第十三話
この工場の中には、どうやら窓が無いらしい。
外で嗅いだよりも、更に強烈な機械油の臭いが充満し、僕は思わず鼻を押さえていた。
おまけに……
電気もついておらず、窓も無い工場内は、夜の様に暗く、自分の足下すらまともに見えない程だった。
僕は、その場に思わず佇んでいた、こんな暗がりの中を、一体どうやって歩けば良いのだろう?
そんな事を考える。
だけど……
かつん……
微かな足音。妹だ。
僕はそちらに目をやる。
この暗闇の中では、真っ黒い塊にしか見えないけれど、妹が闇の中に足を踏み出すのが見えた。
そのまま妹は、スタスタとこの真っ暗な工場の中を歩いて行く、その足取りは軽く、まるで自分の家の廊下でも歩いているみたいだった。
「……」
僕も黙ったままで、ゆっくりと後に続いた。
だけど……
三歩も進まないうちに……
がちゃ……
「っ」
靴底に、鉄の塊を踏んだような感触と、音が響く。
目をやる、暗くてなんなのかは解らないけれど、どうやら何か、この工場で使用されていた機械の一部の様な物が転がっているらしい。僕は、どうにか暗い中で目を凝らして、それを践まないように、再び歩き出した。
その後も、足下に転がる良く解らない機械部品やら、零れた機械油に、何回も足を取られて転びそうになりながらも、僕はどうにか妹の後を追いかけて進んだ。
やがて妹が足を止めたのは、工場の、多分中央辺りだろう、かなり開けた空間だった。
横に、細長い柱のような物が立っている、闇に慣れてきた目で見てみれば、どうやらそれは、この工場の二階部分のスロープの支柱らしかった。
妹は、その柱の根元に、そっと腰を下ろした。
そのまま妹は、スカートのポケットから小綺麗なハンカチを取り出し、さっ、と床の上に敷くと、そのハンカチをポンポンと軽く叩いた。
「さあ、兄様、まずは座って、一休みしよう」
「……」
わざわざ、綺麗なハンカチなんか敷いてくれなくても良い。
そう言おうと思ったけれど、それ以前に身体が疲れ果て、早く座りたい、早く休みたいと訴えていた……
僕は、ふらふらと妹の横に歩み寄り、そのハンカチの敷かれた上に腰を下ろした。
妹が、ぴったりと僕に寄り添い、肩に頭を預けてくるけど、それを払いのける気力も体力も、ほとんど湧いて来なかった。
眠い……
とにかく、身体が……
そして……
心が、そう訴えていた。
「少し眠った方が良いぞ、兄様」
「だけど……」
妹の言葉に、僕は言う。
確かに、しばらくはこの工場は安全かも知れない……だけど……
だけど……いつ何時、あんな奴らが……
そう。
あの駅前に集まっていた連中が、ここに来るか……或いは、こうしている今、もう既にこの区画にある全ての工場を調べ終え、ここに向かって来ているかも知れない。
暢気に……
暢気に……休んでいる場合じゃ……
「……大丈夫さ、兄様」
妹が言う。
僕の心を見透かした様に……すっ、と。
身を起こし、僕の両肩を、優しく抱きしめながら。
妹が、言う。
「今は、眠れ」
「……」
それでも……
お前が……起きているのに……
それに……
それに、いつ誰が襲ってくるか解らないのに……
そんな言葉が、いくつも、いくつも頭に浮かぶ。
だが……
それでも……
それらの言葉は全て、襲い来る睡魔に飲み込まれてしまう。
そして……
僕の意志とは全く無関係に、ゆっくりと……
ゆっくりと、両方の瞼が下がっていく。
そのまま……
僕は、ゆっくりと……
ゆっくりと、眠りに落ちていった。