第四話
服を着替え、身支度を調え、自室から出る。
僕の部屋は二階の真ん中――家の中でも結構日当たりの良い場所だ、妹の部屋は隣にある、両親は、妹に、もっと日当たりの良い場所にある部屋を用意してくれたのだけれど、妹は、『ここが良い』と譲らなかった。無論、理由は一つしか無い。
軽いため息をつきながら階段を下り、一階の廊下へ向かう――パンを焼く良い匂いが、僕の鼻孔を刺激した、どうやら既に妹は、完璧に朝食の準備を整えていたらしい。
廊下から、そっとキッチンを覗き込む、エプロン姿の妹が、パタパタとせわしなくキッチンの中を走り回っていた。
「おはよう」
「ああ、おはよう兄様――」
妹が、こちらを振り向いて微笑む。
「……何か、手伝うことはあるか?」
僕は問いかけたけど、妹は首を横に振った。
「大丈夫さ、兄様はテーブルで待っていてくれ」
「……いつもいつも悪いな」
僕は、小さく頭を下げる。だが妹は、穏やかに首を横に振る。
「気にするな、これがこの家の伝統なんだ」
「伝統、ね――」
僕はまたため息をつきそうになる。
そう――この家では、未だに『家事は女性の仕事』という、古臭い考えが、家族全体に染みついており、母も父に対し、一切の家事をさせなかった、無論、それは妹にも受け継がれ、こうして家の仕事は全部妹に任せきりになってしまっている。
「……それに……」
妹が、小さく笑う。
「どうせ兄様には、ろくに家事なんか出来ないじゃないか」
「……」
その言葉に、僕は軽く絶句する。
その通り、以前、僕は妹を説き伏せて、家事を当番制にした事がある。
だがその時、料理も洗濯も、あまりの手際の悪さに、逆に妹から『兄様は掃除以外の家事はやらなくて良い』と、一切手出しを禁じられてしまったのだ。
それ以来、結局、僕は色々な事を妹に頼り切りになってしまっている――
男として、そして何より兄として情けない――僕は項垂れそうになるのを堪えながら、妹の顔を見る。
「そういえば、母さんと父さんは?」
「夕べ連絡があった、今月も帰れないそうだ」
妹は、肩を竦めながら言う。
僕は何も言わない――まあ、いつものことだ。貿易会社に勤務するうちの両親は、しょっちゅう海外の企業との取引で世界中を飛び回っている、おかげでほとんどと言って良いほど、この家には帰ってこない。
――寂しい。
そう言うことを感じた事が無い、といえば嘘になる。
けど……
「ほら兄様――いつまでもそんなところに突っ立ってないで、テーブルに着いていてくれ」
妹の声――
僕は軽く頷きながら、ゆっくりと歩き出す。
この妹との生活が、そういうものをいつの間にか忘れさせている、というのも、また事実なのだ。
テーブルに着く。
僕はテレビもあまり見ないから、リビングの中は静かなものだ。そのまま何もせずに、黙ったまま、僕は椅子に座っていた――
デート。
もう一度、その言葉を小さく心の中で呟いてみる。
良い響きだ。
だけど……
だけど――
僕は、ゆっくりと息を吐き出す。昏い記憶も一瞬浮かぶ。だがそれ以上に――
初めて会う異性――
妹の友人――
僕は――
僕はその子を――今日一日、『楽しかった』と言わせられるだろうか?
「……」
俯きそうになる。
努力は、するつもりだ――
それでも――
それでも、やはり――
掌に、じんわりと汗がにじみ出る。
緊張、し始めていた――
「おまちどおさま、兄様」
妹ののんびりとした声。
トーストの乗った皿が、そっと目の前に置かれた。僕はその音と、妹の声に、一時的に緊張を忘れた。
トーストの横に、サラダとオムレツが盛り付けられた皿が置かれる、我が家のいつも通りの朝食だ、オムレツの上にケチャップで、『兄様LOVE』などと書かれている事だけはいただけないが――
「さあ、たんと召しあがれ」
妹が言いながら、僕の正面に腰を下ろす。その妹の前には何も無い。
「……お前、自分の分はどうしたんだよ?」
僕は問いかけた。
「無いよ、私は兄様が美味しそうに食べているところを見ていれば、それでお腹いっぱいになれるからな」
テーブルの上に頬杖をついて、にこにこと言う妹。
「訳の解らないこと言ってないで、朝ご飯くらいはきちんと――」
僕は妹に言う。だが妹は、くすくす笑いながら僕の言葉を制した。
「解ってるよ、冗談だ、私は兄様が出かけたら食べるよ」
「……ちゃんと食えよ?」
僕は言いながらフォークを手に取り、オムレツの上に書かれた妹からのメッセージを、フォークの背の部分で綺麗に引き延ばして消した。
「……こら、兄様、それが一番の自信作なんだぞ?」
僕は何も言わず、オムレツを一口大に切って口に運ぶ。
「うん、美味しい、さすがだな」
メッセージの事なんか完全にスルーして振る舞う僕に、妹は不満げに口を尖らせる。
「兄様のいけず……」
「何の話だ? ちゃんと美味しく食べてるじゃないか?」
言いながら、僕はトーストを一口囓る。
妹との、いつもと変わらないやりとり――
さっきまで心の中に淀んでいた緊張や不安が、少しずつ和らいでいくのを、僕は感じていた。
朝食が終われば、後は時間まで適当に過ごし、出かけるだけだ。
僕は、リビングのテーブルに腰掛けたまま、じっ、と時計を見ていた。
九時二十分――あと十分だ。
「な なあ、玲奈……」
僕は、正面に座る妹の方を見る。
「――なんだ? 兄様?」
妹が、うんざりした様子で問いかける。
「ぼ 僕の服装、変、じゃないよな?」
僕は立ち上がり、妹の前で両手を広げる。ベージュ色の長袖の上着に、紺色のGパン、あまり派手では無いけれど、シンプルで動きやすいものの方が良い、と、妹がチョイスしてくれたのだ。
「……兄様……」
妹がため息をつく。
「その質問は、もうかれこれ七回目だ、何処もおかしなところは無いし、いつも以上に素敵な兄様だ」
「……うう……」
僕は呻いて、すとん、と椅子に腰を下ろす。
デート――
やっぱり、どうしようも無く緊張する。
「玲奈ぁ……」
僕は、情けない声で妹にもう一度問いかける。
「兄様――少しは落ち着けよ、そんなに緊張していたのでは、相手の子だって楽しめないぞ?」
「……わ 解ってるよ……」
僕は呟く――妹は、そんな僕を見て、くすくすと笑う。
「そんな事では、やっぱり兄様には彼女なんか出来ないな――兄様のお相手はやはり、この私一人だけ、という事だ」
「……違う、断じてそれは違う――」
僕は、ふんっ、と鼻を鳴らして言う。
「まあ、安心しろ兄様、今日の子にフラれても、帰ったら私が優しく兄様を慰めてやる、勿論ベッドの中でな」
僕の言葉を無視し、妹がははは、と笑って言う。
「だから――」
僕は反論しようとする――
「大丈夫だ兄様、ちゃんとお風呂には入っておくし、勝負下着も身につけておくから」
妹がうんうんと頷いて言う。
「話を勝手に進めようとするんじゃ無いっ!! だいたい今日、僕がその相手の子ともの凄ーく親しくなったらどうする気なんだ?」
僕は問いかけた。
「んん?」
妹が、こちらを見る。
「だから――」
僕は、口を開く。
「僕と相手の子が、もの凄く仲良くなって、その子と本当に付き合う事になるかも知れないんだぜ?」
「万が一にも、億が一にも、そんな事はあり得ないと断言出来るがな?」
妹が、小さく笑って言う。
「た 例えばの話だよ――」
僕は言いながら、妹に問いかける。
「そうなったら、お前との関係は変わっちゃうだろう? お前は、そういうのが一番嫌なハズだろ?」
僕は、妹に問いかけた。
そうだ。
例え今回のデートが失敗に終わったとしても、僕だって男だし、妹だって女子だ。ずっとこんな関係が続くはずが無い――いずれは必ず、お互い好きな人が出来て、その相手と過ごす時間の方が長くなるだろう。
だけど――妹は、それを嫌がっている。少なくとも今は――
そんな妹が――
「お前、それなのに何で、今日のデートを許したんだよ?」
そうだ。
この妹は、僕の事が好きだ。
そんな妹が、『高校を案内する』という名目とはいえ、どうして――
どうして、異性と出かけるなんて事を、簡単に許したんだろう?
今更、頭に浮かんだ疑問だけれど、一度考えたら、聞かずにはいられなかった――
「……」
妹は、何も言わない。
僕も何も言わず、妹の言葉を待っていた。
ややあって――
「それは、今は残念ながら話せない」
「……何だよ、それ?」
僕は問いかけた。
妹は、僕の方を見て、ニコッと笑う。
「すまない、兄様――私が今日のお出かけ――ああ、兄様にとってはデートなのだな? デートを許したのには、勿論ちゃんと理由があるんだけど、今はそれは話せないんだ」
「……何でだ?」
僕は、もう一度問いかける。
「乙女には、色々とある、という事さ」
妹はにっこり笑って言う。だけどその笑顔と、よどみの無い口調は、これ以上聞いても答えない、という、明確な意志がはっきりと感じられた。
「……」
僕は、結局それ以上何も聞かなかった。こうなったらこの妹は、例え何を言ったとしても話さない、僕はそれを、経験から知っている。
「さあ、兄様――」
妹が、椅子から立ち上がる。
「そろそろ出かける時間だぞ」
「……あ ああ……」
僕は頷いて、壁に掛けられた時計を見る。九時二十五分、確かに、そろそろ出ないと――
椅子から立ち上がる、妹が、すっ、と鞄を差し出して来た。
「必要なものはだいたい入れておいた、携帯とお財布は、自分で入れてくれ」
「ああ、ありがとう」
妹に言いながら鞄を受け取り、中に財布と携帯を突っ込む。
「それじゃあ――」
行って来る、と言おうとした時には、妹は既に僕の視界から消え、背後に回っていた。
そのまますっ、と両肩に手を乗せ、妹はぐいぐいと僕の身体を押し、リビングから廊下へと押し出した。
「行ってらっしゃい、兄様」
「あ ああ……」
妹に頷きながら廊下を歩く――
「気をつけてな」
「う うん」
妹に頷き返す。だが妹は、まだ肩から手を離さず、僕をぐいぐいと押し、そのまま玄関へと向かった――
「楽しんで、来てくれ」
妹が言う。
だけど――
その口調は――妙に固く――
まるで……
まるで、何かを――必死に堪えているみたいで――
玄関に到着した僕は、そのまま三和土へと降り、靴を履いて背後を振り返る。
妹の顔を、見る――
「……玲奈?」
僕は呼びかけた――
妹は、何も言わず――
俯いたまま、立っていた。
「……」
僕は、その妹の雰囲気に――
何を言えば良いのか――解らない。
ぞわり――
嫌な予感が、一瞬――
一瞬、胸の中に去来する。
あの朝、部屋の中で感じたものよりも、はるかに昏い、どこか不気味さすら感じる、不吉な予感。
「玲奈――」
僕は――妹にもう一度呼びかけた。
「……ん?」
ゆっくりと顔を上げる妹。
そこには、いつもと変わらない――
満面の、笑みが浮かんでいた。
その笑顔を見ても、嫌な予感は消えない――
まるで……
「……行って、来るよ」
その予感を吹き飛ばすように、僕は口を開いた。
「ああ」
妹が、頷いた。
「――その――」
言いよどむ。
だけど――
それでも、僕は口を開いた。胸の中の嫌な予感を、無理矢理にでも消し去ろうとして――
「お前、ちゃんと留守番してろよ?」
「ああ、兄様の帰りを全裸で待っているぞ」
にっこりと笑って言う妹。
「……夜は、ちゃんと家で食べるんだからな? 晩ご飯、用意しといてくれよ?」
それでも僕は、まだ言わずにはいられなかった。
嫌な予感が、ますます強まる――
まるで――
「ああ、兄様の好きなメニューを、沢山作って待っている」
「……ああ」
僕は、頷いた。
そして――
「それじゃ、行って来る」
「気をつけてな、兄様」
妹が、満面の笑みで言う。
だけど僕は、そのまま、玄関から外に出る事が出来なかった。
嫌な予感が、さらに強まっている気がする――
しばしの間、沈黙が訪れる。
「ほら、兄様――」
ややあって――
妹が、言いながら手を伸ばし、またしても僕の肩に手を乗せて、ぐいっ、と無理矢理振り向かせ、そのまま玄関の扉を開けて外に押し出した。
「お おい――」
僕は抗議の声をあげるけど、その時にはもう既に、玄関の外に押し出されていた。
たたらを踏みながらも、僕はもう一度背後を――
妹の方を、振り返っていた。
「兄様――」
妹が、言う。
「今は、楽しんでくれ、人は、前に進む生き物だ、過去の事も、そして今の事も、ずっとそればかり考えてはいられない――だけど……」
妹はそこで言葉を切り、にっこりと笑う。
「だけど今、兄様は何も気にせず、『今』の瞬間を楽しんでくれ」
「……どういう――」
意味だよ?
そう問いかけようとした。
けれどその時――もう既に――
玄関の扉が、ゆっくりと閉じ始めていた。
「そろそろ行った方が良いぞ兄様、どんな理由のお出かけであれ、女性との待ち合わせに遅刻するなんて、男としてはもっともやってはならない最低の行為だからな」
それだけを、説教臭い口調で告げ――
ぱたん、と――
妹は、玄関の扉を閉めた。
「……」
閉じてしまった玄関の扉の前で、僕は黙って佇んでいた。
確かに、妹の言う通り、そろそろ行かないといけない。
それは、解っている。
だけど――
だけど僕は、そこからまだ動けなかった。
嫌な予感が、する。
まるで――
まるで、もう二度と――
もう二度と、妹に会えなくなってしまう。
そんな、予感が――




