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波紋  作者: 叶 こうえ
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 耕太が言いきると、日野の爺さんが振り返った。冷めた目で耕太を見る。

「なにバカなことを言ってる? 証拠はあるのか?」

 さっきまであった余裕がない。声も尖っている。

「証拠はないけど――あんたの母親の栄子さんに連絡は取れる。DNA鑑定すれば、栄子さんとあんたが親子関係だって証明される」

 そうなれば、この男が日野ではない証拠ができる。

「俺はどんな罪に問われるんだ?」

 爺さんの人相が変わった。好好爺の面影はない。犯罪者の顔だ。

「あんたがやったのは『背のり』ってやつだよね。日野さんの戸籍を乗っ取った。本物の日野さんは今どこにいるんだ? あんたが殺したのか?」

 もし殺したのなら殺人罪だ。

 周りは静まり返ったままだ。父の顔が目の隅に映る。話についていけてないようだ。困惑した顔をしている。

「たとえ俺が殺していたとしても、もう時効だろ。罪に問われない」

 ――あ、そうか。

 耕太は自分の詰めの甘さを呪いたくなった。

「たとえ時効でも――このことが薄幸町に知られれば、あんたはここにいられない。本物の日野さんの親戚にも訴えられる」

 耕太は頭をフル回転させた。とにかくこちらが優位に立たなくてはならない。彼を脅かす立場にならなければ。

「残念。日野の親戚はもういない。泰造が死んで日野の血は滅んだんだよ。ほんと、あいつってかわいそうだったよ。東京では俺しか友達がいなかったみたいで、あいつが消えて大学に行かなくなっても誰も騒がなかったなあ。親が死んだから地元に帰るって告げられて、こりゃあチャンスだと思ったんだ。地元に帰っても誰も気づかなかったよ。俺が偽物だってな」

 爺さんは薄く笑った。見る者をぞくりとさせる冷笑。

「おまえ、高校生のわりに、なかなかいい所まで俺を追い詰めたな。でもここまでだ。まず、俺は裁かれない。日野泰造を殺したよ? でも死体は見つかっていない。これからも見つからない。当たり前だ。俺が殺して山に埋めたからだ。もう五十年近く前だ。土の栄養になってるだろ」

「なに開き直ってんだよ! 殺人犯なんて、この村にも、この町にも住ませちゃおけねえよ。時効だろうが警察に通報する!」

 月舘のおじさんが唾を飛ばしてがなる。

「通報すれば? どうせ何も起こらない。――さあ、早く餅つきをしよう。冷えたらまずいだろ」

 皆は呆気にとられたまま動けないでいる。

「さっさと用意しろ! できないなら、今すぐ借金を返してもらうぞ! 返せないなら、取り立ての人間を呼ぶだけだ」

 最後の一言には効力があった。停止していた村民たちは、ぎくしゃくと歩き出す。

 爺さんが屈みこみ、杵を持ち上げた。

「んーそんなに重くないね。俺が突くか」 

 楽しそうに笑う。

「おい、まだ話は終わってないぞ。俺はお前に借金していない。対等なんだからな」

 月舘のおじさんが、日野の爺さんの肩に手をやったとたん――。

 ガツン! と鈍い音がした。

 耕太は目を見張った。

 一瞬のことだった。

 爺さんが腕を振り、月舘のおじさんの顔目掛けて振りぬいた。

「ぐふぅ」とひしゃげた声を出して、月舘のおじさんが地面に倒れこんだ。

「あなたっ!」

 月舘のおばさんが駆け寄り、うつぶせになって動かない月舘のおじさんを抱き起す。

 彼の顔は血まみれになっていた。鼻がへし折れ、口からは血が溢れている。

「救急車を……」

 泣き出しながら、月舘のおばさんが携帯を手に取る。

「待って、自分で車に乗せていった方が早いわ」

 秋元の奥さんが助言すると、月舘のおばさんは頷いた。

 こうして、秋元夫妻と月舘のおばさんが、月舘のおじさんを支えて、車に乗り込んだ。

「おまえは警察に連れていく!」

 耕太の父が、爺さんの手をしっかり掴んだ。

 ――そうだ、これでこいつを傷害罪で捕まえられる。

 耕太も爺さんに駆け寄ろうとしたときだった。

 一度赤のカーペットに埋まった、杵の打ち付ける部分が浮いた。

 ――爺さんは、まだ杵の柄を掴んだままだった。

「やめろ!」

 耕太が叫んだ瞬間、爺さんの手から柄が抜けた。コロンと杵が倒れた。

「あー俺も年とったもんだな。手が痺れちゃったよ」

 爺さんが、耕太の父の手を振り払った。

「耕太、おまえ……」

 かすれた声で、父が耕太を見た。

 耕太は何も言えなかった。

 三日前と同じ感覚に襲われ、耕太は目を瞑り、両腕で己の体を抱えた。

 力が漲っている。体中が熱い。

「あーあ、杵が汚れちまったな。まあいいや、突いた餅はお前らが食べていいよ」

 爺さんが、臼のなかの餅目がけて、杵を振り下ろす。

 ビタン! と気持ちのいい音が響いた。

 白い餅に、赤いものが混じった。日野の爺さんは、鼻歌を歌いながら餅を叩きつける。

 耕太は暫し、呆然とその光景を見ていた。

 ――こいつは本当にやばい。普通じゃない。

 こいつが傷害罪で逮捕されても、実刑になるだろうか。もしなったとしても、いつ刑務所から出てくるのか。傷害罪じゃ、すぐに出てくるんじゃないのか。

「あんた、傷害罪で逮捕されるぞ。それが嫌だったら、この村から出て行けよ」

 耕太は破れかぶれになって、爺さんに言いつのった。

「ここから出てってくれよ!」

 耕太が叫ぶと、日野の爺さんは動きを止めた。

「やだね。これは復讐なんだからな。お前の言う通り、俺は鳥海拓朗だよ。久々にこの名前で呼ばれて新鮮だったよ。俺は十五のときに、この村に来たんだ。お袋と希望をもってここにな。DV男の親父と別れて、お袋も心機一転頑張ろうとしてたんだ。なのに、この村の奴らは俺たちを村八分にして追い出した。お袋は頑張ってたんだ。無視されても無視されても話しかけて――やっとお裾分けの煮物を受け取ってもらえて喜んでいたのに――その煮物を、俺たちの家の玄関に誰かが撒いて捨てたんだ。それでお袋の心は折れた。三か月でこの村を出た」

 鳥海が恨みつらみをぶちまけた。

「でも、それをやったのは俺たちじゃないだろ。前の代がやったことだ」

 今の世代の村民を恨むのは、どう考えても見当違いだ。唯一、その時代を知っているのは――

「――んあ? 呼んだか?」

 折り畳み椅子に座っていた熊田爺さんが、顔をパっと上げた。

「熊田の爺さんも、日野さん家族をいじめたのかよ」

「わしゃいじめてない。その頃はわしゃ二十代の若き青年だった。いじめとったのは、中年以上のジジババだ」

 熊田の爺さんが慌てたように首を振る。

「この爺さんは俺の言いなりだからな。助けを求めても無駄だぞ」

 鳥海がくつくつと笑った。

「このワニの服、気に入ってなあ」

 熊田の爺さんが、着ているシャツの襟を引っ張って見せる。

 物で買収されている。そういえば、この前話をしたときも、ラコステのパジャマを着ていた、と思い出す。

 ――頼りにならねえ。

 耕太の苛立ちはマックスに近づきつつあった。

「耕太、落ち着け」

 父の声が聞こえる。母の声も、相坂夫妻の声も、千夏の父親の声も。耳の中でリフレインしている。

「あーらよっ!」

 鳥海がまた杵を振り上げた。臼の中の餅は程よく弾みができている。湯気もまだ出ている。

 耕太は意識を集中させた。

 ――こいつは殺した方が良い。そうしないと、この村はめちゃくちゃになる。

 力の放出の仕方なんてわからないが、感覚でやってみるしかない。

 両の拳を握り、目を見開いて、腹に力を込める。

 ――シネ!

 目に力を入れて、鳥海に念を投げる。

「あ、うわっ」

 鳥海が滑稽な声を上げて、足を滑らせた。赤いカーペットがたわんだ。握っていた杵を前方に放り出し、鳥海は重力に従って体を前に倒した。彼の頭が臼の中に突っ込んだ。

「ああっついぃ……」

 鳥海が臼に突っ伏したまま両手をバタバタさせる。誰も助ける者はいない。

「だ、だれか……」

 鳥海が諦めずに空を掻く。餅はぴったりと爺さんの顔に張り付いている。

 耕太は爺さんの頭に、上から圧をかけた。

 程なくして、鳥海は静かになった。

 耕太は全身に大汗をかいていた。周りを窺うと、父も、相坂のおじさんも、顔の汗を拭っていた。

 耕太たちは臼から離れた。

 熊田の爺さんが椅子から立ち上がって声高に言う。

「さあさあ、餅つき大会はお開きだ。お前たちはさっさと借用書を回収してこい。金庫の番号は――」

 耕太は、日野の家に入っていく大人たちの背中を見ながら、地面に尻をついた。

 ――疲れた。

 遠くから千夏の声がする。

 ――外出禁止のはずなのに。空耳かな。

 頭のてっぺんに冷たい感触がある。雨かな、と顔を上げると、ちらちらと、踊り舞うように雪が降ってきた。了

完結です。ご感想、コメントいただけると、うれしく思います。

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