第三十九話
僕は……
自分の手の中の銃を、じっと見る。
今の銃声は、僕が今、手に持っているこの銃からでは無い。
ならば……
ならば、今の銃声は……
僕は、銃声が轟いた方を。
背後を、振り返る。
玲奈だ。
銃口の先から、一筋の煙が立ち上る銃を、高々と空に向かって構えている。
「……人がほんの数分意識を失っている間に……」
玲奈が言う。
「夫に妙な事を吹き込むのは止めて貰おうか?」
「……」
僕は何も言わない。いつもの妹の軽口に、ツッコミを入れる気にすらならず、ただ……
ただ、妹を見ていた。
ややあって。
妹が、ゆっくりと……
ゆっくりと、身体を起こす。
「ふう……」
起き上がった妹が、額の汗を拭う。
「まさか爆弾を飲み込んでいるとはな、さすがに予定外だったぞ」
妹は言いながら立ち上がり、がしゃ、と銃を真田に向ける。
「私の夫から離れて貰おうか、嫌ならば……」
その言葉に。
「構わないぜー」
真田は、にやにやしながらあっさりと頷くと、そのまま後ろ歩きでゆっくりと後退していく。
「だけど、良いのかな?」
真田が、楽しそうに言う。
「君の大好きなお兄ちゃん、堂本君はもう……」
真田はそこで、ふふふ、と軽く笑う。
「もう、生きる事を諦めているみたいだぜー?」
真田はそう言って、今度は大きく笑いながら、ゆっくりと僕から離れた。
妹は、ゆっくりとこちらに近づいて来る。
そして。
妹が、僕の横にそっと立つ。
「……」
僕は黙って、妹の顔を見ていた。
「玲奈……」
僕は、妹に呼びかける。
「兄様」
妹がにっこりと笑う。
「ハンカチをありがとう、私の血で汚してしまって申し訳ない」
「……そんなのは良い、玲奈」
僕は、妹の目を真っ直ぐに見据える。
「玲奈、聞いてくれ、僕は……」
僕は言う。
そうだ。
さっきは失敗したけれど……
「僕は……」
妹は、僕の前にしゃがみ込む。
「兄様」
妹が言う。
「さっきの『あれ』とのやりとりは、少しだけど聞こえていた」
妹は、真田を顎でしゃくって言う。
「まさか兄様、『あれ』の言う事にも一理ある、とか、そんな事を考えて、その銃で頭を撃ち抜こう、などと考えているんじゃないだろうな?」
「……そうだよ」
僕は、はっきりと告げる。どうせコイツには、下手な嘘は通じない。
「そうすれば、この『戦争』は終わる、お前も、もうそんな……」
僕は、妹の脇腹の傷を見る。既に僕のハンカチは、元の色が解らないほど真っ赤になっていた。そして妹の傷口からは、まだ……
まだ、血が流れている。僕はそれを見るのが嫌で、妹の顔を真っ直ぐに見る様にしていた。
「そんな怪我を、しなくて良くなる」
僕は言う。
「他の人だって……もう、これ以上誰も死なないで済む」
僕は、妹の目を真っ直ぐに見て言う。
「弥生も、医者に診て貰える、僕が……」
僕は、そこまで言って手に持っていた銃をもう一度見る。
「……僕が死ねば、全部が……」
そして。
僕は震える手で、銃をこめかみに押し当てる。
「全部が、終わるんだ」
僕は言う。
引き金を引くのが、怖い。だけど……
だけど……
全てを、終わらせる為には。
仕方が無い。
仕方が、無いんだ。これ以上……
これ以上、僕の為に誰も犠牲にならないようにする為には。
僕が……
「兄様」
妹が、ため息交じりに言う。
「……」
僕は、妹の顔を見る。最後に、せめてこの妹の顔を目に焼き付けようと思って。
だけど。
妹は、何故か突然開いた右手を振り上げて――
ばしっ!!
小気味の良い音が響いて、僕は妹に頬を殴られていた。
「っ!?」
突然の事に目を白黒させる僕に、妹はさらに右手を振り上げると、今度は僕の頭を叩いた。
「痛てっ!! お おい……」
だけど妹は容赦せず、今度は左手まで使って、僕の頭をまた叩いた、さらには拳を握りしめ、今度は肩やら胸やらまでバシバシと叩いて来る始末だ。
「おい、止めろっ!! こらっ!!」
僕は妹に向かって声を荒げた。
だけど妹は止めるどころか、さらにあちこちを叩いてきた。
「このっ!! いい加減に……!!」
さすがに頭に来て、僕は妹の手首を掴んだ。
だけど妹は、それでも僕の顔を怒った顔で睨み付けていた。
「痛いじゃないか!?」
僕もさすがに怒って妹に言う。
だけど妹は、まだ僕を睨み付けていた。
そして。
妹が、口を開く。
「なあ、兄様」
「……」
僕は何も言わない、黙って妹を見ていた。
「なあ、兄様、兄様よ」
「……何だよ?」
僕はぶっきらぼうに問いかける。
さっきまでの怒っている顔とは違って、そこには優しい笑みが浮かんでいる。
「私は、兄様の事が好きだ」
妹が言う。
僕は何も言わない。妹は、にっこりと笑う。
「兄様の事を、愛している」
「……」
いつもいつも、コイツはこうやって僕に愛の告白をする。その言葉も、その口調も、その表情も、何もかも今、妹の口から出ているのは、全くいつもと変わらない。だけど……
だけど何故か、今の妹には……
何処か……
何処か、それ以外の感情がある様に見えた。
それは。
それは、『恐怖』だろうか? それとも……
それとも……
「兄様の為だったら、なんだって出来る」
だけど。
妹の口から出るのは、いつもの言葉。
「兄様の為だったら、死んだって良いと思っている」
「そうかよ」
僕は無愛想に言う。
「ああ、そうだ」
妹は頷いた。
「もちろん、そんな大好きな兄様には、いつまでも、どんな時でも元気でいて欲しいし、笑っていて欲しいと思っている」
「……」
僕は何も言わなかった。妹はさらに続ける。
「だからもし……」
妹は、にこにこしながら言う。
「もし、大好きな兄様の笑顔を奪おうなどという輩がいれば、私はそいつを絶対に許さない」
「……」
僕は、妹の顔を見る。
いつもの笑顔を浮かべた妹の顔を、真っ直ぐに見る。
「兄様を虐める者がいれば、私はそいつに兄様がされた事を倍にして返す、兄様の心を弄んだ人間がいれば、私はそいつの心が壊れるまで徹底的に追い詰める、そして……」
妹は、目を開いた。
そのくせ、その口元には、まだ笑顔が浮かんでいる。
「……もしも兄様を殺そうとする者がいれば、私はそいつを殺す」
「……」
僕は、思わず身を退かせていた。
「兄様は、天寿を全うするその日まで、元気で、私の側で生きていてくれ、私が大好きな……」
妹は、僕にゆっくり顔を近づけて来る。
「大好きな兄様の笑顔を、見せていて欲しい、その為にならば、私は何だってするし、もしもそれを奪おうとする者や、怖そうとする者がいれば、私はそいつを殺す、壊す、徹底的に破壊する」
「……」
僕は、思わず身を退かせていた、その拍子に、妹の手首を掴んでいた手が、するり、と妹から離れる。その瞬間を待っていたかの様に、妹が両手を伸ばして僕の両頬をがっちりと掴んだ。
「良いか兄様」
妹が言う。
「もしも『あれ』が兄様を殺せば、私は即座に『あれ』を殺す」
真田を軽く顎でしゃくって、妹が言う。
「もしも『あの女』が兄様を裏切れば、私は即座に『あの女』を殺す」
ちらり、と視線を車の方に向けて、妹が言う。
「そして無論……」
妹は、僕の目を真っ直ぐに見据えて言う。
「それだけで、私は治まらない、兄様を殺したのが『殺人法』だなんていう馬鹿げた法律なのだとしたら、私はすぐにでもこの国の中枢に行って、こんな法律を制定させた政治家だか官僚だか大臣だか知らないが、そいつらも皆殺しにする」
「お お前……」
僕はさすがに咎める声で言うが、妹は気にせずに続けた。
「それでも私は治まらない、兄様が殺されたというのに、のうのうと平和に生きている人間達を、私は絶対に許さない、この国の奴らも、世界各国の者達も、全て皆殺しにする、兄様がいない世の中なんて、私は存在する事すら許さない」
「……」
こいつは……
この妹は、狂っている。
僕は、そう思わずにはいられなかった。
「それが嫌なら……」
妹が言う。
「私を、世界を滅ぼす人間にしたく無いと思うのならば、兄様は生きていてくれ」
「……お前な」
僕は呆れて言う。
「私は、兄様に生きていて欲しい」
妹は、僕を真っ直ぐに見て言う。
「……」
僕は、妹から視線を逸らした。
僕が生きている限り……
「ああ、そうだ」
妹が頷く。
「兄様が生きている限り、この『戦争』は終わらない、今も、この先も、沢山の人間が兄様を殺そうとするだろう、そして私は、それを全力で阻止する為に……」
妹は、にっこりと笑う。
「この先、何万という人を殺すだろう、だが……」
妹は、じっと僕の顔を見る。
「それがどうしたと言うんだ? 兄様」
「ど どうしたって……」
僕は妹の顔を見る。
「確かに兄様のせいで、この先もっと大勢の人間が死ぬだろう、だが、それが何だ?」
「……」
僕は、妹を睨み付ける。
「彼らが死んだのは、確かに兄様が原因かも知れない、いいや、むしろ殺したのは私だから、私こそが彼らの幸福な人生を奪った原因だろう、だけど、私は微塵も後悔していない、それで大好きな人の命が守れたのだからな」
「……お前は……」
僕は妹に言う。やはりこいつは狂人だ。
「それに」
妹は、そんな僕に向かって言う。
「彼らの死を嘆き、悲しみ、自分を責め、それで何になると言うんだ?」
「……っ」
その言葉に……
僕は、思わず絶句していた。
「彼らの死は、確かに兄様のせいでもある、だが兄様、それで自分を責めて、兄様が死ねば、あいつらは戻って来るか? 遺族達が、私や兄様を許してくれるのか?」
「そ それは……」
僕は言い淀む。
「許されはしない、そして死んだ者達も戻っては来ない、だったらここで兄様が死ぬ事に、一体何の意味がある?」
妹が問いかける。
「……」
僕は、答えられなかった。
そう、かも知れない。だけど……
「この『戦争』が終われば……」
僕は言う。
そうだ。
『戦争』さえ終われば、これ以上、そういう人達は出なくなるじゃないか。
「ではその為に、兄様は私を置いて行ってしまうのか? それに……」
妹は、僕の顔を見る。
「兄様自身の人生は、それで終わっても良いのか?」
「……」
僕は押し黙る。
「僕の人生なんて……」
僕は呟く。
そうだ。
僕の人生なんて、ちっぽけで、何の価値も無くて……
「……そうかも知れない、だけど、これから何か、大きな価値が生まれるかも知れない」
妹が言う。
「……」
僕は黙り込む。
「……兄様」
妹が、呼びかける。
「死んで変えられる事なんか、何もありはしない」
妹が、はっきりと告げる。
「だったら、みっともなく足掻いて、藻掻いて、戦って、そして生き残る方が良い、そして、この『戦争』で死んだ人達の命に報いる方法を、探した方が良い、あの時、あの『戦争』で死ななくて良かったと思えるくらいに、楽しい人生を歩んだ方が良い、その方がよほど、彼らに対する供養になる、そう思わないか?」
「……僕に……」
僕は、妹の顔を見る。
「僕に、そんな人生を送る事が出来るかな?」
その言葉に、妹はにっこりと笑う。
「出来るか出来ないか、それは兄様次第だが、とりあえず一つだけ、死んだ人達に報いる方法があるぞ」
「……どんな方法だよ?」
僕は妹に問いかける。
妹は、にっこりと笑い、僕の頬を掴んでいた両手をそっと離す。
そして。
「この『戦争』で死んだ人間の、倍以上の人数の子供を産む事だ、というわけで兄様、早速私と子作りを……」
そのまま両手をいやらしくわきわきとさせながら、妹は僕のズボンのベルトに手を伸ばして来て――
「って、お前結局それが言いたいだけかよ!?」
僕は怒鳴りながら、妹の手をばしっ、と払いのけた。
妹は、払われた手をまだわきわきとさせながら、僕を色っぽい目で見る。
「そうさ、実はもうさっきから我慢出来ないのさ、兄様とこんなに密着して話していたのだからな?」
「あのなあ……」
僕は額に手をあてて言う。
「今はそんな場合じゃ無いだろうが?」
僕はそこで、顔を上げて正面を見る。
真田は、腕を組んでこちらを見ていた。
「……ふむ」
妹が、頷いた。
「確かに、今は部外者がいるからな、私の乱れる姿は、兄様にしか見せたくないし」
「そんなもん僕は一生見ない」
僕は、はっきりと言い、そして。
妹に殴られた拍子に、いつの間にか取り落としていた銃を、ゆっくりと拾い上げる。
そして。
「……真田」
僕は、立ち上がって一歩前に進み出る。
真田からは、何の言葉も無い。
僕も、それ以上は何も言わず、手にしていた銃を、ぶんっ、と真田に向けて投げつける。
くるくると弧を描きながら、銃が真田の方に向けて飛んで行く。真田はそれを、ばしっ、と空中で掴んだ。
「……悪いけど、僕はまだ死ぬ訳にはいかないみたいだ」
真田に向かって、苦笑いと共に言う。
「こんな僕でも、死んだら八つ当たりで全世界の人間を殺しかねない奴がいるみたいだから、な?」
軽く肩を竦めて言う。
「そうか」
真田がにやついて言う。
「だったらしょうがねえな」
真田は、僕が投げた銃をこちらに向ける。
「俺が、お前を始末してやるぜ、なあ?」
真田がにやり、と笑う。
「堂本君よお?」
……まだ。
僕が死ねば、この『戦争』は終わる。
その考えが、消えた訳じゃない。だけど……
だけど……ここで死ぬ事が、正しいとは思えない。
ならば……
ならば、まだ……
まだ、死ぬ訳にはいかない。
僕は、そう思った。




