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そんなに長くはならないけど、いろんな要素があります。
「ぼくドラえもん!」
ドラえもんの甘ったれた声が大音量で流れ始めた。
「朝だよ、起きて!」
耕太は「くそっ!」と呻いた。嫌々ながらも布団から這い出て、枕元から三メートル先にある目覚まし時計を速攻で止める。クイズ番組で答えが分かった人がボタンを叩き押すぐらいの勢い――耕太は自分の俊敏さを自画自賛した。穴だらけの障子をあけて畳部屋から出て、洗面所に向かった。
毎度のことだが、水道水で顔を洗うと、冷気が全身にしみわたって、ちびりそうになる。爺さん婆さんだったら心臓発作を起こしているかもしれない。実際、耕太の祖父はそれで死んだ。冷たく澄んだ水は酷暑ならありがたいが、あいにく今は十二月だった。
「っざけんじゃねえ」
ここのところ、イライラしてばかりだった。怒らない日なんて一日もない。
なんでうちは、給湯器さえないのか。寒いときぐらい、温かいお湯で顔を洗いたい。
不満はそれだけじゃない。ドラえもんの目覚まし時計。なんであんなガキくさいものを使わないといけない? なんでもあれは、母親のパート先の本屋からもらってきたものだ。『小学一年生』という雑誌の付録で、それを買ったお客さんが「こんなのいらない」と母親に突き返してきたらしい。
洗顔の次は便所だ。ちびりそうになって、よけい尿意が増した。
耕太は便所に入るたびに腹を立てている。ぼっとん便所だからだ。気温が低くても臭いものは臭い。夏よりマシなだけだ。
丸穴から顔を背け、息を止めながら排尿しても、一週間掃除をしていない公衆便所のような臭気が鼻を突いた。相当、糞尿が溜まっている。そろそろバキュームカーがやってくるタイミングだ。
――くっそ、なんで……。
なぜに、小学一年生向けのすぐに壊れそうな目覚まし時計を、高一の俺が使わなきゃならない? このご時世にうちには給湯システムがない? 極めつけにぼっとん便所――。
理由は分かっている。両親が詐欺に引っかかったからだ。街の工務店に騙された。一括でリフォーム料金を支払ってくれれば百万円まけるといわれて、工事一日目で九百万円入金した。得をしたと喜んだのは束の間だった。工事三日目から業者はやってこなかった。工務店は倒産した。タイミング的に、どう考えても計画倒産だ。
ちゃんと工事をしてもらえていたら今の状況はない。二階の自分の部屋の壁は崩れていなかったし、ぼっとんは水洗便所になっていた。風呂のシャワーや洗面所の水は温かくなっていた。目覚まし時計の一つや二つ、ちゃんと買ってもらえていた。
弁護士に相談して、破産した工務店を訴えればいい――耕太は自分なりにネットで調べたことを両親に伝えたが、彼らはそうしなかった。まず弁護士を雇う金がない。それに、自分たちが詐欺にあったことが村中にバレたら恥ずかしい、と。ここに住めなくなるのは困ると言った。
たしかに、工務店側と裁判沙汰になれば、村中にこのことは知れ渡るだろう。
耕太たちは、いわゆる限界集落に住んでいる。地図にも載らないほどの小さな村で、耕太の家含めて七世帯しかない。隣家とは百メートル以上離れている。バスも通っていないので、耕太は街近くの高校まで自転車で通っている。片道一時間かけて。
――なんでこんな辺鄙なところにずっと住んでいるんだろう。
常日頃感じている疑問だ。両親がこの杉崎村に固執しすぎている気がする。農作業が好きなのだろうか。夏はナス、きゅうり、トマト。冬は白菜を収穫して街に卸しているが――別にこの場所じゃなくても農家はできる。
と、そこまで考えたところで、今いる場所がぼっとん便所だと思い出した。とたん、また糞尿臭が鼻腔を突き刺してくる。
「クソが」
腹立ちまぎれに便所のドアを蹴って外に出る。廊下には股間を押さえている父親が立っていた。
「遅いぞ。漏れちゃいそうだ」
四十過ぎの親父の、滑稽な恰好に思わず苦笑した。
「あーごめん」
耕太は素直に謝り、便所のドアから退いた。
「あ、耕太。今日は学校まで送ってやるよ。街で買い物するからついでだ」
そういって、父親は便所の中に入った。
「マジで? やった!」
車だと、学校まで三十分強で着くのだ。疲れないし、時間に余裕ができるし、最高だ。
さっきまで燻っていた苛立ちが霧散する。ちょくちょく苛立ってはいるが、一つの怒りはあまり長続きしない。それが自分の良いところかもしれない、と耕太は自覚している。
手を洗い、みそ汁のにおいがする台所に向かう。その間、十メートルほど廊下を歩くが、いつものように壁に貼っている紙が目に入る。
『イラっとしたら十秒かずを数えよう』
『怒りは溜め込まずに発散しよう』
変な標語だ。こんなものを貼っている家はうちぐらいだろう。それでもサブリミナル効果ってやつなのだろうか。家でも学校でも、怒りを覚えるとつい数字を数えてしまう。そして十に至る前に、怒っても仕方がないと、達観してしまうのだ。だから友達と喧嘩をすることも滅多にない。
台所に入ると、少しは温かい。電気ストーブがあるからだ。
「耕太、おはよう」
食卓にご飯と、みそ汁、焼き魚の皿を置いて、母親が声をかけてくる。
「――はよ」
席に着き、さっそく朝食に箸をつける。
「明日行ったら学校も冬休みねえ」
カラコロと音を立てて母が言った。彼女は大のお喋り好きで、とりとめのないことを延々と話すのが得意だ。喉を潤すためによく飴玉をなめている。今も。だから太るのだ。
母が向かい側のテーブルに座ると同時に、ギシッと椅子のきしむ音がする。このテーブルセットも年季が入っている。リフォーム完了と同時に買い替える予定だったのだ。
「どこか遊びに行く計画でも立ててるの? お友達と」
「別に。休みなんてすぐ終わっちゃうし」
「千夏ちゃんとは?」
突然その名前が出てきたので、耕太は箸でつまんだ魚の身を皿にこぼしてしまった。
実は千夏と、初詣に行く約束をしていた。元旦、除夜の鐘を聴きに、街の神社まで。
「付き合ってるの? 千夏ちゃんと」
母が小声で聞いてくる。
「まだ付き合ってない」
良い雰囲気ではある。元旦に、神社で告白しようと考えていた。たぶんオーケーの返事がもらえるだろう。
「まだ、かあ……。そう……」
なんとも歯切れの悪い反応に、耕太は眉をひそめた。
「母さん、千夏のことあんまり好きじゃない?」
「ん? そんなことはないんだけどね。できれば外の人と結婚してほしくてね。耕太には」
「結婚て」
「まだ早いわよね。うん、付き合うだけならいいんじゃないの? 千夏ちゃん」
ただしちゃんと避妊はするのよ、と母が付け加えた。ずいぶん明け透けなことを言う。母らしくない。だがそのことよりも、母が暗に、自分が千夏と結婚することを反対しているのが気になった。どうしてなのか聞き出そうとしたとき、父が台所にやってきた。
「あ、お父さん。買い物行くんだよね? ついでに缶コーヒー、箱買いしてきてくれる?」
「いいよ」
食卓に着いた父がボソリと答える。
「ついでにタバコもカートン買いで」
「ああ」
両親の会話を聞いているうちに、耕太の機嫌は下降していった。
「あのさあ、金がないならそんなの買わなくていいじゃん。俺たちが必要なわけじゃないのに」
缶コーヒーとタバコ。それらはバキュームカーに乗ってくる作業員のおっちゃん用だ。彼らがぼっとん便所の糞尿を水で吸い出す前に、ご機嫌取りで渡すのだ。
「今まで渡してきたのに今更やめるなんてできないでしょ。あそこのうちはケチになったって噂になったら困るし……」
またか、と耕太はため息をつきそうになった。いつもこうだ。家計が苦しくても、体裁ばかりを気にする。父も母も。
「父さんはなに買いに行くの?」
ちょっと気になったので聞いてみる。
一週間分の食糧の買い出しは、いつも土日に行っている。家族みんなで街に出向くのだ。
「餅つきの道具ともち米だよ。元旦に餅つき大会するから」
「へえそうなんだ」
まったく興味がなくなって、耕太は残りわずかのみそ汁を口に含む。
「へえって他人事だな。お前も出るんだぞ」
「はあっ?」
聞いてないし、とみそ汁を吹き出しながら反論した。
「日野さんがやるって言ってるんだからやるんだよ。村民全員参加だ」
父が珍しくムスっとしながら言う。
「また日野さんかよ」
何をするにも、日野さん日野さん、だ。両親の態度はここの所、本当におかしい。
「日野の爺さんに弱みでも握られてんの?」
耕太は父と母の顔を交互に見据えた。だが、二人は黙ったまま朝食に手を付けた。
「やっぱり俺、自転車で行く」
耕太は自分の食器を手に取り、テーブルから立ち上がった。
近いうちに更新できればと思います。
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