15
カニバリズムの表現があります。
やったね。
大好きだから食べたいって尊いね。
アヤネはカヨの屋敷にいた。
カヨの屋敷には定期的に通っている。手紙のやり取りでも別によいのだが、やはり面と向かって話した方が会話をするのが楽なのだ。
言葉というのは表情や声をのせなくても効力がある。しかし、会話をするとなると、そこに感情のわかる情報があった方が、相手の言っていることを理解しやすい。
カヨやディートリッヒは特にそうだ。字面だけでは分からないようなことをいちいち潜ませてくるので、こうして向かい合って話した方が良いのだ。
テーブルには、いつものアップルティーと炭酸水、そしてアヤネが持ってきた苺がいっぱいに盛ってある器が置いてある。
カヨは遠慮なく苺に金色のフォークを刺して口へ運んだ。
「ん。あまひ。こえおいひいよあーひゃん」
苺を飲み込まないうちに喋るので、声が聞き取りづらい。
しかし、甘くて美味しいと言っていることは分かった。
「飲み込んでから言いなよ。ディートがここにいたら叱られてるよ」
アヤネがディートリッヒの代わりに叱ると、カヨはモグモグと咀嚼をし、しっかりと飲み込んだ。
「行儀が悪いですよって怒られそう……この前お菓子のカスがついた指舐めてたら、ちゃんと拭きなさいって言われたもん」
「ポテチ食った指ペロペロするみたいなのやめなよ……そりゃあディートだったら叱るさ……」
ディートリッヒは行儀が悪いことに少々うるさい。
彼の産まれから推測すると、誰かから習うか、誰かの行動から学ぶしかないのだが、どこで学んだのだろうか。
口調も丁寧だ。もしかしたらカヨが教えたのかもしれないが、いや、おそらく十中八九そうだろうが、そうだとしたら、教えた本人であるカヨがそれに反することをするのはどうしてだろうか。
きちんとしたマナーや言葉遣いを教えた本人が、皿についたソースを舐めるような行為をしたら、当然、何をしているんだと叱るだろう。
しかし、ディートリッヒがカヨを叱る様子を思い返すと、驚いた様子もなければ、そのようなことを言う素振りを見せたことはない。
……わざとなのだろうか。
「ところでこんなにいっぱいの苺、どうしたの?」
「花屋さんのお手伝いしたら、お礼にってもらった。」
花束を大量に作っただけなのだが、依頼主である店主とその奥さんは「まあまあこんなにたくさん作ってもらって」等と言って、報酬に上乗せするかたちで苺をくれたのだ。
一回はこの程度でそんな、と言ったのだが、持っていきなさいと……ついでにお菓子やら何やらも一緒に貰ってしまった。
若い子が手伝いにくるたびにそうしてしまうらしい。
娘がまだ嫁にいく前はこうして一生懸命手伝ってくれたものだから、ついそのときを思い出してしまうそうだ。
丁寧に、紙袋に入ったお菓子をくれた奥さんの手はしわしわで、仕事をする手つきは洗練されていて鋭いのに、誰かの手を握るときは、今にも折れてしまいそうなほど柔く見えた。
店主の手も同様である。アヤネの手と比べると、太くてしっかりとしており、しみもしわもたくさんある手だったが、別れ際に感謝の言葉と共に差し出されたそれを握ったときは、どこかほんのりあたたかかった。
あのやさしい夕陽のオレンジが、あの二人にじんわりと染み込んでいる。
涙のあおを和らげていくぬくもりが、あそこには満ちているのだ。
自分の父と母にはなかった、自分のかつての家にはなかったものがそこにはある――
花を贈るイベントで使う花は、あそこで買うことにしよう。
小さなひまわりであれば、売っているはずだ。
「あーちゃん仕事はやいもんねぇ。ほら、一緒にバイトしたときとか、接客はわたしのほうが得意だけど、その他はあーちゃんのほうが得意だったじゃん」
「お前が遅いだけでしょ」
「これだからあーちゃんは……シャコが人間に『お前らパンチ遅くない?』っていうのと一緒だよ?」
「わたし海洋生物じゃないし」
「じゃあ……クトゥルフ神話生物?」
「パンチしてやろうか?」
「やめて死んじゃう!どうがんばっても死んじゃうじゃん!幸運でなんとか助かったりしない?」
「百面ダイスふって十以下の数字が出たらいいよ」
「むりぽ……」
カヨはげんなりとしながらまた苺を口に運んだ。
「そういやさ、話したいことってなに?」
カヨが思い出したように顔を上げた。
そうだった。彼女に話したいことがあってこの場を用意してもらったのだ。
あまりこういった話を彼女にするのは気が進まないのだが。
「……こういうこと、お前に話したくはないけど、このことで悩んでいるのをお前に話さないと、何で話してくれなかったんだってうるさそうだから話すね」
「……なんかわたしがめんどくさい女みたいじゃーん……」
「事実でしょ」
「ふーん別にいいもんねー。めんどくさい女でも好きっていってくれる夫がいるもんねー」
「そういうとこ、わたしも嫌いじゃないけどね」
「お、デレるじゃん?」
「ツンもヤンもないけどね。」
このままいくと話が脱線しそうだったので、咳払いの代わりに炭酸水の入ったグラスをあおって、静かに置いた。
「……最近、ギルドでよくしてもらってる子から相談されててね。機械生命体が恋をしてるって話みたいなんだけど」
カヨは苺を口に運ぶ手をぴたりと止めて、ニヤリと笑った。
「……へぇ?続けて」
「だいぶ人間らしい機械生命体なの。声の抑揚も人間に近いし、行動もそう。器用に表情を作ったりもしてるから、ほとんど人間みたいに見えることも多い。
だけど……恋かぁって思って。」
「そうだねぇ。わたしもそう思う」
苺の先端を唇につけたまま、獲物を狙う蛇のような目でアヤネを見ている。
アヤネからもっと言葉が出るのを待っているのだ。
アヤネが自分の内部を見せるのを狙っている。どう思っているのかうちあけるのを待っている。
「愛や恋が、感情の薄い種族に毒にならなきゃいいけど。恋なんて……これはお前の受け売りだけどさ、幻覚みたいなものなんでしょ?お前のこと見てて……大丈夫なのかなって」
「……あーちゃん、どこのだれか分からない他人のことで、そんな風に悩んじゃうんだ。」
カヨは苺を一口で食べ、あっという間に飲み込んだ。
きちんと咀嚼したのか怪しい。ほとんど丸呑みに近いといってもよいだろう。
「……受けた相談だもの、考えるでしょ」
「恋とかいう幻覚みるの止めたら?って言っておしまいでいいじゃん」
「そういうわけにもいかないでしょ」
「どうがんばっても、結ばれても、感情の薄い子が恋や愛に耐えられないって分かってるのに?」
アヤネは胸を突かれたような気がしてびくりとした。
カヨは時々こうしてアヤネがこころの奥にしまいこんでおくことを暴いてくる。
人のこころに踏みいってくる、という言い方は少し違うが、あなたが本当に思っていることはこうでしょう?とこちらの胸に手を差し込んで、しまいこんだものを眼前に出してくるのだ。
「……そう、ならないようにって考えてる」
「無理だよ。恋なんて夢みてるだけだし、自分の理想を相手に塗ったくって、できた絵を素敵だねーって言ってるだけ。相手の本質なんて全然見えてないんだから。
前のわたしと一緒。わたしのこと、ぜーんぶ見抜いてくれるって夢みてうかれて……結果、わたしは都合のいいラブドールだった」
最後の言葉にアヤネはかちんとくるような、重く苦しい何かが胸にのしかかってくるようなここちを感じて眉をひそめた。
「……お前は、人形なんかじゃないだろ」
カヨが伏せていた目をはっと開く。
「あ……ごめん。本当に。
そうだよね、あーちゃんも……似たことで苦しんでるもんね。
ふふ、昔もそんなことあったなぁ。そのときもちゃんと叱ってくれたっけ……」
カヨはアップルティーをスプーンでかき混ぜながら、懐かしそうにそう言った。
「お前の身体目的でここにいるんじゃない、って珍しく大声だしてさ。お前の傍にいたいって、それだけだ、なんて言ってたね。
あーあ。そんなこと言ってくれる友達がいたのに、彼氏とかそういうのに憧れちゃって……わたし、バカだったなぁ」
「……誰だって間違うことはあるよ」
「そうだけどさ、本当に手離さないようにって思う相手が間違ってたなんて、眼が腐ってたとしか言いようがないじゃん」
アップルティーをかき混ぜるカヨの手が止まった。
「……ねえ、あーちゃん。スーちゃんだけに教えたあのこと、聞かなくていいの?」
一瞬、カヨの質問の意味が分からず、アヤネは硬直していたが、記憶のなかを探るうちに思い当たるものを見つけた。
しかし、聞くまでもない。どうしてそうしたのか、どうしてこのタイミングでそれを話題に出してくるのか、理由がなんとなく分かるからだ。
それでも彼女は語るのだろう。その皮切りに、何か言わねばならない。
「……もう分かってるから聞かないでおいたのに」
「聞かなくても、わたしから言っちゃうってこと、知ってるくせに」
「知ってる。知ってるけど、わざわざそんなことしなくたって、わたしはお前を頼るのに」
カヨがスキュブに教えた呼吸法をアヤネに教えなかったのは、おそらく自分に頼るよう仕向けたかったからだ。
何も言わなくても、いつも何かあると駆けつけてくれてはいたが。
何か困ったことがあればカヨに頼ることになるというのに、彼女は自分の力が必要になるように、とあれこれ施策するのだ。
そう思い返せば、彼女は自分が一人になりたくないがために、アヤネの症状を利用していた、とも言える。
しかし、前述したとおり、彼女はアヤネが助けを求めなくても、いつも一番に駆けつけてくれていた。
そのときの表情や声色には、支配欲も独占欲もなかった。
ただただ純粋に、友達を助けなくては、という顔をしている。
アヤネが自分から離れないように、という感情はいつもその隣にいるのだろう。
悪女というには優しすぎた。
聖人というには泥のような感情を抱えすぎていた。
アヤネにはこんなにも重い執着心を抱いているのに、集ってくる人間たちには決してこころを開けない。
清濁を宿す、人間らしいひとである。
「知ってるよ、あーちゃんはわたしのことを頼るしかないってこと。
同級生はあーちゃんのこと暗いやつだって相手にしないし、先生もあーちゃんのことを見抜けなかった。特に男の先生とか、あーちゃんは無理だったもんね。
でも、わたしは諦めなかった。だって、あーちゃんの目、わたしの胸のなかと同じ色をしてるんだもん」
カヨの口元が、弧を描く。悲しげなような、自嘲を孕んでいるような笑顔だった。
「真っ黒い底をじーっと見てるような目。色んなものに絶望しちゃったって目。痛いくらいに痩せてて、給食もぜんぜん食べられない。
何回か先生が残さず食べさせなきゃって無理やりやってたけどさ、その度吐いちゃう。吐いちゃうのに、あーちゃんは止めてって言わない。暴力は受け入れるものだって言ってるみたいな顔をしてた。」
「……そうだったっけ」
「そうだよ。今の状況がどれだけ辛くたって、それを受け入れるしかないんだって感じだった。
だからあーちゃんに近づいたんだもん、わたし。あーちゃんになら分かってもらえるって思ったから。」
カヨの家庭環境も複雑であった。
話によると母親がかなり頭が弱いらしく、その上薬でもやっているのではないかと思えるほどに常にテンションが高いらしい。
いつも物事をよく考えずに行動してしまうようで、騙されて効果の怪しいものを買ってしまうことも多々あったと聞いている。
子どもがそのまま大きくなったような人間だったのだろう。蛹になることもなく、大きくなりつづけた芋虫と一緒だ。蝶の振るまいができるはずがない。
その中でも最もカヨがショックを受けたのは、母親が勤め先の上司との間に子どもを授かってしまったことだった。
弟か妹ができるわよ~!なんて言い方をされたものだから、当然父親との間の子だろうと思っていたのだが、話を聞くと勤め先の上司との子だと言う。
カヨはその子の面倒は誰が見るのだ、父親との関係はどうなるのだ、と思い付く限り訴えたのだが、それがカヨの期待どおりに解決することはなかった。
カヨとの口喧嘩から数日後、母親は面倒だから堕胎してきたと、今日のおやつの話をするようなテンションで言ったらしい。
……カヨは暫く体調不良で学校を休んだ。
「わたしが予想したとおり、あーちゃんはわたしに寄り添ってくれた。いつも仏頂面だったけど、本当は優しいってこと、わたしだけは知ってたよ。」
「お前だって、寄り添ってくれた」
「だって、素の自分でいられる相手だもん、大切にするに決まってるじゃん。
ピンチになったら必要としてくれるし、いつもわたしが望んだことを叶えてくれる。そんなあーちゃんが離れていかないようにってするのは当たり前でしょ?」
笑みが自嘲に染まりきった。
カヨは自覚しているのだ。自分のこころを満たすためにアヤネを利用している、自分の薄暗い部分に。
しかし、それだけではないことをアヤネは知っていた。
「……素直に、ただ寄り添いたかっただけだって言ったら?」
カヨの目蓋がぴくりと震えた。
「……そんな、わけないじゃん。だって、あーちゃんに呼吸法教えなかったの、本当にわたしを頼って欲しかったからだもん。わたしは、自分のためにあーちゃんが苦しいのを眺めてたんだよ。」
「じゃあなんで、わたしが泣き止まなかったときに一緒に泣いてくれたのさ。」
火花が散ったように、そのときを思い出したらしい。カヨは目を見開いて息を飲んだ。
「……そんなこと、あったっけ」
「覚えてるくせに。お前、わたしがずっと泣いてるから、胸が痛くて涙が止まらなくなっちゃったって言ってたじゃん」
カヨは目を伏せて、手に持ったままだったティースプーンをソーサーへ静かに置いた。
「……あーちゃんっていつもそう。わたしのこと、ちゃんと見て欲しいって思ってたころから、ずっと。
……ううん。ちゃんと見て欲しいのは今でも、が正しいかな。見栄えのいい自分の奥にある、本当のわたしを見つけて欲しかったの。
それをディーくんにも求めて……あーちゃんにも求めて……わたしがわたしでいられる時間が……世界が、なるべく長く続いてほしくて……」
これは本音の吐露であった。遠回しの言葉も、気づいてほしそうに隠すこともない、まっさらな言葉である。
カヨは壊れた笑みを浮かべた。
「ほらね。恋なんかより愛のほうがずっと、ずっとわたしに寄り添ってくれる。
やっぱり恋なんてするべきじゃなかったよ。身近にいてくれた愛が見えなくなって、夢見て、ぼろぼろになって落ちるの。」
カヨの潤んだ瞳がアヤネを見つめた。
その視線はまっすぐすぎて目をそむけてしまいそうだったが、アヤネはそうすることなくそれを受け止めた。
拒んではならない。そむけてはいけない。そういうときの目から逃げた先にあるのは絶望や怒りだということは重々承知している。
「だからね、あーちゃん。わたしの知らない、どこのだれか分からない他人のことでそんな風に悩むのはやめて。そうやって誰かにこころをくだいてしまうの、何だか盗られたみたいに思えるの。
あーちゃんはなんだかんだで優しいからそうなっちゃうのは分かる。でも、あーちゃんはわたしの友達なの。ちゃんと見てくれる、唯一の友達なの。今はディーくんもいるけど、それでもだめ」
やはりこの話はカヨにとっては少々毒であったようだ。
恋という地雷に近い話題、アヤネが自分の知らない誰かのことを少しでも想うこと、それらは彼女の苦しみを呼び起こす。
恋に関する記憶はただでさえ思い出すのも痛いというのに、それに加えて、アヤネがどこの馬の骨だか知らない輩を想い、悩むことが許せない。
アヤネがカヨから離れないことは十分分かっているだろうに、許すことができないのだ。
どうしようもない母親と、それに疲れて構ってもくれない父親、それに適応していい子の皮を被っているというのに、全く気づかない友達のようなものと先生たちという、理解者のいない環境下におかれていたカヨにとってのアヤネというのは、真っ暗な空に浮かぶ一粒の星そのものであった。
事実、同じような暗闇に身を窶すしかなかった者どうしであったし、アヤネはカヨの愛想笑いを見抜いたり、無理をしていることも暴いてきた。
アヤネも人の表情を見ることには長けていたのだ。
新しい父親がいつ襲いかかってくるか知るために。
母親が自分のことを本当はどう思っているのか暴くために。
自然と身についた、自分を守るための力は似たような境遇のカヨを救うこととなる。
そのためカヨは、これは運命だったのだ、これは出会う定めであったのだ、と思っている節がある。
運命の友、唯一の理解者、こころを開いていく度に顔をだす優しさ、友愛。
カヨはそれを手離そうとは決して思わない人間である。
「やっぱりこの話、お前にするべきじゃなかったかな」
それでもしなければ、しなかったときよりカヨが傷つくことを知って言った。
カヨもそれを察したらしい。クスリと笑った。
「ううん、すべきだった。
……知ってるでしょ、しなかったらわたしが泣いちゃうくらいに怒るの。」
「うん。知ってる。だから今日ここに来たんだもん」
「ふふ、デジャヴだ。わたしがめんどくさい女みたいじゃん?」
カヨは苺を一口で食べて、そう言った。
「……事実でしょ。
そんなお前を頼ってるわたしもめんどくさいやつだと思うけど」
アヤネも苺に手を伸ばした。
口に入れて噛むと、みずみずしい甘みがいっぱいに広がる。
何だか懐かしい気がした。以前も、カヨとこうして弾けるような甘みを味わったことがあったような覚えがある。
もしかしたら、バイト終わりの帰り道で一緒に開けたサイダーの味かもしれない。
カンカン照りの夏、自動販売機でカヨが買ったうちの一缶を貰い、同時のタイミングで一気飲みしたのをうっすら覚えている。
あのとき、自分は笑っていただろうか。うまく笑えていなかった可能性は高いが、こうして記憶に残っているのだし、記憶のなかのカヨは嘘偽りない素直な笑顔だったのだから、おそらく自分も笑っていたのだろう。
「似た者同士だねぇ」
「違ってるけど似てるね」
「生き別れた姉妹だったりして」
「家族関係が複雑になるからやめてよ……」
「えーと、あーちゃんとわたしが姉妹だとして……ディーくんにとってあーちゃんは……」
「どっちみち姉……なのか?待って。わたしの姉か妹が弟と結婚してることになる……」
「わーお近親婚?ハプスブルク?」
「顎は長くないでしょ……」
「どのみち身内になっちゃうね」
「姉妹じゃなくても、お前はわたしの弟の配偶者だからね」
「ふふ、ディーくんのことサラッと弟って言ってくれるの、嬉しいな」
「だってお姉ちゃんだし」
「そういうふうに当然って感じで言ってくれるのが嬉しいの」
「……ほんと、お前ディートのこと好きだよね」
「あーちゃんこそ、スーちゃんのこと好きじゃん」
「似た者同士ってか」
「またデジャヴ?」
カヨがころころと声を出して笑った。アヤネもつられて、下手くそな笑顔を浮かべた。
孤独を抱えた者どうしで、身を寄せあって絆を深めてきた二人はどこか似ている。
服の趣味も性格の明るさも真逆のような二人であるが、そのこころの奥にある核の部分には共通点が多い。
互いに寄り添っているうちに似てしまったというものもあるのかもしれないが、苦しみのなかで這うように生きてきたところは似ていた。
どうすることもできない孤独を受け入れて、いつかそこから脱出することを夢見て、泥のなかを這うように生きてきた。
寒くて痛いその道のりで、手を繋いでいてくれたのは、アヤネにとってはカヨであり、カヨにとってはアヤネである。
二人は友であったが、こころの血はつながっていたのかもしれない。
本来の家族から得られないものを与えあう者どうしの関係は、人によっては家族のように見えるのではないだろうか。
そんな想いが、両者が共に知らないほどの奥の奥にあるのだから、その身内が今のような関係を欲しているのも納得である。
・ ・ ・
スキュブとディートリッヒは二人で向かい合っていた。
部屋はいつものように薄暗い。ディートリッヒの部屋のカーテンはほとんどの時間、閉められているのだ。気に入った身内を招いたときは特に。
その理由は、自分のことをよく見てもらうために、というのは過去に記述した理由だ。
もうひとつ、理由がある。
気に入った相手との二人きりの時間を誰にも邪魔されたくない、気に入った相手を他の誰にも見せたくない、そういった理由もある。
ここは言わば軟禁部屋だ。気に入った相手を自分という存在にくくりつけて、はなれないようにしておく場所なのだ。
さて、二人は向かい合っていると書いたが、その状況は予想よりも密着しているかもしれない。
ベッドに腰かけたスキュブの太ももに、ディートリッヒが跨がるようにして座っている。
しかも、ディートリッヒはスキュブをしっかりと抱き締めて、胸に耳をぴったりとつけている。
これから何が始まるのだと思う者もいるかもしれないが、安心してほしい。これはディートリッヒがスキュブに甘えているだけだ。スキュブもそれを分かっているので、頭を優しく撫でて、それを受け入れている。
「お兄様はやっぱり身体がしっかりしていますね」
「お前もしっかりしているぞ」
「お兄様と比べたらまだまだです。
はあ、おやつの家畜もこんなふうにしっかりしていると食べごたえがあるのですが」
「食べるか?」
「……誰を」
「わたしを」
兄は弟の要求を察するのがはやい。アヤネは考えて察していくタイプだが、スキュブは直感的に察するタイプであった。
ディートリッヒは本音を言うかどうか迷った。
もう少しだけ本音を隠して、一枚一枚嘘や覆いを剥がしていってもらいたいのだが、それすらスキュブに見抜かれるだろう。
過去にそれをやって「ディート、わたしで遊んでいる?」と彼は頬を膨らませたことがある。
それはそれでかわいいのだが、やりすぎると拗ねてしまうので――
いや、拗ねてしまうだけではない。拗ねたあと、どうして隠すんだ、どうして嘘をつくのか、わたしがお兄ちゃんとしてダメだからか、とどんどん落ち込んでいった挙げ句、食べようとしてくる。
それなら正直に話してしまったほうがいい。
全身を溶かされて食べられてしまうと、その後が大変だ。アヤネもカヨも大慌てで対処しに駆けつけてくるだろう。
兄弟そろってちょっとしたお説教をうけるのは免れない。
「……もう、お兄様は。我慢していたのに、そういうことを……」
「食べたいなら食べてほしいからな。腕でも、足でもいいぞ」
スキュブは平気でそういうことを言う。自分が食べるときは様々なことを恐れて我慢しようとするのに。
本当は食べたいのを我慢しているからこそだからだろうか。弟には恐れることなく食べさせてあげたいのかもしれない。
「それじゃあ、腕を一口いただいても」
「わかった」
スキュブは袖を肩のあたりまでぐっと上げ、ディートリッヒへ差し出した。
躊躇のかけらもない。これから食べられるというのに、何の恐怖もないのだ。それが当たり前のような顔さえしている。
ディートリッヒも惑わない。薄暗いなかでもはっきり分かるくらいにまっしろな兄の肌に牙を立てて、一口分だけ食いちぎる。
口内にぬくもりがふわり、と広がった。幸せで甘い鉄の味が舌を刺激して、喉はそれをはやく丸呑みにしろと訴える。
本当はゆっくり噛んで味わいたいのだが、本能はその理性さえ奪ってしまう。そんな上品に味わう余裕などない、はやくその肉の感触を伝わせてくれと気を掻き立ててくる。
本能の部分はやはり蛇なのだろう。噛んで食べたい欲求よりも丸呑みにしたい欲求のほうがいつも勝つ。
今回そうだ。もディートリッヒは咀嚼しようと思ったが、やはり喉の訴えに耐えることができなかった。もはやどうしようもないと、思いきったように肉を飲む。
ほんの少し後悔したが、すぐにそんなものはどうでもよくなった。
愛する者の肉が喉を伝っていく感触は多幸感を呼び起こす。
ため息が出てしまいそうなほど満たされて、笑ってしまうほど幸福で――
愛する者が自分の身体のなかに入っていく幸せは、どうにもできぬほど強い独占欲も満たしてくれる。
だって、愛する者の一部を自分の身体のなかへ閉じ込めたのと変わらないのだから。
その上、身体のなかへ閉じ込めれば、やがて愛する者は自分の血となり肉となる。
愛する者で自分の身体が作られる。自分の血に愛する者が宿る。これならどんなに離れていようがずっと一緒だ。新陳代謝でその全てが入れ替わるまでは、ずっと一緒にいられる。
それが嬉しくない者がいるだろうか。笑わない者がいるだろうか。
愛する者とひとつになれることが幸福でないはずがない。
「おいしいか?」
スキュブは優しく微笑みかけた。まるで相手の好物をわけてあげたときのような、柔らかい表情だ。
「はい。とっても。」
もう治りつつある噛み痕から流れていく血の色が白い肌によく映えた。
この程度なら傷痕も残らないだろう。スキュブの再生能力は月の民であるアヤネやカヨよりも高く、ディートリッヒよりも高い。
モンスターの血が入っているだけではないような気がする。おそらく、スキュブを作った者――スキュブがおかあさんと呼んでいる存在である――がそう仕組んだのか、偶然そうなったかのどちらかだろう。
それでも、前腕には太い杭で貫かれたような痕が残っている。
その再生能力が仇となったのだろう。彼は母親に何度も杭で貫かれるという拷問を受けたのだ。
だから彼は痛みに対して若干鈍いきらいがある。
何の躊躇もなく腕を差し出せるのはそのせいでもある。
「それじゃあ、お兄様も」
ディートリッヒも袖を肩のあたりまで上げて、スキュブへ差し出した。
「……だめ、だ。ディートが痛くなってしまう」
スキュブは悲しげに目をそらす。
自分の痛みに対しては鈍いのに、他者の痛みには敏感らしい。ディートリッヒが痛がるだろうから、とスキュブは常に食べるのを拒む。
「そんなことはありません。私、お兄様の弟ですよ。傷なんてあっという間にふさがってしまいますし、痛みも全然ありません。
むしろ、とても満たされるのですよ。私の一部がお兄様の血のなかを巡ると思うと、嬉しくてたまらないんです」
ディートリッヒはするりとスキュブの指に自分の指を絡め、恍惚の瞳で見つめた。
誘うようなその仕草にスキュブの目は揺れる。
「食べられるの、好きか?」
「ええ。お兄様の一部になれるのですよ、嫌いなわけがありません」
「食べられても、嫌いにならない?」
「なりません。この愛、その程度で崩れるものではありませんよ?」
スキュブは痛いことをしたら嫌われると不安がっているようだ。
彼の身内は食べられた程度で彼を嫌うことなどないのに。
「……それじゃあ、食べる」
スキュブの唇がディートリッヒの腕に触れた。そして意を決したように口を大きく開いてかぶりつく。
走る痛みにディートリッヒは思わず眉をひそめそうになったが耐えた。
ここで痛がる様子を見せてはならない。少しでもそのような素振りを見せれば、彼は酷く後悔するだろう。普段は最愛の相手が隣にいるというのに食べるのを我慢しているのだから、このときくらいは愛する者を食べさせてあげたい。
それに、ディートリッヒは痛みで苦しむ側ではない。痛みで苦しめる側の者である。
痛めつけて、嬲って、指の先まで支配する。
それを楽しみにする者として、痛がる姿を見せるわけにはいかない。
「……ん、んふふ……ふふ……」
咀嚼するスキュブの口元がゆるゆると上がって、笑い声をこぼした。
いつもは笑えない彼だが、愛する者を食べたときだけは笑うことができる。
余程幸せなのだろう。瞳はとろんと潤み、色づいて熱くなった頬を両手でおさえながら、じっくり味わうようにして食べている。
美味しいものを食べたとき、頬っぺたがおちそう、なんて言うが、彼はそれを信じているのだろうか。
時に子どものように純粋すぎることがある。
見ているぶんにはかわいいが、彼はもう十五歳だ。一般的な人の子であれば、何者かになろうとし、大人になろうともがき、こころが変化していく時期である。
それなのに、彼のこころは十歳だ。自分のことをまだ子どもだと思い込んでいる――
「おいしい、ディート、おいしい……ははは……とても、とてもおいしい……!」
スキュブのこめかみあたりにある複眼が開き、背中のあたりが盛り上がってきた。
脚だ。蜘蛛の脚が生えつつある。彼が興奮している証拠であった。
アヤネならここで落ち着くようになだめるのだろうが、ディートリッヒはそれが嬉しくて、鎮める言葉など全て端に追いやってしまった。
だって、愛する兄が自分とひとつになっているのを喜んでいるのだ。嬉しくないはずがない。
「美味しいでしょう、お兄様。ほら、血も啜って。」
スキュブは素直に頷いて、未だ血を流し続ける噛み痕に吸い付いた。
母親の乳を飲む赤子のようだ、なんて思ったが、吸う強さは赤子のそれではない。
傷口から血を全て持っていかれそうだ。これが首であったら気を失っていたかもしれない。
「ふふ、ディートの血はおいしい。あったかくて胸のあたりがいっぱい」
流れた血までしっかりと舐めとって、スキュブは幸せそうに笑った。
遊園地ではしゃぐ子どものような笑顔だ。血肉を啜って気分が高揚している……ハイになっている、といったほうが正しいかもしれない。そのせいで恐れず笑うことができている。
普段からこのように笑えていたら、どんなに良いことだろう。
口元を血だらけにして笑うことしかできないのだ。
「……お姉様のと比べると、どうですか」
ディートリッヒは少しいじわるな質問をした。
同じくらいに愛している者を比較しろと言っているのだ。スキュブは困るかもしれない。
しかし、ハイになっているせいもあってか、スキュブは困ることも迷うこともせず、大好物のお菓子の話をするような口調でアヤネの味について話し出した。
「アヤネの味か?アヤネはな、とっても弾ける味がする!食べると熱くて、頭が弾けて、からだのなかが切れてしまいそうな味なんだ。
からだのなかが切れるっていうのは……糸がぷつっと切れる感じだ。切れるとな、心臓がどくどく動いて、血がぐるぐるして……頭がふわふわしていく。幸せすぎて、胸が爆発してしまいそうになるんだ!」
それはもう興奮の域をこえているのではないだろうか。
最愛の相手の血肉はどんなものよりも彼を幸せにするらしい。
「アヤネは肉も血もおいしい。でも、ディートのもおいしいぞ。ディートはあったかくて、とろとろしてぽわぽわだ。例えるなら……プリンをものすごーくおいしくした、だ!」
あの鉄の味がプリンなわけがない。それでも、彼にとってはそれほど美味しいものなのだろう。
甘いものが好きな彼がそれよりも「ものすごーく」美味しいと言っているのだから間違いない。
「甘味より美味しいのであれば嬉しいです。幸せにできる力がそれよりも勝っているというのですから……」
糖は人を幸せにする。
糖もある意味ドラッグのようなものだ。幸福感を生じさせるし、中毒者もいる。
身近にある幸福剤。人の身体が活動するために必須な物質。
人になくてはならないもの、それが糖である。
それよりも美味しいと言うのだから、スキュブにとって愛する者の血肉は絶品なのだろう。
「そうだ、お前はわたしを幸せにする。こうして抱き締めると、もっと!」
あっという間にスキュブの腕がディートリッヒの背中へ回り、力強く抱き締めた。
ディートリッヒの肺が軽く圧縮され、口から空気がもれる。
割りと息苦しい。アヤネはこれを笑顔で受けているというのだからなかなかだ。愛ゆえだろう。
それにしても、いつもより無邪気だ。ハイになってもこうではなかったと思う。
いつもなら、このあたりでぐるぐる巻きにしようとしてくるはずなのだが。
「お兄様、今日はいつもよりご機嫌ですね。
……何かありましたか?」
おそらく、カヨから教わった呼吸法等で落ち着きやすくなっているだけだろうが、こういうときは一応探りをいれておいたほうが良い。ディートリッヒの勘がそう告げている。
「今日か?ディートとカヨにあえたぞ?」
「ふふ、そうですか……他には何か?」
「他に……そうだ!アヤネがな、歳上の男が背後にいても怯えなかったときがあったんだ!」
「……ほう……詳しく聞かせてくださいな、お兄様?」
聞き捨てならない言葉であった。こころはすっかり獲物を見つけた蛇のそれだったが、ディートリッヒは声色をなるべく変えないように努めた。
「アヤネはいつも歳上の男を避けている。だから、わたしも声をかけようとしているやつは睨んで追い払うんだが……一人、ちゃんと話せる男がいるんだ。」
「あら、珍しい。名は?名前はなんというのですか?」
「ルイス。ディートみたいな肌の色で、やさしい黒の髪だ。目がとってもきれいで、空にうっすらと雲を溶かしたような色をしている。
あの目、食べたらどんな味がするだろう。やさしくて甘いのか気になる」
「へえ。ルイス、ですか。覚えておきます。
それとお兄様、普通の人間の肉はあんまり美味しくないですよ」
ディートリッヒは目を細めた。
「うむ……そうだな。でも、さっぱりしておいしそうだ。大弓を使っているから筋肉はあるはずだ。
しかも、いい腕をしている。溶かしたらどんなジュースになるだろう」
スキュブが楽しそうに話している。
ディートリッヒにとっては、どこの誰かも分からない馬の骨の話を。
胸のうちが、じわじわと蝕まれていくような炎で炙られているのが分かる。
臆病で、いつも人に対して怯えている兄が、腕がいいとまで言っている。
警戒しているからそこまで見ているのではない。警戒しなくてもよい上にそれなりに安心できるから、興味をもって見ているのだ。
スキュブが美味しそう、というのは気に入っている、と同じ意味になる。彼は好きな相手ほど食べたがる傾向があるからだ。
好きな相手を食べるとお腹がいっぱいになるらしい。普通の食べ物では満たされない空腹が満たされるのだという。
それを人は寂しさというのではないだろうか。スキュブ自身はそれに気づいていないが。
好きな相手を自分の中に押し込むことで自分の血に溶かし、肉にいきわたせることで好きな相手とひとつになる。
それは愛を浴びて、愛を自分の内部まで侵食させ、満たされることと同じこと。
そうしてはじめて、彼は孤独から逃れることができる。
言葉や態度では足りず、摂取せねば満たされない。彼の渇きはそれほど深刻なものであった。
「……ふぅん。でもね、お兄様。私たちとその男は分かりあえませんよ。人のこころは窮屈です。自分と同じかたちをしたものでなければ理解できない。」
諭すようにそう言うと、スキュブは首を傾げた。
「……ディート、おこってる?」
ディートリッヒは目を見開いた。なるべく声にも顔にも出さないようにしていたのに、自分のこころをスキュブに見抜かれたような気がして、びくりとする。
兄はこういうところが鋭い。勘で相手のこころもようを見透かすのだ。
「……どうして?」
「だって、ディートの声、いつもと違う。一枚皮がかかってるみたい」
「なるべく、そうしないようにしたのに」
「でも分かるぞ。大好きだから、わかる」
「……そういうところですよ、お兄様」
どこぞの馬の骨の話を楽しそうにしているかと思えば、当然のように弟のことが好きだと言う。
嫉妬の炎に、歓喜の火花が投げ込まれたような、複雑な痛みがディートリッヒの胸に広がった。
そんなに好きだと言ってくれるのに、その愛は真実なのに、どこぞの馬の骨の話を楽しそうにしないで欲しい。
感情の糸がぷつりと切れる。
気づいたときにはスキュブをベッドのシーツへ沈めていた。
そして目にもとまらぬはやさでスキュブの首にかぶりつく。
その様は獲物を補食するときの蛇そのものであった。頸動脈のある場所を確実に狙い、いのちを飲み干す勢いで襲いかかっていた。
そうだというのにスキュブは悲鳴すらあげない。驚いた顔だって見せない。
むしろ、申し訳なさそうな、悲しい顔をしてディートリッヒの頭を撫でた。
「……ごめん、ディート。人間の話は、痛かったか?」
ディートリッヒは頷く代わりに、スキュブの身体が軋むほどの力で抱き締めた。
「……痛いです。お兄様がどこかに行ってしまうみたいで」
口いっぱいに広がった温い甘露を飲み込んで呟くと、スキュブと目があった。
悲しみで潤んだ目だ。強い雨にうたれて項垂れた白百合に似ている。
痛々しくて見ていられない。けれど、目をそむけることもできない。
自分で招いた痛みだ。全てをうちあけて、もたれかかりあうようにするしかない。
「わたしは、お前からはなれたりしない。
お前はたった一人の弟。血の絆で結ばれた、数少ない大切なひと。
わたしはお前をてばなさない。例えお前がはなれたいと言っても……わたしは許せない。……だから、なかないで」
スキュブの手がディートリッヒの目尻に触れた。涙など出ていなかったが、見えない涙を拭うように添えられたその指は、先程飲んだ血よりもあたたかかった。
「泣いてるのはあなたでしょう、お兄様。」
「ないてないよ」
「嘘つきなお兄様。私、分かってます。私のことを想って、その胸が痛んでいるのでしょう」
「……それは、そう。ディートが悲しいのを見ると、胸が痛い」
「だからです。だから、あなたは身内以外の人間を愛してはいけない」
ディートリッヒは目を細めて、先程噛みついたスキュブの首へ触れた。
傷はもうない。
外部の傷はこんなにもすぐに治ってしまうのに、こころの傷は何年も治ることなく引きずり続けてしまうこころの柔らかなひとだ。
人間を愛してしまったら、彼のこころは傷ついてたちまち壊死していってしまうだろう。
「優しいお兄様。私のたった一人のお兄様。どうか、身内以外の人間を愛さないで。
あなたが誰かにとられたら、私のこころには埋まることのない穴が空くでしょう。
あなたがその優しさゆえに人間に傷つけられたとなれば、あなたがどれだけその人間を愛していようが、私はそれを丸呑みにするでしょう。
これを束縛だと他人は言うでしょう。あなたもそう思って息苦しく感じるでしょう。でも、分かってください。私に愛されるというのはそういうことなのです。
私の愛は絡み付きます。あなたの肺を愛で締め上げます。傷つきやすいあなたを守るために、私はあなたを苦しめます。
ねえお兄様。それでも私のことを愛してくれますか。身内以外の人間を愛さないと約束してくれますか」
その言葉は、はなさないで、いかないで、という呪いであった。
兄が他者を愛して、自分と繋いでくれていた手をほどき、他者のもとへ行ってしまうのが怖い。
兄が他者を愛することで傷ついて、それでも愛することをやめられずに病んでいくのが許せない。
それなら自分の手の届く場所に閉じ込めてしまいたい。
それは自由を奪うことと等しい。空を掴んで飛ぶ鳥の羽を折ってしまうようなものだ。
優しい顔をした暴力だ。
相手の気持ちを無視したエゴの押し付けだ。
――それら全てを知ってもなお、愛してほしい。
ディートリッヒの言っていることはそういうことである。
「ディート、わたしはお前の愛を受け入れよう。そしてわたしもお前を愛そう。
わたしたちは似ている。わたしの愛もお前を苦しめる。
お前に痛いことをしていると分かっているのに、お前をお腹のなかに閉じ込めたくて仕方ない。大好きで、大好きでたまらなくてお前をこの身に溶かしたい。
もしも、お前がわたしを捨てて去ってしまったとしたら、許せない。どんな理由があっても許せない。その身体を溶かしてお腹に全部おさめるまで、わたしはお前を殺しにかかるだろう。
だから……心配ない。兄弟だから、似てる。似てるから、はなれない」
スキュブはその寂しさゆえに、愛する者を食べねば満たされない。
しかし、食べられる相手が痛い思いをすることはちゃんと理解している。痛いことが嫌なのも同様に理解している。
それでも食べずにはいられない。愛する者とひとつになりたくて仕方がない。
そしてその愛は、裏切りを知った瞬間に殺意へ変わる。
過去に母親に裏切られた彼は、自分のかけてきた愛を、時間を、嘘にされることが恐ろしくてたまらないのだ。
いままで自分をあたかかく包んでいたゆりかごが消える。自分を受け入れていてくれた世界が消える。
それは自分の存在を否定されたと同じことだ。
自分を肯定してくれていた愛が、自分の存在を許してくれていた愛が嘘になるのだ。そうなれば、彼の存在を肯定できるものはいなくなる。自分で肯定できない自分しか残らない。
だから糸で巻いて束縛する。
だから身内に執着する。
この兄弟はその原因は違えど、束縛する愛を抱く者どうしであった。
そんな二人が愛を深めれば、互いに束縛しあって、どれだけ嫉妬の炎に炙られても引き戻せない関係になるのは明白である。
スキュブの「似てるから、はなれない」という言葉はこれを肌で感じているから出た言葉だ。
彼は自分のほうが兄であるから、となるべく束縛しないように意識をしているが、感情が一定量をこえればその意識も失せてしまう。
はなれがたい二人だ。血の繋がり以上に濃く、どろどろとしたもので繋がった二人は離れていても、自然に互いを想わざるを得ないだろう。
「ありがとう、お兄様。息苦しいほど、絡み付く愛をこれからも、どうか……」
「うん。お前の全部を食べてみせよう。お前の全部を、お腹のなかに……」
二人は抱き締めあって、互いの首に歯を立てた。
この噛み痕が残るのもほんのわずかな時間だけだ。
それでも、互いを溶かしあった事実は、記憶は、刻まれたようにそこに残る。
血の味は温い。
温いものは身体にしみる。
身体にしみる――冷えきった身体にしみるのはいつも、こころからの愛だった。
自分を掴んではなさない愛だった。
自分をここへ留めてくれる愛だった。
大好きで食べたいっていいね
やっとカニバの話がかけた
愛あるカニバはいいぞ
いいぞ




