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君を好きでよかった

 隣であなたが笑っている。

 私はあなたと、いつまでこうしていられるんだろう。


***


 泣きつかれて死ねたらいいのに。


#142

2019年6月23日

 夜、独りでベッドに入っていると、「このまま眠って目覚めなければいいのに」と思う。目を瞑ったら、知らないうちに呼吸が止まって、朝日が昇る前に私の身体は冷たくなっている。静かな部屋で、タンスや机やピアノと同じように、うんともすんとも言わない。主を亡くした家の扉は閉ざされたまま、やがて外では知らない人たちが起きて活動を始める。誰一人、私がいないことに気が付かない。そうして私の存在は、肉体もろとも腐敗して消える。

 私は、寝転がったまま暗くて狭い天井を見つめ続けた。換気扇が回る音が聞こえる。外からは虫の鳴く声がはっきり聞こえる。田舎だから車が走る音はあまりしない。あまりに静かだから、色々なことを考えてしまう。もしこのまま私が死んだら、最初に死体を発見するのは誰だろう。大家さん? 同じ学部の友達? 警察? ママもおばあちゃんも遠くに住んでるから、たぶん私の姿を見るのはもっと後になると思う。

 明日は午後から授業が入ってる。同じゼミの子は私がいないことに気付くかな。それとも、寝坊と思って放置かな。私はLINEの返信が普段から遅いから、もし友達から連絡が来て返事がなくても、みんなきっとそんなに不思議には思わない。ひょっとしたら、発見には一週間くらいかかるかも。隣に住んでる子に「異臭がする」って通報されて、初めてみんな気付くのかもしれない。そのころにはもう、今寝ている布団ごとぐちゃぐちゃで、身体のどこを見ても生きてた頃の私の姿なんて、きっとみんな思い出せない。

 毎日毎日、私は寝る前にそんなことをぐるぐる考える。十分、二十分、時には数時間。そのうち、だんだん瞼が重くなってくる。おやすみなさい。幸運にも私に明日が来ませんように……。


#143

2019年6月24日

 目が覚めた。何事もなく、当然のように。薄暗い部屋の中、カーテンを閉じていても漏れだしてくる日光が憎い。枕もとのスマホに手を伸ばし、画面の明るさに顔をゆがめながら時刻を確認すると、午前九時十六分。死にたい私は、やはり、目を覚ましてしまう。

「はあ……」

 ため息をつきながら布団から這い出る。足も手もちゃんと動く。心臓も動く。

 とぼとぼと歩いて台所に行く。夏の気配が近づいた室内の空気は、なんだかじっとりむかむかする。冷蔵庫を開けるとひんやりした冷気が頬に触れた。妖精の体温ってきっとこんな感じかもしれない、なんてメルヘンなことを思ったり。

 でも、次の瞬間、私は思いなおす。

 ああ、やっぱり、妖精なんていないや。神様もいないし。

 昨日買ったオレンジジュースが残ってたから、ガバリと飲んだ。甘酸っぱい味が心の隙間にどくどく流れ込んで痛かった。

 ジュース飲んだら、顔を洗って歯磨きして、綺麗な服を着て、お化粧。今日の授業は大講義室であるから、たくさん人と会う。浮かないように、上手く紛れるように。みんなの記憶に私が残らないように。


#144

2019年7月4日

 LIVEを並べ替えると、EVILになるって、昔ドラマで見たことある。生きることは、悪いこと。私にとっては。憂鬱を抱えて、毎日朝が来るのが怖いのに、ちゃんと身体は生きている。命を無駄に使ってるみたいで、やりきれない。世界中で、毎日人が死んでて、その中にはまだ生きていたい人もたくさんいるのに。死ぬべきだったのは、あなたじゃなくて私なのに。かと言って、自分を殺せる勇気がまだないから、今日もこのブログを更新する。あーあ。そういえば、昔、「唯ぼんやりとした不安」から自死した小説家がいた。私の憂鬱は、はっきりと形があるのに、私を殺してくれない。臆病だから。


#145

2019年7月18日

 私は私の顔が嫌い。朝、まだぼんやりする頭で歯を磨きながら鏡を覗き込むと、まるで人間の顔をしていない女が一匹。醜すぎて吐き気がする。

 口を水でゆすいで、顔を洗って、もう一度鏡を見る。化粧をしよう。化粧水を塗ってクリームを肌にすり込んで、ファンデーションをしたら、目元に鮮やかな色を付ける。睫毛をぐいぐいとビューラーで上に持ち上げたら、次は頬にもほんのりピンクを付ける。まるで絵を描いているみたいだ。数十分かけて顔を描き換えたら、最後にすっと口紅をひいた。よし、この顔ならきっと大丈夫。

 服もしっかり着替えて髪の毛を整えて、もう一度鏡の前に立つと、そこにはちゃんと人間の姿があった。もっとも、人間の姿に必死で作りなおしたはりぼてなんだけど。

 私は、鏡の前で少し体を揺らして見せた。ひざ下ぐらいの長さのスカートが、ふわりひらりとダンスする。どこからどう見ても普通の女の子になりきっていた。大学の友達は、みんな私をおしゃれが好きな女子だと思っている。おしゃれは鎧。誰も、これ以上私を知ろうとしないための盾。誰も私の体の内側が真っ暗で空っぽなことは知らない。

 人間の形をした何か、女の皮をかぶった化け物……。人になり損ねて毎日死にたい私を、誰も気が付かない。いや、気付かれない方が、良いのです。

 誰も私に触れないで、気が付かないで。きっと私はあなたを不幸にします。



「なに、これ……」

 僕は、思わず呟いた。手に持ったまま一口もかじっていないアイスキャンディーがとろとろと溶け出して、つー、と腕を伝う。クーラーの音が、頭上からごうごうと鳴り響いていた。

 夏休みが目前に迫ってきた今日、7月28日。大学から課された期末レポートがひと段落付き、休憩がてら適当な言葉を検索したりしてネットの海をさまよっていたらたどり着いたのが、今読んでいたブログだ。『泣きつかれて死ねたらいいのに。』という暗めのブログタイトルに魅かれて、何の気なしにクリックしてしまった。ブログの内容は、タイトルと同じく暗いものだった。と言っても、僕が読んだのは最近投稿された4記事だけで、全部読んだわけじゃないけど。ブログにしては嫌に生々しく文学的で、でも小説というには少し拙い。しかし、文章全体を通して、まるで黒いベールをかけたように仄暗く、柔らかく漂ってくる憂鬱の匂いに僕はなんだか心を奪われた。

 だけど、それ以上に、僕の心には引っかかるものがあった。

 この文章を目にしたとき、何故か初めて読んだ感じがしなかったのだ。言葉の使い方、比喩表現、句読点を打つタイミング――全部、知っている気がした。どこで読んだのだろう。誰が書いたのだろう。この文章には、石ころ程度の違和感だけど、妙な胸騒ぎを起こす居心地の悪さがある。

 僕はマウスをカラカラ動かしてパソコン画面をスクロールした。画面の一番上に、『泣きつかれて死ねたらいいのに。』とブログのタイトルが表示される。そこをクリックすると、ブログの概要と、執筆者のプロフィールが表示された。


 哀田 詩央

 性別 女性

 1999年12月28日生まれ。二十歳になる前に死のうと思っています。でもまだ勇気が出ないから、決心がつくまでこのブログに想いを綴ります。


 あいだ しお、と読むのだろうか。その名前に聞き覚えはなかった。それよりも。

「にじゅっさい……しぬ……?」

 あまりのことに間抜けな声が漏れた。僕は咄嗟に机の上に置いていたカレンダーを見て、再び今日の日付を確認する。2019年7月28日。

「残り5か月じゃん……」

 彼女が決めた命の期限はちょうど5か月だった。もう半年もない。それに、5か月いっぱい生ききる前に、決心がついてしまう可能性もある。

 僕は、もう一度前の画面に戻って最新の記事の日付を確認した。7月18日で更新が止まっていた。十日も空いている。もしかして、この間に、死んだんじゃ……。

 そこまで考えてはっとした。何で僕はこんなに真剣になっているんだろう。所詮偶々ネットで見かけただけの、何処の誰かも知らない人のブログじゃないか。書いてあることが本当かどうかもわからないのに。

 なんとなく馬鹿らしくなってふっと鼻で笑った。左手のアイスキャンディーが、助けてくれと言わんばかりにぽたぽた汗をかいている。僕は二、三口、がぶがぶと嚙みついて一気に飲み込んだ。ソーダ味とともに頭の奥がキーンとした。

 きっと、誰か有名な作家の文章の真似でもしていたのだろう。ブログの中でも、小説家について触れていたし。だからなんとなく見覚えがあったのだ。あと、プロフィールを見たとき、彼女が僕と同い年だったから、妙に親近感がわいてしまったのかもしれない。

 机の上に零れ落ちていたアイスキャンディーのしずくをティッシュで拭きながら、そう納得した。僕は丸めたティッシュとアイスの棒をゴミ箱に投げ入れ、画面の向こうで自殺願望を抱える僕と同じ年の女の子のことも、簡単に片付けてしまった。




 8月になった。すべてのテストとレポートの提出が終わり、正々堂々、夏休みを手に入れた僕は、早々と帰省の準備を始めていた。同じ学部の友達は、もう少し大学があるこの街で夏を過ごすようだけど、僕は正直言って地元にいる方が好きだ。僕は大学に通うためにこの街に来るまでは、地元は田舎だと思い込んでいた。九州の北西部、海に囲まれ街じゅう坂ばかりの地元は、確かに大都会とは言えない。しかし、大学周辺は地元をはるかに上回るド田舎だった。建物の平均身長がまずめちゃくちゃに低い。見渡せば山。畑。田んぼ。大学から駅までが遠い。駅には何もない。星空と空気が綺麗なところだけは褒めてやる。でも、こんな場所じゃ、せっかくの夏が枯れてしまう。

 明日の今頃には、僕はもう地元に帰っている。

 今年の夏は、何しよう。誰と会おう。

 頭の中に、白紙のやりたいことリストを広げる。

 1人暮らしの部屋の中、窓の外からのまぶしい日差しと騒がしい蝉の鳴き声を背中に浴びながら、僕はキャリーケースにTシャツとズボンを詰め込み、上機嫌で鼻歌を歌っていた。


 翌日。

「いててて……」

 顔をゆがめながら、小声で呟いた。朝一番の高速バスに乗って約2時間。途中で乗り換えてまた2時間。居眠りをしていたら、実家がある街に着くころには僕の首は完全に石化していた。

 バスを降りて、すっかり凝ってしまった首をぐるぐる回す。長旅だった。しかし、やっと到着したのだ。適度に背の高い建物が、道に居心地のいい影を作っている。大きな道路には市民の足、路面電車も走っている。商店街にもちゃんと人がいる。めちゃくちゃ都会ではないけど、なんだ、やはり地元は栄えてるじゃないか。星が見えない代わりに、こっちには夜景があるんだ。

 僕は、キャリーケースをひきながら、数か月ぶりの賑やかな街並みを見て、なんだか勝ち誇ったような気分になっていた。

 バス停から、実家の方向へ歩き出す。その時。

「葉ちゃん!」

 久々にその名前で呼ばれた。振り返ると、中学の時の友達である康太が手を振って駆け寄ってくるところだった。懐かしい人物の登場に、僕は首の痛みも一瞬で忘れた。

「ひさしぶりー!」

「ひさしぶり! 今帰ってきたの?」

「うん。ついさっきバスが到着したところ」

 ナイスタイミング、と、康太は笑った。

 康太は現在、地元の専門学校に通っている。彼も今は夏休みのようだ。偶々、僕の姿を見かけ、声をかけてくれたらしい。

 僕たちは、久しぶりに二人並んで家までの道のりを歩いた。昔よく遊んだ公園や、大好きだったアイスクリーム屋さんが見えると、その都度話題が沸き上がる。約束もしていない、偶然会っただけだけど、僕の心は一気に中学の頃まで舞い戻っていた。会わない時間が続いても、顔を合わせればまるで昨日までずっとそうしていたかのように会話ができる。友達ってこういうものだとつくづく思う。

「そういえば」

 もうそろそろお互いの家が近づいてきた所で、康太はふと思い出したように口を開いた。

「俺、昨日駅前で葵ちゃん見かけたよ」

 葵。久々に聞くその名前に、心臓の裏側がドキリとした。

「そうなんだ」

 平然としたテンションで言う。僕があからさまに視線を逸らしたからか、康太は少しにやりとして僕の顔を覗き込んだ。

「あれ? 興味ない感じ?」

「興味ないもなにも……。何年も前の話じゃん。ほとんど忘れてたよ」

 ほお~、と、なおもニタニタしている康太の頭に、僕は軽くチョップをきめた。康太は、大きな声で盛大に笑った。

「いやあ、でも、本当に久しぶりに姿を見たからさあ。俺もちょっとびっくりしたんだよ。葵ちゃんも、今のお前みたいに大荷物抱えてたし、きっとこっちに帰ってきたところだろうと思ったけど。どこの学校に行ってるとか、知ってる?」

「知らない」

「そっか。……もう、葵ちゃんとは、連絡とってないの?」

 とってない。僕が頷くと、康太は、そうかあ、と腕組みをして斜め上を見上げた。まだギリギリ12時手前、太陽はまだ一番高い場所には届かないけど、強い日差しがアスファルトの上の僕たちをじりじり攻撃する。蝉の声がじうじうと、乾いた風に乗って流れていった。


「じゃあねー」

「じゃあね! 今度遊ぼうな」

 康太と別れて、ひとり、家族が待つ家への道を歩く。マンションの2階、数か月ぶりの玄関の前に立つと、心がふわりと軽く浮いた気がした。

 がちゃり。扉を開ける。

「ただいま」

 父の革靴、母の靴、妹の運動靴。玄関に並べられたそれらと、家の奥から少し遅れて返ってきた「おかえり」の声に、僕はふーっと、長く息を吐いた。

 夏休みが、帰ってきた。


 久しぶりに入った自分の部屋はかなり埃っぽかった。おまけに、1人暮らしを始めるときにかなり処分したとはいえ、中学や高校の参考書、もう着ないであろう洋服類もまだ残っている。僕は、脳内にある「この夏のやりたいことリスト」の一番上に、「部屋の片付け」を追加し、さっそく作業を始めた。

 ごうごうと、クーラーが低い唸り声をあげている。僕の部屋は日当たりが良いうえになんだか今日は冷房の調子が悪いらしく、掃除をしているとじんわり汗をかいた。あんまり暑いから、昔のアルバムや教科書のとりとめもない落書きを見かけるたびに、僕はいちいち手を止めて眺めてしまう。ちょっとした落書きを見るだけで、その時の授業の様子がふわりと蘇った。友達や、今はもうどうしているのかわからない誰かの声に遮られて、なかなか作業が進まない。

 だめだ、一度、休憩しよう。

 僕は、手に持っていた思い出を一度床に放置して、自分の部屋を後にした。


 台所では、母が昼ご飯の準備をしていた。そうめんを茹でる何とも言えない湯気の匂いが立ち込める。

「帰ってくるなり部屋に引きこもって、何してたの」

 ゆで上がった麺を水でしめながら、僕の姿を横目に見て、母はさっそく小言を言う。

「部屋の片付け」

「……そう」

 はい、と、水を切ったそうめんが入った皿を渡される。ガラス容器の、ひんやりとした感触が僕の手のひらを優しく冷やした。

「ありがとう」

「茹でればまだあるから、たくさん食べて」

「うん」

 リビングには、新聞を読んでいる父。妹は部活に行っているようだ。父と母と三人で食べたそうめんは、少しのびて柔らかかった。


 午後。

 お腹が満たされた僕は、再び自分の部屋で片付けを開始した。教科書やノートはひもで縛ってまとめて、このプリントはゴミ袋へ、このペンももうインクが出ないから捨てる……。順調なスピードで片付いていった。今の自分にとって必要なものと要らないものの区別が、きちんとつけられるようになっていた。

 机周りがかなり片付いた。本棚の中も、もう教科書やノートはほとんど残っておらず、好きな漫画や雑誌ばかりが並んでいる。

 ふと、本棚の一番下の段の端っこに、漫画の陰に隠れるようにひっそりと置かれていた、一冊のノートを発見した。

 昔の授業用ノートだろうか。

 しゃがんでそっと手に取ってみる。無地の茶色い表紙には、自分の名前も教科も書かれていない。僕は首を傾げながら、静かに表紙をめくった。


「あ……」


 中の文字を見て、トスン、と、心臓に衝撃を受けた。

 僕の書く乱雑な文字とは違う。繊細で、柔らかい筆跡。

 葵の字だった。これは、葵が書いた小説だ。


 蓋をしていた記憶にぼんやり、灯りがともってゆく。僕は、彼女が綴った文字を指先でなぞった。


 僕と葵は、中学一年生の時に出会った。同じクラスで、同じ図書委員。

 初めはお互いそっけなかった。でも、放課後、一緒に図書室で本の貸し出しの当番をした後、なんとなく一緒に帰るようになっていた。葵は、教室でも図書委員の仕事の合間にも、いつもノートに何かを書いていた。

「ねえ、いつもノートに何を書いてるの?」

 ある日の放課後、図書室で本棚の整理をしながら僕は聞いてみた。葵は、少し顔を赤らめて、「小説……」と教えてくれた。

「読んでみたい!」

 少しの間も置かず、一生懸命にそう言ったのを覚えている。僕は、あまり小説を読まない。図書委員だって、本好きだから、ではなく、仕事が楽そうだからなっただけだ。でも、葵の書く物語なら、読んでみたいと思った。少しでも葵の心の中身を覗いてみたいと思った。

 それから、葵は小説を一本書き終えるたびに、僕に見せてくれるようになった。交換日記ならぬ、交換小説。交換、と言っても、僕は物語を書けないから、葵の書いた世界を僕が一方的に追いかけるだけだったけど。

 葵はいろんな話を書いた。ファンタジー、ミステリー、恋愛物語。笑えるような話も、涙が零れるような話も、いろいろ。僕は夢中で読んだ。葵が紡ぐ言葉一つ一つが好きだった。

 そして、新しい物語を書いた後、僕にノートを渡してくれる時の照れたような微笑みも、好きだった。


 今思えば、あれは恋だった。


 僕はのろまで自分の気持ちに気付くのが遅かった。いや、幼かった僕には自分の気持ちを認める勇気がなかったのだ。あれほどたくさんの言葉を彼女は僕にくれたのに、僕は何も言えぬまま。卒業してしまった。お互い別の高校に進学してからは、連絡を取ることもなくなった。


 僕は、もう一度、手に持っていたノートに視線を落とす。きっと、葵に返し忘れていたのだろう。ゆっくりページをめくれば、彼女の姿が鮮明に蘇る。小さな唇と、長い睫毛と、セミロングの少し茶色がかった髪。懐かしさとほんの少しの寂寥感が僕の内側を包んだ。

 読んで、みようかな。もう一度。

 僕は、あの頃と同じように、丁寧にその物語を辿っていった。ところが。

「え、この言葉……」

 呟いて目を見開く。数ページ読み進めたとき、その言葉はあった。一瞬、息が止まった。


 家に帰ってお風呂に入って、髪を乾かした後、私は冷蔵庫を開ける。バニラアイスが一つ、黙ってそこに眠っていた。冷蔵庫の中から、ひんやりした冷たい空気が頬に触れる。火照った体にはちょうどいい。妖精の体温ってきっとこんな感じかもしれない。

「……んふふ」

 自然と、微笑んでいた。

 私はアイスクリームが大好き。特にバニラアイス。卵とミルクの優しい味が口に広がると、君のことを思い出せるから。……



 主人公の少女がアイスクリームを食べるシーン。何でもない場面のはずだった。でも。


“妖精の体温ってきっとこんな感じかもしれない”


 彼女独特の比喩表現。だけど、僕は最近この表現を見た。

 内臓の奥深くがざわめいている。僕は咄嗟にポケットからスマホを取り出して、検索画面を表示した。

『泣きつかれて死ねたらいいのに。』

 特徴的なブログタイトル。指先でその文字をタップする。

 2019年6月24日の投稿。


 夏の気配が近づいた室内の空気は、なんだかじっとりむかむかする。冷蔵庫を開けるとひんやりした空気が頬に触れた。妖精の体温ってきっとこんな感じかもしれない、なんてメルヘンなことを思ったり。


「あ……!」

 心臓の鼓動が警報のように高鳴っていた。

 僕はブログの文章を読み漁った。まだ読んでいなかった投稿も、20ほど遡って読んだ。

 たった一つ、表現が同じだっただけじゃないか。そう思って無視しようとした。でも、読めば読むほど、心の中の警報音は脳みそを揺らすほど煩く鳴り響いた。このブログを初めて見たときに感じた石ころ程度の違和感が、どんどん形を持ってはっきりしていく。このブログの文章は、葵の書く小説の文と似ていた。

 落ち着け。落ち着け! 偶然だ。名前だって違う。そういえば、葵の誕生日はいつだっけ。哀田詩央の誕生日は12月28日とあった。葵の誕生日も……12月の……。

「28日だ……」

 思わず口に出していた。背中からぞわっと寒気がした。

 葵の誕生日も、12月28日だった。クリスマスと大晦日のちょうど真ん中だと、いつか葵が言っていた。

 僕はとうとう、画面をスクロールするのをやめた。画面に表示される言葉全てが、彼女の後ろ姿を指さしているようだった。

 スマホを床に放り投げる。ごん、と鈍い音がする。

「葵……」

 どうしようもなくて呼んだ名前は、セミの鳴き声が攫って行った。

 ようやく効き始めた冷房の音が、ゴーゴーと頭上に降りかかる。体は冷えているのに、汗が流れて止まらなかった。

 さっき放り投げてしまったスマホを、もう一度右手でしっかりと握りなおす。震える指で数字をタップする。連絡を取らなくなって数年経っているけど、指先が彼女の電話番号を記憶していた。

 プルルルル……。

 呼び出し音だけが高く鳴り響く。心臓の鼓動がより一層早くなる。


 彼女は電話に出なかった。


 僕はスマホを耳元から離すと、ごろりとその場に倒れ込んだ。仰向けになって天井を見つめる。真っ白な天井が迫ってくる感覚に襲われて、目を閉じた。

 僕は、一体どうしたいのだろう。彼女が電話に出ないことに焦る半面、どこかで安堵もしていた。あの頃、様々な判断を先延ばしにして怠ってきた僕には、今、彼女と電話をする程の権利がないと、知っていたから。

 でも、きっと死んでない。康太が昨日彼女の姿を見かけたって言ってたじゃないか。それに、ブログの著者が葵だって、確実に決まったわけではないんだ。誕生日が一緒くらい、よくあることじゃないか。世界中で、毎日数えきれないほど人間は生まれてる。……

 いろいろ考えて落ち着こうとした。

 でも、胸のざわめきは一向に消えなかった。



#146

2019年8月4日

 テストやレポートに追われて、暫くブログの更新ができなかった。死にたい気持ちが友達にばれないように、大学の勉強は頑張る。勿論、友達のことは大好き。私みたいな欠陥品にも話しかけてくれるみんなに感謝してる。だからこそ、私は普通にしてなきゃいけない。

 昨日、地元に帰った。久しぶりに会ったおばあちゃん。最近電話で「腰が痛い」って言ってたから心配してたけど、元気そうだった。

「ただいま」

 おじいちゃんの仏壇に手を合わせる。

「おじいちゃん、よろこんでるみたいだねえ」

 くるくる丸くなってなかなか落ちないお供えの線香の灰を見て、おばあちゃんがそう言った。

 夜になって、ママが仕事から帰ってきた。スーツをきっちり着たママは相変わらずかっこよくて綺麗だった。ママが私のママでよかったと、心から思う。お酒をたくさん飲むところは心配だけど。その夜は、久しぶりにママの隣に布団を敷いて寝た。

 私が死んだら、きっとこのブログはママもおばあちゃんも見ると思う。2人にはやっぱり申し訳ない。こんな娘でごめんなさい。正しく生きることができなくて。


 夜、寝る前にブログを確認したら、新しい投稿が二週間とちょっとぶりに更新されていた。このブログが葵のだとは認めたくないけど、とりあえず画面の向こうの人物がまだ生きていることに安心した。でも、「昨日、地元に帰った。」というのが、とても気になった。康太は昨日駅前で葵を見たと言った。偶然だと思いたいのに、タイミングが気持ち悪くて仕方がない。

 一体、哀田詩央の言う「正しく生きる」ってなんだろう。死にたい気持ちを抱えてたら人間として認められないのだろうか。欠陥品なのだろうか。僕だってこれまで、どうしても生きていけないような、明日が見えないような日があったけど、それでも、なんとか足を引きずるようにして前を向いてきた。誰だって、たぶん1人1人毎日何かに違和感を抱えながら生きてる。

 ああ、でも、そうか。悲しいとか苦しいって、比べられるものじゃないんだ。苦しい時に「あなたも辛いだろうけど、でもみんなも辛いのよ」は何の慰めにもならない。

 でも、じゃあどうすればいいのだろう。

 もし、このブログの書き手が目の前にいたとして、僕はどんな言葉をかける?

 暗い部屋の中で冷たく光るスマホの画面が、僕の両目を刺激する。


「はあ……」


 ため息をついて、スマホをぽすっと布団の上に放り投げた。目を閉じると、とろとろと眠気が手招いてくる。僕の思考は闇の中に連れ去られた。



 それから毎日、僕はブログを確認した。しかし、一週間経っても更新されなかった。

 もともとこのブログは、何日に一回更新するとか、何曜日に投稿するとかの決まりがないらしい。だから、一週間くらい間が空いても、たぶん大丈夫だ。それに、きっと死ぬならその直前に何かメッセージを残すはずだ。「今から死にます」とか。

 僕は、8月4日で止まったままの日付を見るたびに、そうやって理由をつけて納得しようとした。

 ただ同じ日に生まれて、文章の書き方が似ているだけ。だけど、気が付けば葵のことを考えている。葵は哀田詩央ではないと信じながら、やっぱりどうしてもモヤモヤが残った。過去の投稿を遡ってみれば何か手掛かりがあるかもしれないと、いくつか読んでみたけど、特にこれといった情報はなく。哀田詩央が死にたい原因もはっきり記載されていなかった。

 それなのに、読めば読むほど言葉の端々に葵の影を感じる。嫌になるので過去の投稿を読むのを辞めた。そしてやはり、もう一度葵に電話をかけてみる勇気も、僕は持ち合わせていなかった。


 そんな悶々とした日々を過ごしているとき。


 パァン!


 夕方、赤く熟れた太陽が町中を染める頃、窓の外で爆竹が弾ける音がした。

 蝉も驚いて黙ってしまうほどの騒音。僕は思わずベランダに出る。見下ろすと、大きな精霊船が、ゆっくりゆっくり道を進んでいた。

 そうか、もう、お盆になってしまったのか。あのブログを気にするあまり、ずっと気持ちが落ち着かず上の空だったから、気付かなかった。

 地元のお盆は騒がしい。豪華な精霊船と人ごみと、鳴り響く爆竹の音。一瞬お祭りかと錯覚しそうになるが、死者の魂を送り出すための、れっきとしたお盆の行事だ。県外に出るまではこの騒がしさが普通だと思っていたが、大学の友達の話によると「お盆は静かなもの」らしい。

「わあ、見て! あの船、すごく大きい」

 洗濯物を取り込もうとベランダに出てきた母が指さした。まだ少し遠くにいるその船は、数十人ほどの法被を着た人々を引き連れて、悠々と道のど真ん中を進んでいる。飾りつけも煌びやかで、沢山の提灯にはくっきりと家紋が浮かび上がり、船が動くたびに色とりどりの千羽鶴や造花が揺れていた。

「かなり気合が入ってるね……。あ、ほら、あっちの船は車の形してる。車好きな人だったのかな」

 時間の経過とともに、人通りも船の数も多くなる。船は、大きさも、形も様々だ。中には故人の趣味を反映させた個性的な飾りつけのものもある。初盆を迎えた遺族は、思い思いの船を造り、故人の霊を乗せて「流し場」という終着点まで運ぶ。初盆でない家の人々も、お供え物を藁包みした「こも」と呼ばれるものを抱えて、指定の場所へ持っていく。

 まるでパレードだった。とある歌手は、歌詞の中で精霊流しを「華やか」と表現している。悲しんでばかりではいけない。明るく派手に華やかに、送り出してやろうじゃないか。きっと、そんな想いが船たちに込められているのだろうなあと、僕は勝手に思う。

 行きかう船を見てひとしきり騒いだ母は、洗濯物を取り終え部屋に戻って行った。僕もそろそろ戻ろうとしたとき、ふと、視界の隅に一人の少女が映った。


 爆竹の火花と提灯で彩られていく暮れの街の中、その人は、まるで影だった。

 真っ黒なワンピースを身にまとい、じっと息を殺すような姿。左の腕にこもを大事そうに包んで、一人で俯き静かに歩く。僅かに残った夕日に染められ、セピア色になった髪が、肩のあたりで風を含んで揺れていた。


 カメラのピントが合うように、僕の両目が彼女に吸い寄せられていった、その時。

 ふわりと、一瞬だけ強まった風が、彼女の髪を乱した。さらさら散らばった髪を、そっと、右手で耳にかける仕草。その横顔に、僕は、目を見開いた。


「葵……!」


 震える声で思わず叫んでいた。あれは確かに葵だった。

 バタバタと、ベランダから室内に戻る。そのまま玄関へ行き、スニーカーを足にひっかけるようにして外に飛び出した。マンションの階段を滑るように駆け降りる。何も考える余裕はない。体が勝手に動いていた。


 大丈夫、まだ遠くへは行っていないはずだ。

 人をかき分けるようにして駆けた。夏の蒸された空気を頬に浴びて、首筋に汗が伝う。

 どれくらい探しただろうか。人ごみの中、かき消されそうな真っ黒なワンピースの後ろ姿を発見した。地面が透けて見えそうな、白い肌めがけて手を伸ばす。

 5メートル、3メートル、1メートル、あともう少し……!

 心臓が、身体の内側で破裂しそうなほど脈打っている。


「葵」


 彼女の名前とともに、その細い右手首を、僕の左の手のひらが引き寄せた。


「葉一、くん……?」


 振り返って目を大きく見開いた彼女が、僕の名を呟く。

 パラパラパラ……。爆竹の音が遠くで鳴り響いた。硝煙で霞む視界と、その隙間にゆらゆら灯る光。交通規制の警察官の間をすり抜け、大通りのコンクリートの中を泳ぐ精霊船たち。

 360度、異世界の街の中で、やっと、追いついた。

 張りつめていた緊張の糸が風に溶けてゆく。僕は大きく息を吐いた。

 しかし、その瞬間、安堵するとともに、僕の頭の中に彼女にかける言葉が何も用意されていないことに気付いてしまう。

「げ……元気にしてましたか!?」

 勢いよく叫んだ次の言葉は、たどたどしくて何とも間抜けで。でも、

「うん……。たぶん、元気……」

 少し視線を逸らしながら、彼女はちゃんと答えてくれたのだった。


 葵は、おじいさんのこもを置き場まで持って行くところだった。

「本当はお母さんとおばあちゃんも来る予定だったんだけど、おばあちゃん、今朝からずっと腰が痛いって寝込んでて。お母さんもおばあちゃんの傍についてないといけないから、私だけになっちゃった」

 一緒に並んで歩きながら、彼女は少し寂しそうに笑った。

 またしても、あのブログの内容が僕の頭に過ってしまう。爆竹のけたたましい高音が鳴り響く中、僕は注意深く彼女の発する一言一言に耳を傾けた。

 その時、目の前を、1メートルにも満たない小さな精霊船を抱えた、若い夫婦が歩いて行った。船には可愛らしいぬいぐるみやおもちゃが沢山載せてある。

 心の奥が、きゅっとなった。華やかな景色の中、ここにいる人々はみな、大切な誰かとの過去を抱えて歩いている。

「おじいちゃんの初盆の時も、あれくらいの大きさの船だったなあ」

 ぽつりと、葵が目の前の船を見つめながら言った。

「薄いピンク色の小さな提灯がたくさんついた船だった……。そしたら、船を持って外に出ようとしたとき、提灯がころころ転がって落ちちゃって。元の位置に戻しても戻しても落ちるから、お母さんちょっと困ってたなあ」

 葵は、懐かしそうに目を細めた。

「おじいさん、まだ帰りたくなかったんだよ、きっと」

 僕がそう言うと、葵は少し驚いた顔をして、ふふっと小さく笑った。


 「こも置き場」と大きく書かれた立て看板が目に入った。広い公園の片隅に、たくさんのこもが並べて置かれている。こうして集められた藁の包みたちを見ていると、やはり独特な行事だなあと思う。

「じゃあ、行ってくるね」

 そう言うと葵は、こも置き場の人だかりの中に入っていった。僕は立ち止まって、その後ろ姿を眺める。しゃがんでそっとこもを置いた後、線香を炊いてお参りする葵。暫くその場で手を合わせ、まるで、じっと、祈っているようだった。その姿を見ていると、僕の頭は次第に冷静になってゆく。

 そういえば、おじいさんを見送るのに僕なんかが付いてきてよかったのだろうか……? それに、いくら必死だったとはいえ、久しぶりに会った女の子の腕をつかんでしまったのも、なんだかまずいような気がする。

 急に色々心配になった。でも、それでも。今の自分を認めるとするならば。

 家のベランダから葵の姿を見たとき、「行かなきゃ」と強く思ったのだ。

 雷に打たれたような、まるでもう今を逃したら彼女に会えなくなるような。そんな衝撃と危機感だった。


「おまたせ」

 数分後、黒いスカートをゆらめかせ、戻ってきた葵は僕の顔を見て微笑んだ。

 一瞬、どきっとしてしまう。

「……じゃあ、帰ろうか」

 僕はふいと視線を逸らすと、彼女より少し先に歩き出した。

 もうすっかり空は暗くなっている。街の灯りが、並んで歩く僕たちの影をぼんやりと地面に映し出した。

 なんだか気まずくなって、ぽつりぽつりと会話が途切れる。中学生の頃は身長差があまりなかったのに、今は20センチほど差があった。だから、葵は時折、僕の表情を窺うようにこちらを見上げる。

 でも、違いはそれだけだった。

 声も、表情も、君と僕ごと包む空気も、全部、変わらなかった。

 昔、制服を着て一緒に帰った道。徐々に残りが短くなってゆく。目の前に、緩やかな坂道が見えてきて、すっと懐かしい寂しさが心に流れ込んだ。

 この坂を上って、右に曲がって5分進めば僕の家。左に進んでまた角を曲がって、まっすぐ行けば彼女の家だ。あの頃僕は、いつも手を振って別れた後、彼女が向こうの角を曲がるまで見送っていた。

 今日は、僕も一緒に左の道ヘ進む。

「あのさ、……」

 彼女の家が見えてきて、思い出して恐る恐る聞いてみた。

「この前、電話したんだけど、気付かなかった……?」

 葵はきょとんとした顔をしていた。急いでスカートのポケットからスマホを取り出す。

「電話……。本当だ、かかってる」

 着信履歴を見て、彼女はようやく気が付いたようだ。

「ごめん、この日、一日出かけてて。気付かなかった」

 素直に謝る顔を見て、ほっとした。しかし、

「どうして電話くれたの?」

 率直な質問に、僕は言葉に詰まった。思わずその場に立ち止まってしまう。葵も足を止めると、首を傾げながら僕の方を向き直った。

 君が死んでしまうと思ったから、なんて、口が裂けても言えない。


「葵に……会いたくなったから」


 必死で言葉を振り絞った。今はこれしか言えなかった。

 僕が、こんなこと言っていいのだろうか。会いたくなった、ただそれだけの理由を、彼女は僕に認めてくれるのだろうか。

 葵は、目を大きく見開いて僕のことを見ていた。

 僕たちの間に、凍ってしまったかのような静寂が訪れる。その時。


「私も、あなたに会いたかった」


 静かな唇の動きが、僕の心にそっと触れた。ゆっくりと融けてゆくように、どこか寂しそうに、柔らかく微笑む君。優しくて、綺麗で、儚げで。

 その言葉と、表情だけで、僕は思い知ってしまった。

 ああ、まだ僕は、彼女のことを好きだ。

 でも。

「……じゃあね」

 次の瞬間、葵は、僕が返事を返す前に背を向けた。街灯がぼんやり照らす暗闇の中に、彼女は消えてゆく。

 僕はまた、この後ろ姿を見送るだけなのか。

「待って……!」

 咄嗟に出た言葉。彼女が振り返った。水で濡れたガラス玉みたいな、綺麗な瞳と目が合う。僕は一つ、深呼吸をして、口を開いた。

「明日、また僕と、会ってくれませんか……?」

 もう僕たちは、理由も疑いもなく「また明日」が言える関係ではない。教室という箱に閉じ込められていた頃に保障されていた君との時間は、もう約束することでしか掴めない。

「……いいよ」

 何かを考えるように黙っていた彼女が、やがて、小さな声でそう言った。

 心臓が、トクン、と、ピアノの音のように高鳴った。

 僕と君の明日は、約束された。



「どこ行ってたのよ」

 家に帰って最初に僕を待っていたのは、母の小言だった。

「なんも言わずに急にいなくなってるし。電話にも出ないし」

 電話かかってたのか。爆竹の音で着信音に全く気が付かなかった。

「すみません……」

「もう夜ご飯できてるよ」

 ぷいっとそっぽを向く母。もう一度謝ろうとすると、茶碗を渡され「早く自分でよそって食え」と再び怒られた。

 肉じゃがと、茄子が入ったみそ汁と、白いご飯。僕の好きなメニューだった。


 ご飯を食べて、罪滅ぼしに食器や鍋を洗って片付け、部屋に戻った。

 『泣きつかれて死ねたらいいのに。』ポケットからスマホを取り出して、もう何度も見たそのブログを開く。

「あ……新しいの出てる」

 指先でそっとタップした。


#147

2019年8月15日

 お盆。大切な人を二人、見送ってきた。空に昇ってゆく線香の煙を眺めてると、あなたがそこから私を見ているんじゃないかって、思う。

 何度も、何度も、ごめんと思う。生きてるうちに伝えられなかった言葉たちも、煙みたいにゆらゆら空気を伝って、あなたの元まで届けばいいのに。


 久しぶりの投稿は、それだけだった。

“大切な人を二人、見送ってきた。”

 僕は首を傾げる。葵が今日送ったのは、おじいさん一人のはずだ。

 ふっと心が軽くなった。哀田詩央は、葵じゃない。そう思えるような一文に、やっと出会えた。

 スマホの画面を見るのをやめて、ふーっと大きく息を吐いた。

 机の上に置きっぱなしだった葵の小説ノートが目に入る。文章の書き方は確かに似てたけど、偶然だったんだ。誕生日も。

 葵の小説ノートをそっと手に取る。パラパラとめくると懐かしい文字が沢山、思い出とともに指先から心に流れ込んでくる。

 明日、このノートも持って行こう。

 僕はまだ交わしていない明日の彼女との会話を、空想して自然と微笑んでいた。




 8月16日。葵を迎えに行く時間まであと15分。

 カバンに彼女のノートを入れて、しっかりスニーカーの紐を結んで、家を出る。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」と、母の声が聞こえた。

 外は晴天だった。でも日差しはそんなに強くない。涼しい風と共に、じーじーとセミの鳴き声が耳に届く。アスファルトに落ちた濃い影を踏むようにして、僕は彼女の家まで向かった。


 葵はちょうど玄関から出てくるところだった。僕の姿を見つけた彼女は、白いワンピースと風をまといながら、たったっと跳ねるように小走りで駆け寄ってくる。

「……コンニチハ」

 なぜか彼女の顔を直視できない僕は、彼女の肩越しに遠くの地面を見つめながら、よそよそしい挨拶をしていた。葵の表情は日の光の下で見るとやっぱり少し大人っぽく感じて、それは瞼に乗った淡いピンク色と、薄く色づいた唇のせいだと、遅れて気が付く。

「こんにちは」

 ぎこちない僕の様子がおかしかったのか、彼女も少し笑いながらそう返事をした。


「大きなパフェを食べたい」

 という葵の希望で、僕たちは路面電車に乗って街の中心にある商店街に向かった。市内一の繁華街と言われるここには、地元の人だけでなく観光客も大勢集まる。本屋もカフェもお土産もドラックストアも服屋も、全部同じ屋根の下、ずらりと並んでいるのを見て、ここにいるだけで世界征服できそうだ、なんて大げさなことを考えた。

「ねえ、パフェのお店、何処だっけ」

 かなり広い商店街、しかも久々に訪れたものだから、場所の感覚がまったく掴めなくなっていた。天井の方を見上げて、ぶら下がっているお店たちの看板をきょろきょろ見ていると、人とぶつかってしまいそうになる。

「こっち」

 葵は、そんな僕のシャツの裾をちょんとつまんで、僕の少し前を歩いた。彼女の体温と混ざった風が首元を撫でてゆく。僕は黙って、後ろをついて行くだけだった。

 目的のお店に着いた。入り口横のショーウィンドウには、てかてかとカラフルな食品サンプル達が、少し窮屈そうに並んでいた。この店の料理は基本的にボリュームがある。写真映えして目を惹くものも多いため、テレビや雑誌の取材がよく来るらしい。店の代表選手とも言える、1.2メートルの巨大パフェも、誇らしげにガラスの中でそびえ立っていた。

 葵は、そんな夢が詰まった極彩色のショーウィンドウを前にして、ぴたりと足を止めた。アイスクリームの上に、シュークリームやケーキやクッキーがこてこて乗っかった巨大パフェのサンプルを、ガラスにおでこが付きそうな距離で見つめている。

 ……まさか、あれを食べるって言うんじゃないよな。

 葵の後ろ姿を見て、ごくりとつばを飲み込む。あれは僕ら二人で敵う相手じゃない。

 ところが、僕の心配をよそに、葵が「これ」と指さしたのは、1.2メートルパフェじゃなく、その隣の小さな「シンデレラパフェ」だった。

 シンデレラのガラスの靴を模った容器に、フルーツやクリームやクッキーが、零れ落ちそうなほど綺麗に盛り付けられている。

「このパフェ、かわいい」

 きらきら目を輝かせて、葵は言う。

「……かわいいね」

 楽しそうに微笑む子供みたいな横顔に、僕は返事をした。


 店内はそこそこの人で賑わっていた。レトロな雰囲気漂う、落ち着いた洋風の内装。

 窓際の二人席、向かい合わせで座ると、なんだかデートみたいだ、と勝手にも浮かれてしまう自分がいた。運ばれてきたお冷を熱さまし代わりに一口飲みこんだ。

 店員さんを呼んで注文する。葵はシンデレラパフェ。僕はフルーツパフェ。

「楽しみだねえ」

 そう言ってにこにこ笑う目の前の葵からは、昨日見かけた影のような気配は微塵も感じられなかった。

「あ、そうだ」

 僕は、バッグから葵のノートを取り出す。机の上のノートを見て、葵が首を傾げた。

「これ、この前部屋を片付けてて見つけたんだ。……開いてみて」

 右手でそっと、表紙をめくった葵は、はっと表情を変えた。

「私の、小説だ……」

「そう。この一冊だけ、僕の本棚にあったんだ。葵に見せたくて持ってきた」

 葵は、驚いて固まった表情のまま、静かにページをめくり続ける。ところが、ノートの真ん中くらいで、小説は途切れていた。白紙のページが数十ページ残っている。

「僕がノートを返し損ねてたから、途中で話が終わっちゃってて……」

「そっか……」

 葵は、少し残念そうに呟いた。

 明らかに声のトーンが一つ下がった彼女を見て、僕はちょっと気まずくなった。一生懸命書いていた大切な作品が、ずっと未完のまま自分の手元から消えていたのだ。怒ってしまったのかもしれない。

「ごめんね、僕がずっとノート持ってたから……」

 謝る僕を見て、葵は首を横に振った。

「いや、いいの。私、他の小説ノート全部捨てちゃってるし」

 意外過ぎる発言だった。葵が、自分の小説を捨てるなんて。

 葵は、再びノートに視線を落とすと、口を開く。

「このノート、多分一番最後のノートだよね。中学校を卒業した後、一度だけ春休みに会ったの、覚えてる? 多分その時に、葉一くんにこのノート渡したの」

 ……覚えてる。そうだ、確か高校の入学式の前日だ。あの日、急に葵から電話がかかったのだ。

“小説、まだ途中までしか書けてないけど、読んでくれる?”

 数十分後、近所の小さな公園で待ち合わせして、ノートを受け取った。その後一時間ぐらい、二人ブランコに揺られて、何かとりとめもない話をしていた気がする。必死で話を繋げて、少しでも彼女といる時間を引き延ばそうとしていたのを思い出す。結局、言いたいことは何一つ言えなかったけど。

「……あの時から、今まで大事に持ってくれたんだね。ありがとう」

 降りかかったその声は、びっくりするほど優しかった。はっとして葵の表情を窺うけど、葵はノートの表紙をそっとなでるだけで、僕の方を見ない。

「……なんで、他のノート捨てたの?」

 あれほど、毎日一生懸命書いていたのに。

 葵は、やっとノートから顔をあげて、僕を見た。にこりと、口角を上げて笑顔を作る葵。ぐっと胸が詰まる感覚がした。

「綺麗にしたかったの。色々捨てなきゃ、綺麗にならない」

 何を、とは聞けなかった。葵があまりにも綺麗に笑うから、僕は言葉を飲み込んでしまった。

「もう、私は小説を書かないから、このノートは葉一くんが持ってて」

 葵が、机の上のノートをすっと僕の方に押し戻す。

 ――どうして書かないの?

 そう言おうとしたとき、目の前に、ガラスの靴が現れた。宝石のようなフルーツを飾り付けたそれは、僕と葵の視界を隔てる。続けて、僕の前にもアイスと果物がたくさん載ったパフェが運ばれた。僕はノートをバッグの中に引っ込めた。

「お待たせしました。シンデレラパフェとフルーツパフェでございます」

 やったー! と、葵が楽しそうな声をあげる。

「食べよう!」

 葵はそう言って、僕に何か言う隙を与える前に、パフェにスプーンを入れた。僕も一口、スプーンで掬って、口の中に押し込む。チョコチップとベリーソースがかかったアイスが、一瞬にして体中を冷やしてゆく。

「んむう~! 美味しい」

 歓声をあげながら目の前で無邪気にパフェをほおばる葵。スプーンにいっぱい、零れるほどアイスを乗せて、小さい口を目一杯広げながら食べる。楽しそうに、とても楽しそうに、ころころ表情を変えてゆく。

 見惚れていた。

 目が合って葵がふわっと微笑んで、ぎゅんと心臓が潰される。僕はもう一口、パフェを口に放り込む。クリームの甘さが舌を溶かしてゆく。

 甘い。こんなに甘いのに。

 喉元がぞわぞわした。口元に残った冷たさをごまかそうと、トッピングのクッキーにザクっと嚙みついた。


「ごちそうさまでした」

 パフェを食べ終えお会計をして、お店から出ていく。暫く二人で商店街の中をぶらぶら歩いていると、前方から知った顔がすたすた近寄ってくる。

「葉ちゃん!」

「うわ、康太だ」

 うわってなんだ、とすかさずツッコミを入れた康太は、葵の姿を見つけると僕の顔を見てにやっとした。思わずもう一度「うわ」と言いたくなる。

「葵ちゃん、久しぶり」

 にこにこ葵に手を振る康太を、一週間分くらいの目力で見つめ続けた。康太は耐えられない、というように吹き出した。

「……なんで、康太がここに?」

「俺、そこの楽器屋でバイトしてるんだよ」

 康太は、僕たちの背後を指さす。振り返ると、小さな店内に、ギターやピアノやいろんな楽器が並んでいるのが見えた。

 なるほど、次からはここの前を通るときは気を付けよう。

「今からちょうど仕事だから、じゃあな!」

 しかし、康太は、それ以上お喋りを続けることなく、爽やかに手を振った。ひそかに安心する僕の肩を叩いて、

「俺とも遊んでくれよなー!」

 去り際に、そんなことを言って笑う友達に、僕は勢いよく、「うん!」とだけ返事をした。


「葉ちゃんってあだ名、面白いよね」

 楽器屋に入っていく康太を見届け、再び歩き出した時、葵がそう言った。

「え、おもしろいかな」

 僕はちょっと首を傾げる。葵はそんな僕を見て、

「『人間失格』の主人公も、葉ちゃんってあだ名なんだよ」

「それって、『唯ぼんやりとした不安』から死んだ人?」

 僕の返事に、葵は、あはは、と声をあげて笑った。僕は頓珍漢なことを言ったみたいだ。

「違うよ、それは芥川龍之介。『人間失格』は太宰治の小説で、主人公の名前はオオバヨウゾウだよ」

「オオバヨウゾウ……?! 僕と一文字違いだ」

「うーん、正確には苗字も違うかな。葉一くんは大きいに場所の場で“大場”だけど、『人間失格』の方は大きいに庭で“大庭”だね」

 へー、そうなんだ……。本好きの葵と違って、現代文の教科書でしか純文学に触れていない僕は、自分の名前に近い主人公がいることを知らなかった。

「でも、『人間失格』かあ……」

 読んだことはない。でも、タイトルからしてなんだか危ない感じがする。どんな人間なのだろう、オオバヨウゾウ。

 頭の中で『人間失格』主人公についてのイメージを勝手に膨らませていると、葵は隣で大真面目な顔をして、

「あだ名が一緒でも、葉一くんは“人間合格”だから、面白い」

 急な葵の発言に、なんだそれ、と僕は笑った。

「僕が合格なら全人類合格だね」

 葵もふふっと笑った。

「葵の名前に似てる主人公はいないの?」

 何気なく質問する。葵はうーんと首を傾けた。

「志田葵に似てる名前……。出会ったことないなあ……」

 葵がこんなに考えても思いつかないのだから、いないのかもしれない。でも僕は、葵の名前を綺麗だと思う。響きも、漢字も、名前を呼んだ時の振り返り方も、全部含めて。

「葵」

 気が付いたら口に出していた。葵は瞬きしながら、ゆっくり僕の方を振り返る。セミロングの髪の毛がふわっと風に揺れた。

「どうしたの?」

 首を傾げながら僕を覗き込む彼女の瞳に、言い逃れができなくなる。がやがやと賑やかな商店街の中を、僕の視線はゆらゆら揺蕩った。

「……呼んだだけ、です」

 ついに白状すると、葵は、面白そうに目を細めた。


 気まぐれで本屋に入ったり、文具屋で綺麗な万年筆を眺めてみたり、気になるものがあるとその都度立ち止まってしまう僕たちは、気付けば商店街の中で数時間過ごしていた。

 そろそろ帰ろうと、商店街から出る。ずっと屋根の下で過ごしていたので、天井が途切れると途端に肌がじりじり焼けていく感覚がした。

 電停まで歩いて、路面電車が来るのを待つ。広い道の真ん中を、行先正反対の二本の線路が、まっすぐ並んで通っている。

 ごとんごとん……。

 低い音を立てて、電車はやって来た。目の前で、一両だけの小さな電車が停車する。

 車内には、数人の乗客が乗っていた。空いている座席に二人並んで座る。電車の揺れに従って、僕らの肩も左右に揺れた。僕の右側にいる葵の髪の毛先が、時折腕をこそこそくすぐる。静かな車内の中、黙って座っていると、お互いの体温や心音が伝わってしまうような、不思議な気持ちになっていた。

 窓の外を、街の景色が緩やかに流れてゆく。

「ねえ、あれ」

 突然、葵は窓の外を指さした。その先には、大きなショッピングモール。いや、葵が指さしているのは、その上に設置された観覧車だろう。この商業施設のランドマークとも言える、五階部分に設置された大観覧車。確か、高さ約70メートルだったはずだ。

「乗りたいの?」

 尋ねると、葵は、うん、と頷いた。

 次の駅で電車を降りた。見上げると、四角い、大きな建物の上に回転する丸い箱。ゆっくりゆっくり、円を描いて昇っては降りてゆく。

 子供から老人まで様々な人でにぎわうショッピングモールの中を、エスカレーターで観覧車乗り場のある5階まで登った。ここに買い物に来ることはあっても、観覧車はなかなか乗らない。最後に乗ったのは3年ほど前、まだ小学生だった妹と一緒だった気がする。

 観覧車乗り場はさほど混んでいなかった。きっぷを券売機で買って、乗り場の係員に渡す。

 オレンジ色で統一された、枇杷の実のような形のゴンドラが、ゆっくり僕らの前に流れてきた。近づいてくるゴンドラを、葵は心底楽しそうな顔で見つめている。なんだか小さな女の子みたいだった。

「はい、どうぞ~」

 係員のおじさんが、ゴンドラのドアを開けながら、僕たちににこにこ笑いかけた。

「ありがとうございます」

 乗り込むと、足元がそわっとした。さっきまで乗っていた路面電車が、とても小さくなっていく。車も、道を歩く人も、こうして見るとおもちゃみたいだ。地上から離れていく感覚が、少し怖いような、どきどきするような、でもそれは、半分以上葵のせいだとも思う。今日ずっと一緒に居たのに、小さな観覧車の箱の中では、余計に“二人きり”を意識してしまう。目の前に座る葵は、そんな僕の感情を知りもせず、ただ幼い子供みたいに昇りゆく景色を眺めていた。

「どこまで昇っても、同じ高さに家がある……」

 葵が、ぽつりと呟いた。

 僕も、葵が見つめる先に視線をのばす。

 坂が多く、山がちな地形のこの街は、山の中にも家々が沢山建ち並んでいる。普通は、こんな地形だと平地部に家が集中するはずだけど、山の斜面も住宅地として活用しているのだ。地元特有のこの景色は、夜になると綺麗な夜景を作り出す。太陽の位置もだいぶ下がってきたとはいえ、まだまだ明るいので今は見ることができないけど。でも、昼間でもいつまでも眺めていられるような、不思議な雰囲気がこの街にはある。

「すごく遠くまで見えるね」

 僕は、一度景色から目を離して、葵に話しかけた。葵が、こくりと、小さく頷く。

 観覧車は、僕たちを乗せて静かに空に近づいていた。青い空と、街との境界まで、くっきり見える。

「この観覧車に乗ると、知らない家も、行ったことない場所も、色々見えるから好き」

 葵が、囁くような柔らかい声で、そう言った。

「ここから街を見てると、会ったこともないような人たちの人生に、少し触れられる気がするの。あの家に住んでいる人はどんな人だろう、今あっちの坂を歩いている二人は何を話してるんだろう」

 僕の方を振り向くこともなく、言葉を続ける葵。夢を見ているような、そんな横顔だった。

「この街の人たち、みんな幸せそう。だから、私はその幸せを、ここからちょこっとのぞき見するの。でもきっと、誰も私を知らない」

 ――それってなんだか面白くない?

 葵はやっと、僕の方を見て、小さく笑った。

「……そうだね」

 僕は、ただそれだけ、返事をした。

 葵はたまに、こんな風にびっくりするようなことを言う。たぶん、彼女は僕の数十倍、いろんなものを見ては、頭の中で様々なことを考えるのだろう。体中、きっと言葉がぐるぐる渦巻いてるんだ。それがたまに、今みたいにぽろっと口からこぼれてゆく。僕は彼女からこぼれた欠片を、一生懸命キャッチする。そうやって掴んだ言葉たちは、今度は僕の体の中にも蓄積されてゆく。

 ただこれだけの関係が、僕にとっては心地よくて尊くて、だからこそ、これ以上近寄る勇気が出ないのかもしれない。

 いつの間にか、観覧車は頂点を通り過ぎていた。

「終わっちゃうね」

 ぼんやり、そんなことを呟く葵に、僕はどうしても触れたくなった。

「……葵」

 暫く外を見ていた葵が、振り返って僕を見つめた。お互い、何も言わない。視線だけが、閉ざされた空間の中で絡んでゆく。

 近付こうと、手を伸ばした。狭いゴンドラが揺れる。

 がたん。

 指先が、彼女の頬に触れる直前。ゴンドラの扉が開いた。

 足元に気を付けて降りてくださいねー、と、先ほどの係員のおじさんが、にこやかに顔を出す。行き場を失った右手をひっこめ、そそくさと退散した。地面に足をつくと、急に体が重く感じた。

 僕は本当に、何を。顔が熱くなった。


 ショッピングモールを出た。もう本当に、これからは家に帰るだけ。

「電車、乗る?」

 僕が聞くと、葵は首を振って、

「ちょっと遠いけど、歩いて帰りたい」

 と、言った。

 一緒に居る時間が、少しだけ伸びた。坂道も、一緒に歩けるなら、なんだっていい。

 でも、できれば明日も明後日も……、なんて、帰るときになって図々しい考えが出てきてしまう。そんな自分が、ちょっと煩わしかった。楽しい日を、楽しいままで終わりたいのに、欲を出せばまた寂しくなる。

 今はまだ、こうやって並んで同じ時間を過ごしているだけで、十分じゃないか。

 そんな風に、自分に言い聞かせていた。

 影が伸びていく街の中。真っ青だった空に少し赤みが帯びてゆく。ゆっくり確実に、終わっていく。

 景色がだんだんと家に近づいてゆく。

「今日は楽しかった」

 分かれ道手前の緩やかな坂を目の前にして、僕はそう言った。

「私も、楽しかった」

 僕の顔を見上げた葵が、そう言って笑った。

 ありがとう、と、僕も少し笑う。すると葵も、

「こちらこそありがとう。行きたいところにも行けたし、久しぶりに地元をたくさん感じれたし」

 葵の言葉に、うん、と僕も頷く。

「……あ、そういえば、葵も大学は県外に出てるんだっけ」

 地元、というワードで思い出した。お互い大学生にもかかわらず、未だにこの話題が出ていなかったのは自分でも不思議だ。今日一日の会話を振り返ると、僕らの会話って少し特殊なのかもしれない、なんて思う。

「うん。県外。ちょと遠いんだけど……」

 次に葵が口にした、大学名に僕は驚く。

「え、僕も同じ大学……」

 学部は違った。学生の数も多く、比較的大きなキャンパスだから、お互い姿を見かけなくて当然なのかもしれないけど。

「そっかぁ……そっか。じゃあ、大学でも会えるんだね」

 嬉しくなって、つい、にこにこ、自分の口角が上がっているのがわかる。

「……夏休みが明けたらさ、今度は向こうでもどっか行こうよ」

 少し期待してしまった僕の言葉に、葵は曖昧に頷く。なんだか悲しいような、言いたいことを押し留めたような表情で、葵は笑っていた。僕には、その表情の意味がわからないまま、話題は別のことに移ってしまった。

 夕日が照らす坂道を上り切って、今日も僕は昨日と同じように葵を家まで送る。母親とおばあさんと住んでいるという、少し古い家が見えてきて、やっぱり少し寂しくなる。

 彼女の家の前まで歩くと、葵はくるりと僕の方を振り返って立ち止まった。夕焼けをほんのり反射した彼女の瞳に包まれる。

「じゃあね。……また今度、会おう」

「うん、また、……」

 何か言いかけて、口を閉ざした葵の両目を見つめる。しかし、言葉は続かなかった。二人の間を、静かな風が通過していく。

「……じゃあ」

 彼女に背を向けて、歩き出そうとした、その時。

 ぎゅっと、葵が僕の右手を掴んだ。今日一日、届きそうで触れなかった体温が、手のひらを柔らかく包んでいる。心臓が高鳴った。

 振り返って、葵に向き直る。しかし、やはり僕たちは何も言わなかった。やがて、

「……じゃあね」

 それだけ、葵は言い残して、手を離すと、さっさと家の中に入ってしまった。鼓動が、まだ煩く鳴っている。手のひらに、彼女の温もりが染みついていた。



 家に帰ってスマホを見ると、鬼のように康太から着信が入っていた。かけなおすと、数秒で康太の大きな声が聞こえてくる。

「よう! リア充! デートは上手くいったか?」

 開口一番、康太はそんなことを言う。あまりに声が大きいから、耳がキンキンした。

「……デートだと言っていいの?」

「は?」

 質問を、情けない質問で返してしまった。康太は、暫く黙ってしまう。そして、

「葉ちゃん……。中学の頃から、変わってないな……。のほほんとしてるというか」

 康太は苦笑いをしているようだった。僕はのほほんとしてるのだろうか。

「葉ちゃん、この前会ったときは、葵ちゃんとはもう連絡とってないって言ってたのに、なんで今日一緒に居たの?」

 康太は、質問の仕方を変えてきた。

「昨日、精霊流しで偶然会ったんだ。それで、今日も会おうって言った」

「ほー、会おうってちゃんと言ったんだな」

 すごいすごい、進歩じゃん、と、適当な相槌を打つ康太。

「……本当にすごいと思ってる?」

 思わず問い詰めると、康太は、わははは、と笑った。

「思ってるよ! 昔から比べると随分積極的じゃん。よかったよかった」

 何故か満足げな友達の口調に、僕もつられて笑ってしまう。

「じゃあ、やっぱりまだ葵ちゃんのこと好きだったんだな」

「……うん」

 思ったより素直に頷いてしまった。相当、今の僕は浮かれているらしい。

「だったら、今度は、離すなよ」

 しかし、次に聞こえてきた康太のその声は、少し重たく感じられた。僕はすぐに返事ができずにいた。

「のんびりしてたら、逃しちゃうからな」

 黙っている僕に、康太がくぎを刺す。僕より必死そうな友人に、僕は自信を持って言葉を返せなかった。

「……僕は、葵から一度離れた。また会えたのも偶然だし、……」

 もしかしたら、あのブログを読んでいなければ、葵を哀田詩央だと勘違いしなければ、昨日あんなに必死に葵を探さなかったかもしれない。

「だから今は、傍にいてくれただけで、嬉しい。十分だよ」

 この先に手を伸ばそうとすると、どうしても勇気が出ない。

 わかっている。だから、動けないしいろんなことを逃してゆく。結局、自分の気持ちにまで理由をつけて、諦めてゆくのだ。

 一度は離れてしまった人が、また今日僕の隣にいた。これだけで、もう僕は先に進めない。

「葉ちゃん。葵ちゃんを過信しすぎてるよ」

 康太は、少し暗い声で、そう言った。

 過信、とは、どういうことだろう。

「いつまでだって葵ちゃんも無条件に傍に居てくれるわけじゃないだろ。葉ちゃんは葵ちゃんを好きかもしれないけど、葵ちゃんは案外、お前を置いてどこまでも行く子だよ」

 康太は、何を言いたいのだろう。何か言葉を、慎重に選んでいる気がする。

「葵ちゃん、高校の時、一歳年上の彼氏がいたんだ」

 やがて、康太はそう言った。

 知ってる? と聞かれ、知らない、と答えた。康太は、「俺も葵ちゃんと同じ高校じゃないから直接は知らないんだけど」と前置きして、

「相手は同じ部活の先輩で、葵ちゃんを大好きだったみたいなんだ。告白も、彼氏の方から。葵ちゃんはそうでもなかったみたいだけど、すぐオッケーしたらしいよ。学校内でも有名だったんだって。同じ高校のやつが言ってたよ。仲が良いって。喧嘩もしない」

「そんなことを言われても、……」

 思わず言いかけて、やめた。

 そんなことを言われても、僕には嫉妬したりする権利はないんじゃないか。高校の時の葵を知らないし、曖昧な関係を、曖昧なままで途切れさせてしまった僕には、何も言えない。

「もし、葵ちゃんも葉ちゃんといて楽しいと思ってて、一緒にいれたのを嬉しいと思ってても、正面から素直に想いを伝えてくれるやつがいたらそっちが気になる。これからだってそうさ。人はさ、言葉にしてくれる方になびくんだよ」

 何も言えない僕に、康太が、静かに言葉を続けた。


 康太との電話を終えると、胃の奥が、みしっと音を立てたようだった。

 人は言葉にしてくれる方になびく。確かに事実だと思った。

 もし、中学を卒業する前に、僕が好きだと伝えてたら、葵はその先輩と付き合わなかったのだろうか。いや、振られてしまえば、どっちにしろ関係ない。今も、その先輩と葵の関係は続いているのだろうか。

 そんな立場にないのに、心に灰色のどろどろが溜まってゆく。その時。

「ご飯よー!」と、母が部屋のドアを叩いた。

「はーい」

 なるべく大きな声で返事して、急いで部屋を出る。妹も父も、もうリビングにいて、箸や皿を出したり、夕食の準備を進めていた。僕も全員分のお茶碗を出して、ご飯をよそった。


 夕飯を終えて、お風呂に入ると、僕は急激に眠たくなった。商店街の屋根の下とはいえ、夏の気温の中外を歩き回っていたわけだし、きっと疲れていたのだろう。

 ぼふっと、ベッドにダイブする。そのまま目を瞑っていると、眠気が来てだんだんと自分の身体が布団と一体化していく感じがする。

 とろけていく思考の中で、今日の葵との時間を、一つ一つ思い出した。

 大人っぽい顔をしたり、無邪気に笑ってたり。子供っぽい態度をとったかと思えば、ふいに僕なんかじゃ到底思いつかないような言葉を口にする。どの瞬間を切り取っても、息ができなくなるような、抱えきれない感情に襲われてしまう。僕だって本当は、もっとシンプルに、簡単に、この気持ちを言えたらいいなとずっと思ってた。

 結局のところ、怖いのだ。今も昔も。強く望みすぎたら、その後の絶望が怖くなる。

 ふと、首を動かすと、ベッドの脇に雑に置いたままのバッグが目に入った。中から、葵の小説ノートが顔を出している。


“もう、私は小説を書かないから、このノートは葉一くんが持ってて”


 どうして。どうして書かないのだろう。パフェのアイスと一緒に飲み込んだ、冷たいぞわぞわとした感覚が、喉元に戻ってくる。あの時ほど、すがすがしくて、綺麗で、不気味な葵を見たことがない。


 ごろんと寝返りをうって仰向けになった。ポケットからスマホを取り出して、検索画面を表示する。

「なきつかれて、しねたらいいのに……」

 指先で画面をタップしながら、自然と口に出していた。もうこのブログを書いているのは葵じゃないと思っているけど、それでも何故だか気になった。検索結果に出てきたあのブログを開くと、ちょうどついさっき、新しい投稿が追加されたばかりだった。


#148

2019年8月16日

 会いたかった人と、行きたかった場所に行った。その人は、私がどんなことを言っても静かに聞いてくれる。私の表情を、何処か不安そうに、でも優しく、見つめてくるまなざしが、とても耐えられなかった。もう私は子供じゃないのに、子供みたいに縋りたくなる。今日一日、言葉を省いたりごまかしたりして、何とか嘘もほんとのことも言わずに済んだ。けど、心の奥底でずっと苦しかった。

 一日、一緒にいてくれてありがとう。

 一緒に話して、一緒に笑って、幸せだった。楽しかった。

 死にたい私に、今日だけ、日常と懐かしさをくれた。私を普通の人間だと錯覚させてくれた。私は私の人生を上手く生きれないけど、その人なら有効に活用してくれそう。白紙のページにも、きっと面白い人生を書いていってくれる。もし、私の命を人にプレゼントできるなら、その人にあげたい。


 妙な内容だった。様々な感情が、ごっちゃになったような、不安定な文面。具体的なことが何一つ書かれていない。そしてやっぱり、変な胸騒ぎを起こさせるような。


“もし、私の命を人にプレゼントできるなら、まずその人にあげたい”


 僕の命をもし他人に譲れたら。僕は誰にあげるだろう。いや、僕は誰にもあげないかも。人生を譲りたいほどの人に出会えたら、僕は死よりも一緒に生きる選択をしたい、なんて。

「……できないくせに」

 別れ際の、葵の手のひらの感覚を思い出して、ぐっと握りしめた。




 目が覚めると、もう朝だった。いつの間にか眠っていたらしい。カーテンから弱々しい光が差し込んで、部屋をぼんやり照らしている。何度かギュッと瞬きしながら、ベッドから体を起こした。

 時間を確認しようとスマホの画面を見ると、葵から着信が入っていた。騒がしい着信音でも起きないくらい、僕は爆睡していたらしい。

 でも、どうしたんだろう。時間はまだ9時になったばかりで、着信があったのは30分も前だった。こんなに朝早くから、急いで伝えたいことがあったのか。

 僕は、履歴に表示された、葵の名前をタップした。

 無機質な呼び出し音が、数度、鳴り響く。3コール目が終わる直前、葵は電話に出た。

「……葉一くん」

 電話越しに聞く葵の声は、いつになく静かだった。

「どうしたの」

 尋ねると、暫く葵は何も言わない。電話の向こうは、少しがやがや煩かった。風が吹く音に交じって、ごとんごとんと、路面電車が通過する様な低い音もする。外にいるのだろうか。

 僕は彼女の言葉を聞き漏らさないように、黙ってその先を待った。

「昨日は、本当にありがとう」

 やがて、聞こえてきた最初の言葉は、それだった。

「ああ……、こちらこそありがとう」

 返事をしながら、昨日の帰り道も、こんな会話あったよなあと、少し不思議に思う。葵は、たぶん何か他に言いたいことがあるのだろう。僕はまた、じっと電話の向こうに耳を澄ませた。

 すっと、葵が小さく息を吸う音が聞こえた。そして、

「さいごに、あなたに会えてよかった」

 さいご……?

「さいごって、どういうこと?」

 咄嗟に聞き返した。ぞわっと、また、得体の知れない感情が、心臓の裏からせり上がって体を侵食してゆく。

 葵は、僕の言葉に答えを出さなかった。その代わりに、

「さよなら」

 そう一言、言葉を残して、通話は切れた。

 葵、と短く呼びかけるけど、永久に無音だった。もう一度、こちらから電話をかけなおす。

 しかし、何度かけても、葵は出なかった。

 どうしたのだろう。さいごって、どういうことだろう。葵は、もう僕に会いたくないということか。それとも。

――最期。

 精霊流しの日の、黒い、影のような葵の姿を思い出す。まさか、そんな。

 静かに、スマホを耳元から離して、画面を見つめた。着信履歴に、『志田葵』の文字が並んでいる。

「しだ、あおい……」

 ぼんやり、読み上げてみて、はっとした。

 約三週間前、はじめて『泣きつかれて死ねたらいいのに。』というブログを見つけたとき。あの時素通りした言葉が、焦りとともに、蘇ってくる。


“LIVEを並べ替えると、EVILになる”


 しだあおいを、並べ替えると、あいだしお。……


 気が付いて手が震えた。偶然ではないと思った。

 似ている文章。同じ誕生日。名前はアナグラム。「もう、私は小説を書かない」という言葉。そして、電話越しの消え入るような「さよなら」。

 すべてが、葵を殺してゆく。

 嫌だ、殺さないで。でも、どうしたら。


 『泣きつかれて死ねたらいいのに。』


 僕は、スマホにそのブログを表示させた。もう今は、ここに縋ってみるしかなかった。


「……あ」


 ページを開くと、新しいメッセージが追加されていた。


#149

2019年8月17日

 私は3年前、恋人を亡くしました。

 一つ上の学年だった彼とは、同じ文芸部で出会いました。

 不器用でのろまで、かわいげのない私のことを、人生で初めて好きだと言ってくれた彼。私は嬉しくて、彼の気持ちに応えようと努力しました。私のことを愛してくれる彼のために、私も彼を愛そう。そう思ったのです。

 しかし、上手くはいきませんでした。

 私の心には、どうしても、忘れられない人がいたのです。

 自分でもはじめは気が付きませんでした。でも、ふとした瞬間に思い出してしまう。その人の声、表情、しぐさ。私がどんなことを言っても真剣に聞いてくれた。私の書く小説を、面白いと言ってくれた。一緒にいてくれた。その思い出が、私の中に強く染みついている。恋人にその人の姿を重ねてしまう。

 完全なる、未練でした。

 私は自分の中に根を張るこの気持ちに気が付いてから、恋人といることが苦しくなりました。私を好きと言ってくれる彼を正面から愛したいのに、自分の中に居残る存在が消えない。彼に愛してもらえばもらうほど、心の中に別の人がいる罪悪感でつぶれそうでした。

 だから、私は綺麗になる必要がありました。

 心の中にいるその人を思い出させるものを、全部捨てました。連絡先も消した。その人が夢中になって読んでくれた私の小説も、捨てました。

 そして、恋人にはより一層笑顔を振りまきました。彼の顔色を窺い、彼の言葉に同意して、求められればいつでも身を差し出しました。

 私は必死でした。でも、自己満足だと言われてしまえば、何も言えません。

 そんなある日、彼は私に「海へ行こう」と言いました。私は高校二年生の夏休み。彼は高三だったので受験勉強が忙しいのではないかと心配しましたが、「息抜きだよ」と笑っていました。

 二人で電車に乗って海へ行きました。一時間ほどで着いたその海は、青く透き通っていて綺麗でした。彼の笑顔は海に良く似合っていました。

 白い砂浜を並んで歩いたり、浅瀬で水を掛け合ったり。一通り遊んでお腹がすいたので、海の家で焼きそばとかき氷を食べました。イチゴ味のシロップで舌が真っ赤になった私を、彼は笑って見ていました。

 お昼ご飯の後。暫く砂浜でお城を作ったり海を眺めたりしていると、不意に、彼が私にキスをしました。そっと触れるだけの、短いキスでした。唇を離した彼はひどく優しい顔をして、私を見つめていました。でも、視線から伝わる彼の愛情を抱えきれない私は、ぱっと目を逸らしてしまいました。彼は、少し悲しそうな顔をしました。

「俺、ちょっと泳いでくるよ」

 彼は、そう言って立ち上がりました。

「詩央は、ここにいる?」

「……うん」

 少し、一人になろうと思いました。目を逸らしてしまったこと、彼とまっすぐ向き合えないことが申し訳なくて、彼と一緒に海に入る気になりませんでした。

 今思えば、これが間違いだったのです。

「じゃあ、待ってて。すぐ、戻るから」

 彼は、私に背を向けて、真っ青な海へ駆けて行きました。

 しかし、彼が戻ってくることはありませんでした。彼は溺れ死にました。

 罰だと思いました。これは、心から彼を愛せなかった罰だと。

 私が彼を愛しきれないこと、彼はきっと気が付いていました。彼の死は事故として処理されましたが、私はそうは思えません。私が、彼を殺したのです。私が彼の心を深い海の底へ突き落したのです。

 後悔しました。自分を心から恨みました。

 泣いて、泣いて、泣きわめいて。泣きつかれて死ねたらいいのにと、毎日思いました。だけど、一週間たっても、一か月たっても、死ねなかった。この期に及んで、死ぬ勇気さえありませんでした。

 でも、やっと。ようやく、決心がつきました。

 今日、彼が眠る海に、私も沈みます。

 ありがとう。では、さようなら。


 僕は、スマホ画面から顔をあげた。

 “綺麗にしたかったの。色々捨てなきゃ、綺麗にならない”

 そう言っていた、葵の顔を思い出す。

 葵が捨てたかったのは、小説じゃなくて、僕との過去だった。僕らは似ていた。お互い、こんなに心に想い合っていたのに、気付けなかった。動けなかった。中途半端なまま、彼女の心にもわだかまりが残っていた。

 遅すぎたのか。

 胸の奥がギュッと痛む。

 僕が、あの頃、ちゃんと葵を。


 僕は、ぐっと歯を食いしばると、スマホにもう一度検索画面を表示させた。

 3年前、市内および近隣の市で発生した水難事故を検索する。様々なニュース記事が表示され、それらを片っ端から調べていると、一つ、気になるものを発見した。

 18歳の男子高校生、海水浴中に死亡――

 きっとこれだ。そしてこの海水浴場なら、電車で一時間程度で着く、という条件にも当てはまる。

 行こう。間違っている可能性もあるけど。でもこのまま、ここにいることは、できない。

 僕は家を飛び出した。外に出ると、風が強くて、空は今にも泣きだしそうな、水気を含んだ灰色だった。これではきっと、波も穏やかでない。

 僕は、モノクロの街の中を駆けだした。

 さっきの電話越しに、かすかに車が通る音と路面電車の音が聞こえた。葵は今、街のどのあたりにいるのだろうか。路面電車に乗って駅に行く前、もしくは、もう駅についてしまったか。それともすでに、駅から海へ向けて電車に乗ってしまったか。

 わからない。でも、間に合わなければいけない。

「はッ……はッ……」

 荒くなる呼吸を整えずに、前へ前へと足を出す。

 背中から、首から、頬から、汗が流れていく。肺が焼け切るように痛かった。

 路面電車が通る大通りへ出た。電停に着くと、ちょうど、停車していた一両の小さな車体に乗り込む。ごとごとと、重たい音を出して、路面電車が走り出した。

 早く、早く……!

 肩で息をしながら、窓の外を見つめる。路面電車がいつになくゆっくりに感じた。

 走るよりは断然早い。しかし、落ち着けない僕の心臓は、他の乗客に聞こえてしまいそうなほど、激しい音で鳴いていた。

 ようやく、路面電車は駅前に到着した。降車して、信号を渡って、駅へ急ぐ。目的地までの切符を買って、ホームへ向かった。ホームにはそこそこの人がいた。でも、葵の姿はなかった。

 茶色い線路の上を、青い車体のシーサイドライナーが滑り込んでくる。キーっという甲高い音を立てて、車両は停車した。

 プシュー……、と列車の扉が開く。転がるように、駆け込んだ。

 つり革と、座席が等間隔に並ぶ、青白い雰囲気の車内。ドアに近い空いている席に腰を下ろすと、機械的な車内アナウンスと冷房の風が、頭上から降り注いだ。

「お待たせいたしました。……、閉まるドアに、ご注意ください」

 車掌の独特な声が響き渡った後、ついに列車は走り出した。

 がたんごとん、と、優しく揺れる車内。窓の外、流れては消える静かな街の景色を、僕は黙って目で追った。

 早くなっていた心拍数が、ほんの少し、落ち着いていく。僕はぼんやり、数年ぶりに葵と再会した、精霊流しの日を思い出す。

 今にも消えそうに、黒い影のように歩いていた葵。こもを置き場に持って行って、暫く、その場にたたずんで祈っていた姿。あの時、きっと葵は、おじいさんの他に、亡くなった恋人のことも想っていたんだ。誰にも言わず、誰にも悟られないように、心の中で、一人で追悼していた。“大切な人を二人、見送ってきた”という言葉の意味が、ようやく、理解できた。

 あの時、葵はどんな思いで僕の隣を歩いていたのだろう。僕はただ無我夢中で葵の元へ走ったけど、僕の行動は、葵の肩に悲しみを上乗せしてしまっただけではないだろうか。

 ごとんごとん……。

 電車の揺れが、僕の心も揺さぶっているようだった。外を見れば、見慣れない街の風景が、次から次に、後ろへと置き去りになってゆく。

 間に合うのだろうか。そして、僕の判断は正しいのだろうか。

 僕は今まで、様々なものを逃してきた。いつも間に合わない人間だった。葵のことも、あんなに好きだったのに、ずっとごまかして考えないようにしていた。

 高校入学直前のあの日、せっかく葵がノートを渡してくれたのに、その後僕は返しに行くことができなかった。今思えば、葵が書きかけの状態の小説を僕に見せたことはなかった。葵は多分、自分の小説を通じてあの曖昧で緩やかな関係を、続けたかったのかもしれない。差し伸べられていた手を、無視してしまったのは僕だ。


 僕は、間に合っていいのだろうか。

 間に合ったところで、僕に止められるのだろうか。

 そんな権利が、僕にはあるのだろうか。人一人の人生を、変えられるほどの権利が。


 頭の中を、ぐるぐる、感情が溢れてゆく。ひざの上で両手を握りしめて、ギュッと目を閉じた。零れ落ちそうな感情を、押し留めようと必死だった。電車の静かな振動だけが、体中を伝わった。


 でももう、列車は走り出している。


 僕はただ、葵を好きで、それだけしかない。

 好きな人に生きていてほしいと思うことに、権利なんていらないんじゃないか。


 そう、思いたい。


 列車は徐々に、僕を目的地へ近付けていた。四角い窓の向こう、灰色の空の下に、群青の波が現れる。

 車内アナウンスが、僕の終点を告げた。

 駅のホームに出ると、灰色の湿った空気の中に、ほんのり潮の匂いがした。この駅で降りる人は僕以外には数人しかいなかった。小さな駅舎の中を抜けて走る。心臓が、再び大きく鼓動し始めていた。

 駅から海まではほんの目と鼻の先だった。砂浜へ下る階段には、『遊泳禁止』の看板が立っていた。3年前の水難事故をきっかけに、利用客がめっきり減ってしまったこの海は、今年から閉じられてしまったらしい。近くには駅と数軒の家があるだけで、人の姿はなかった。

 『遊泳禁止』の文字を通り抜けて、階段を駆け降りてゆく。

 砂の上に足を踏み入れると、じゃりっ、と鈍い音がした。

 スニーカーが砂に埋もれてゆく感覚がして、捕らわれる前に次の一歩を踏み出す。

 真っ白な砂浜と、薄昏い海。目の当たりにした海は群青なんかじゃなくて、黒だった。底の無いような荒い水面が、僕の心を焦らせる。

 葵の名前を呼びながら、浜辺を走った。強い風が彼女の名前を攫ってゆく。叫べど叫べど、返事はない。僕は間に合わなかったのだろうか。それとも、ここではなかったのか。

 絶望と恐怖で心臓が凍てついてゆく。その時、一瞬、僕の目に何かが映った。


 黒い海の中に、たたずむ黒い人影。もう上半身しか見えない。目を離したら、一瞬で波にのまれてしまうような、その影を見つけて僕は息をのんだ。


「ああ……!」


 喉の奥から、叫びのような声が漏れる。

 よろけそうになる足を無理やり立たせて、無我夢中で海へ駆けた。

 ばしゃん、ばしゃん、と、水中へ踏み入る。濡れて重たい服と体にまとわりつく波に抵抗されながら、必死で進んだ。


「葵!」


 僕の声に、その影は振り返った。

 灰色の空の下、波にのまれそうな葵の表情が、怯えるように引きつってゆく。荒い呼吸音の後に、「いやだ」と、小さな拒絶が聞こえてきた。


 逃げるように、さらに深く海へ入ってゆく彼女の肩を、力を込めて抱き寄せた。震えるほど、彼女の肩は冷えている。僕は葵の身体を後ろから抱き締めたまま、水際へと連れ戻した。葵の濡れた髪の毛が、僕の肩に絡む。彼女は、僕の腕の中で無抵抗だった。

 ――と、静かだった彼女が、急に僕の身体を突き飛ばした。

 腰から砂の上に倒れ込む。顔を上げると、まだ足首が水の中に浸かったままの葵が、僕を見下ろして泣いていた。


「なんで……、なんで今になって……!」


 彼女はその先を叫ばなかった。ズキズキと、内臓が疼く。

「忘れさせてよ……。死なせてよ……」

 消え入るような声で、懇願するその姿は、どんな悲劇より悲惨で。べったりと、濡れた真っ黒なワンピースが、彼女の白い体に張り付いていた。

「葵……」

 僕は立ち上がった。まっすぐ、葵に向き直る。葵は一歩後退りした。


「一緒に帰ろう」


 涙で揺れる葵の瞳を見つめる。葵は目を伏せた。

「帰ろう。まだ、夏休みはたくさん残ってるよ。美味しいパフェのお店、他にも沢山あるよ。夏が終わったら、秋が来る。せっかく、僕ら同じ大学だってわかったんだし、大学周辺ほんと田舎で何もないけど、でも、紅葉が綺麗だよ。赤と黄色の葉っぱが、街じゅう彩ってる。冬になったら、空気がとても澄んでて、星がよく見えるし。お正月は一緒に神社行こうよ。それで、寒い冬を超えたら、今度は春だ。桜が綺麗な公園、僕知ってるよ。ちょっと遠いけど。春休みに、見に行こう。バスに乗って。それから、……」

 ただぽろぽろ、溢れ出るままに喋っていた。葵みたいに、わかりやすくて綺麗な言葉を使えない僕は、思いついた言葉を慎重に紡いでいくしかなかった。頭が真っ白になりそうになりながら、僕は次の言葉を探す。

 どきどき、胸が高鳴っていた。深呼吸をして、また、口を開いた。


「……それから。僕と、一緒に生きて」


 僕の声は震えていた。俯いていた葵が、はっと顔を上げた。


「手放そうと思ってるならさ、葵の命、僕がもらうよ。そのかわり、葵に僕の命をあげる。全部……、残り全部、使っていいから。もらって、ください」


 途切れ途切れになりながら、伝えた。今にも泣きだしそうな空が、僕たちの間にまた一つ、風を起こす。葵の両目から、大粒の涙が、ぼろぼろ、とめどなく流れている。


「……私、葉一くんの命をもらえるような人間じゃない」


 やがて、葵はつぶやいた。

「私、悪い人だから。……ここに、来たってことは、知ってるんだよね。私が、どんなに酷い、醜い人間か。私は、私を愛してくれた人を、殺してるの」

 そう続けると、葵は僕の目を見て、無理やり笑った。泣きたくなるような笑顔だった。

「私、中学生の頃、あなたのことを好きだった。でも、もう、遅いから」

 涙を流した、歪な笑顔のまま、葵は言葉を放った。

 身が引き千切れそうに痛かった。目の前の葵の言葉は、僕の心臓を突き刺していた。葵のせいじゃない。僕が、遅かったんだ。僕だって、君を好きだった。

 痛みから、また目を逸らしてしまう。葵の顔を見れなくなる。

 でも、それではだめだ。今ここで、向き合わなければ。


「葵が悪い人なら、僕だってそうだ」


 僕はもう一度、顔を上げた。真っ黒な葵の瞳が、僕を映していた。

「僕も、君のことが好きだった。葵の過去を知って、今の言葉を聞いても、嫌いになれない。葵は僕に色々な物語をくれたのに、僕は何も返せなかった。好きだって、たった一言口に出すのが怖かった。逃げてごめん。遅くなってごめん。僕は、ずるくて、のろまで、臆病な、悪い人間だ」

 一歩、また一歩、葵へ歩み寄った。足が冷たい水に触れる。

 ぎゅっと、葵を抱きしめた。

 両手で、その体を確かめるように、壊さないように、包み込む。

 濡れそぼった彼女の身体は、氷のように冷たかった。


「一緒に帰ろう。僕たち悪い人かもしれないけど、悪い人なりに、あがいて、生きてみようよ」


 僕が伝えられる、精一杯だった。

 腕の中で、葵は子供みたいに泣きじゃくっていた。

 彼女の鼓動が、濡れた肌を通して静かに伝わってくる。

 生きてる。葵が生きてる。

 僕たちは暫く、その場で互いを支えるように、ただ抱き合っていた。



「……くしゅん」

 人のいない静かな駅のホームで、ベンチに座って帰りの電車を待っていると、葵が小さくくしゃみした。

 当たり前だけど、葵は着替えを持ってなかったし、僕もそこまで気が回らなかった。幸い、小さな駅舎の中にコンビニが入っていたから、そこでシャツやタオルを買ったけど、身体が冷えてしまっていることに変わりはない。

 雨は降っていないけど、相変わらず空は曇りで、海沿いの風も容赦ない。夏という文字を危うく忘れかけた。

「……くしゅん」

 もう一度、葵はくしゃみをする。僕は笑ってしまった。

 肩にかけたタオルごと、葵の身体を両手で包む。僕の体温を移すように、彼女の冷たい背中や腕を手のひらでさすった。

「もうちょっとで電車来るから、今はこれで我慢できる?」

 こくりと、葵は頷いた。


 電車が来て、なるべく冷房が当たらない位置に座って、それでも寒そうな葵の手を握りながら、窓の外を眺めていた。

「……ありがと」

 僕の肩に頭をもたれながら、葵が呟く。

「うん……」

 僕はそれだけ、返事をした。


***


 あの日から、2年の月日が経った。

 私が目標にしていた20歳の日は、実家で、ママとおばあちゃんと、平穏に過ごした。日付が変わって誕生日を迎えた瞬間、葉一くんから電話がかかった。

「ありがとう」

 おめでとう、じゃなくて?

 そう言って私は、茶化して笑ったけど、電話の先で彼は、

「ありがとう、今日も生きててくれて」

 もう一度そう伝えてくれた。

 本当は20歳になるのが怖かった。大人になれなかった恋人を差し置いて、私が成人するのは許されないと思っていた。

 だから葉一くんのその言葉を聞いて、私はまた泣いてしまった。

 誕生日が過ぎて、お正月が来て、約束通り一緒に神社に行って、二人で新しい季節を辿った。そして、また誕生日まで生きて、今ではもう22歳が目前に近づいてきている。ほんとに毎日、忙しい。就活に追われ、それに決着がついたかと思えば、卒業論文の執筆。おまけに、世界的に大流行して猛威を振るうウイルスのおかげで、2年前と比べると日常が様々に変わった。

 でも、私の隣には、今も変わらず葉一くんがいる。

 葉一くんが「一緒に帰ろう」と言ってくれたあの日から、命をもらったあの日から、私の心臓は、ちゃんと動いている。

 相変わらず、要領が悪くて色々欠けてて、生きるのが下手だけど。でも、ようやく、「こんなもんで大丈夫だよね」と、許せるようになってきた。

 もちろん、亡くなった彼のことは忘れられない。今でも偶に、思い出しては胸が痛くなる。ごめんなさいと、何度も謝ってる。

 それでも、傷を負った過去を引き連れて、残りの人生を全うする。彼が生きられなかった明日を、一歩一歩、抱えて歩く。私なりの、覚悟。

 我が儘かもしれない。やっぱり私は悪い人で、もう変われないのかもしれない。

 だけど、私は今、生きていたいと、やっと思えるようになったんだ。

 ……いや、本当は。

 本当はずっと誰かに気が付いてもらいたかった。

 身近な人に心を開くのは怖い。心配かけたくない。失望されたくない。でも否定もされたくない。心配して言ってくれた言葉も、どんなに綺麗で明るい言葉も、脆い心には棘みたいに刺さって抜けなくなる。だから、ブログを書いていた。友達にも、ママにもおばあちゃんにも、ずっと本当の気持ちは隠してたけど、ブログを書いてちょっとでも自分の想いを残したかった。笑っちゃうくらい閲覧数少なかったけど。

 私の気持ちを知っても誰も干渉しない、そんな都合のいい場所。だけどそれを葉一くんが見つけてたなんて。「偶然だよ」って彼は言ってたけど、すごく不思議だ。

 私を見つけてくれてありがとう。

 起こしてしまわないように、小さく囁いた。だけど彼は気付いちゃったみたいで。眠そうに目を開いて、ちょっと伸びをした後、私の背中に腕をまわす。布団の中にこもっていた二人分の体温がふわりと前髪を揺らした。

「葵」

 朝、目覚めるたびに、葉一くんは名前を呼ぶ。まるで、私の存在を確認するみたいに、そっと。その優しい声を聞くだけで、本当に胸がいっぱいで。私も、彼の名前を呼んだ。

「葉一くん」


 隣であなたが笑っている。

 私はあなたと、いつまでこうしていられるんだろう。

 この先、何があるかわからない。途中で道が分かれることがあるかもしれない。

 だけど。

 今までかなり後悔したし、この感情を何度も捨てようと思ったけど。でもやっぱり。


 君を好きでよかった。


 今は心から、そう、思う。



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