名前?」

 

「花の名前。それと、ことばが分かれば教えてほしい」

 

 ルイスはこちらの質問の真意に気づいて、しまった、と開いた口に手を添える。

 が、すぐに困ったような、恥ずかしがるような笑顔になった。

 

「ごめんなさい、早とちりしてしまって……

 花の名前でしたね。これはサギソウっていう花です。花言葉は――」

 

 ルイスのまぶたが微かに伏せられる。

 

「夢でもあなたを想う。……素敵でしょう?」

 

 夢でもあなたを想う。

 なんてぴったりな言葉だろう。

 スキュブは目を輝かせて強く頷いた。

 

「気に入りました?」

 

 ルイスが穏やかな笑顔でそう聞いてきた。

 

 ――またデジャヴだ。その表情をどこかで見たことがある。

 どこだったか、記憶の中を探ってみると、美味しそうなお菓子を見ていたときに声をかけてくれるアヤネの顔が思い浮かんだ。

 これ食べたいの?と聞いてくれて、頷くと買ってくれる。

 ありがとうと言いながら食べると、幸せそうな顔で眺めている。

 

 これは、何て言うのだろうか。

 名前の分からないあたたかさ。これに名前があるのなら、誰か教えてほしい。

 このあたたかさが自分の何かを埋めてくれる。

 自分にはこれが必要なのだ。生き物に食糧が必要なように、草木に太陽の光が必要なように。

 

 しかし、ルイスが自分に向けたものがそれだとするのならおかしい。

 だってそれは身内からしか注がれないものだ。

 身内でない者から何故それを注がれる?

 スキュブの顔はもやもやとした気持ちで曇った。

 

「……どうしました?そんな顔をして……」

 

 ルイスが心配そうにこちらの様子をうかがってくる。

 胸がどきりとした。何か、自分の見られてはいけないところを見られたようで怖くなった。

 堪らず顔を両手で覆う。

 

「……ごめん、なさい。変な顔に、なった」

 

「そんな、違う。違うんです……」

 

 ルイスの手がスキュブの手に触れた。

 柔らかなその感触にびくりと身体が震えて、硬直する。

 

「責めているわけじゃない。謝る必要なんてこれっぽっちもないんです……

 ただ、ただ……あまりにも、寂しそうな顔をしていたから……」

 

 微かに震えた言葉の優しさが、柔らかさが、心臓を撫でる。

 指先で触れているのか、触れていないのか、というその感触は、甘さを覚えるようであって、恐怖でもある。

 何故かは分からない。

 それがあまりにも正体不明すぎて、何故自分に注がれるのか分からなくて、ただ、これ以上それを内側へ招くのが怖くて怖くて仕方がない。

 

「ちがう、さみしくない。さみしくない……ちがう……

 アヤネがみえたから、お前はアヤネじゃないのにアヤネがみえたから、わからないだけで……」

 

「アヤネが見えた?」

 

「そう。アヤネはそういう顔をする。アヤネはいつも、あたたかい。あたたかいのをくれる。

 ……でも、アヤネ以外にそれをくれるのは、身内だけだ。お前はそうじゃないのに、どうしてそれが見えたんだ?」

 

「それは……」

 

 ルイスの指がぴくりと強ばる。

 

 そして、沈黙が暫く続いた。

 やがて、ルイスは思いきったように口を開く。

 

「アヤネはいつも、あなたに優しく語りかけてくれている……そうですね?」

 

 スキュブは弱々しく頷いた。

 

「あなたの表情の変化に気づくくらい、よく見てくれる。これもそうですね?」

 

「……うん」

 

「アヤネはあなたのことが大好きなのでしょう。見ていれば分かります。愛をもって接している、と言うのが正しい。

 どんな敵が現れたとしても、アヤネは絶対にあなたの味方をするでしょう。

 誰かがあなたに刃を向ければ、刺されることも厭わないで盾になるでしょう。

 毎日、おはようがあって、おやすみがあって、何ともないことが幸せで、ただ傍にあるだけでそれ以上は何も望まぬような関係が、あなたとアヤネの間にはある。

 でもね、スキュブ。それは家族に限った話じゃない……」

 

 最後の方が微かに掠れた声になっている。

 ――泣いているのだろうか?

 そう思ったスキュブの手の力がふっと緩んだ。

 

「親しい友達との間にだってある。なにかと付き合いが長い人との間にもある。

 当たり前のように愛される資格は誰にだってあるんですよ、スキュブ。そしてあなたも例外ではない。

 だから……私があなたに微笑みかけることだっておかしなことじゃないんですよ。

 口数は少ないけれど、あなたが優しいことは知っている。アンヘルも、あなたが遊んであげた子どもたちも――」

 

 そこまで聞いて、胸のなかで何かが弾けるような感じがした。

 顔を覆っていた手が今度は耳へと移り、かけられた言葉を次々と拒んで、もう入ってこないようにと蓋をした。

 

 目頭があつい。

 アヤネに会いたくなった。

 アヤネに飛びついて、全てを吐き出したかった。

 

「……やめて」

 

 スキュブの拒絶に、ルイスが息を飲んだ。

 

「ききたくない。そんな嘘ききたくない……」

 

「違う、嘘じゃ――」

 

 再び伸ばされた手にスキュブは後ずさる。

 ルイスの顔が痛みで強ばるのが分かったが、必死に目をそむけて見ないようにした。

 

「嘘だ。だって、それが嘘じゃないなら、わたしは……わたしは……!」

 

 おかあさんに捨てられることなんてなかった。

 森で偶然出会った人間に化け物だとぶたれることもなかった。

 

 そう言いたかったけど、言葉が喉につまって言えなかった。

 

 もうどうにもならない。

 もうこの気持ちをどうすることもできない。

 スキュブは腕で目を強く擦って、走り出していた。

 止める声が聞こえたが、立ち止まることはない。

 

 走って、走って逃げた。

 

 アヤネに会いたい。

 アヤネに会いたくて、ただひたすら走った。

 

 

 

 ・ ・ ・

 

 

 

「よしよし、もう大丈夫だから……」

 

 マイホームの寝室で、すすり泣く声が響く。

 スキュブの声だ。アヤネの胸で声を殺して泣いている。

 いつも泣くときはこうだ。唇をぎゅっと噛んで声を出さないようにする。

 

 どうしてこうなったのか、事は数分前にさかのぼる。

 

 以前、仕事を手伝った店で小ぶりのひまわりの花束を購入し、客足も落ち着いて一段落したとのことだったので、店主とその奥さんと世間話をしていたところだった。

 店の扉が勢いよく開いたかと思ったら、スキュブが涙ぐみながらこちらへ走ってきていたのだ。

 突然のことにアヤネも、面識のあった店主たちも驚いたが、アヤネにとっては緊急事態である。

 動作を停止している暇などない。

 

 何かあったのか、もしかして誰かに泣かされたのか、それならそいつはウェルダンだ、と杖を取り出したのだが、スキュブ曰く違うらしい。

 違うならどうしてそうなったのか詳しく聞く必要がある。

 だが、花屋の店主たちに面倒をかけるわけにもいかないので、急遽マイホームへテレポートしてきたというわけだ。

 

「どうしたのさ。なんか嫌なことでも思い出しちゃった?」

 

 頭を撫でて落ち着かせてはいるが、一向に泣き止む気配がない。

 泣き止むまで待とうと思ったが、これはちゃんと吐き出させたほうがいいのかもしれない。

 

「……アヤネ」

 

 喉がきゅっと締まってか細くなった声だった。

 顔を見てみると、今にも大声で泣き出してしまいそうなくらいに表情が歪んでいる。

 

 迷子になった幼子のようだ。

 出会ったころと同じくらいの年齢に戻ったかのような気がして、アヤネの胸がチクりと痛む。

 

「アヤネは、どうしてわたしのことがすきなの?」

 

 以前にも聞かれたことがある質問だった。

 だから、以前と同じ答えで返す。

 

「……どうして、なんて理由はない。一緒にいて、当たり前のように好きなんだよ。」

 

「……そう、アヤネはそう言う。ディートも、カヨも」

 

 スキュブは腕で乱暴に涙を拭う。

 

「アヤネはわたしとひとつだから。ディートもカヨも、かぞくだから。

 流れている血はおなじじゃなくても、つながっているから、すきっていってくれる。

 わたしがいい子じゃなくても、いい子でも、すきっていってくれる。

 でも――」

 

 真っ赤に充血した目が、アヤネを射貫く。

 泣きじゃくった子どもの顔だ。

 あまりに幼く、身長の高いそのしっかりとした身体が何まわりも縮んで見えた。

 

「おかあさんは、もううちのこじゃないからっていった。

 かぞくじゃなくなったから、ぼくをぶった。何回もぶって、ふとい杭を何本もうでにうって。

 もりでであったにんげんもそう。ぼくを化け物だっていって、やめてっていってもやめてくれなかった。

 かぞくじゃないひとは、みんなぼくのことのことなんてすきになれない。みんなぼくをぶつし、なかまはずれにする。

 アヤネがはじめてだった。やさしくしてくれたのは、アヤネがはじめてだったの」

 

 ――はじめてあった日のことを思い出す。

 白い髪と肌は汚れてくすんでいて、ぼろぼろだった。

 生い茂った草の中に隠れるようにしてうずくまっていたその様は、捨て子と言うのが一番正しいのかもしれない。

 

 でも、運命だった。

 新しい父から逃げて、カヨの家で見つけた光だった。

 こころの痛みが癒えない毎日で、普通の人間らしい生き方がしたくて、手当たり次第に試していたなかで見つけた、PCの向こうにある光だったのだ、スキュブは。

 

「だから、かぞくじゃないひとがぼくのことがすきなんだって聞いて、つらかった。

 だって、それが本当だとしたら、ぼくたちはどうしてあんなにいたいことをされなきゃいけなかったの?」

 

 拭ったはずの涙がまた、ぽろぽろとスキュブの頬を伝っては落ちた。

 もう唇を噛んでいないから、嗚咽ががどんどん漏れてしまっている。

 言葉の最後の方はしゃくりあげる声と一緒になってほとんど言葉になっていなかった。

 

 もう見ていられない。

 胸がざっくりと裂けて、全身の血がそこから出ていってしまいそうだった。

 アヤネはスキュブの背に腕を回して、きつく抱き締める。

 

「スキュー、それはね……過去に出会った人たちが違かったんだ。本当は、本当ならば、お前は誰からだって愛されていいんだよ。

 家族からも、そうじゃない人からも、関係なく……怯える必要なんてないくらいに、普通に……」

 

「……アヤネが、それをいうの?」

 

 スキュブのその言葉に鋭い寒気を感じた。

 こころの閉じた部分にある隙間に、刃物を差し込まれたみたいだった。

 

「アヤネだって、いっぱいひどいことされた。

 ぼく知ってるよ。アヤネがあたらしいおとうさんに気持ち悪いことされたの。おかあさんにすてられてたことも。

 そいつらもかぞくじゃなくなったんだ。かぞくじゃなくなったからひどいことする。

 カヨ以外にかぞくなんていなくて、ひどいことされたアヤネが、誰からだって愛されていいって思えるの?

 あたらしいおとうさんから連絡がくるたびに、くるしんで、吐くくらいにひどいことされたアヤネが、そう思っていいの?」

 

「それは…………それ、は……」

 

 スキュブの目は怒りと涙で揺れていた。

 声色も今まで聞いたことがないくらいに、怒りのあまり叫ぶようで、吐き出すような慟哭のようで、こころがありのままで、むき出しになっている。

 

「わたしは……仕方なかった。運が悪かったんだ。お父さんが死んじゃったのも……あの男が来たのも……」

 

 どうにも繕えず、アヤネの声が震えた。

 記憶の底からどす黒くて重たいものを引きだしている感触がして、心臓がバクバクと忙しなく動く。

 手も震えているような気もした。

 

 この場に偽りは許されない。思ったことをそのまま口にせねば互いに見抜かれてしまう。

 濁流のように押し寄せる感情どうしがぶつかり合うというのは、全てのまやかしを取り払ったむき出しのこころどうしがぶつかり合うことと同じである。

 それ故、いつも以上にこころは敏感になっているのだ。

 そうなっている以上、互いにありのままの言葉を伝えあうしかない。

 

 腕をほどいてスキュブの顔を覗いてみると、酷い顔をしていた。

 涙でぐちゃぐちゃになっているのに、眉はつり上がって歯をくいしばっている。

 怒りで燃える瞳を涙で洗い流すように悲しんでいる――

 

「そんな、運が悪かっただなんて言葉で片付けていいことじゃない!!

 アヤネがくるしんでたの、ずっとみてた!!!

 どうして?こんなにだいすきなアヤネがどうしてひどいめにあわなくちゃいけなかったの?

 わからないよ……ひどいよ……!こんなにやさしいアヤネでさえひどいめにあわなくちゃいけないなんて、かぞくしかぼくらを愛せないって思うしかないじゃないか!!」

 

 槍で胸を貫かれたような気がして、アヤネは目を見開いて硬直する。

 

 見られていたのは、知ってはいた。

 酷く泣いたことも、胃液まで吐いたことも、恐怖で震えていたことも、スキュブは全部見ていた。

 それを心配される度、笑って取り繕っていたことも。

 

「それでも……そう思うしかないじゃないか!あの頃のわたしじゃどうにもできなかったんだもの!

 お前だってどうしようもなかった!!子どもは親を選べない、幼いころじゃ親に抵抗することなんてできない!!

 だけどお前は……お前は愛されるべきだったんだ。母親や森で会ったやつが異常だっただけで……本当はみんなから愛されるべきだった!」

 

「ぼくは愛されるべきで、アヤネはそうじゃないっていうの?

 なんでアヤネはひどいことされても、仕方なかったからって言っておこらないの?

 そんなの違う、ぼくとアヤネはひとつだもん、ぼくが愛されるべきなら、アヤネだってそうじゃないとおかしい!おこったっていい!!」

 

「わたしのことなんてどうにでもなる!!

 でも、お前がそうじゃないのは許されていいことじゃない!」

 

「どうにでもなったって、どうでもいいわけない!!

 どうしてじぶんのことはそういう風にいうの?!アヤネとぼくはひとつなのに!ぼくらはいっしょなのに!!」


 スキュブがアヤネの肩を掴んで、泣き叫ぶように訴える。

 スキュブの指が食い込む感触がして、アヤネは昂っていた感情が一気に冷えていくのを感じた。

 

 確かにスキュブは当然のように愛されるべき存在だ。

 でも自分は?と聞かれると、それはどうでもいいと思う自分がいる。

 スキュブがみんなに愛されて、いつか自然に笑えるようになればそれでいい。自分がそれと同時にどうあるべきかなんて考えたことがなかった。

 スキュブが幸せならそれでいい。

 アヤネとしてはそれでよかったのだ。

 

 しかし、スキュブにとっては違う。

 アヤネが他人の影に怯えることなく、アヤネがアヤネらしく生きていけること、そのとなりに自分が寄り添えることがスキュブの幸せだった。

 そしてその幸せのなかで、互いに名前を呼び、愛を注ぎあい、それを一滴残らず飲み干せあえるのなら、もうそれ以上のものを望むことはない。

 アヤネの幸せが自分の幸せである。

 スキュブにとってはそれが幸せのかたちだった。

 

 だからスキュブは納得がいかないのだ。

 スキュブにとってはアヤネこそ全てに愛される資格をもつ人物であり、アヤネの幸せであることが自分の幸せなのだから。

 アヤネがどんなに苦しくてもスキュブが幸せであれば、なんて納得できない。

 

 だが、かたちは少し違えど、アヤネが言っていることもこれと同じである。

 あなたが幸せであればそれでいいというのは、スキュブが言っていることとほとんど同じなのだ。

 

 愛とはエゴが絡むものである。

 あなたが幸せであればわたしは満足だ、それでいいんだと――

 たとえ、自分が犠牲になったとしても結果として相手が生きることができ、幸せになっていけるのならそれでいいのだという気持ちは、よく見てみればエゴなのだ。

 

 考えてみてほしい。

 愛するひとが自分のために傷つき、自分だけが幸福を得ることになってしまったら、何と悲しいことだろう。何て悔しいことだろう。

 胸はざっくりと切り裂かれて、涙は枯れることはないだろう。

 人を愛するということは、それと同時に痛みを共有する覚悟をもつことではあるが、それでもそんなことは望んでいなかったと叫ばずにはいられない。

 愛とはそれに関して盲目であることがある。

 だから二人は今、このようなことになっているのだ。

 

「……ごめん、お前を傷つけるようなこと言っちゃった……」

 

「……いいよ、分かりあえればいいから……」

 

 スキュブは腕で涙を拭った。

 

「ぼくも、アヤネも、本当は愛されるべきで、かぞくに愛されて、あったかい。

 それなのに、みんなはぼくらにいたいこといっぱいした。

 だからね、しんじたいけど、こわいし……わかってるけど、わからないの……」

 

 うつむく瞳が不安で潤む。

 愛されるべきだと分かってはいるが、自分の経験したことはそれを否定するようなものだった。

 矛盾した気持ちが隣り合わせで存在するというのは辛いことだ。

 アヤネはそっとスキュブの頬に手を添える。

 

「どっちが本当なのか、わからないよ……だから、かぞくしかぼくたちを愛せないって思ったほうがいいって……かぞくじゃないひとが本当にぼくたちを愛せるのかわからなくて……こわい……」

 

 潤んだスキュブの目から、静かに涙が伝う。

 涙のしずくは頬に添えられたアヤネの指で止まった。

 そのまま拭うと、二人の肌のぬくもりで涙が溶けて、だんだんと消えていくような気がする。

 今は言葉よりも二人で触れあっている時間が、こころを少しずつ癒していくようで、アヤネはうっすらと目を細めた。

 

 こころに、感情に、必ず白黒つくのは本当に幼いころまでの話である。

 こころが成長すれば、自分というのはどんどん裂けて、割れて、分裂し、相反する自分をその胸のうちで飼うことになるのだ。

 だから、恐怖や不安だけだった自分の隣に、もしかしたらと夢見る自分が存在することだってある。

 しかし、恐怖や不安というのは、何年たっても影の如く、自分の足元に付いて回るものだ。

 

 二人がルイスの言葉を真に信じることができるのは、もっと先の話である。

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