第三十八話
「玲奈!!」
呼びかける。
だけど妹は……
妹はやっぱり……
ぴくりとも、動かない。僕は走りながら、ぎりり、と歯ぎしりした。
「玲奈っ!!」
僕は大声で、もう一度呼びかける。妹は動かない。
「玲奈ぁっ!!」
さらに大声を出す。答えない。妹が返事をしない。
それは……
それはつまり……
「玲奈あああ!!」
僕は、喉を嗄らさんばかりの大声で叫ぶ。返事をしない。それはつまり……
つまり、妹は……
そんな事無い。
そんな事がある訳が無い。
絶対に。
絶対に無いんだ!!
自分にそう言い聞かせる様にして、僕は妹に駆け寄り、その身体を抱えて起こす。
「玲奈!! 起きろ!! 玲奈!!」
だけど……
妹からは返事は無く。代わりに、妹の身体を抱き上げた僕の手に、ぬるり、とした不快な感触が伝わって来る。
「……っ」
僕は息を呑む。遠くから見ていても解ったけれど……妹の脇腹からは、血が……
大量の血が……
「玲奈!! 起きろ!! 玲奈っ!!」
僕は叫ぶ。
だけど……
妹は、何も言わない。
目を閉じ、完全に意識を失った妹は、僕の声に何も答えない。
「玲奈、起きろ!! 起きてくれ!!」
だけど……
妹はやはり、何も言わない。
何も……
僕は、躊躇う事無く妹の左胸に手を当てた。嫌な予感が膨れ上がる。だけど……
だけど……
動いている。
妹の心臓は、動いている。
生きてる。
妹は……まだ……
まだ、生きている。
「……」
僕は、息を吐く。
生きている。
妹は、生きている。
まだ、生きている。
「……」
僕は、妹の身体をそっと横たえる。
ズボンのポケットからハンカチを取り出す。妹が怪我をしているのは、右の脇腹……
僕は、ハンカチをしっかりと妹の腰に巻き付け、傷口を縛る。
ぎりり、と……歯ぎしりする。
妹が……
こんな……
こんな、怪我を……
こんな……
こんな、『戦争』なんかのせいで……
こんな……
かつん。
その時。
僕の耳に届いたのは。
微かな、足音。
「……っ」
僕は、ぎりり、と歯ぎしりした。誰の足音なのかは考えるまでも無い。
僕は、ばっ、と振り返る。
「真田……!!」
ぎりり、と歯ぎしりしながら、真田を睨み付ける。こいつの事は、ずっと前から憎んでいたし、許せなかった。だけど今……
今……本気で……
本気で、こいつを殺したい、そう思っていた。
こいつが。
こいつがいなければ、僕は虐められる事は無かった。
こいつがいなければ、僕の中学時代は、もっと楽しかった。
こいつがいなければ、弥生に……
弥生に、裏切られる事は無かった。
人に裏切られる。その苦しみを知る事は無かった。
そうだ。
こいつが……
こいつこそが……全ての元凶なのだ。そして今も……
今も、こいつのせいで妹が。
妹が。
ぎりり、と歯ぎしりする。
そして。
「真田ぁぁぁぁぁぁぁあっ!!」
僕は叫びながら立ち上がり、そのまま拳を振りかぶり、真田に突進する。
だけど。
「おおっと」
からかう様に言い、真田はひょいっ、と僕の拳を軽く身体を捻って回避する。
「おいおい」
声がする。
そして。
ぼすんっ!! と。
腹に、拳が突き入れられる感覚。
「ぐっ……」
僕は呻き、その場にどう、とうつ伏せに倒れ込む。
「おいおい、堂本くーん」
声がする。
侮蔑を含んだ声。中学の時、毎日毎日聞くのが嫌でたまらなかった声。
もちろん今だって聞きたくない。だけど。
それでも……
それでも僕は……
「真田!!」
僕は怒鳴りながら立ち上がろうとした。
「おいおい、怖ええなあ」
楽しそうな声。そして。
どすっ、と、立ち上がりかけた僕の腹に、爪先がめり込む。
「がはっ……」
「お前が俺に対してそういう態度とると、どうなるのかなあ? なあ?」
ぼすっ!! と、今度は腹を蹴飛ばされる。
「堂本君よぉ?」
はははは……と。
笑う声が響く。
僕は……
僕は……
ぎりり、と歯ぎしりしながら、その場に腹を押さえて蹲っているしか出来なくて……
「……玲奈……」
ぽつりと呟く。
妹の……仇も討てなくて。
「……っ」
ぎりり、と歯ぎしりする。
情けなさが、こみ上げて来る。
「残念だったなあ?」
真田の声が響く。
僕は、歯ぎしりしていた。
「……こんな……」
僕の口から言葉が漏れる。
それは、意識した、というよりは……無意識に口から出てしまった様で……
「……こんな……」
そうだ。
こんな。
「『戦争』なんかで……お前を……」
僕は呟く。
そうだ。
もう、目の前にいる真田の事なんか、ほとんどどうでも良い。ただ……
ただ、玲奈をこんな事に巻き込んで、大きな怪我をさせてしまった。
その事が、ただただ悲しくて、僕は項垂れていた。
「『戦争』、ね」
声がする。
真田だ。
僕は何も言わずに、ただ……
ただ、項垂れていた。
「なあ、堂本君よお」
真田の声。
僕は聞いてもいなかった。だけど……
「本当に、『戦争』なんて始まったのかな?」
「……」
その言葉には。
さすがに、こんな奴とはいえども、僕は……
僕は、顔を上げていた。
真田の顔を見る。
にやにやと。
かつて中学の教室で見せた時と同じ。
否。
それ以上に醜悪で。
それ以上に、侮蔑を含んだ……
そして。
遙かに、邪悪な笑顔。
「だって考えてみろよ」
真田が言う。
僕は真田の顔を見上げていた。
「そもそも、一体いつ、こんな『戦争』が始まったんだ?」
「……」
僕は何も言わない。
真田の言葉は続く。
「そもそも、なんでこんな『戦争』が始まったと思う?」
「それは……」
それは、皆が……
あの駅前にいた人達。
あの『蜘蛛』。
廃工場で僕を殺そうとした人達。
そして……
真田達三人。
皆が……
「皆が、僕を……」
「違うね」
真田が首を横に振る。
「確かに、お前を殺そうとした奴は大勢いる」
真田が言う。
「だけど、そいつらが死んだ原因は何だ?」
「……それは……」
それは、彼らが僕を殺そうとして、そして……
そして。
「妹が……」
そうだ。
殺した。
全て、妹が。
妹が、殺したのだ。
そう。
殺されて、しまった。
みんな……死んでしまったのだ。
街に戻る為に奪ったあの車。そこに貼り付けられていた、かつての持ち主である男性の家族の写真。そして後部座席に置かれていたあの弁当……
あの人はもう……
もう二度と、あの写真に写る家族には会えない。
あの家族はもう……
もう二度と、あの男性に写真を撮って貰う事は出来ない。
そう。
僕を守る為。
妹が、殺してしまった。
妹が、あの家族の幸せを……
奪ってしまった。
そして……
弥生の顔が脳裏に浮かぶ。
彼女が……
彼女が僕を……
僕を殺せ、と誰かに命令されたのも。
全ては……
全ては……
「そうだよ」
真田が言う。
「こんな『戦争』が始まったのも」
真田の声が響く。
「みんなが殺されちまったのも」
僕は項垂れる。
「弥生があんな目に遭うのも」
止めろ。
僕はそう言いそうになる。
だけど……
「妹ちゃんが、あんな……」
「……っ」
僕は歯ぎしりする。
「あんな酷い怪我をしたのも」
聞きたくない。
その先の言葉を、聞きたくない。
だけど……
真田は、はっきりと。
はっきりと、告げた。
「みんな、お前が『生きたい』って、そう思ったからなんじゃないか?」
「っ」
僕は……
僕は、息を呑む。
そうだ。
あの駅前で……
あの若い青年に、僕が……
僕が大人しく、殺されていれば。
そうすれば……こんな『戦争』は始まらなかった。
沢山の人が、死なずに済んだ。
弥生にも。
妹にも。
あんな思いをさせずに……済んだ。
「そうだよ」
真田の声が、項垂れた僕の耳に届く。
「お前が、さっさと死ねば、こんな『戦争』は起こらなかった、みんな生きていられた、誰も傷つかずに済んだ、妹ちゃんも、弥生もな」
「……」
僕は、何も言わない。
そして。
項垂れる、僕の頭のすぐ側に……
がしゃ……
「……」
重い物が、置かれる音。
僕は顔を上げ、『それ』を見る。
それは……
それは……
銃だ。
「さあ」
真田の声。
「もう、解るだろう? この『戦争』を終わらせて、妹ちゃんや弥生を解放する『方法』、これ以上誰も死なずに済む『方法』、何もかもを終わらせられる『方法』」
真田の声が、まるでエコーでもかかっているみたいに僕の頭の中に響く。
「お前だって、もう無理だって思っているだろう?」
「……っ」
真田のその言葉に、僕は……
僕は、息を呑んだ。
「どうせ、この『殺人法』で命を狙われた奴は、生き残るなんて絶対に出来やしないんだ」
真田の言葉に、僕は……
僕は、何も言えなかった。だけど……
だけど……
その通りだ。この『殺人法』で命を狙われる事になって、生き延びた人間は、過去に一人もいない。
「あの妹ちゃんがいくらとんでもない強さだからって、これからお前を殺そうとする奴らはもっと増えるし、どんどん、とんでもない攻撃を仕掛けて来るだろう、あの妹ちゃんでも、お前を守り切れないほどの、なあ?」
「……」
僕は、再び項垂れた。
そうだ。
そうなったら……
そうなったら、妹は……
「だから、さ」
真田が言う。
「もう……『終わり』にしようぜ」
僕は、黙って顔を上げる。
目の前に、真田が置いた銃が見える。
「さあ」
真田の声。
「……」
僕は黙ったまま、そっと、その銃に向けて手を伸ばしていた。
そして……
僕は、銃を手に取る。
「そう」
真田が頷く。
「それで自分の頭を撃ち抜けよ、堂本君」
真田が、告げる。
「それでこの『戦争』は……終わりになるんだ、全てね」
「……」
そうだ。
これで……
これで、何もかも……
何もかもが……終わるんだ。
僕は、震える手で、銃を自分の右のこめかみに当てる。
使い方なんか、解るはずが無い。それでも……僕は、まるで何年も前からその銃を使っていたみたいに、撃鉄に指をかけ、そして……
そしてそれを、がちり、と起こす。
そのまま引き金に指をかけ。
僕は……
僕は……
引き金を、引いた。
乾いた銃声が。
静かな道路の真ん中に、大きく轟いた。