桃色ハッピー異世界デイズ!
僕はトラックに撥ねられた。
なんで? とか、どうして? とかどうでも良くて、僕はある予感に心を奪われていた。それこそ走馬灯なんて付けいる隙もないくらいのドキドキである。
これって異世界転生のチャンスなんじゃね?
そう。現実で不遇な目に遭っている男の子がトラックに撥ねられるか轢かれる、というのが異世界転生モノの導入では王道中の王道、もはや常識なのである。かくいう僕も現役ニート。条件は満たしているはず。だからこそ僕は、トラックに撥ねられた直後に雷に打たれたような歓喜を得たのだ。
さらばリアルライフ。こんにちは異世界ハッピーライフ。
そんなふうに思っていた僕は、救いがたい馬鹿だろう。
◆
異世界転生は果たした。例のごとく、初期アバターみたいなぺらっぺらの服でゴブリンにも襲われた。そして例のごとく、魔術師を名乗る美女に助けられた。黒髪ロングの巨乳。ジーンズ地のボトムスに黒のタンクトップ一枚。瞳の色は赤で、八重歯が特徴的。うーん、四十点。中盤で出てこいよ。
ここまではいい。ここまではまだ『普通』だ。よくある導入。
魔術師の美女はなぜか僕に『弟子入り』を要求した。願ってもない。欲を言えば修行などすべてすっ飛ばして敵をボコボコに出来るチート能力を得られれば、なんて思ったがそんなラッキーはないようだ。なるほど、ならば地道に成長していくパターンか、ハーレムを築けるならば悪くない、とワクワクドキドキした僕はやはり救いがたい。
師匠によると異世界転生者はよくいるらしく、いずれかの魔術師に弟子入りするのが慣例であるらしい。ほかにも転生した奴がいるのは気に食わないが、いたしかたない。そいつらをボコボコにしていく展開なら面白いし、同じ境遇の美少女に逢えれば桃色ハッピーストーリーの始まりだ。さあ、動き出せ運命の歯車!
◆
師匠に連れられた僕が目にしたのは、豚小屋だった。なぜに豚小屋? と首を傾げた瞬間、臀部――ケツのことだ――に強烈な衝撃が走り、無様にも豚さんの前に転がされた。
「今日からここがアンタのマイホームだ。死にたくなけりゃ泥水すする謙虚な気持ちで魔術修行に励むんだね」
あれ?
あれれ?
おかしいよ? こんなテンプレ見たことないよ? なんか間違ってない?
頭ににょきにょきと湧いた疑問は、言葉にならなかった。なぜトラックに撥ねられて転生を果たした矢先に、こんな馬鹿げた目に遭わなければならないというのか。
神よ! 僕を見ているならもっとマシな導入を寄越しやがれ!
師匠は小屋に鍵をかけて去ってしまったので、ひとりで神に祈るほかなかった。そんな僕を嘲笑うかのように、豚さんは鼻を鳴らしてる。
その晩、僕は豚さんの隣で泣きながら眠った。
◆
豚さんに顔を舐められて目を覚ます。うん、ひどい目覚めだ。全部夢ならいいのにね。けれども、僕が異世界転生を果たしたという事実は変わりない。きっとここから胸躍るロマンスが始まるのだろう。豚小屋で過ごした夜のことは忘れよう。うん、そのほうが健全だ。いざ、ロマンス!
それから半時間も経たないうちに師匠が現れた。彼女は昨日と同じ格好で入り口に仁王立ちしている。
「出ろ」
師匠は短く言うと、踵を返して去っていった。あ、悠長に待たない主義なのね。ハードモード~。
外は、ものの見事にヨーロッパ的な田園風景が広がっていた。つまり、緑の草原に街道。はるか先に農村らしき家並み。畑仕事に精を出すオッサン。そんなところである。空は晴れ渡り、風は心地良い。とりあえずは風呂に入りたいものだ。願いが叶うなら、師匠以外の美少女と混浴したい。
とはいえそんな願望を口に出せるはずもなく、大人しく師匠のあとについていった。彼女は少しも振り返らず、黙々と草原を歩いていく。足首に触れる下草がくすぐったい。
師匠は不意に足を止めた。彼女の隣に立つと、思わず「おぉ」なんて感嘆の声が出てしまった。
巨大なクレーターとも言える、お椀型の窪地が広がっていた。底の部分には泉らしき水源が見える。もしやこれは、僕に特殊な力を授けてくれる試練なのでは? 最上級の魔術が簡単に手に入っちゃうイージーな奴なのでは?
見とれていると、ガチャリ、と金属音がして首に冷たい感触が広がった。
「え? あ? えぇ……?」
首元に触れると、明らかに金属質の首輪がつけられていた。
「これから修行を始める。魔術師になるために必要な修行だ。説明はこれっきりだから良く聞けよ豚」
豚って僕のことでしょうか? なんて聞ける雰囲気ではない。
「返事ィ!!」という怒鳴り声とともに臀部――ケツのことである――に衝撃が走った。また蹴られたのだ。やめて。痔になっちゃう。
「はいぃ……」
「よし」と言って師匠は腕組みする。そして蹴られた衝撃で跪く僕を見下ろした。あ、なんの感情も籠ってないお目々だ。
「一度しか言わない」
「はいぃ」
「お前はこれからあの泉に行って水を汲んで来い。バケツは水のそばにある」
「は、はいぃ」
ただの水汲み? いやいや、そんなわけがない。きっとなにか、こう、ロマンスを駆動させるハッピーでラッキーななにかがあるに違いない。
「嫌になったら逃げてもいいぞ」
師匠はあっけらかんと言う。
「え、でも、それ、え、いいんすか?」
「かまわない。アタシも鬼じゃないからな。逃げたらその首輪がテメェのほっそい喉をハグしてくれるさ。あっという間にサヨナラ出来るぜ」
ですよね。あんた鬼だよ。僕の異世界転生処女を返してほしい。本当に、心の底からそう思う。けれど、これはあくまで導入部のはずだ。きっと壮大な冒険だとかラブロマンスだとか宿命のライバルとの決闘だとか他国との戦争だとか異種間交流だとかハーレムだとかハーレムだとかハーレムだとか――主に桃色のロマンスが待っているに違いないのだ。そのためなら、豚と呼ばれようとも頑張るよ!
窪地は上から眺めていたときは平気に思えたのだが、寝て起きてゲームをして寝て起きてゲームをして、合間合間にエクストリームな性処理活動をしていた僕にとっては運動そのものがハードなのである。底に着いた頃には息が上がっていた。泉の水を飲んでも良いだろうか、マイマスター。うわ、めっちゃ睨んでる。遠くても分かる。サボったら首がキュってなるやつだこれ。
仕方なしにバケツを手に取る。比較的綺麗なアルミっぽい素材のバケツと木の桶があったが、圧倒的に持ちやすいアルミのほうを選んだ。水を汲むとずっしり重たい。これを持って坂を上がるのはちょいとハードですぞ、お師匠様。
とはいえ文句なんて届くはずもなく、バケツを持ち替えながらなんとか師匠のもとに辿り着いた。息が上がり、視界に光の粒が舞っている。汗が滝のように出てるけど、これ大丈夫かな?
肩で息をする僕に開口一番、師匠は言った。
「二つあったろ? もうひとつのバケツも持って来い」
「は?」
さすがにキレた。僕もキレた。ひと昔前はキレやすい子供たち、なんて言われていた世代だ。僕の中の獣を目覚めさせてしまったな、馬鹿女め。
気が付くと僕は、胸倉を掴まれて物凄い目付きで睨まれていた。ちょ、あんまり見ないで、恐い。
「口答えする元気があるならさっさと汲んで来いよ豚ァ! 魔術師になりたくねぇのか!?」
「こ、こ、こ、これはまじゅちゅとは無関係だと思いますっ」
そりゃ僕も噛むよ。だって師匠恐いもん。
「アタシが関係あると言えば関係あるんだよ豚ァ。……まったく、テメェらみたいな転生者は口を開けばチートだのハーレムだの軍師だの伝説のアイテムだの職業だのステータス極振りだの……ママの子宮からやり直せ豚ァ!」
やめて。それ以上はやめて。ワクワクドキドキの転生者をそんなふうに言わないであげて。
これ以上聞いていると立ち直れなくなってしまいそうだったので、僕は大人しく従うことにした。なに、もう片方のバケツ――桶だけど――に水を汲んでくればいいだけだ。ちょっとした筋トレだと思えばなんてことない。それに、もしかしたらストーリーが急展開を見せるかもしれない。
足を踏み出した僕の後頭部に、師匠の怒声がゴツンとぶつかる。
「こっちのアルミのバケツも汲み直して来い豚ァ」
超ご機嫌ナナメじゃないっすか、マスター。とほほですよ、とほほ。
◆
その日は結局、完全に無意味に終わった。水を汲んでは戻り、師匠に難癖をつけられては汲み直して戻り、またも難癖をつけられるという始末。水を汲ませた意味も不明である。バケツと桶を手に、えっちらおっちら窪地を往復しただけ。囚人の穴掘りを思い出した。午前中に掘った穴を、午後に埋めさせるという謎な刑罰。これ、気が狂っちゃうやつだよね?
「メシにするぞ、豚ァ」
師匠は僕を連れて意気揚々と歩いた。辿り着いた先はささやかな庭付きの小屋である。
「師匠……ここは……?」
「アタシの家だよ。馬鹿な質問すると殴るからな。テメェは庭で正座して待ってろ豚ァ」
あれ、魔術師の自宅ってこんなものなの? てっきりもっと大きいかと思ってた。これじゃどう考えても1LDKのサイズなんですが。膨大な魔術書は? 怪しげな魔術道具は? しかも、近くの農家は庭も家屋も倍近くのサイズなんですが……。
もしやこいつは魔術師という名の単なるサディストなのでは……。ゴブリンを葬ったときも拳だったし。
ドアが開き、びくんと身体が震える。こっちの考えてることが勘付かれたら殺されるかもしれない。
師匠は大皿二つを僕の前の地べたに置き、向かい合わせに胡坐をかいた。
胡坐とか……キャラには合ってるけど僕の性癖じゃないですわー。ノーセンキューバイバイやんちゃガールですわー。
「ほら、食えよ」
片方の大皿の上には山盛りの肉らしき物体が湯気を上げている。もうひとつの皿は、芋だ。なんの芋なのかは分からないが、これも湯気でホッカホカだ。
「あの、箸は――」
師匠が肉を手掴みで食べたので言葉を呑み込んだ。「なんでもないです。いただきます」
肉を口に含むと、なんとも形容しがたい不快感が舌に広がった。なんだこの臭みとえぐみは。それに、硬過ぎて噛み切れない。
「ひひょう、はふっ、ほのにふは?(師匠、熱っ、この肉は?)」
「口に物入れながら喋るんじゃねえよ豚ァ」
確かに正論だけどっ! 噛み切れないんですって。
仕方なく呑み込むと、師匠は素っ気なく答えた。
「これはゴブリンの肉。こっちの芋は知らねえ。隣の爺さんがくれた」
なんだこの野蛮人は。隣のお爺様をもっと敬いたまえ。――そうじゃない! ゴブリンの肉? ふざけてるのかこの女は。
「へ、へぇ。ゴブリンのお肉って独特な味ですね~」
「テメェの感想なんてどうでもいい。この世界の物は大体火を通せば食えるんだよ。さっさと食え」
火を通せば食べられるでしょうよ、そりゃ。けどねえ、姐さん、これは悪食ってモンですよ。
僕は割と食にうるさい。無職だけど、食にはうるさい。人が作った料理にケチをつけることに関しては卓越した技術があるのだ。美味いと思っても『もうちょっと塩気があると良くなるよ』だとか『食べ合わせが良くないね』だとか、極めつけは『この味の気分じゃないんだよな~』といった具合に必ずなにかしら言う。絶対に言う。食通を気取ってるのだが、ママンからはただのうるさい無職としか思われていなかっただろう。ごめんよ、ママン。僕は異世界でひと皮剥けた男に、無理やりされると思います。
師匠は皿に乗った料理を半分ほど胃袋に収めると、立ち上がった。
「あとはテメェの分だ。残したら庭に埋めるからな」
この生ごみを? と思ったが絶対に口には出せない。「この素敵な料理を?」
「違う。テメェを頭から埋めてやるだけだ豚ァ」
あれれ? 息できなくなるやつだよ、それ。異世界転生ここで終わっちゃうよ?
「しっかり食え」
言い残して部屋に戻りかけた師匠に、慌ててたずねた。「ちょ、さすがに多過ぎますよ、この量は! 太ったらどうするんですか!」
「馬鹿言ってんじゃないよ豚ァ! テメェはモリモリ食って筋肉つけるんだよォ!」
は? 筋肉とかなに言ってんのこの人。ここ異世界ですけど。ワンダーな超魔術がモノを言う世界のはずですけど。
「筋肉?」
思わずたずねた僕に、彼女は加虐的な笑みを見せる。
「そうさ。テメェは筋肉魔術師のアタシの弟子なんだからよォ」
気が遠くなりそうだ。なんだ筋肉魔術って。馬鹿じゃないのか。脳みそまでぎっしりと汗臭い筋肉が詰まってるんじゃないか、この女は。
とはいえ、月明かりを背負って僕を見おろす師匠は、異次元的な妖しさを湛えていた。思わず見とれそうになったけど、いやいや、ちょっと待て。大体の異世界転生モノが序盤で方向性が決まる。すると、僕はまるで筋肉魔術師とかいう頭の悪そうな人種になるしかないじゃないか、ちょ、ちょ、ちょっと待――。
◆
翌朝、僕は例の窪地の外周をひたすらランニングしていた。もちろん、僕の意志ではない。断じて、ない。運動大好きなニートなんて某メタルなスライム並にレアだ。そして僕はレアなやつではない。
「あと五十周だ豚ァ!」
イエス、マム。僕はすっかり師匠に隷属している。なぜか。恐いからだよチクショウ。昔から気の強い女子は苦手なんだよコノヤロウ。
けれど昨晩の暴食が響いて、さすがに辛い。胃袋からゴブリンさんがコンニチワしちゃう。
「し、ししょ、吐きそ……!」
「吐いたら埋めるぞ豚。食い物に感謝出来ない野郎は一番嫌いなんだよ豚ァ!」
神の恩恵たる食物に感謝するなら、昨晩のテキトー極まりない素人丸出しの料理をなんとかするべきではないのかね? え?
なんて口に出来るはずもなく、僕は吐き気を堪えてランニングを続けた。
昨晩師匠が言った筋肉魔術師とかいう頭の悪そうな職業について考える。それって単純に身体強化系の魔術――バフってやつぅ?――じゃ駄目なんでしょうか。どうしてもマッスルな肉体を手に入れなければならないんでしょうか。
ああ、神様がいるなら、なんて珍妙な試練を与えるのだ。せめて、こう、もっとハートフルな試練をおくれ! 女神サマ、ああ女神サマ、女神サマ、雲のお布団でスヤスヤお昼寝しているのですか? だとしたらとんでもない怠慢ですぞ!
なんとか合計百周の馬鹿げたランニングを終えると、僕はばったりと草原の上に倒れ込んだ。ああ、運動のあとの空気って美味しいなあ。風はなんて爽やかなんだろう。けれど、もう二度とこんな目には遭いたくない。
「よし、豚。次は腹筋五十回と腕立て伏せ五十回を交互に二十セットやれ」
「は?」
『は?』だろう。これはさすがに『は?』だ。僕は窪地をぐるぐる百周するという極めてマゾいランニングをやった直後である。そして、元々ニートだ。体力なんて小学生よりも少ない。いや、やらないとは言ってない。けども『は?』ぐらい許されたって良さそうなものだ。
首元を掴んで起こし、臀部――当然のごとく、ケツを意味する――に強烈な蹴りを入れることないじゃないか。
よろしい。口答えが嫌いなのは分かる。イラっとするのも分かる。頼むからお互いストレスを溜めないようにしようじゃないか。そのためにはマイマスター、あんたに謙虚さを要求する……!
腹筋と腕立て伏せを繰り返しながら、そんなことを内心でぶつぶつと呟いた。
◆
その日の昼食も昨晩と同じ、ただただ不味いゴブリン肉と蒸した芋。食後すぐにトレーニング。そして晩飯も同じメニュー。吐き気を押さえて完食し、我が寝床である豚小屋に帰る。そして豚さんと仲良く就寝だ。そして翌朝も同じ朝食に始まり、トレーニングと食事。翌々日もトレーニングと食事。就寝時間以外は師匠に見張られているので碌にサボることも出来ず、僕は永久に続くかのような筋トレデイズを過ごしていた。
おかしい。かなり序盤から気付いていたけど、おかしい。これは異世界転生で間違いない。魔術師の師匠に、見たことのない世界。そしてゴブリン。うん、異世界だ。
ここでクエスチョン。僕はどうして筋トレばかりさせられているのか? おいコラ、答えて見ろよ神様よォ。
僕はハーレムとかチートとか奴隷少女とか俺Tueeeeを求めていたんだぞ。このピュアな無職の心をどうしてくれる。ピュア・ニート・ハートを叩き壊して楽しいか! 僕は断固として叫ぶぞ! これは異世界転生でもなんでもない! 言うなれば、そう、刑罰だ!
大量の食事と繰り返されるトレーニング。師匠の目論見どおりなのか知らないが、着実に僕は肉をつけていった。それまでの枯れ枝のような肉体とは大違い。この変化を素直に喜んで「明日も頑張ろう! エンジョイ・マッスル・ライフ!」と爽やかな笑顔を浮かべられるほど僕はバカではない。頭まで筋肉になったらおしまいだ。
延々と続く『筋肉魔術師(笑)』による筋トレに耐え切れなくなった僕は、心に誓ったのである。
死んでもいい。師匠に土下座してでも、この馬鹿げた日々をなんとかしてもらおう、と。
◆
異世界生活五日目。深夜。月明かりに照らされて、僕は師匠の自宅前に立っていた。灯りは消えており、室内からは物音ひとつ聴こえない。痛いほど拳を握りしめ、奥歯を噛み締めた。
行くぞ。夜討ちだ。
とは言っても、暴力的な解決を望んでいるわけではない。というか、筋肉魔術師を自称する師匠に敵うなんて毛ほども思っていない。だから、このド深夜までしくしく泣いていた体で目を赤く腫らし、涙を滲ませ、なおかつしょんぼりした雰囲気をまとえば師匠も無下には出来なかろう。そこで涙声を駆使し、筋トレ地獄から解放してくださいと請えばオールオッケー。
意を決して、ドアをノックする。トン、トン、トン。
なんの返事もない。よもや留守ということはあるまい。こんな真夜中に出歩くなんて、不良もいいところだ。
トントントントン。ドンドンドンドン! ドン! ドドン!
くそ。反応しやがらねぇ。こうなりゃ僕のドラムテクニックを見せつけてやる。
ド、ドド、ド、ドドド! ドドドドドドドンドン!
師匠の自宅のドアを楽器のごとく叩いていると、内側から勢いよく開かれ、衝撃で僕は尻餅をついてしまった。
室内の暗闇から、鬼のような顔をした師匠が現れる。いつものタンクトップにジーンズ姿だ。
テメェ! ギャップって言葉を知らねぇのか! そこは超可愛いパジャマで出てこいよ筋肉ダルマァ! と、もちろん内心で叫んだ。
「うるせぇな!!! ぶち殺すぞ!!!」
こっわ。あー、これ駄目なやつですわー。なにを言ってもボコボコにされるやつですわー。
そんな諦めの気持ちがむくむくと僕を覆っていったが、ここで折れるわけにはいかない。なんのために直訴しに来たか分からないではないか。深夜を選んだのも、寝起きのぼんやりした頭なら容赦してもらえるかも、と思ったからだ。
「し、し、し、師匠っ!」
思わず僕は土下座していた。気付いたときには額が地面とキスしてやがったぜ。まいったな。
「なんだ豚ァ!! 懺悔の言葉なんてアタシは聞きたくねぇぞ」
「あ、はひ。ごめんなさい、はひ」
僕は決して懺悔のために訪れたわけではないし、こうして土下座するためにドアをドラム代わりにしたわけでもない。
「師匠っ! 僕はもう、筋トレがしんどいですっ! 僕にちゃんとした魔術を教えてください!」
返事はない。下草が風に揺れてざわめいている。まるで僕の心のざわざわを象徴しているかのように。師匠が無言なのは、僕の言葉が足りないせいだろうか。恐くて顔を上げることが出来ない。
ついでだ。言いたい放題ぶちまけたるわ。今までの鬱憤を全部晴らしてやる。
「お師匠様のトレーニングは素晴らしいと思いますが、いかんせん、元々無職の僕には大変苦しい日々でございます。僕の元々住んでいた国には『郷に入っては郷に従え』なんて言葉がありますが、限度というものがあるでしょう。今日まではなんとか耐えることが出来ましたが、もはや命が擦り減る思いに、僕は耐え切れません。なるほど、お師匠様の目論見通り、僕は着実に筋肉奴隷に近付いております。しかしです! しかし! 世の中には鬱病という恐ろしい病がございます。それに罹りますとあらゆる気力が削がれ、靴下を脱ぐのに半日かかる始末っ! 師匠!! 僕は鬱病の足音が聞こえましたので、こうして直訴しに来たのです。ドクターストップです、師匠。僕のなかのドクトルが口から泡を飛ばして危険を訴えているのです。普段は小粋なジョークで患者を笑わせるユーモラスなあのドクトルがです! ドクターストップです! ドクターストップ筋肉ちゃんです!」
ちら、と見上げると師匠が氷のような視線で僕を見ていた。うわ、アレって毛虫を見るときの目付きだ。
「言い訳は終わりか? 豚」
スーパークールな氷点下ボイス。おお、こわっ。
しかししかし、ここで怯んだら終わりだ。言えるときに言っておかなければ。
「師匠! まだあります! 師匠のおっしゃる筋肉魔術ですが、なるほど、そういう魔術も異世界にはあるのでしょう、きっと。しかしです! 魔術にいたる前段階の筋トレをこれほど綿密におこなう必要性が見出せません。身体強化系の魔術において術者の行動能力が出力に影響するのは理解出来ます。ただ、ほどほどでよろしいんじゃないでしょうか! つまりですよ? 一日の修行時間を均等に割り振るというのはいかがでしょうか。魔術訓練と筋トレを、せめて半々に、というのは。筋肉を愛でて育むのはさぞ高尚なご趣味でしょう。ただ、それが唯一の方法ではないはずです! 僕の知る異世界というのは――」
「もういい」
師匠の声で、言葉を切った。怒鳴り声だったら、僕も竦み上がる用意が出来ていた。もしかしたら泣いちゃうかも、と思ってそのときにはクールな言葉で慰めようと考えていた。
しかしだ。突き放すような諦めの言葉は想定していなかった。
「え……」と思わず声が漏れた。
背中から汗が噴き出る。身体の中心が、すぅ、っと冷えていくような感覚。
「もういい。好きにすればいい」
師匠は答えなど求めていない様子で、僕に背を向けると扉を閉めた。バタン、と響いたその音は、取り返しのつかない失態を示しているようだった。
あ。この感覚は記憶にある。見放されたときの、まるで地面が崩れ落ちるような感覚だ。
ぞくり、と悪寒が背を這う。両手を見ると、小刻みに震えていた。
異世界ではじめて出会った人。僕をゴブリンから助け出してくれた魔術師。そして、弟子になるよう誘ってくれた。まるでひとりぼっちの僕に居場所を与えてくれたみたいじゃないか!
立ち上がってドアをノックしかけた僕に、別の声が囁く。
アイツめっちゃ口悪いやんけ。ケツも蹴ってくるし。ワケ分からん筋トレさせられるし。ここらで鞍替えしたほうがええんちゃうか。
ドアを前にして、腕組みをした。どうすべきだろうか。
空を仰ぐと、月が夜の真ん中に浮かんでいた。ぺたん、とセロハンテープで貼り付けられたような具合のチープさで。それでも月光は草原を滑らかに照らし、幻想的な夜のひとときを演出してくれていた。
答えは出ている。迷ったときには、いつだってこうしてきた。
『エセ関西弁を使う囁きを信じるな』、だ。
ごめんな、師匠。あんたの家のドア、もう一回だけ楽器にするぜ?
ドドドドドドドド、ドッドドドドッド、ドドンドンドドン!!
「殺すぞ」という大変物騒な台詞とともに姿を現した師匠に、僕は泣きついた。言葉通り、泣きながら抱きついた。深夜、独り暮らしの女性宅に赴き、騒音を鳴らした挙句、ドアを開けた瞬間泣きつく。ここが日本ならワイドショーまっしぐらだ。
鳩尾に電流のような鋭い痛みが走り、思わず膝を突いた。さすが僕の師匠だ。暴力にかけては超一流。
もう一度師匠は同じ言葉を発した。
「殺すぞ」
殺してくれ! と叫べるほど僕は無鉄砲なカッコよさを持っていない。
「ま、ま、待ってください! 大人しく言うことを聞きますから、見捨てないでください……。この世界に来たばかりで、不安で、そんな僕を弟子にしてくれたのが師匠ですっ……。決して出来は良くないし、泣き言を言ったりもしますけど、本当は師匠の弟子でいたいんです……。口答えはあんまりしないようにします……。だから、養っ――師匠の弟子でいさせてくださいっ!」
おっと。口が滑っちまった。『一度掴んだ寄生先を手放すニートがいるかよベイビー』というダンディな僕がひょっこり現れるところだった。いかんいかん。
さて、師匠の反応は――。
「いたっ!!!」
僕は再び鳩尾を蹴られ、勢いのまま地面をごろごろと転がった。
「予防線張った物言いしやがって……ムカつくんだよ、豚ァ!!」
お、いつもの恫喝じゃ~ん。なんて思う余裕はない。断じて、ない。僕は今、見放されるか否かという瀬戸際なのだ。コミュニケーション能力のない僕のようなニートが、手ぶらで放り出されてみろ。魔物に襲われなくとも、餓死する自信はある。こちとら生活能力の針がマイナスに振り切れてるんだよ。
けれども、これで師匠が放り出すようなら仕方がない。明日から筋トレの代わりにとぼとぼと異世界を探訪するほかないか。それはそれで気楽だけれども、なにひとつ知識のない僕が上手くやっていけるかというと、かなり不安だ。筋肉魔術とかいうわけの分からない魔術があるくらいだから、僕がラノベで培った異世界の常識はほとんど通用しないだろう。ここ数日のマッスル・デイズを鑑みても、チートやハーレムのルートが存在しないであろうことは薄々勘付いていた。
無言でドアを閉める師匠。
ああ、サヨナラ僕の異世界生活。――ドアを閉めかけたところで師匠の動きが止まった。そしてひと言だけ添えて、バタンと閉ざされる。
僕はしばし呆然と扉を見つめ、それから地面に大の字に寝転んだ。
豚小屋に帰れ豚。明日も同じ時間からトレーニングだ――彼女はそう言ったのだ。
明日も明後日も、過酷な毎日が続くだろう。けれど、これでいいんじゃないか、と思いはじめていた。そりゃあチートスキルで奴隷ハーレムを築くのは、親指立てて「いいね!」って言いたくなるくらい素晴らしい。ヨダレが出るほど羨ましい。チャンスがあれば、むしゃぶりつくくらいの魅力だ。でも、そんな桃色のハッピーライフは転がっていない。なら、出来ることをすべきだ。少なくとも、師匠はまだ『僕の師匠』でいてくれるんだから。
夢にまで見た異世界転生。巨乳魔術師の弟子。ここにどうして『筋肉』なんてアホみたいな要素を加えちゃったかな、神様は。オッチョコチョイのスットコドッコイめ。まあいい。見てろ。僕はこう見えて負けず嫌いなんだ。数ヶ月後には鋼の肉体を手に入れて――あれ、なんだ? 月が変だ。どんどん大きくなってないか? それに、なんだか眩しい。
◆
まず目に入ったのは、白い天井だった。そして薬品の臭いと『ピ、ピ、ピ』という規則的な機械音。
あ、なんだろう。すごく嫌な予感がする。
目を動かしてあたりを確認すると、思った通り、病室だった。ということはつまり、僕は死んでいないというわけか。
もやもやした気分でぼうっと天井を見上げていると、看護婦が入ってきた。彼女は僕を見るなりびくりと身体を震わせて、一目散に消えてしまった。まったく、失礼にもほどがある。まあでも、事情があるのだろう。たとえば、それまで意識不明だった男の子がいきなり目を覚ました、とか……。
頭は不思議と冴えていて、びっくりするくらい落ち着いていた。しかしながら、それも妙には思わない。僕の脳裏にはつい先ほどの光景――異世界の夜がこびりついていた。突然大きくなった月。神様への数々のクレーム。なるほどね。僕自身がクーリングオフされちゃったわけか。やる気を出した矢先にそんな仕打ちをするなんて、どこまで根性曲がってやがるんだよ、マイゴッド。
やがて、忙しない靴音が病室に入ってきた。胡散臭そうな白衣の男――おそらく医者だろう――と、やけにそわそわと落ち着きない様子の看護師。
「おお、目が覚めたか」
「おかげさまで」
すると、医者はぎょっと目を剥いて驚いた。ただ返事をしただけなのにそんなリアクションをされると、こっちがビックリするじゃないか。
「ず、随分と流暢に話せるね」
「そりゃあ、日本人ですから」
「いや、そうじゃなくて、ええと――」
それから医者はたどたどしく、僕が五日間の昏睡状態にあったことを説明した。医者が言うには、覚醒してすぐにハキハキ喋れる患者は少ないらしい。
まあ、そんなことは僕にとってはどうでもよく、そして些細だ。それよりも、もっと大事なことがある。
「ドクトル。僕はリハビリがしたい。簡単な奴でもいいから」
「え? いや、しかし君、目覚めたばかりですぐというわけには――」
「お願いします。この通り、僕は頭を下げられるくらいには回復しています」
現に半身を起こして頭を下げると、医者は「おあっ!」と、いかにも間抜けな声を出した。
ドクトル。おそらくあなたは新人なのだろうけれど、もう少し威厳を持ってくれ。でないと患者が不安になる。
「しかし、どうしてそんなすぐ……」
どうして、と問われて、なぜだか自然と頬がゆるんだ。
「約束したからです」
約束、というよりも命令に近いけどな。
明日もトレーニングだ、と師匠は言った。そしておそらく、明後日以降もマゾマゾしいトレーニングが続いていたことだろう。
僕は確信しているのだが、もう一度トラックに撥ねられたら同じように師匠と出逢うに違いない。相変わらずジーンズとタンクトップ姿の彼女と。
これも確信しているのだが、自分からトラックに飛び込んでも転生なんて出来ないはずだ。ひどい境遇に与えた挙句、せっかくやる気を出した僕を返品するくらい性悪な神様のことだ、あくまでも偶然撥ねられなければ駄目だろう。
いつか、師匠に僕を認めさせてやる。ただし、そのためには今のままというわけにはいかない。
師匠よ。次に会うときは蹴りごたえのあるケツと、一日中ランニング出来るタフネスを見せつけてやんよ。
そのときまで、さよならだ。