第二十六話
それから……
僕の毎日は、劇的に変わった。
否。
僕の生活は、基本、ほとんど変わっていなかった、僕は相変わらず、あのクラスメイト達に暴力を振るわれ、クラスのみんなにも無視され続けていたし、教師も誰も、それを助けようとはしない。
そして僕は、いつものように床に這いつくばっていた……
だけど……
そう。
だけど、だ。
放課後。
僕はふらふらと身体を起こし、椅子の背もたれに掴まりながら立ち上がる。まるで産まれたばかりの子鹿だ、と思った。
「……まるで産まれたばかりの子鹿ね」
そんな声が、近くで聞こえる。
「……僕も……」
椅子にストン、と腰を下ろしながら、僕は苦笑いした。
「今、そう思っていたところさ……」
そのまま、声をかけてきた相手の方を見る。
「……弥生」
その言葉に……
弥生は、軽く笑った。
僕と、高里弥生は、あれから仲良くなっていた。
教室の中では、今まで通りに振る舞っていて良い、と、僕から彼女に頼んだ事もあって、教室の中での彼女は、僕に全く関知しない、あの時みたいに、嘘をついて僕を助ける、という様な事も、しなくて良いと言ってあるので、そういう事も無い。
僕も、教室で……普段、あいつらがいる時には、彼女の方を極力見ないようにしていたし、彼女に話しかけもしなかった。あいつらに……彼女と仲良くなった事かバレるのだけは、どうしても……
どうしても、避けたかった。
それをネタに、また虐められるし、彼女にも何かされる可能性がある。
だから僕は、彼女の事を誰にも言わなかった。
因みに、妹や両親にも、彼女の事は話していない、特に妹には言えない、あいつは僕が、他の子、特に異性と話をしていると、途端に不機嫌になるのだ。
だから……僕と彼女は今のところは、みんなに内緒の『友達』というところだ。
「……大丈夫なの?」
弥生が心配そうに声をかけてくる。
僕は頷く。
「もう慣れたよ」
そう。
それは嘘じゃ無い。
この中学に入学してから、ずっと毎日こういう目に遭って……
そのおかげで、あいつらが何処を殴ってくるか、僕がどういう反応をすれば、奴らが満足するか、すっかり解る様にもなってきた。
僕はそれに合わせて、痛がったり、呻いたりすれば良い、まあ、実際にはもの凄く痛い事の方が多いけれど……
「……」
いずれにしても、もう……
もう、平気だ。
それに今は……
「……君だって、いてくれるしね」
その言葉に……
弥生は、一瞬頬を赤らめる。
「……」
僕も、少しだけ……
少しだけ、頬を赤らめて俯いた。
高里弥生が好きだ。
そう、僕ははっきりと解った。
そう思うくらいの事は……
そう、言葉に出すくらいの事は……
まあ、許されるだろう。僕みたいな人間にだって、誰かを好きになる権利くらいはあるはずだ。
彼女のどんなところが好きになったのか? そう聞かれれば、胸を張って言える。
彼女の笑顔が、好きだ、と。
だけど……
だけど……
まだ僕は……
それを……
それを、彼女に直接口に出して伝えてはいなかった。
「……」
僕みたいな人間が、異性に告白だなんて……
そんなの、彼女にだって迷惑じゃないか? 僕は勉強も出来ないし、運動も出来ない、特別な才能、例えば絵画だとか音楽だとか、そういう才能も無い。
取り柄と呼べる様な要素が全く無い、平凡な人間。
それが、僕……
堂本雅志、という人間なのだ。
そんな人間が……
そんな人間が……彼女に対して……
自分の『恋人』になって欲しい、だなんて……
そんな言葉……
そんな言葉は……
口にしてはいけない。
そんな気がする。
だから僕は、彼女に自分の想いを打ち明けるつもりは……無かった。
その代わりに……
「ねえ」
彼女が、声をかけてくる。
「この前話したあの映画、観た?」
「ああ……」
僕は頷く。
正直なところ、彼女の好きな映画というのは、いかにも王道な純愛物、という感じで、僕にはあまり趣味が合わなかった、僕はやっぱり映画と言えば、派手に戦ったり、アクションがある方が好きだった、だけど……
彼女は多分、そういうものは嫌いだろう……
だから僕は、彼女に自分の趣味の事はほとんどと言って良いほど教えなかった、ただ、映画をよく観る、と伝えただけだ。
そしたら彼女は、次々と自分が好きな映画を紹介してくれた、今、やや興奮気味に語っている映画も、そうして薦められたものの一つだ。
そうして、自分の好きな映画について語る彼女の顔を見るのも、僕は好きだった。そういう時、彼女は本当に、嬉しそうな顔をする。
そう。
こうして放課後、みんなに知られないように……二人きりで、教室で会って、色々な事を話して、校門が閉まるくらいの時間になって帰宅する。
それで……
それで僕は……
十分に、満足だった。
十分に……幸せだった。
それだけで……
良い。
そう、思っていたのだ。
本当に……
だけど……
「あの、さ」
弥生が、はにかんだ風に言う。
「ん?」
僕は、彼女の顔を見る。
「……今度、その、教えた映画の……新作が、駅前の映画館で上映になるの……」
「……え?」
僕は、きょとん、とした顔になる。
それは……
それは、まさか……?
「一緒に、観に行かない?」
「……」
僕は、言葉を失う。
それは……つまり……
「で でも……」
僕は、おずおずと口を開く。
「僕なんか、で、良いの?」
途切れ途切れに問いかける。
彼女は……
その問いに……
ゆっくりと……
ゆっくりと、頷いた。
「……う うん……貴方と、観に行きたい」
僕は……
僕はその言葉に……
あんぐりと、口を開けた……
それは……
それはつまり……
「……」
僕は、目を閉じる。
今まで……
僕には、誰一人、いなかった。
両親と、妹はいてくれるけれど……それ以外の人間は、誰一人……
僕の側にいなかった。
寂しくなんか無い。どうせ他人なんか、すぐに自分を裏切るのだ、みんなが……
みんなが、僕をそうして裏切っていった。
だから僕は、他人を信じるのを止めた。
そのはずだ。
そのはず、だった。
だけど……
「……」
もう一度……
もう一度だけ……
他人を、信じてみようか?
僕は……
僕は、そう思った。
そして……
ゆっくりと、目を開ける。
「良いよ」
僕は、はっきりと。
はっきりと、彼女に告げた。