第三話
「……それで?」
僕は、ベッドに腰かけたまま、妹に問いかける。
「んん? 何だ兄様?」
妹が、可愛らしく首を傾げてこちらを見る。
「質問に答えて貰って無いんだが? お前は結局、一体何の用で僕の部屋に、勝手に作った合鍵で不法侵入したんだ?」
僕のその言葉に、妹は些かムッとした顔になる。
「不法侵入とは失礼だぞ、兄様、ちゃんとノックはした」
「……そうなのか?」
僕は問いかける。
妹は、その言葉に頷いた。
「うむ、でも、返事が無かったんだ――何やら叫び声がしていてな」
「……っ」
その言葉に、僕は軽く絶句して黙り込む。
妹は、さらに続けた。
「慌ててドアをノックしたのに、中からは返事も無い、おまけに何やら、ベッドから床に転げ落ちるような音まで聞こえてきたんだ――これはもしかして、私の愛する兄様の身に、何か良くない事が起きたのでは無いか? と思って、慌てて鍵を開けて中に入ったんだ」
「……」
僕は、何も言わない。
まさか……全部聞かれていたなんて……
妹は、じとーっ、とした目をこちらに向けて来る。
「兄様こそ、朝から一体何を大きな声で騒いでいたんだ? ご近所に迷惑じゃないか?」
「ぐ……」
僕は呻く。まさかこの妹に、一般常識を窘められる日が来るとは……
一瞬、項垂れてしまいそうになる――けれど……
僕は、軽く首を横に振る。今日は――
今日だけは――こいつに言い負かされる訳にはいかないんだ。
「ふ ふん――」
僕は、ベッドからすっくと立ち上がり、妹を見下ろした。
「確かに、朝から騒いでいたのはすまなかったな――でも、今日は大事な日なんでね、じっとしてなんかいられなかったのさ」
ふふん、と妹に笑ってやる。
「ほう――大事な日、とは?」
妹が問いかけて来る。僕はそれを聞き、またしてもふふん、と笑う。
「知りたいか? ふふん――知りたいだろうなあ?」
にやついた顔で言い、妹を見下ろす――
妹は何も言わず、僕の顔を見ていた。
「仕方無いなあ――」
僕は、まだにやにやしたまま、妹に言う。
「今日、僕はついに――」
「うむ」
僕が言うよりも早く――妹が腕を組んで頷いた。
「今日は、デートだと言っていたな? それで兄様は朝からそんなに浮かれて大はしゃぎしている、という訳か?」
「……」
もったいつけながら言おうとしていた事を、呆気なく先に言われ、僕はにやにやした顔のまま、その場に凍り付いた。
「な な な……」
妹を見る。
「なんでお前がそれを知ってるんだ!?」
僕は大きな声で問いかけた、今日のこのデートに関しては、絶対に妹には知られないようにしていたはずなのに――
「何を言ってるんだ、兄様?」
妹が呆れた顔になる。
「もう何日も前から大騒ぎしていたでは無いか、デートだデートだと、遠足に浮かれる小学生だって、もう少し大人しいぞ?」
「……ぐっ……」
僕はまた呻いた。ま まさか……コイツに気がつかれていたとは……
だが――僕はすぐにまた腕を組んで妹を見下ろした。
「し 知っているのなら、話は早いな、そう、僕は今日、女の子とデートをするんだ」
妹は何も言わない。僕は続ける。
「すでに準備もしてあるし、計画も完璧だ――まあ、後は僕の努力次第だけれど、もしかしたら、その子と付き合う事になるかも知れない」
僕は言う。妹は、まだ何も言わない。
「もちろん、そうなったら僕は――受け入れるつもりだ」
そうだ。
僕が、良い『彼氏』になれるかどうかは解らない。
だけど……僕は、今日のデートの子を、大切にしてやりたいと思っている。それは嘘じゃない。
「だからまあ、これからはお前の事を、今みたいに構ってはやれなくなってしまうのさ、すまないが、ね――」
妹からは、まだ何の言葉も無い。
「お前には寂しい思いをさせるかも知れないけど、ここは黙って、大人の階段を上る兄ちゃんを祝福してくれると嬉しいな――」
僕はそう言って、妹の方を見る。
「……」
妹は、じっと僕の顔を見ていた。
そこに浮かんでいる表情は――なんだか……
なんだか、とても退屈そうに見えた。
ややあって――
「大人の階段、ね――」
妹が、呆れた様に言う。
「……?」
その言葉に、僕は眉を潜める。
「それで、兄様――」
妹が顔を上げ、こちらを見る。
「な 何だよ?」
妹の真っ直ぐな視線に、思わず身を退かせながら問いかける。
「デートくらいで、一体どんな『大人の階段』を上るつもりなんだ?」
「……え?」
僕はその言葉に、思わずきょとん、とした顔になった。
「だから――兄様は今日、そのデートの相手と、大人の階段を上るのだろう? それはつまり、具体的に何をするつもりなんだ?」
「……あー……それは……その……」
僕は言いよどむ。
確かに――その通りだ。
大人の階段を上る――言うのは簡単だけど……それって……
それって――
「そもそも――」
妹がさらに続ける。
「兄様は小さい頃から重度のコミュ障で、私や母さん以外の異性とは、ほとんどまともに口を聞いた事が無いじゃないか? そんな人間が、一体どうやって初対面の――しかも異性と仲良くなるんだ?」
「ぐっ……ぐぐ……」
僕は呻く。
それも、嘘では無い――
僕は――昔から、他人との会話が苦手だった。他人と会話しようとすると、いつもいつも頭に血が上って、口が全く回らなくなってしまうのだ。かろうじて口を開いても、ぼそぼそと小さい声が出るばかり。
だからこそ――他人と上手くいかない。そして……
そして、このせいで――僕は――
「……」
またしても、一瞬、暗い過去に捕らわれそうになり、慌てて頭を振る。
考えるな。
下らない事は、考えるな。
僕は――
僕は今日――デートを……
女の子と、デートをするんだ。
だが――
「兄様――」
妹が、ゆっくりと口を開く。
「……何だよ?」
僕は、ぶっきらぼうに問いかける。
「兄様――申し訳ないが、兄様は、一つだけ大きな勘違いをしている」
「……勘違い?」
僕は問いかける。
「ああ――」
妹は頷いた。
「な なんだよそれ? やっぱりあれか、デートってのは、男がリードするべきって事か?」
「違う」
妹は、ぴしゃりと言い放つ。
そして……
妹が、僕の顔を見る。
「兄様、今日のデートの相手は、一体誰だ?」
妹が問いかける。
「誰って……」
僕は口を開く。
だが、その先を言うよりも早く――
「そう――今日のデートの相手は、私の中学の友人だ」
「……そ それは……」
僕は呻く。
その通りだ。今日のデートの相手は、妹の中学のクラスメイトで、友人だそうだ。
「そして――その子は来年、兄様が通う中学を受験するつもりでいる、そうだな?」
「……あ ああ……」
僕は頷く。
それも、事実だ。そういう風に、妹から聞いている。
「しかしその子は、他の高校への受験も考えている――そうだな?」
「……ああ……」
僕は頷いた。
それも、また――事実。
「その子は悩み、そこで――実際にその高校に通っている生徒から、話を聞きたい、と、友人である私に相談してきた、そうだな?」
「……」
僕は、何も言わない。
まさか――?
嫌な予感が、胸の中でざわり、と膨れ上がる。
「おあつらえ向きに今日、兄様の通う高校では、新入生に向けてのオープンキャンパスが催される事になっている――そうだな?」
「その、通りだ……」
僕は、また頷く。
まさか!?
嫌な予感は、さらに大きく膨れ上がる――
「そして――その子はそれを見て、まずは高校の雰囲気を決め、兄様の通う高校か、それとももう一つの方かを選ぶことにした――そうだな?」
僕は、ブルブルと震えていた――
まさか……!?
「だけど――その子は高校までの道を知らない――だから、現役の生徒である兄様に、案内をしてくれるよう、友人である私を通じて兄様に頼んできた、そうだな?」
「そ そうだ……」
僕は頷く。
そうだ――
その通り。妹の言っている事は――全てが……
全てが――『事実』。
つまり……
つまり、今日の……
今日の――『デート』は――
「ようやく、気づいたらしいな?」
妹が、勝ち誇った顔で言う。
そして――
「その通りだ、兄様」
妹が、はっきりと告げる。
「今日のお出かけは――断じて、『デート』などでは無いっ!!」
びしぃっ!! と――こちらに指を突きつけ、妹が言う。
「単なる――『道案内』に過ぎないのだっ!!」
どーんっ!!
――そんな擬音が聞こえてきそうな勢いで――
妹が、はっきりと――
はっきりと、告げた。
僕にとっては――『死刑宣告』とも言うべき――
その……
残酷な……言葉を……
「……そん、な……」
僕は、その場にへなへなと頽れる。妹は、そんな僕を見下ろして、軽く笑う。
「おめでたいな、兄様は――たかが『道案内』を、デートだなどと思い込んで、何日も前から大はしゃぎして――完全に空回っているのだと何故気がつかない?」
「……くう……う……」
僕は、そのままがっくりと項垂れ、床に倒れた。
「どうせ兄様の事だ、何処へ遊びに行こうとか、何処で食事をしようとか、そんな事まで考えていたのだろう?」
「……」
そう、確かに色々と計画していた――
だけど……
「どうせ相手の子は、そんなのに乗っては来ないだろう、所詮はその子にとって兄様は、『友人の兄』という程度の存在でしか無いのだからな――」
「あうう……」
僕は呻く。
「それに、兄様にはどうせ相手の子を楽しませる事など出来はしないさ、頭の中で色々と言葉を考えても、それを口に出せずに黙りこくって、相手の子にプレッシャーを与えるばかり――」
妹がくすくすと笑う――
そして……
妹が、すっ、と僕のすぐ側にしゃがみ込む気配。
ぽん、と――肩に優しく手が置かれる。
「解ったのなら、もう諦めろ、兄様――どうせ兄様には彼女なんか一生出来はしないのだ、だからこれからは、私と甘い蜜月の一時を――」
すす、と――
肩に乗った妹の手が、パジャマの上着の中にゆっくりと忍び込んで来ようとして――
「って――」
僕は顔を上げ、妹の手首を掴んでその手を乱暴に押しのける。
「お前、結局それが言いたかっただけだろっ!?」
僕は、再び立ち上がる。
危ない危ない――コイツにまたしても言い負かされるところだった……
「むー……今ならば落とせると思ったのに……」
妹が不満げに口を尖らせる。
「誰がそんなもんで落ちるか!! っていうかお前に落ちる事なんか無いって言ってんだろ!?」
全く……コイツは本当に油断ならない。
僕は、妹をまた見下ろす。
「まあ、確かに――今日のデートには、そういう目的もある」
「それ以外には無い、と思うけど?」
からかう様に言う妹。
「う うるさいっ!!」
僕はバタバタと足を踏みならした。
「デートだ、今日のお出かけはデートなんだ、僕がデートだと決めたら、誰がなんと言ってもデートなんだ!!」
バタバタしながら怒鳴り散らしてやる。妹は、そんな僕を見ながら、やれやれ、という様子で立ち上がる。
「解った解った、兄様がそこまで言うのならば、今日のお出かけはデート、という事にしよう――でも……」
妹は、そこで一端言葉を切る。
「それならば、いつまでも私とじゃれていて良いのか? 兄様?」
壁の時計を指差しながら言う妹。僕はそちらを見る。
七時四十分。このバカな妹と、三十分もの間騒いでいたのか――
僕は、もう余計な事は言わずに、スタスタと部屋を歩き、出入り口の扉を開け、妹に向かって廊下をの方を顎でしゃくって見せる。
もう出て行け、という合図だ。
妹はそれに、不満げに口を尖らせる。
「えー……もうちょっと良いじゃないか? 兄様の生着替えを堪能させてくれよ?」
「誰がそんなもの見せるか、良いからとっとと出てけ」
僕は、廊下を指差してみせる。
妹は、肩を竦めて立ち上がる。
「解ったよ、仕方無い――早く支度をして来るんだぞ? 兄様、朝食は準備しておくから」
「ああ」
僕は頷く。
妹は、そのまま部屋を歩き、ようやく出て行った。
妹がいなくなり、静寂が戻った室内を、僕はゆっくりと歩き、扉を閉め、鍵をがちゃっ、と音が響く様にかけた。まあ、どうせアイツは合鍵を持っているから意味は無いのだけれど……
「ふう……」
僕は、ベッドにゆっくりと腰を下ろす。大切なデートの日だというのに……なんだかデートに行く前から疲れてしまった。
全く、あの変態妹は――
ぶつぶつと胸の中でぼやきながら、僕はベッドから立ち上がる。
だけど……
「……?」
そこでふと、僕は違和感を覚えた――
「アイツ……」
ちらりと――今し方妹が出て行った扉の方を見る。
「アイツ、今日はやけにあっさりと引き下がったな――?」
僕は、小さく呟く。
いつもなら、あの妹は、僕が着替えを始めるまで絶対にこの部屋に居座ろうとするはずなのだが……
僕は首を傾げた。
まあ、良いか。僕は軽く肩を竦めた。あの妹にも、今日が大切な日だというのが伝わったのだろう。うん――僕は頷いて、ゆっくりと室内を歩いてクローゼットを開ける。
久しぶりに袖を通すことになる外出着を取り出し、ベッドの上に広げ、パジャマの上を素早く脱いで床に放り投げる。
その途端――
『こら兄様、脱いだものをそこらに放り投げるな、皺になるじゃないか?』
ドアの向こうから、くぐもった声――
『それにしても最近、ますます男らしい体型になってきたな兄様、惚れ直すぞ?』
僕は、わなわなと震えながらベッドの上の枕を手に取る――
「鍵穴から覗いてんじゃねえーっ!!」
怒声と共に、枕をドアに向けて投げつける――がんっ、と大きな音がしたけれど、その時にはもう既に、パタパタと足音が遠ざかっていた――
僕は、荒い息をつきながら、ドアを睨み付けていた――
さっきの違和感は、どうやら気のせいだったらしい。
うちの妹は、やっぱりいつも通りの変態だ。