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耕太が通う高校は、木在町――通称街――の、駅、商店街、住宅街を抜けて更に一キロ南下した場所にある。杉崎村から街まで、勾配のある山道を上り下りすること三十五分。街を完走するのに十分。そして街の出口から高校まで十五分、自転車を漕ぎ続けなければならない。十六歳の若い体でも、自転車がロードバイクでも、ふつうに疲労する道のりだ。
始業のチャイムが鳴り終わると同時に、耕太は教室の中に駆け込んだ。
「相変わらずギリギリだなあ、三上」
教卓に立っている担任が揶揄するように声をかけてくる。
耕太は一番廊下側の三列目の席に座った。息切れを起こしながら、「チャリで、一時間かけて、来てるんだから、大目に見てよ」と、タメ語で返す。耕太に限らず、同じクラスの生徒は皆、教師に対して砕けた物言いをする。田舎の公立ののんびりとした校風のせいだろう。
「今日は一段とぼっとん臭いなあ」
一番窓際の最後尾に座っている航が、にやにや笑いながら言う。
いつもの意地悪だ。耕太は気にしないようにしている。
「うるせえよ」
あきれた表情を作って答えると、航が「臭うんだよなあ」と鼻をスンスンと鳴らした。カッと腹が熱くなった。毎度のことだが、言い返さないと気が済まない。
「お前の腋臭じゃねえの?」
我ながら良い切り替えしができた。
「なんだと?!」
航がお約束通りに怒りだした。大きな音を立てて席を立つ。が、耕太の席へと向かおうとしたところで、担任が航に声をかけて制した。
「日野も三上もいい加減にしろよ。杉崎村の住民同士、仲良くしたらどうだ?」
「それは無理だわ先生。こいつと俺とじゃ貧富の差が激しいし」
くくくと航が笑った。
「まあ、笠石さんとなら仲良くしてもいいけど?」
矛先が、中央の一番前に座っている千夏に向いた。耕太は航を睨みつけた。何か言い返そうと口を開きかけたとき、先に千夏が対処した。
「こっちがお断りだっての」
彼女は航に向かって舌を突き出し、シッシとばかりに手をひらひらさせた。
教室のあちこちから笑い声が起きた。
――さすが千夏だ。はっきり言う。
自然と笑みが浮かんだ。千夏の顔を見ると、彼女も耕太を見ていた。にこっと笑いかけられ、顔の筋肉が緩んでいくのを止められない。
チッと、面白くなさそうな航の舌打ちが聞こえてくる。が、それ以上、耕太と千夏に絡んでくることはなかった。
内心、耕太は安堵した。できるだけ航とは小競り合いを起こしたくなかった。なぜなら彼は、日野の爺さんの孫だからだ。
日野の爺さんとその孫、航が隣町の薄幸町から杉崎村にやってきたのは五か月前――夏休みが始まる直前のころだ。今思うと、あの爺さんは引っ越しの挨拶から大盤振る舞いだった。お近づきの印に、と金一封(壱萬円)と、今治のタオルセット、魚沼産の手延べ蕎麦を渡してきたのだ。初めの頃こそ、両親は恐縮しながらそれら受け取っていたが、慣れとは恐ろしい――今では日野の爺さんから小遣い(三上家にとってはそのほとんどが大金)を貰いたいが為に、彼からの頼み事を二つ返事で引き受け、媚を売っている。それは耕太の家に限ったことではない。笠石家(千夏の家)も、熊田家も、相坂家も、秋村家も、月舘家も、日野家には逆らえなくなっている。日野の爺さんは、金を村の住人にばら撒いて杉崎村に馴染んだのだ。もしそれをしなかったら、日野の爺さんは村八分に合っていたかもしれない。それぐらい、昔から住む杉崎村の住民たちは結束が強
かった。
金の力は本当に強いものなのだ、と耕太は痛感している。だって今では、三十年以上長を務めてきた熊田村長よりも、村民になって五か月の日野の爺さんのほうに発言力があるし、村民に一目置かれているのだ。
そんなわけで、極力、日野の爺さん、ひいては、その孫の航の機嫌を損ねないようにしなければならなかった。
試験休み開けの今日は短縮日課だった。三時間授業で下校となり、耕太は千夏とともに学校を後にした。
田んぼとハウス栽培の農家に囲まれた道をひた走る。たまに後ろを振り返って、千夏がちゃんとついてきているか確認する。すると、大丈夫だってば! というように、千夏が立ち漕ぎして、スピードを速めて見せる。
校舎を出たときは冷たい空気に鳥肌が立ったが、街に突入するころには耕太の体は温まり、額と首筋に汗が流れるほどだった。
人が行きかう街中を走るのはやっぱり楽しい。古くからある店ばかりで代り映えはしないが、レンガ造りの映画館や、ファストフード店、携帯ショップを流し見するだけで、なんだかワクワクした。自分が文明から取り残されたわけじゃない、と実感できるからかもしれない。住んでいる杉崎村は、時間が止まった村だから。
「ね、どっか寄ってく?」
後ろから大きな声が聞こえた。
「今日はいいや。金ないし」
耕太が答えると、「あ、私も金ない!」と千夏が笑った。彼女のこぼれる白い歯と、サラサラ揺れるショートカットの髪に、不覚にもドキっとした。
街を出たあとは退屈だ。荒廃しきった風景が延々と視界を埋め尽くす。伸び放題の草木に、崩れかけた木やトタンの民家。罅割れたアスファルトの道。
「ちょっと休憩しよ」
千夏が声をかけてくる。そして地面をこする車輪の音が響く。
耕太もブレーキをかける。いつもここで休憩する。廃業して何十年も経った、錆びだらけになったシャッターの元駄菓子屋の前で自転車を止める。ふたりは葉っぱだらけの木のベンチに腰を下ろした。
「私さ、来年の夏休みはバイトしようと思ってるんだ」
「バイトかあ」
そうだ、俺もしないと、と耕太は思った。両親の稼ぎなんてたかが知れている。高校を卒業したら大学に行きたいし、自分の学費は自分で貯めなければ。どうしても足りない分は、奨学金を借りるかもしれないが。
「千夏はどこの大学に行きたい?」
「具体的には決めてないけど、東京の大学が良い」
「俺も」
こんな何もない村に住んでいるから、どうせここから出るなら、なんでもある場所に住んでみたかった。数泊の旅行ではなく、年単位で住んでみたいのだ。
「一緒に東京行こうよ」
自分が言いたかった科白をさっさと千夏に先に言われる。耕太はうれしいような、悔しいような、複雑な気分になった。だから素直に「うん」と言えなかった。
「一人で行くのが心細いんだろ。都会は怖い所だもんな」
ひねくれたことをつい言ってしまう。千夏は瞬間的に頬をぷうっと膨らませた。が、気分を害した風でもなく、「それも一理ある」と頷いた。
「休憩終わり。帰ろ。おなかすいたし」
千夏が伸びをして、ベンチから立ち上がる。
「あ、あのさ、元旦の初詣の予定、決めておかない?」
もう少し話がしたくて、とっさに思いついた話題がそれだった。
「明日話そうよ。学校の帰りに」
あっさりと千夏に返される。
――そうだな。明日でも、別に。
「じゃあ明日に」