第二十五話
「……」
それから僕の頭の中では、ずっと……
ずっと、高里弥生の事が離れなかった。
彼女は初めて、僕の名前を聞いてくれた、今まで僕の周りにいた奴らはみんな、誰かから僕の名前を聞いて既に知っていて、ろくに名前も言わずにからかったりしてくる奴らばかりだったのに。
そればかりか、僕自身も彼女に名前を聞いた。
そして彼女も、僕に名前を教えてくれた。
今までの奴らは、僕に名前なんか教えてはくれなかった、そればかりか僕の声を聞くことすら嫌がっていた、特に女子からは、酷い扱いを受けていた、僕が近づくと、まるでゴミでも見る様な目でこっちを見る奴らだって多かったのだ……
だけど……
彼女は、僕の事を嫌がらなかった。
彼女は、僕の声を聞いてくれた。
彼女は、僕の名前を聞いてくれた。
それだけで……
それだけで、どれほど……
どれほど、心が救われる思いだろう?
だけど……
「……」
僕は、途端に俯いた。
今までにも、『こういう事』が、全く無かった訳じゃ無い。
僕と仲良くしたいとか、虐められている僕を可哀想だとか……
そんな事を言って、僕に近づいて来る人間は、それなりにいたのだ。
だけど……
みんな、結局は同じだ。
僕を虐める、主犯格の奴らに丸め込まれ。
あるいは……
僕に近づいた事そのものが、そいつらからの指示だった、とか。
そんな事を言って、結局、僕を虐める側に回る。
「……」
そうだ。
今までと、何も変わらないじゃないか。
何を期待しているんだ?
バカバカしい。
僕は、自嘲めいた笑みを浮かべながら……
彼女の事を、頭から追い出そうとした。
「おいおい、おいおいおいー」
いつもの声が響く。
僕を虐めているグループの、リーダー格の男子生徒だ。
僕は机の上に俯いたまま、振り返らない。
「おいおい、俺がさっきから呼んでるってのに、なーに一人で俯いちゃってるんだい?」
そいつが言いながら、僕の服の襟首を掴んでぐいっ、と引っ張り上げた。
僕は、何も言わない。
そうだ。
これだ。
これが、僕の日常なんだ……
僕は、いつもみたいに何も言わないで、そいつの方を振り向きもしなかった。
すぐに、今朝と同じ事が繰り返された。
僕への暴力は、その後もいつものように、休み時間のたびに繰り返され、授業が終わる放課後にも、また行われた。
僕は何も言わず、ろくに抵抗もせずに、そのまま床の上にへたり込んでいた、結局、もう助けは来なかった……
「……っ」
僕は、軽く笑う。
ほら、な……
結局、彼女が僕をあの時助けた……
助ける、ふりをしたのも、結局、何か……
何か、裏があっての事だったのだろう、本気で僕の事を考えてくれる人間なんかいない、そんな人間は……
一人も、いないのだ。
僕は……そう思いながら、ゆっくりと……
ゆっくりと手を伸ばして、今朝と同じ様に、椅子の背もたれを掴んで起き上がろうとした。
だけど……
その時……
すっ、と。
すぐ近くに、人の気配がした。
「……」
どうせまた、あいつらの一人でも戻って来たのだろう、奴らも、他のクラスメイト達も、僕が殴られ、蹴られているのをにやついて見ていたか、そそくさと、何も知らない振りをして教室を出て行った、関わりたくない、という事だろう。
そして気づけば、教室には誰もいなくなっていた。
そうだ。
こんなものだ……
僕の、日常は……
僕の、人生は……
何処まで行っても……
こんなもの……
「あの……」
声が響く。
僕は、そちらを見ない。
どうせ、誰も……
誰も、僕の事なんか……
「あの」
さっきよりは、はっきりと響く声。
「……」
僕は、面倒そうにそちらに目だけを向けた、五月蠅い奴だ、僕を嘲笑いに来たのなら、そこでじっとして笑っていれば良いだろう? そういう思いと共に。
だけど……
そこにいたのは……
「大丈夫?」
「……君か」
高里弥生だった。ついさっき、どうせこいつも……と、内心で切り捨てた奴。
否。
切り捨てた、気になっていた奴……
僕は……
その顔を見た途端、胸がどきん、と跳ね上がるのを抑えられなかった。
何を考えているんだ? 僕は思った。
どうせこいつも……
こいつも……
現にこいつは……
僕が殴られている間も……
「……私……」
弥生が言う。
「あのまま大声を出したら、多分、貴方がもっと酷い事をされると思って……」
「……」
もごもごと、弥生が言う。
確かに、そうだろう、今朝、僕と彼女が会話をするところを、何人もの生徒が見ている。
その後で、彼女が僕を庇うような事をしたら……
当然、奴らは僕が彼女に、自分がされている事を訴えた、と思うだろう。
そうなれば、僕はもっと……
否。
「……もし……」
僕は、口を開いていた。
「もし、そうなったら、きっと君も……何かされた、と思う……」
僕は呟く。
そうだ。
きっと彼女にも、奴らは手を出して来るだろう。
「……だけど……」
弥生が、悲しげに唇を噛んだ。
「だけど、こんな事……酷すぎる……」
「大丈夫だよ」
僕は……気がつけば……
気がつけば、彼女の頭に手を乗せていた。
「君は、ただ……」
そうだ。
「君はただ、僕の事を見ててくれれば良い、助けてなんか、くれなくても良い」
ただ……
側にいて欲しい。
僕は……
僕は、そう思った。
そうだ。
思えば……
この時、僕は……
彼女に、恋をしたんだと思う。