第六話
「……」
僕は、腕時計を見る。
九時五十三分を指していた。
広場をキョロキョロと見回す――周りには、大勢の人がいたけれど、中学生くらいの年齢の女子の姿は何処にも見当たらない。
……まさか……?
胸の中に、不吉な予感が去来する。
僕はもう一度時計を見た。
五十四分。
落ち着け――僕は自分に言い聞かせた。
そもそも時間が決まっている訳でも無いのだ、そんなに慌てる事は無いさ。
僕はゆっくりと息を吐いて、腕を下ろす――
だけど――
やはり、誰も来ない。
僕はもう一度腕時計を見た。五十五分。まだ一分しか経っていないし、約束の時間までにはまだ五分ある。平気さ。
顔を上げ、もう一度人の波を見る。相変わらず中学生らしい女の子の姿は無い。
「……」
またしても、不吉な予感が膨れ上がる。
違う。
そんな事は無い――そもそも今日は休日なのだ、オープンキャンパスだからと言って、服まで制服で来る訳が無い。そうだよ、だからきっと見落としているだけなんだ、最近の女子は中学生でも、私服姿だと結構大人っぽく見えるものだしな。
そんな事を考えながら、僕はもう一度周りを見回す。
だけど――周りにいるのは大人ばかりだ、さっきも見かけた女子高生二人組が、また手を繋いで走っていたけど、あの子達は勿論関係無いだろう。
時計を見る。五十六分。ますます嫌な予感がして、僕は額に手をやっていた――いつの間にやら、じんわりと汗が滲んでいた。
落ち着け。
落ち着くんだ。僕は自分に言い聞かせる。そもそも人間は機械じゃないんだ、そんな、時間ぴったりに正確に来るなんて、出来る訳が無いさ、それに相手は女子――きっと支度に時間がかかるのだろう。
そんな事を考えている間にも、時計の秒針はさらに進む――
五十七分。僕は、ごくり、と唾を飲み込んだ――
「兄様」
まさか……
まさか!?
まさか!?
そんな考えが、ぐるぐると頭の中を巡る――
違う、違う、と何回自分に言い聞かせても、その声はまるで、壊れてしまったスピーカーから聞こえているみたいに、あまり良く響かない小さい声だった。
「兄様」
五十八分。顔を上げる。誰も近くに来ない、時間を間違えている? そんな考えが浮かぶが、それも無いだろう、確かに、ここ――駅前広場に十時、と約束したのだ。
身体が、震え出す――
僕は、ぎりっ、と歯ぎしりした――
「兄様、おい兄様、話を聞いてくれ」
時計を、もう一度見る。
五十九分――もう、自分に何を言い聞かせてもダメだ。僕は黙ったまま、何かを考えるでも無く、秒針を見ていた。
あっという間に、秒針は進んで行く、まるでこの瞬間だけ、時間が早く流れているみたいだ。
三十秒――
二十秒――
十秒――
九、八、七、六――
僕は、最後にもう一度顔を上げた。
だけど――
だけどそこに――
妹の友人、と思われる女子の姿は、やっぱり――
やっぱり、何処にも無くて――
腕時計を見る。
三――
二――
一――
そして……
時計の針が、十時を指した。
僕は、もう一度顔を上げる。
誰も……いない……
周りに沢山の人がいたけれど――
誰も……僕には近づいてこない――
これは――
これは、つまり……
つまり――
「……僕は……」
小さく呟く。
僕は――また――
そう思った直後だった――
すっ――
「……?」
いきなり耳元に、何かが音も無く寄せられる――
そういえば、今朝起きた時にもこんな事があったような……?
そんな事を考えていた時――
「兄様ってばーっ!!」
「うぉあっ!!」
いきなり甲高いキンキン声で呼びかけられ、僕は思わずその場を飛び退いていた。
これも確か――今朝、同じ様な事があった――
そう思いながら、声のした方を振り返った僕の目に飛び込んできたのは――
「やーっと気づいてくれたな? 兄様」
にこにこと――
今朝、部屋で見た時と全く変わらない笑顔の、一人の少女――
僕の妹、堂本玲奈だった。
「今朝も言ったじゃないか? 兄様――」
にこにこしながら、妹が言う。
「私は兄様に無視されると、それだけでもう自殺したくなるほどに心が痛むんだ」
「だ だったら――」
今朝に引き続き、またしても妹の大声のせいでキーン、としている耳を押さえながら、僕は無愛想に言う。
「もうずーっと無視しててやるから、そのまま死ね、て、兄ちゃんも今朝言ったはずだぞ?」
「うむ」
妹はそれを聞いて頷く。
「それならば兄様が私を殺してくれ、腹上死でな――」
今朝と全く変わらない妹の変態的な台詞にも、僕はもう怒鳴り返す気力すらも湧かない。
僕は呆れた様に妹を見ながら、ガリガリと頭を掻きながら――
「お前、なんでここにいるんだよ? それに――」
僕は、妹を見る。
休日の駅前広場だというのに、妹は、いつも中学に行く時に着ていく制服姿だった。
それ自体は、別に珍しくも無い――だけど……
妹は、その細い肩に、何やら大きな鞄を背負っていた――
ボストンバッグ、というのだろうか? 旅行に持って行く様な、大きなバッグだった。
「ふう――やれやれ、これでも減らしたつもりなんだがなあ、さすがに重い……」
ぶつぶつと言いながら、妹はそれを、ゆっくりと下ろし、足下のアスファルトの上に置いた。
がしゃ……
「……?」
まるで金属と金属がぶつかり合うような音が、その鞄の中から響く。僕は思わず首を傾げていた――
目をやれば、その鞄の中からは、何やら細くて長い、棒みたいなものが入っているらしく、内側から鞄を押し上げ、あちこちに細長い出っ張りを作っていた。
「何だ、その荷物は?」
僕は思わず問いかけていた。
「んん?」
手うちわで、ぱたぱたと顔の横を扇いでいた妹が、こちらを見る。
「ちょっとな、色々と準備してきたのさ――」
「……準備って、何の?」
僕は問いかける。
「決まっているだろう? 兄様――」
妹は、うちわにしていた手をぱたん、と下ろし、にっこりと笑う。
「私も、今日デートに行くのさ――」
「……は?」
僕は、問いかけていた。
「だから――」
妹が、のんびりとした口調で言う。
「私も、デートに行くんだ」
「……デート……」
僕は、その言葉を復唱する。
デート――
こいつが?
この妹が?
デート?
「……」
僕は、ぽかん、と口を開けた――
デート。
こいつが――デート。
「あの……玲奈」
僕は呼びかける。妹はそれに、予め聞かれることを知っていたみたいに――
「ああ、安心しろ兄様、ちゃんと異性、即ち男性とだ」
「……男性と……」
この妹が――男とデート……僕は妹の顔を見る。
「そ そうか、そうかあ!!」
僕は、明るく言って頷いた。
こいつが、デート。
男とデート……
今まで、僕にばかりずっと絡んで来ていたこの妹が、デート――
「そうか、そうか!!」
僕はもう一度頷く。
さっき考えていた事や、今朝、家で考えていた事が、頭をよぎる。いつまでもこの妹に、ずっと絡まれている訳にはいかないのだ。
だから、変えないと。
そう思っていた――
だけど……そんな心配は杞憂だったんだ。
僕は、思った。
こいつは、もう既に、僕の知らないところで、自分の人間関係をしっかりと築いていたんだ。そして今日、その相手とめでたくデートをする、という事になった――
その相手と妹が仲良くなったら、もしかしたら僕達兄妹の関係は変わってしまうかも知れないけど、あんな風に妹と必要以上に絡む様な事があって良いはずが無いんだ。
そうだとも――
それで、良いんだ。
僕は、妹を見る。
「そ それで――」
僕は、妹に呼びかけた。
「ん?」
妹が、こちらを見る。
「それで、相手は誰なんだ?」
僕は、問いかけた。
「……んん?」
妹が、こちらを見ながら可愛らしく小首を傾げる。
「だ だから――」
僕は言う――
「お前と今日デートをする相手だよ、どんな奴なんだ? もしかしてもうここに来てるのか?」
僕は聞きながら、辺りを見回す。
この広場にいる、妹と年齢の近そうな男性というと、やっぱり、あの広場の中央にあるオブジェの前に立つ青年だろうか? だけども彼は、オブジェに背中を預け、スマートフォンを弄くったまま、こちらを見ようとしていない――
では……? 辺りを見回す――
携帯電話に向かって大声を張り上げながら走って行くサラリーマン、だが、年齢が大分妹と離れすぎている、そういう相手と付き合うなんて事もあるかも知れないが、デートの相手である妹の方に近づきもしない、という事はやっぱり違うのだろう。ならば、誰だ?
どんな奴だ? 僕はもう一度、妹を見る。
目をやれば――妹は、小さく微笑んでいた。
「何を言ってるんだ? 兄様?」
「……え?」
僕は、問いかける。
妹は、にっこりと微笑む――
そして――
「私のデートの相手ならば――もう、既に目の前にいるじゃないか?」
「……は?」
僕は、呆然と問いかけた。
「だから――」
ゆっくり――
ゆっくりと――
妹の手が、ゆっくりと上げられ――
そして……
ぴっ、と――
妹の、白い指が――
僕の顔を、指し示した。
「私のデートの相手は、今、目の前に立っている、世界で一番素敵な男性、即ち――」
妹が、僕の顔を指差しながら、朗らかに言う。
「兄様だ」
「……」
僕は――言葉を失っていた――
つまり……
つまり、こいつは――
この妹は――
「……お前……もしかして――?」
僕は問いかける。
「ああ、そうだ」
ぱたん、と――
僕を指差していた手を下ろし、妹が言う。
「兄様を、騙したんだ」