第二十四話
休み時間に、僕は思わず席を立っていた、がた、と椅子が動いたけど、誰も気にしない、いつも僕に絡んで来る連中も、何故か何もしては来なかった、理由はわからないが、絡まれないならチャンスは今しか無い、そう思った。
そのままおぼつかない足取りで教室を歩く。考えてみれば、自分からクラスメイトに……
他人に近づくなんて、随分と久しぶりのことだ。
『彼女』の席は、教室の一番右の端。
何をするでも無く、誰かと喋るでも無く、ぼんやりとした顔で窓の外を見ている、一体あの少女は……何を……
何を、見ているのだろうか?
僕は、そんな事を考えながらふらふらと歩き、少女の席の側に立った。
「……あの……」
まともに他人、しかも異性と会話するなんて、これもいつ以来なのか、自分でもはっきりと思い出せない。
とにかくどうにか、僕は最初の一言を絞り出すことが出来た。耳を澄ませていなければ聞こえないくらいに、その声は小さく、囁くようなものだったけれど……
それでも……
「……」
『彼女』は、ゆっくりとこちらを振り向いてくれた。
僕は、安堵のため息をつきたいのをどうにか堪えた、むしろ大変なのはここからだ。
「……何か用?」
ぼんやりとしていた僕に、『彼女』が嫌悪感すらむき出した表情で問いかける。
「……っ」
僕は息を呑む。そうだ、何をぼんやりしている、まだ……
まだ、何も聞いて無いじゃないか。
「な なんで……」
僕は、あわあわと震えそうになる舌を、必死に回して少女に問いかける。
「なんでさっき、あんな事を言ったんだい?」
「……さっき?」
『彼女』が、きょとんとした顔になる。
何を聞かれているのか、本当に解らない、という顔だ。
「……さっき……」
僕は、俯いた。やはり旨く言葉が出てこない、なんでさっき、僕が殴られている時に、『先生が来る』なんて嘘を言ったんだい? たったこれだけの事を聞くだけなのに、全くと言って良いほど口が動かない、言葉が……
言葉が、旨く出てこない。
「……『先生が来る』って」
僕は、ぼそぼそと言った。
「あんな嘘、なんで……」
言ったんだ?
そうだ。
そんな事をして……
僕を……
僕を庇うようなことをすれば……
下手をすれば……自分が……
自分が、あいつらの標的に……
僕は、『彼女』の顔をじっと見つめる。
落ち着いた雰囲気の表情、少し目が大きく、くりくりとしている、少女マンガの主人公みたいだな、と僕は思った。
「……」
『彼女』は僕の顔をしばらくの間じっと見ていたけど、ややあって、ようやく僕が何を言おうとしていたのか察したらしい、ふいっ、と顔を背けた。
「別に、大した事はしてないわよ」
少女が言う。
「……あそこで五月蠅くされると、色々と集中出来ないから、言っただけ」
「……」
何に集中出来ないのか、という事は、多分聞かない方が良い事なのだろう、人には、その人にしか解らないものがあると、僕は思っている。
「……貴方を助けようとかは、特に思って無かった」
「……」
『彼女』が言う。
「だから、気にしないで」
「……」
僕は黙り込んだ。
彼女が、そんな気持ちで、あそこで僕を庇うような事をしたんだ、とは思っていない。
否。
思わないように、していた、というのが正しい、自分を庇ってくれる、優しくしてくれる、そんな人間は家族以外にはいない、少なくとも……
少なくとも、今の僕の周囲には……
僕は、そう思っていた。
でも……
「……君が……」
僕は、ぽつりと呟く。
「君が、声をかけてくれなかったら、僕はもっと、酷い事をされていた、と思う」
「……」
『彼女』は何も言わない。
黙って窓の外を見ていた。
別にそれで良い、勝手に話をさせて貰おう。
「だから、ありがとう」
僕はそれだけを短く告げた。
「……」
少女は、ゆっくりと……
ゆっくりと息を吐く。
「……名前も知らない人に、お礼言われても嬉しくない」
「……っ」
少女の言葉に、僕は身体を一瞬震わせた。
彼女が言った言葉の意味は解らない、『嬉しくない』という単語にだけ、何か自分は悪い事を、彼女に対して言ってしまったのか? と思ったからだ。
だけど。
『彼女』はこちらを振り返る。
その顔には……
何処か……
何処か、優しい笑顔が浮かんでいる。
そんな風に、見えた。
「貴方の名前、教えて」
「……っ」
少女の言葉に息を呑む。
名前、僕の名前……
「……堂本雅志」
ぽつり、と囁くような声で言う。
何で、そんな事が言えたのか。
そして……
何で、彼女の顔を直視出来ないのか。
何で、彼女の声を聞いているだけで、耳が熱くなるのか。
理由は……
何となくだけど、解った。
僕は……
僕は多分……
この瞬間に、彼女に恋をしたんだと思う。
そして……
俯きながらも、僕は……
僕は……
言葉を、絞り出す。
「……僕だって、名前も知らない人に、お礼を言うのは恥ずかしいよ」
ちょっとだけ、ぼかした言い方をしたのは、照れくさかったからだ。
彼女がどんな顔をしているのかは、僕には見えなかったけど、さっきみたいな笑顔だと思う。
そして……
「高里弥生」
少女の名前を、僕は……
僕はしっかりと、耳に刻んだ。