5
耕太は自転車で千夏の家に向かった。耕太の家が所有する二反の畑を走行中、両親の姿が視界に映る。仕事をせずに二人並んで何か喋っていた。
耕太はムっとした。夫婦仲が良いのは結構なことだが、畑仕事が忙しいからと、母は耕太に汲み取りの立ち合いを押し付けて行ったのだ。
――すげえ態度悪かったし。あいつ。
若い方の作業員が最悪だった。車を発車したあとすぐ、中身の入ったコーヒー缶を道端に放り投げたのだ。耕太はそれを拾った。もう二度と、あんな奴の相手をしたくない。
――舐められきってる。
こちらが客なのに、立場はあっちが上だ。汲み取り作業をしてもらわないと生活がままならなくなるのだ。こちらが下手に出るしかない。
グリップを握る手に、ぽつっと水が落ちてきた。雨だ。頭のつむじにも冷たい感触を覚える。空を見上げると、さざ波のような雲が浮かんでいる。
耕太は急いだ。
千夏の家の前で自転車を止め、玄関の前に立った。耕太の家と同じ、すりガラスのドアだ。千夏の家は、耕太の家と築年数がほとんど同じで、台風が直撃したら吹っ飛びそうなぐらいのあばら家だった。日野の家以外は皆、そうなのだが。
インターホンなんてものはないので、耕太は「すみませーん」と控えめに呼びかけた。千夏の具合が悪いのなら、あまり大声は出せない。が、二十秒数えても反応がない。
耕太は誰かが玄関にやってくるまで、徐々に声を大きくしていった。
「すみません、耕太です」
八回目の呼びかけで、漸く、人が歩いてくる音がした。三センチほどの隙間を開けて、千夏の母親が「なにか用?」と声を出した。いつもの明るい声じゃない。
戸惑いながらも、耕太は「千夏が具合悪いって聞いて」と答えた。
「大丈夫よ」
「少しでいいから会わせてほし――」
「今日は誰とも会いたくないって言ってるのよ。本人が」
苛立った声でまくし立てられる。そしてドアがぴしゃりと閉まった。
「え――ちょっとおばさん!」
耕太がドアに手をかけたと同時に、カチンと鍵のかかる音がする。
すごい拒絶。門前払い。取り付く島もない。
千夏のおばさんは、いつも穏やかで優しい――そんな印象だった。怒っているところを見たことがない、と思ったところで、いや、そうでもないと訂正する。
――前はもっと激しやすいっていうか、ヒステリーっぽかったような。
母親と喧嘩したと言って、千夏が耕太の家に泊まりに来たことが何度もあった。小学生の頃だったか。
ここで突っ立っていても、らちが明かない。雨もさっきより強くなってきた。大雨になると、泥道になって帰るのが大変になる。
今日は帰るか、と自転車に乗ったとき、眼下で見覚えのない黒い車が街方向に走っていくのが見えた。
――どこの家の……って、日野の家か。
千夏の家よりも下に位置する家は、日野家だけだった。
なんとなく気になる。耕太は道を下り、日野の爺さんの家を訪ねることにした。
日野の家も、外観はけっこう古い。基礎は築二十年を経過している。でも、引っ越してくる数か月前に大規模なリフォームをしていた。外壁は真新しい木張り。二台置ける車庫も新設してある。玄関のドアも引き戸ではない。ハンドルのついた押したり引いたりするタイプのものだ。
ドアの前でインターホンを押すと、すぐに「はい、おお耕太くん!」と返事があった。カメラ付きのインターホンらしい。
十秒ぐらい経ってから、日野の爺さんがドアを開けてくれた。
「どうしたん? なにか用かい? 耕太くんが来るなんて珍しいなあ」
わははと声をあげて日野の爺さんが笑う。感じが良い。そう、とても感じが良いのだ。いつも笑っていて、顔を合わせば気軽に話しかけてくる。七十手前の年でもよく村中を散歩していて若々しいし、顔もなんだかピカっとしている。いわゆる、好好爺然とした風貌なのだ。
でも、なにかと引っかかるのだ。
「航が今日、学校を休んだので、ちょっと気になって」
用意していた理由を答えると、「ああそうかあ」と大げさな声で爺さんが反応する。
「ありがとうありがとう。航のこと心配してくれて、まあ」
「風邪ですか?」
「いやあ、ちょっとな、火傷しちゃったんだよ。それで家に戻ったんよ」
「家って」
「薄幸町の家だよ。あっちの方が良い病院があるしな。このまませがれたちと暮らすかもなあ。さっきたくさん荷物を持って帰ったし」
――さっきの黒い車だ。
航はあれに乗っていたのだ。
「火傷って、大丈夫なんですか」
あまり日野の爺さんは心配していないようだ。
「たいしたことないと思うんだけどね。痕が残らないように念のためね。手をね、ちょっとね。おっちょこちょいだよねえ。そこの千夏ちゃんと花火しててやっちゃったらしいよ」
――はあっ? 千夏と航が?
あり得ない。そんなこと絶対。耕太は変な風に息を吸って咳き込みそうになった。あわてて唾を飲む。
あの二人は全然仲が良くないし、第一、この時期に花火って。
「航はやっぱり街が良いみたいだねえ。若者はそれが普通かあ」
「はあ」
爺さんの世間話に付き合わされたくはない。「じゃあ俺はそろそろ」と、玄関から遠のこうとすると、また日野の爺さんが口を開いた。
「俺は住みやすいけどなあ、この村」
爺さんの言葉にカチンときた。
――あんたが金をばら撒いてるからだろ。
「航がこっちに帰った来なかったら、日野さんはどうするんですか」
「おりゃあ、ずっとこっちにいるよ。一人でも」
「あの……なんで、日野さんはこんな辺鄙なところに住もうって思ったんですか」
そもそも、杉崎村に引っ越そうなんて普通の人間は思わない。めちゃくちゃ貧乏で家を激安で買いたい人か、廃墟オタクぐらいだろう。この爺さんには当てはまらない。
「んん? そうだねえ、懐かしいっていうのがあるかなあ。昔、この村に住んでいたことがあるんだよ。短い期間だったけどね。もう仕事もリタイヤしたし、静かなところで隠居生活がしたくなってねえ」
「え、ここに住んでたことがあるんですか」
この話は初めて聞いた。母も父も、もしかしたら知らない情報かもしれない。
「あるよ。ずーっと昔にね」
間延びした「ずーっと」が、耕太の耳には冷たく響いた。
爺さんはさっきから目を細めたままだ。だから笑っているように見える。違う、反対だ。笑っているように見せるために、細目にしているのだ。