第十八話
男が、ばっ、と飛び退く。
妹が手にしたナイフが、ぎらり、とこの暗闇の中でもはっきりと見える輝きを放っていた。
さすがに、妹に狙われている最中、いつまでも僕を拘束しておく事は出来ないのだろう、その男が軽く右手を動かした瞬間、僕の首を圧迫していた例の感覚が、ふっ、と嘘のように消え去った。
「……が……は……」
僕は呻いて、その場に膝をつく。
「う……ゴホゴホゴホゴホゴホゴホッ!!」
何度も咳き込みながら、僕はどうにか……
どうにか顔を上げ、妹と、あの男を見ていた。
この暗闇も、目が慣れてくれば、誰が何処にいるのか程度の事は解る、妹は、いつの間にか僕を庇うみたいに、すぐ目の前に立っていた。
一方、あの男の方も、少し離れた位置に立っている。
「……」
僕は、まだ咳き込みながら、それを見ていた。
「大丈夫か? 兄様」
妹が、のんびりとした口調で言う。
「……」
僕は、何も言わない。というよりも、言う事が出来なかった。
息が……苦しい……
身体中がガクガクと震え、まともに立っていられない。
このままでは……
「兄様……」
妹が、小さい声で言う。
「私が合図したら、すぐに、そこの横の扉から外に出てくれ」
「……?」
僕は、妹の顔を見る。
だけど、妹はそれ以上は何も言わず、男に顔を向けた。
「随分と、私の恋人が世話になったな?」
恋人じゃない。
と言いかけたけれど、僕のその言葉は声にはならなかった。それに今は……
今は、妹の言った事の意味を考えないと……
「……困ったねえ……」
男が、ぽりぽりと頭を掻いて言う。
「たかが高校生のガキを一人殺して、金を貰ってさようなら、というはずが、一体何処からこんな事になっちまったやら……」
「残念ながら」
妹が言う。
「その『高校生のガキ』の命を守るために、貴様らのような奴らを何人殺しても構わない、と考えている人間も、世の中にはいる、という事さ」
「うーん……予想外だ」
男が言う。
「それにしてもお嬢ちゃん、君はあの爺さんの身体の爆弾で、粉々になったと思っていたんだが?」
男が問いかける。
確かに、そうだ。あの老人が、身体に巻き付けていたという爆弾……
あれは、かなりの威力だった。だけど……
僕は、ちらりと妹を見る。辺りが暗いせいで、あまり良くその姿は見えないけれど、少なくとも、妹は何処も怪我も何もしていない様子だった。
「ふん」
妹は、鼻で笑う。
「あの老人が、爆弾を身体に隠している事はすでに気づいていたからな、爆破させるための装置も、大方お前が持っているのに違い無い、とも解っていた、ああ、ついでに言えばあの連中が、兄様と私を引き離す為の『囮』に過ぎない、という事も、私は最初から解っていたぞ?」
妹は、鼻で笑って言う。
「それに……ついでに言えばもう一つ理由があってな……」
妹が言う。
だが……
それよりも早く、男の手がすっ、と動いた。
「っ!!」
妹も、それに気づいたのだろう、咄嗟にセーラー服のポケットの中に手を突っ込んで……
その手が、ぴたりっ、と止まる。
「っ!!」
僕は、息を呑む。
妹が、何かをしようとしたのだろう。
だけど……
それよりも早く、男の放つ『紐』が、妹の手首か何処かに絡みついたに違い無い。
妹の手が、ポケットに突っ込んだ不自然な体勢のままで固まっていた。
「……っ」
僕は、喉の奥からヒューヒューと声を絞り出す。妹に、『大丈夫か?』と問いかけたつもりだけれど、それは全く言葉になっていなかった。
そして……
妹は、小さく笑う。
「……やるな……」
妹が言う。
「そりゃあどうも」
男が、下卑た笑顔と共に言う。
「だけど……残念だな?」
妹が、また言う。
小さく……
少しだけ……
少しだけ、バカにした様な口調で……
「……?」
僕は、妹に目を向ける。
「ところで、あの老人に渡したという爆弾だが……」
妹が、男に向けて言う。
「あれは、お前が作った物か?」
僕は、妹のその言葉に眉を寄せる。今、そんな事が関係あるのか?
男の方も、そう思ったのだろう、首を傾げる。
「……それが、今何か関係があるのか?」
「良いから答えろ、あれはお前が作った物か?」
妹の問いに、男はまだ首を傾げていた、けれど……
「いいや、あれは俺が作った物じゃない、ある人物から『買った』のさ」
その言葉に……
妹は、ふっ、と小さく……
小さく、笑った。
「そうか」
妹が、言う。
僕は、妹に目を向けたままだ。
「あの爆弾を、お前に売った『誰かさん』は、どうやら随分とずぼらな人間らしいな」
「……?」
男が、怪訝な顔になるのが解る。
妹は、にやり、と笑ったままで続けた。
「実はな、我が家の床下に、同じ様な爆弾が仕掛けられていたのさ」
「……っ」
その言葉に……
僕は思わず、息を呑んでいた。
うちの……床下? そんなところに……?
「……」
妹を見る。
この『戦争』が始まる前。妹は、僕を無理矢理外に出かけさせようとしていた。その時妹は、『狭い家の中で分断されれば守れない』と言っていた。だけど……
だけど……
僕を無理に外出させた理由は……もう一つ……
もう一つ、あった、という事か?
妹は、そんな僕の心の中の言葉に気づいた様子も無く続けた。
「すぐに見つけて取り外した、ついでに起爆信号を解析して、同じ信号を発するリモコンをもう一つ造ってやったさ、多分、貴様があの老人に渡した物と構造も、そして作り手も同じタイプだろう、そして当然……」
妹が、男の顔を見て言う。
「威力の方も、なあ?」
「……」
まさか……
僕は、息を呑む。
こいつは……
こいつは、その爆弾を……今……
「もしかしたら……」
妹が、口を開く。
「貴様がさっき爆発させた、あの老人の持つ爆弾の起爆信号に一緒に反応して、誤作動で爆発してしまうかも知れない、という不安だけが唯一あったけれど、とりあえず杞憂に終わって一安心だ、ああ、安心してくれ兄様」
妹が、こちらを振り返って微笑む。
「身体には、その爆弾は仕込んでいない、ふふ、何なら私の身体に触れて確かめてくれても良いぞ?」
妹が、この暗闇の中でもはっきりと見える艶然とした笑みを浮かべるが。僕にはそれにどきり、とする余裕すら無かった。
その爆弾は……
それなら……
今……何処に?
「……さて」
妹は、男に向き直る。
「貴様には、兄様を苦しめてくれた礼をしてやらないと、なあ?」
妹が言う。
そして……
ポケットに突っ込まれた妹の手が、ぐっ、と。
微かに、動いた。
「……まさか……」
つまりは、妹の言う爆弾を爆発させるリモコン、とやらは、あのポケットの中にこそあるのだろう。
あの男は、『紐』で妹の手を絡めて、動きを止めたつもりだったのだろう……
だけど……
その時既に……
既に、妹は……
妹は……リモコンを手に掴んでいた。
そして……
「……兄様」
妹が、こちらをちらりと見て言う。
「……っ」
僕は、息を呑む。
あの男の『紐』から解放されて、どれくらいの時間が経過したのかは知らない。
だけど……
さっきまでの息苦しさは、いつの間にか治まっていた、まだ足腰はふらついていたけれど、それでも立ち上がる事くらいは……そして……
かなり遅いけど、走るくらいは出来る……
僕は、ふらふらと立ち上がる。
そして……
だっ、と。
さっきまで、妹の戦いぶりを見ていた扉……
そこから、工場の外へと駆け出す。
そのまま、死体が横たわる正面の庭を、門の方まで走る。妹が、あの男を相手に話をしていたのも、あの男に腕をあえて絡ませたのも……全て……
全て……僕が回復して、動けるようになるまでの時間稼ぎ……という事だ。
そして……
轟音が……
さっきとは、比較にもならない激しい轟音……
次いで……
大地震の様な揺れが……
台風のような勢いの爆風が……
僕に、背後から襲いかかった。
僕は……
悲鳴を上げて、その場に俯せに倒れた。