12
ディートリッヒの部屋は薄暗い。灯りがあるのにも拘わらず、それを灯そうとしないからだ。
森の中にあるこの屋敷はただでさえ日の光が届きにくい。昼間であっても灯りがなければ薄暗く、その明るさは冬の日の早朝程である。
もっとも、常に目を閉じている使用人には関係なく、蛇に変身してしまえばピット器官による熱関知ができるディートリッヒにはあまり気にならないことなのだろうが。
しかし、今のディートリッヒは人間の姿だ。薄暗くては視界が悪いはず。
カーテンも閉めきって、ぬるい闇が漂っているこの部屋では、互いの表情をよく観察することができないのではないのか。
「灯り、つけないの?」
「……このままが、いいです。
さあ、そんなことは気にしないで、こちらへ」
ディートリッヒは靴を乱暴に脱いで、ベッドに腰かけている。
いつもの彼であればそのようなことはしない。靴は上品に揃えられて置かれているはずだ。
「スキューと一緒のときも、このくらい暗かったの?」
「ええ。でも大丈夫です。お兄様は目が良いから、ちゃんと見てくれます」
「……わたしは、そんなに良くないけれど」
「ええ。知ってますよ。そのくらい」
そういう意味じゃない、目が良いとは視覚の良さではない。前髪で微かに隠れたディートリッヒの目が物言うように光る。
目が良いからちゃんと見ることができる、ではなく、ちゃんと”見てくれる”と言うあたりから薄々分かるが、それだけでは欲求が伝わりにくいというものだ。
しかも、部屋が薄暗い理由を答えているようで答えていない。当ててみろということなのだろう。話しているうちに、彼の口から手がかりがこぼれてくるかもしれない。
ふと、ベッドのシーツに色の濃い染みがあるのが目についた。
触れてみると、ざらりとしてかたい。服についてしまった鼻血がかたまってしまったときの触りごこちと似ている。
まさかと思って目を凝らして見てみると、それは赤黒い色をしていた。
ここには先程まで、スキュブとディートリッヒが一緒にいたはずだ。何かあったのだろうか。
「……スキューと噛み合ったりでもしたの?」
「いえ。噛んだのは……食べたのはお兄様の方ですね。その染みはそれとは関係ありませんけど」
「食べた?どこ食べたの?」
アヤネはスキュブが噛みつきやすい首まわりに触れる。服に血が滲んだあとはないようだし、傷らしい傷はない。
「首と肩の間あたりですかね。でも、私は傷の治りははやいですし、ヒールも使えます。お兄様にはあまり落ち込まぬよう言葉をかけましたので、心配ないかと」
「ああ……そっか。身体が痺れたりとかは?動かないとかある?」
「問題ありません。状態異常も治せます」
スキュブは蜘蛛へ変身しつつあるときに、口から鋏角――きょうかく、蜘蛛にとっての牙である――を出すときがある。稀に寝ぼけているときに出していたりもする。
案外もふもふぷりっとしてかわいい。本当だ。嘘だと思うなら似たものがあるから調べてほしい。ネットで検索すれば出てくるだろう。オススメはお顔もキュートなハエトリグモだ。それを機に動画も見て欲しい。
――等と話していると話がそれるので割愛する。
本当に割愛という文字通り、実に実に惜しいのだが。
さて、その鋏角だが、蜘蛛のそれには毒がある。
蜘蛛と毒、となれば毒蜘蛛のことを思い浮かべるかもしれないが、大抵の蜘蛛は毒をもつ。獲物を動けないようにするためだ。
一部の毒蜘蛛とおそれられるものは人間にも害のある毒をもつが、そうでないものは人間に害を及ぼさない程度のものである。
因みに、スキュブの毒は人間やモンスターを食べるためのものなので、勿論人体に影響がある。
そのため、スキュブが何かしらの理由で鋏角を出していたら、ディートリッヒには麻痺等の症状がでてしまうのだ。
しかし、ディートリッヒはヒールは勿論、状態異常を治すデトックスも使うことができるので心配はいらないだろう。
「……痛くなかった?」
「お姉様はお兄様と同じことを聞きますね。多少の痛みはありますが、その程度……愛する者の一部になれる喜びと比べれば小石を踏んだときのそれと相違ない。」
首まわりに触れていたアヤネの手をとると、そっと指を絡ませた。
薄暗いなかでもぬらりと光る黄色のひとみ。細長い瞳孔が開くのが見えた気がした。
「ええ。だからお姉様も試してみませんか。この染みの原因となったそれを」
足首をゆるく捕まれて、ゆっくりと闇へ引き込まれていくようなここちがして、アヤネは思わずびくりとした。
身体の緊張が手にも伝わって、一瞬、指が震える。
それをディートリッヒは見逃さない。
「ふふ、怖がらなくていいんですよ、お姉様。それとも、私のような化け物は嫌いですか」
それはこたえを誘導する呪文だった。
鼓動が伝わってしまうのではないかというほどぴったりとくっついて、上目遣い気味にアヤネに問うその一連の動作が、呪文なのだ。
ふと、カヨの苦しげな体温を思い出した。涙を浮かべながらきつく抱き締めて、耳元で囁いたあれも呪文であった。
当時は分からなかったが、今なら分かる。呪文をかけられ続け、その言葉の意味を考えたことがあったからだ。
「……お姉様、何ですか、その目は。
他の男のことをお想いですか。私の前で、お兄様以外の者を想っているですか。」
刹那の物思いがばれたらしい。ディートリッヒは手の力を強めて、骨が軋むのではないかと思うほどにアヤネの手を握りしめた。
他の男、というのは誰のことだろう。アヤネが男性に興味がないのは知っているだろうに。
いや、知っているけど聞くのだ。そこに微かな懸念があるから。
ディートリッヒはアヤネの過去を知っている。すなわち、アヤネの家族のことも知っている。
本当の父は亡くなり、手を出してくる新しい父と、それを見てみぬふりをする母と、何も知らない弟がいるのをアヤネから聞き出している。
交友関係がカヨとしかないことも勿論知っている。
狭い人間関係だ。ここまで考えれば懸念がどこにあるのかうっすら分かった。
「……違う。違うよ、ディート。わたしはもう、今の家族のことなんてほとんど想いやしないから」
「ほとんど?」
「うん。新しい父のことは……思い出すと吐き気がするし。お母さんはわたしの顔を後ろめたそうな目で見るし……弟は、特に。あいつには何の罪もないけど、別に好きでも嫌いでもないから……」
懸念はおそらくアヤネの家族にある。深い関わりのある、無条件に愛をかける者がいる可能性が残る存在。それはディートリッヒにとってみれば邪魔でしかなかった。
自身を害するのに、アヤネはそれを見捨てきれていない。
それがディートリッヒにとっては我慢できないことなのである。
「父違い、ですか」
ディートリッヒの目付きがキッ、と鋭くなった。額や手の甲あたりが鱗で覆われはじめる。
「それでも同じ腹から産まれたのでしょう。血の繋がりがある。何の理由もなく愛する理由がある」
その声は低く、怒りに染まっている。胸のうちで真っ赤な炎がぬらぬらと、心臓を舐めるように焼いているのだ。
粘性のある炎。払っても払っても皮膚に絡み付いて焦がす、消えない怒り……
人はこれを嫉妬とも呼ぶのだろう。
アヤネは悲しみで胸の芯がすっと冷えるのを感じた。
「……妬ましいかい、わたしの弟が」
そう口にすると、ディートリッヒの表情が一瞬ゆるんだ。
しかし、すぐに怒りは再燃し、その顔は怒っているのか、泣きそうなのか分からないものになった。
「……ええ。妬ましい。妬ましいとも。お姉様と一部だけでも同じ血を宿しているなんて。
ああ、妬ましい、憎たらしい!私のお姉様と血で繋がっているなんて許せない!お姉様の弟は私だけでいいのに!
……目の前に引きずり出せるならそうしてやりたい。その顔を何度も強かに打って、死んだほうが良いと思わせるくらいに拷問をして、その口から自分は弟ではないと言わせなければ気がすまない……!」
裏も隠した感情もない、ディートリッヒの素直な言葉だった。
父親寄りの顔をしたアヤネが弟と顔が似ているという可能性は低く、実際に記憶の中の弟の顔はアヤネとは似ていない。
それでも、目元が似ているだとか、面影があるだとか、そういった血の繋がりが妬ましいのだ。
彼には血の繋がった家族がいない。それに加え、過去にあったことも影響しているのだろう、裏切らぬ愛というものを切望し、渇望している。
――私のような化け物は嫌いですか――
先ほどのディートリッヒの言葉がそれを醸している。
過去に愛をかけた相手は実は自分を恐れていて、機会があれば逃げようとしていて、実際に逃げられてしまった。
自分が人ではないことは十分に理解している。
人もモンスターも丸呑みにする大蛇へ変わる彼は、人でもなければモンスターでもない。
その間という何ともいえぬ場所にいて、自分をつくった母親には捨てられてしまった。
そんな彼が偶然であった、実の親に売り飛ばされ、変態どもの玩具にされた子どもたちというのは見捨てることのできぬ、愛をかける対象であったのだろう。
守り、あたため、はじめて愛をかけた小さな子どもたち。
しかし、ディートリッヒと出会う前から怯える毎日をおくっていた子どもたちにとって、彼はどのように見えたのだろうか。
真相は分からない。夜明けとともに消えたその姿と共に、確認する術も朝焼けに溶けてしまった。
だから彼は自分の腕のなかに囲った人たちを離そうとしないのだ。
愛をかける者の変化にめざとく、そのこころの真実を暴こうとする。
だが、こころの真実が自分を恐れているものだったら、と不安に思っている節もあるので、いつも遠回しの言い方をするのだ。
生きにくい性格をした子だ。怖くてまわりくどいやり方をするのに、真実を知らねば気がすまないから、嘘をつくなと念を押す。
だけど嫌われるのも怖いから、それが自分にとって望む答えであるように誘導する。
いつかのカヨにそっくりだった。
「あーちゃんまでわたしを裏切ったら、あーちゃんが好きだっていうまで部屋に繋ぐから」と言って、すがるように見開かれた目にこめられた感情は、まさに今のディートリッヒのそれそのものだ。
胸を絞められるような苦しみが伝わってきて、アヤネはどうしようもなくディートリッヒの頭を撫でる。
割らぬよう、薄氷の表面に指を伝わせるような手つきだった。
ディートリッヒはふっと目を伏せると、指をほどいてアヤネの背中へ手を回す。
耳をぴたりと胸につけるその様子は、目を潤ませたスキュブを思い浮かばせる。
「……お姉様、私たちは家族ですよね」
「……うん。勿論」
「同じ血が流れる、家族ですよね」
「……同じ血が通ってなくたって、家族だよ。」
「……そう、ですか。」
金色の目がアヤネを見上げる。
「仮に、その男があなたをむかえにきたとしても、お姉様は私を選びますか。」
「お前を選ぶよ。ここには私の家族がいる。あっちに私がいる場所なんてないから」
「真の弟は私だと、お姉様はおっしゃってくれますか」
「……うん。あいつに罪はないけれど、あっちはもう、帰る場所じゃないもの」
「本当に?」
「勿論さ」
「じゃあ、約束して下さい」
ディートリッヒはアヤネの手をとると口元まで寄せ、その人差し指に軽く歯を立てて小さな切り傷を作った。
自分の指も同じようにして、切り傷どうしを重ね合わせる。
混じりあった血が一粒、アヤネの指を伝った。
「……これが、指切りの代わりです。お姉様と私の約束です。
誓って。私を決して離さないと。見捨てないと。何の理由もなく愛することができる……家族だと。」
ベッドの染みの質問に対する答えがこれだった。
儀式だ。彼らが儀式と呼ぶ行為、互いの血を絡ませあう行為。
同じ血が通っていないなら、こうすればよい。
愛する者の中に入り込み、愛する者を自分の中へ招き入れて、一つになる。
互いに同じものを宿し、互いの身体に住み、見えない繋がりを築いて、離れないようにこころの糸を結びあう――
スキュブがアヤネを食べたがる理由と似たものだ。
あなたのなかにわたしが生き、わたしのなかにあなたが生きるなら、離れにくくなるだろう。忘れにくくもなるだろう。
そのことを目の前に突きつければその目を留めることができるだろう。
悲しい約束だ。苦しみの末にうまれた呪いだ。
ここまでしなければ安心できないなんて、なんて悲しいことだろう。
血の繋がりがなくても、ふと帰りたくなる場所がお前たちだというのに。
「……こんなことしなくたって、わたしはお前を見捨てたりしないよ。」
「だめです。こうしないと、呑むしかなくなる」
「不安なのかい」
「……お兄様は、喜んでやってくれました。二人で混じりあい、その身で私を感じられるのが嬉しいと。かたく結ばれる血の絆に、安らぎを覚えると」
「そうだろうね。スキューも同じ気持ちだろうから。あの子も母親に酷く裏切られて、捨てられてからずっと、そんな不安と戦いながら生きている。どうしようもない孤独とつきあいながら生きている……
でもね、たとえ血の絆がなくたって――」
アヤネは切り傷のない方の指先でディートリッヒの胸を触れ、そこから糸をひくような手つきで自分の胸にも触れた。
「ここと、ここは繋がってる。
わたしをとりまく環境が変わろうと、時間がたとうと、わたしは自然とお前を想うだろうよ。スキューにお前の家に行こうって誘うだろうよ。
お前はわたしの弟だ。ただ、それだけでお前を想う理由になる。
特別なことは、それ以外何もないんだよ。一緒にいて楽しいし、落ち着くし、何かの話でふとお前の姿が思い浮かぶ。……それだけでいい。それだけで、わたしは明日も生きることができるから……」
ディートリッヒの目が潤んできた。表情もどこか、静かに泣き出しそうなものになっている。
「……本当に?」
「本当さ」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃないよ」
「そう……ですか。」
ディートリッヒは傷口を触れあわせていた指をほどいてアヤネをきつく抱き締めた。
蛇にぎゅっと巻かれた、というほど痛くはなく、しかし離さない意思は確かに感じる力加減だ。
そして、唇が微かに耳に触れる。
「……嘘だったら、針千本どころじゃありませんからね。その言葉が本当になるまで部屋に繋ぎますから」
低く、かすれた声だった。
ディートリッヒはカヨと似たようなことを言う。
部屋に繋いで監禁する、という内容はぴったり同じで、声色もそっくりだ。
そういえばスキュブにも似たようなことを言われたような気がする。確か、砕いてしまうとかそういう言葉だったと思うが。
だが、スキュブも砕いた後は食べて、自分の胃のなかに閉じ込めてしまうのだろう。そう思い返すと、アヤネの身内たちは何かと独占欲が強い傾向があるようだ。
皆違っているのに、皆似ている。
皆、違う種から産まれて、違う人生を歩んできたのに、どうしてこうも似てしまうのだろうか。
きょうだいのような、親子のような、それと似て否なるものであっても自然と向かう場所が一致するような。
これが見えない血縁というものなのかもしれない。
アヤネは胸がほんのりあたたまるようなここちを感じ、思わずくすりと笑ってしまった。
ディートリッヒはアヤネが笑っている理由が分からず、微かに眉をひそめる。
「……何笑ってるんですか」
「いやぁ、カヨにもそんなこと言われたことがあってさ」
「カヨが?」
「うん。そういえばスキューにもよくぐるぐる巻きにされるし……お前ら似てるよね。産まれも育ちも違うはずなのにさ。
……家族ってこういうことなのかなぁ。よく分かんないけど、きっとそうなのかなって思ったら何か安心して」
「……ふぅん」
ディートリッヒは両膝を抱きかかえる姿勢、所謂体育座りの姿勢になってそっぽをむく。
拗ねているように見えるが、彼はこころがくすぐったいとこのような態度をとるのだ。
自分の問いに笑顔で返されるとは思っていなかったのも原因の一つなのだろう。予想外の結果となり、自分の計画していた結末に導けなかったのは少々不満があるが、それ以上に良い答えを聞けたのが彼をそうさせているのかもしれない。
「……はあ、そうですか。じゃああれですね。そこまで想っていただけているのなら、これは隠さず言いましょう。私の頬にも口づけしてください」
「ふぇえ?!ちょっと待った、何故そうなった?!」
”私の頬にも”というディートリッヒの口振りからすると、スキュブの頬にほぼ毎日キスしていることがばれている可能性が高い。
ソースはどこだろうか。あれはガチで秘密にやっていたのだが。
「え、そこで躊躇するんですか?お兄様には毎日されているんでしょう。じゃあ私にもできますよね?」
「何で知ってんの?!」
「お兄様が言ってましたよ。お姉様が頬に口づけしてくれて嬉しいと」
犯人はスキュブだった。絶対に許す。……何となく予想はついたが。
ガチ秘密のアレが赤の他人にまだばれていないことを幸運と思ったほうが良いだろう。
「お前に言うほど嬉しいのか……かわいいやつめ……」
「目の前がぱちぱちして、心臓がどきどきするって言ってましたよ」
「マジかわいいな……」
「じゃあその次にかわいい私にもできますね?」
「自分で言うか……まあ、確かに……事実だけど……」
「じゃあ、ほら」
ディートリッヒは首を少し傾けて、アヤネの正面に自分の頬がくるようにする。
アヤネは少しばかり唸った。
恥ずかしいのであまりしたくないのだが、お兄ちゃんのスキュブにはできるのに弟の彼にはできない、というのはかなり不公平ではないのだろうか。
兄弟間の扱いに差があるというのは個人的にかなりこころが痛い事象である。
ここで嫌だと言えばディートリッヒは悲しい思いをするだろう。それは口づけすることよりももっと避けたいことだ。
アヤネは覚悟を決めた。ゆっくりと息を吐いてから一気に距離をつめ、唇が触れるだけの口づけをする。
顔が燃えているのでは、というほど熱くなってきたのですぐに唇を離し、両膝を抱きかかえてディートリッヒの様子を伺った。
……彼はなぜかじとーっとした目でアヤネを見つめている。
何か不満でもあるのだろうか。
「あー……はい。分かりました。お兄様の口づけがヘタクソな理由が。原因はお姉様ですはっきり分かりました」
「えぇ?!何だよそれ?!ちょ、どういうこと?」
「どういうことも何も、私への口づけ、お兄様はお姉様のを真似てたんですよ。お兄様はそれしか分からないから。だから触れるだけのしかできないんですね。
あーあ。もっとはやく口づけの仕方とか教えてあげればよかったです。今日教えたのでいいですけど。」
「仕方ないじゃん!わたし誰ともお付き合いしたことないし!
てか何教えてるの?!別にいいけどさ、むしろお前に教えてもらったからうまくやってみせるってはりきるスキューは絶対にかわいいだろうけどさ!」
「それは知ってます。カヨが言ってました。
それと、お兄様は私に教わった通りにできるでしょうけど、興奮してきたらどうなるか分かりませんね。まあ、そこらへんはお姉様がどうにかしてください」
「あいつ……知らないうちに色々言いやがって……やっぱR18フォルダの中身さらそ。」
「何が入ってるんです?」
「蛇の交尾と丸呑み関係作品」
「……それは……性的なもの、ということになるんですか?」
ディートリッヒが微妙な顔で首を傾げている。
「あいつにとってはそうなんだろうなぁ……丸呑み作品なんて、本当に抵抗の術なく丸呑みされてっていうものばっかりだけど」
「……カヨのことですからねぇ、そこらへんの女性とは趣味嗜好が違いますから……」
「分かるわ……わたしは人のこと言えない気がするけど」
「あら、お姉様はどんな変わった趣味をお持ちで?」
「……え~……あ、スキューの写真だらけのアルバムがあるとか……」
「お姉様らしいですね。何冊になったんですか?」
「百三冊」
「はぁ?!一年あたり十冊分くらい撮影するんですか?!」
「するよ。月の民の技術により作られた、『簡単!撮影丸!』があるからね。気軽に撮りまくってる」
アヤネは髪の毛を耳にかけ、耳たぶにピアスのようにつけてある超小型カメラを見せた。
月の民の技術をふんだんに利用した便利なアイテムである。
どういう仕組みか分からないが、指で触れると撮影ができるカメラだ。髪の毛が触れていても誤動作しない。
因みに撮影したものは工房のプリンターのようなもの――ただの四角い鉄塊なのでそのような表現となる――から現像されて出てくる。
便利だ。便利だが、おかげさまでプリンターのようなものの周囲にはスキュブの写真が大量に散乱しているという事態が何度もおこっている。
「……私と出会う前の、お兄様の写真って、ありますか」
「あるよ。最初のアルバムはいつも持ってる」
アイテムポーチからアルバムを取り出した。
アルバムの背にはNo.1と書いてある。全体的に小さな傷や多少の汚れがあり、そのさわり心地は幼いころに読んでいた絵本に、大人になった手で触れたときのそれと似ている。
十年という年月を感じさせるものだった。
「えーと……あったあった。見てこれ。寝てるときに唇をつんつんしたらぱくってされたやつ」
出会って間もないころのスキュブの寝顔だ。アヤネの指をむにゃむにゃとしゃぶっている。
「まあかわいい。赤ん坊のようですね。」
ディートリッヒはにこやかに写真を見つめた。
「でしょ。あとね……これ。初のドラゴン狩り成功祝いで、晩ご飯超豪華にしたときの。」
驚いた表情をしながら泣きそうになっているスキュブだ。
人間の太もも――アヤネのクローン個体のものである――を焼いたもの、唐揚げ、新鮮な野菜がたっぷりのサラダに焼きたてのパン。りんごジュースもついた豪華な晩御飯がスキュブの前に並んでいる。
「最初さ、これが自分のぶんだって分からなくて首傾げてたんだよ。わたしがお前のぶんだぞって言ったらめっちゃ驚いて。そのうち泣き出しちゃってさ、こんなにたくさんですごいご飯ははじめてって言ってたっけ。」
懐かしかった。まだ言葉も拙く、毎日怯えて過ごしていたころだ。
泣きながら口いっぱいに頬張っては、おいしい、ありがとう、と言って食べていたスキュブの姿を思い出す。
「……お姉様とであって、共に過ごして、だいぶ表情が穏やかになったのですね、お兄様は」
ディートリッヒは悲しみも安堵も一緒になったような微笑みを浮かべている。
「今の表情の方が明るいですもの。他人から見たら分からないでしょうけど……
でも、私達には分かる。その瞳に陽が射しているのが。」
三つ編みにされた髪の毛をもじもじと弄るスキュブの顔の輪郭を指でなぞって、ゆっくりとまばたきをした。
薄暗いなかでも柔らかな光を帯びているような白い睫毛は、深い愛にぬれている。
「私も、一緒だから。きっと、お姉様も一緒だから。」
音もなく身体が傾いて、アヤネの肩にディートリッヒの頭が軽く触れた。
しっかりとした、中身の詰まった重さを感じる。それは確かにそこにあるという、存在の証明、質量であった。
――何故だろう、あたたかい。それほど近く、傍にいられる身内が今の自分にはいる、ということだからだろうか。
「ああ。なるほど。この気持ちが……繋がりというものなのですね。血の繋がりより深く、私達を結んでいる……」
そっと手のひらが重なった。仄かにあたたかく、やわらかい。
体温が伝わって、言葉からあふれでたこころが触れあって、互いの気持ちが何となく通じているような気がした。
目をあわせなくても分かるような、ぬるま湯のなか、同じ夢を見るような。いちいち互いの気持ちを確かめることもないような温度であることは確かだ。
「ありがとう、お姉様。こころが少しだけ、軽くなりました」
「ふふふ、そりゃどうも。こっちこそありがとうね」
空いているほうの手でディートリッヒの頭を撫でると、自然と口元がほころんだ。
かわいい弟だ。まわりくどくて、素直に甘えることのできない、大人びて、背伸びした子。
スキュブのことも、アヤネのことも、カヨのことも離したくなくて、その手は足元を掴み、すがるようなのに、そんな素振りを見せないようでいて、ちらりと見せることもある。
よく見なければ見抜けない、矛盾をかかえたそのこころは、思わず顔に出てしまう感情を隠すために部屋のあかりを消してしまう。
だけど隠したさきにあるやわらかな自分を見つけてほしくて、微かな光を招くのだ。
その証拠に、カーテンをよく観察してみると、それの厚さが薄いことが分かる。
ぬるい闇、薄いカーテン。
それが彼にある、好意あるものに対してのこころの壁だ。
拒んでいるようで拒んでいない。むしろ薄い壁をめくって入ってきてくれるのを待っているのだ。
蛇というのは、人間に対しては臆病であることが多い生き物である。
静かに忍び寄って獲物を狩る様子や、毒を持っているイメージから怖がられることが多いが。
実際、下り坂をかっとばしている自転車と遭遇した蛇がびっくりして、草むらに隠れて出てこなくなってしまった……なんてこともあった。
噛んだり、襲いかかってくるのは、警戒、威嚇をしてもどうしようもなかったために、ということもある。
本当は臆病で、よく見てみるとかわいい顔をしていて、にょろりと日向ぼっこをしている。
害さぬように遠くから見るのなら、かわいい生き物のひとつなのだ。
だが、このことを知るのも手に入る知識によって、だ。
あの日、彼のことを恐れ、逃げるようにして去っていった子どもたちがそれを知っていたか、そのようなこころの余裕があったかというところは、それを見ていた雲の切れ間からの薄明かりでさえも分からない。




