第二十七話
デート。
短い、言葉だ――
たったの三文字、いいや、一文字は単なる棒だから、実質的には二文字と言って良い言葉、ペンを手に、どれだけゆっくりと丁寧に書いたとしても、書き終わるまでにせいぜい数秒というところだろう――
そんな短い言葉なのに――この僕……
堂本雅志には、十四年という生涯の中で一度も縁が無かった言葉。
しかし――
そう――
しかし、だ。
「それも今日までだあぁーっ!!」
午前七時ジャスト。
自宅二階の自室。
八畳ほどのフローリングの洋室の真ん中に立ち、僕は、高らかに宣言した。
そう――
僕は――
僕は今日――
「女の子とデートをするんだああぁーっ!!」
僕は叫んだ。
あの高里弥生と、『映画を見に行く』と言う約束をしてから毎日、ずっと……
ずっと、その事だけが頭を占めていた。
もちろん、家族にも、妹にもそんな事は教えていない、特にあの妹は、僕が『デートをする』などと聞けば、絶対に妨害してくるのに決まっているのだ。
その妹にだけは、絶対に知られないようにしないと……
「……うわあああああああああああ……」
だから、あまり大声で『デート』だと叫ぶのは良く無いかも知れない。
それは、頭では勿論解っているけれど……
僕は、気恥ずかしい感情を抑えられずに、ベッドの上に倒れ込んで声をあげていた。
顔がにやけてしまいそうになる……
僕が……
「……この僕が……」
ぽつりと呟く。
今日まで、女の子どころか、同性の友人すらまともにいなかったこの僕が……
「『デート』だなんて……」
僕は、ベッドに突っ伏して、叫び声をどうにか押さえ込んだ。
「……」
ややあって……
息苦しくなってきた僕は、ばっ、とベッドから顔を起こす。
「……はあはあ……」
軽く呻いて、僕はベッドから立ち上がる。
いつまでも浮かれてはいられない。
支度をしないと……
今まで、ほとんど自宅と学校を往復するだけだった僕は、当然よそ行きの服なんて数える程度しか持っていない、そのうちの一つに袖を通す。
「……」
クローゼットの扉の裏手に取り付けられている鏡の前に立ってみる。
学生服じゃ無い、というだけで、随分と印象が違って見える自分が、そこにいた。
相変わらず、ややひょろりとした体型や、色白の肌は気に入らないけれど……それでも、十分に『デート』に行くには良い格好だろう。
「……」
僕は、誰にでも無く頷いて、くるりと踵を返して部屋を出る。
そのまま朝食を食べ、両親には何だか楽しそうに、妹からは、苛立ちと寂しさがない交ぜになった、何とも複雑な表情で見送られ……
そして僕は、駅前広場に到着していた。
中央にある、何を象徴しているのかよく解らないオブジェ。
そこが、待ち合わせ場所だ。
待ち合わせの時間は午前九時。
「……」
僕は腕時計を見る。
時刻は、八時五十分。十分前、少し早すぎたかな? と思わなくも無いが、まあ、これくらいだろう。
「……」
後は。
後は、彼女が来るのを末だけだ。
「……」
僕は、目を閉じる。
もう……
もう僕は、自分の心が、既に決まっていることに気づいていた。
『彼女』が……
高里弥生の事が、好きだ。
思う程度は許されるだろう。
だけど……
もう……それでは……
それでは、僕の心は満足しない。
もしかしたら……失敗するかも知れない。
断られて、しまうかも知れない……
それでも、構わない。
この思いを、全て……
全て、彼女にぶつけよう。
そうすれば……
何かが、変えられるかも知れない。
そんな気が、していた。
「……」
決意を固めて、僕は腕時計を見る。
八時五十九分、あと一分か……
辺りを見回してみるけれど、弥生の姿は見当たらない。思えば彼女の私服を、僕は知らなかった、一体、どんな服装で来るのだろう? 最近は中学生でも、結構大人っぽいというから、もしかしたらもの凄く大人っぽい格好なのかも知れない、僕は彼女と一緒に街を歩いて釣り合うんだろうか? そんな不安が、頭を過った。
「……」
もう一度時計を見る。
九時まで、あと三十秒……
二十秒……
十秒……
九、八、七、六……
弥生は、まだ来ないのか?
五、四、三、二、一……
そして……
九時ジャスト。
「おいおい、おいおいおいおいおい」
「っ!?」
聞こえて来たのは。
この状況で……一番。
一番、聞きたくない奴の声。
思わず、顔を上げて声がした方を見る。
「……お前……?」
僕は、思わず声をあげていた。
そこにいたのは、いつも僕を虐める主犯格の男子生徒と、その取り巻きの二人組だった、さすがに今日が休日の駅前だからか、学生服じゃ無かったけれど、どんな服を着ていても、いつもと何も変わらない下卑た笑みを浮かべながら、こちらを見ていた。
「堂本君じゃーん? こんなところで何してんのよ?」
「……」
僕は、顔を背ける。
こんな日に、嫌な奴らに会ってしまった。
そう思った。
「おいおい」
そいつがふざけた口調で言い、僕の首に腕を絡めてくる。
「随分と格好いい服着て、何処かへお出かけかーい? へへ、それなら一緒に行こうぜ?」
「……付いてくるな、離せよ」
僕はそいつの手を、ばっ、と振りほどこうとした。
だけど……
そいつが更に強い力で、僕の首に腕を回してくる。
「おいおい、そういう態度はいただけないなあ、折角休日に会えたんだ、ちょっとくらい、俺らとも遊んでくれよ?」
「……そんな時間は無いんだよ」
僕は、そいつの顔をきっ、と睨み付けて言う。
そうだ。
こんな奴らに構っている暇は無い。
僕は……
僕は今日……
「そんなこと言うなよ、どうせ……」
そいつが、にやり、と笑う。
「どうせ、高里弥生なら来ないぜ?」
「……え?」
そいつの言葉に、僕は……
僕は、きょとん、とした顔をそいつに向ける。
「……ど どうして……?」
僕は問いかけてから、しまった、と思った、それでは今日、弥生とここで待ち合わせをしている事を知らせるようなものだ。
いや、だけど……
だけどこいつらは既に……
「どういう事だ!?」
僕は、叫ぶ様に問いかける。
「おいおい」
その怒声に、そいつは顔をしかめた。
「お前、それが人様にものを聞く時の態度なのか、なあっ!?」
そのまま……
ぼすんっ!! と、腹に拳がめり込む。
「うぐ……」
僕は呻いた。
倒れそうになるけれど、あの時の教室と同じで、そいつが首に腕を回しているせいで倒れられない。
そして……
「弥生なら、来ねえよ、へへへ……」
そいつが、ヘラヘラと笑って言う。
「……っ」
僕は、顔を上げてそいつらを睨んだ。
「……お前ら、弥生に何かしたのか……?」
問いかける。
そうだ。
それくらいしか考えられない。
そうに決まっている、こいつらが弥生に何かしたのに違い無い、そうで無ければ説明がつかない……
だけど……
「おいおい、失礼だなあ?」
そいつが、下卑た笑顔で言う。
「俺らは、何もしてねえよ、ただ……彼女が自分で言ったのさ、『今日は行かない』ってね」
「……そんなの……」
嘘だ。
僕は、そう叫びそうになった。
だけど……
「だったら、ほら、これ見ろよ」
そいつが言いながら、すっ、と。
僕の目の前に、スマホを差し出して来る。
そして……
その画面に、表示されていた文字。
それは……
『今日は、行かない』
「……っ」
たったそれだけの……
短い、言葉……
そいつにあててのメッセージ……
「……」
僕は、言葉を失う。
彼女は……こいつらとも連絡先を交換していた? いや、もしかしたら前から?
頭の中に、じわじわと……
じわじわと、暗い思考が浮かんで来る。
まさか……
まさか、最初からこいつらと、彼女は……?
そうだ。
考えて見れば……
こいつらの言う、僕との『お遊び』を、あんな形で邪魔をした。
そんな奴を、この連中が黙って見過ごすはずが無い。
それなのに、こいつらは彼女に対して何もしていなかった……
それは……
それは……
最初から……
最初から……こいつらと『彼女』は……
裏で……繋がっていた?
そう考えれば、説明が付く。
そして今まで……彼女が何もされなかったのも?
全部……こいつらと彼女が、手を組んでいたから?
そして……
そして今日……
ここに、僕がいる事を知っているのは、僕と彼女だけだ。彼女が教えなければ、こいつらはここに、しかも待ち合わせ時間ジャストに来るなんて、出来るハズが無い……
つまりは……
「……お前らも、『彼女』も、最初から……」
僕の呟きに、そいつはニヤニヤと笑うだけだ。
ああ……
僕は、心の中で呟いた。
裏切られた。
騙された。
罠だった。
嘘だった。
そういう『事実』が、頭の中に染みこんでくる。
胸の中に、落ち込んでくる。
だけど……
だけど……
僕の心には、それほどのショックは無かった。
また、か……
僕は、何処か達観した気持ちで、そう呟いた。
何を、期待していたのだろう?
何を、勘違いしていたのだろう?
何を、喜んでいたのだろう?
結局……
結局、今までと……
今までと、何も変わらないじゃないか。
僕は……
いつもの三人に、またいつも通りに殴られ、アスファルトの上に倒れながら……
ぼんやりと、そう思っていた。