第五十一話
十歳の頃。
妹が、凄い熱を出した。
妹は、その頃から僕に付き纏って、何かと僕の世話を焼いてくれた、今にして思えば、その当時から僕はクラスメイト達からの虐めを受けていて、友達と呼べる存在は一人もいなかった、そんな僕を気遣って、いつも一緒にいてくれた。まだ八歳の妹は、その疲れで倒れてしまったのだろう。
僕は、そんな妹の面倒を見ながら、ずっと一日一緒に過ごしていた。
そうは言っても、実際に僕に出来る事なんか、医者から貰って来た薬を飲ませる事くらいしか無かった。
だけど。
妹は、ベッドの上に横たわったままで、ゆっくりと目を開け、僕の方を見た。
「兄様……」
妹が言う。僕の事を妹が、『兄様』と呼んだのは、その頃からだった気がする。
「私は……兄様を……守りたい……」
そう、呟く妹に、僕は曖昧に笑っただけだったけれど。
妹は、もしかしたら……
もしかしたら、この頃から……
「……っ」
どれくらいの時間が過ぎたのだろう?
僕は、はっ、と目を開けた。どうやらうつ伏せになって眠っていたらしい、だけど何か、身体、特に両手首に違和感がある、意識がはっきりとしてくるに連れて、ようやくその違和感の正体に気づく、何かが両手首に巻き付いている、電気コードの様な、細くて長いゴム製の紐状のもの……そのまま両手首は腰の後ろに回されていた、これでは起き上がる事が出来ない。
それでもどうにか、上半身だけを上に持ち上げて身体を起こす、何があったのかは覚えている、あの女……あの不気味なガスマスクの女に、例の釘打ち機に仕込まれていた薬のようなものを注射され、意識を失ってしまったのだ、そして恐らくは、あの女に掴まり、今は何処かに縛られて閉じ込められている、そんなところだろう。
問題は、ここが一体何処で……あの女は何処にいるのか、という事だ。僕は周囲を見回した。
真っ暗な場所だ、微かに埃っぽい空気が漂っている、何処かの室内、という事は解った、それも随分ひんやりとしている、多分普段は使われていない部屋なのだろう、真っ暗で何も見えないが、恐らくは壁も床も天井も、コンクリート打ちっぱなしの部屋だろう、僕はどうやら、その部屋に置かれた簡易なベッドの上に寝かされているらしい。
誰の姿も無い、だけど目が慣れてくるにつれて、部屋の中には色々な物がある事に気づく、まずは部屋の中央、そこに大きな……多分机と椅子が置かれている、そして部屋の奥にも、何か大きな物が置かれているが、これは何なのか解らない、とにかく大きなもの、という事しか……
僕はそこまで考えて、軽く首を横に振る、今は、部屋の中の事よりも、ここからどうやって抜け出すか、だ、両手首を縛っているものはかなり頑丈で、引っ張ったくらいでは千切れそうにない。ならばどうにかして、何かで切断するしか……しかし一体どうやって?
思考を巡らせるが、良い方法は思いつかない。
そういえば、あの女は何処にいるのだろう?
そして……
「……玲奈」
僕は、小さく呟いた。
玲奈。
妹は、どうしているのだろう?
あのまま諦めて、家に帰ってくれただろうか?
そんな風に、考えていた時だった。
がちゃ……
聞こえた。
気のせいなんかじゃない、微かな金属音、多分……鍵か何かが外される音だ、僕はその音がした方、部屋の正面をじっと見る。
ぎぃい、と扉が軋む音がして、真っ暗な室内に、光りが差し込む。思わず目を閉じた僕の耳に聞こえたのは、かつ、かつ、と、ブーツが床を踏みならす音。
玲奈?
一瞬思った。
だけど……
次の瞬間に聞こえた声は、妹のものではなく……
「あら?」
足音が室内に入り、扉が閉められる。
「お目覚め?」
かち、と、スイッチを入れる音。
ぱっ、と室内に灯りが灯る、灯り、と言っても、天井に取り付けられた裸電球が一つだけだ、きっと急拵えで用意したものなのだろう、と僕は、目を開けて天井を見ながら思った。
そして。
僕は、部屋に入って来たそいつを見る。
さっきの予想通りに、無機質なコンクリート打ちっぱなしの部屋。入り口の扉は、ひどく汚れた鉄製の扉だった、その前に佇む大柄な影。
緑色のロングコート。
黒い山高帽。
そして顔を覆う、真っ黒なガスマスク。
「……貴様……」
僕は歯ぎしりしながら言う。
そいつは、紛れもなく。
あの、ガスマスクの女だった。