オーディン・オーディション
ある晴れた日の朝だった。いつもなら嫌々学校に行く時間ではあるが、今は夏休みの真っ只中だ。あるものは家族と旅行へ行き、あるものは惰眠を貪り、あるものは友達とゲーム三昧……と、それぞれ気ままに長い休みを過ごすのであろう。少年オーディンもまた、気ままに休みを過ごそうというその一人であったが、その気ままは幾分周りと違っていた。
「冒険がしたいな」
これがオーディンの口癖であった。 そして口癖通りオーディンはいつもぶらぶらと何処か、森へ、山へ、田んぼの裏の寂れた稲荷神社へ行ったりもした。 村にある唯一の駅である稚依駅から行き先も決めずてきとうに列車に乗って何処か遠くへ行こうとも考えたが、まずはここ一帯を踏破してからだ。
「行ってきます」
愛用の少しくたびれたテンガロンハットを手に、いつものように少年オーディンは家を出た。たくさんの羊たちが昼寝している牧場の脇の砂利道を足取り軽く進んでいく。
風は穏やかで、見上げれば黄色い複葉機がエンジンの音を響かせながら真っ青なキャンバスの上に白い雲のラインを描いていた。今日はまさに絶好の冒険日和だ。
ここは黙考県、酒美野郡の外れに位置する小さな田舎の村だ。 住民は50人ほどと少なく、産業もめぼしいものはなく決して裕福であるとは言えないが、村のみんなは穏やかで優しく、協力しあってのどやかに暮らしている。
青々とした田んぼを横切る細い道が二手に分かれるところで、ふと後ろから声がかかる。
「おせーじゃねえか、待ってたんだぜ」
「ごめんごめん」
フェンリルはちょっと不機嫌だった。こいつは何事もきちんときまっていないと気になってしまう几帳面なやつだから『10時ちょうどにあぜ道の分かれ道で』という約束の時間に微妙に遅れてしまったことに腹を立てているのだろう。少し無言の時間が続いた。
「なあ、今日はどこ行くんだよ」
口を出したのはフェンリルだ。
「今日はねぇ、特に決めてない」
「おい、またかよー」
几帳面なフェンリルのことだから、どこに行くかもしっかり決めていないと気が済まないのだろうが、始めからどこに行くか決めているなんて冒険じゃないとオーディンは思っている。そこんところは、知らないことを知りたい欲が人一倍強いところだけは自分とフェンリルは同じだということで、なんだかんだ言ってもこの知らないというワクワク感、いわゆるライブ感というものを自分と同じく、きっとわかってくれているんだろうとオーディンは思っている。
「いっつもお前は、何も決めてねェンだなァ」
「まぁね」
「ったく、いつか痛い目にあうぜ?」
「まぁ、そんときはそんときだよ」
「おいおい……」
フェンリルは心配してくれてるのだろうが、こういうのを『計画する』というのはなんか違うなって、思う。この感じを言葉にするのは難しいが、なんというか、冒険じゃない。田んぼの中の案山子が西を向いていたから、分かれ道をそのまま西に行くことにした。
「うわあっ!」
突如、吊り橋が大きく揺れた。バランスを崩したオーディンは、吊り橋の板を踏み外してしまったのだ。
「おいオーディン! 大丈夫か!」
大丈夫と答えようとした瞬間、びりっと嫌な音が耳をつんざく。
それが吊り橋の縄の古びた部分が千切れた音だと気づいた頃には、体が落下を始めていた
「オーーーディーーーー……」
フェンリルの叫び声はただただ、暗い谷底へとこだましていった。
………
次にオーディンが気づいた時には、森の中にいた。
おぼろげな意識を叩き起こすように、耳に声が入ってくる。
「だからな、わしがもらうといっておろう!」
「なにを、誰がお前のような者に渡さないわ。ましてやこんな、貧相な狐に」
「けっ、なにをいいおる。はしたない格好で、そのでかい乳を揺さぶるしか能がない直情的な狼には、慎ましさや淑やかさといったものは理解できんようじゃの?」
「慎ましいっていうけど、要はないんでしょうが」
「ふん、わしにはキュートなお尻に、もっふもふの尻尾があるわっ!」
目を開くと目の前で、女の人が言い争いを続けているのが見えた。だが、彼女たちは二人とも、頭のてっぺんに大きな三角形の耳……だろうか……がある。無意識に見つめてしまっていたのか、そんな彼女たちと、ふと目が合った。
「ぬ?」
「あ、起きた」
二人とも耳があるが、全体的に形というかバランスがだいぶ違う。もしかして……
「狼と狐……?」
恐る恐る口にしてみる。
「せいかい!!」
「なんじゃ、わしらのこと、知っておるのなら話が早いのう!!」
狼っぽい、銀髪の女の人(?)がぱちぱちと手を叩く横で、狐っぽい金髪の女の子がニッと笑みを浮かべている。
「わしはみてとおり、狐じゃ。ユウヅキとよんでたもれ」
金髪の女の子が笑いながら言った。
「あたしはルーナ。狼よ。よろしくね!」
続いて、銀髪の女の人がハキハキと言った。
「さて……」とユウヅキが話を切り出す。僕のとは聞かないのか、とオーディンは残念に思ったが、なにか二人とも妙に切羽詰まったような感じがして、言い出すのが何か憚られた。そんなオーディンの思いをよそに、二人はちゃっちゃと話を進めていった。
「今な、ウチの村ではみな婚活をやっておるのじゃ。まあ、いわゆるボーイハントというやつじゃな」
「あたしの村だって、新たに男を村にお迎えしたいとおもってるのよ。ていうか、そうしないとやばいのよ……」
「狐はいいぞふわっふわでもふもふじゃぞ!」
「狼はいいわよたくましくって仲間思いよ!」
「うぅ……」
オーディンはうろたえた。吊り橋から落ちたかと思えば、どういうわけか、突然、二人の美女に言い寄られている。それも、かなり激しい感じで。
だが、うろたえた理由はそれだけではなかった。あまり表に出したくないとオーディンは思っているだろうが、彼にとって二人はどちらも甲乙付け難いほど魅力的だったのだ。
狼のルーナはタンクトップにジーパンを着ているところを見るに、活動的な印象だ。背は割と高く、自分に姉がいたらこんな感じだろうかと思わせる。露出の多い服装のせいか肌は褐色に焼けており、日差しの明暗のコントラストから彼女の肢体が引き締まっていることがありありと見て取れる。
そんなルーナには純朴な仕草になにか懐かしさと安らぎがある。それは、長い旅の後、ようやく慣れ親しんだ我が家に帰ったときに鼻をくすぐる、あの安らぎの匂いと同じものだろうか。
対して狐のユウヅキは紫の花の模様が入った白い着物を着ている。 背は自分より低く、並んで立てば、妹に見えるのかも知れない。長い着物の裾から覗く手足は絹のように真っ白。脱がせてみたら、さもや美しいであろうという邪な妄想を掻き立てられる。
そんなユウヅキの蠱惑的な仕草の一挙一動に、とても平常心ではいられない。湧き上がるそれは、危険な冒険に出かける前夜の興奮と同じような感覚だ。
だが、オーディンは同時に、その昔--子供の頃だ--に村で耳にした恐ろしい伝説を思い返していた。
黙考県にある深い森……その森には見るも美しい娘に化けた狼や狐が住むという。彼女らに出会った若い男は、村に連れて行かれたが最後、身ぐるみを剥がされ、食べられてしまうという……
だが、そんなオーディンの考えることなど御構い無しに、ルーナはねっとりとした熱い視線を投げかけてくる。
「男の子はおっぱいがお好きでしょ? ウチらのところに来てくれたら、好きなだけ揉みしだいて、撫で回してもいいのよ。そして、あたしのふわふわの体に存分に甘えていいわ。お姉さんが、あなたを、たっぷりと可愛がってあげる。あんなちんまいまな板ギツネ、抱いてもつまらないわよ……」
ルーナはタンクトップの首元の裾に手をかけ、ゆっくりと下へ引っ張った。 もしかして、下着をつけていないのだろうか……タンクトップから一時的に解放された弾力のある双丘が、ルーナが肩を揺らすのにつられてふよん、ふよんと揺れ動く。さらに、ルーナは前かがみになり、胸の谷間をこれでもかと見せつけてくる。きゅっと引き締まっており、いかにも健康的な肢体のせいで、タンクトップから突き出んばかりの大きな胸がいやでも目に飛び込んでくる。あまりに扇情的で、なんだかドキドキしてしまい、慌てて目をそらしたら、今度はユウヅキと目が合ってしまった。
「あのアホ印の狼はちぃっとも分かっておらんようじゃのぉ。なんだかんだ言っても男じゃ。乳もいいかもしれんが、やっぱり最後は、交わってみたいに決まっておろう。ふふっ、わしのモノは、とっても具合がいいぞ。そういわれると気になるじゃろ? わかっておるぞ。 わしの全てを、見て、触って、感じてみたいのじゃろう。 わしらのところへ来れば、それが叶うのじゃぞ。もちろん、この自慢のもふもふ尻尾もたんまりと堪能させてやるぞ」
負けずと、ユウヅキも着物の裾をするりとたくし上げる。真っ白なすべすべの脚がスッと伸びているのが見え、思わず目でそれを辿ってしまう。彫刻のように美しいその脚の向こうにはもふもふの尻尾が、ゆらゆらと揺れているのが見える。ユウヅキが腰をゆらゆらと揺らすと、自慢の女のところがちらっと見えそうな感じになって、一瞬、目が釘付けになってしまった。
「ちょっと、あたしだって、す、することはするわよ!」
ルーナの抗議の声に意識を引き戻される。ユウヅキはたくし上げた着物の裾から手を離すと、せせら笑いながらこう返した。
「おぬしのような直情的な巨女に抱かれたらどうなるか。激しく求められるあまり、このかわいい坊やが、振り回されてぺしゃんこになってしまうじゃろうが。それに、おぬしはまだまだ若そうじゃし、こういう色事に慣れているとは思えんがの」
「なんて言っても、あんただって、成人したばっかりでしょ。匂いでわかるわ。なんか、年上気取っちゃってるけど、すぐに化けの皮が剥がれちゃったわね」
「ふん、成人する前からでも色事がないわけではないじゃろう。わしがハタチだからって、何の関係があるというのじゃ」
「あらま、そんな若い時からふしだらで淫らな生活を送り続けているというのかしら?」
「たわけ。全くなし、というのよりかはどう考えてもマシじゃ」
「くっ……!!」
ルーナはじっとユウヅキを睨みつける。
「……それより、そういうあなたはどれぐらい経験がおありだというのかしら?」
「ふふん、もちろん、ひゃくせんれんまじゃ!」
「あら、里に男はいないんじゃないのかしら……?」
「そ、それはじゃな……通りすがりの旅人をじゃな、ちょいと誘っての」
「なら、その方をお迎えすればよかったというのに。もしかして、逃げられちゃったのかしら」
「そ、それはじゃな……」
ユウヅキはぎゅっと拳を握りしめ、渋い顔でルーナの方を見やる。
「そうじゃな……ちょっと早く終わらせすぎて、男に恥をかかせてしまっただけじゃ。経験がないというわけでは決してないぞ! 決してな!」
「でもぉ、それって、実際ないようなものなんじゃないかしら。むしろ悪いんじゃない?」
「ふふん、それはどうじゃろうかのう?」
そういうとユウヅキはこちらに振り返り、にっと八重歯を見せ妖しげに笑う。 ルーナも同じくこちらを熱い眼差しで見つめてくる。
「さてさて……」
「どっちに、する?」
オーディンは槍を投げ、これが宴の始まりとなった。酒美野の50の悪鬼はこぞって村を出で狐の皮を剥ぎ、狼の頭を砕いた。
またしても失敗だ。この世界は特異点を超えなかった。やり直そう、やり直そう。
時空が歪み、狼の頭はあるべき形と場所を取り戻し、血濡れた狐の皮は美しいそれへと姿を変え、オーディンは吊り橋に向かってスライドしそのまま昇天した。
ある晴れた日の朝だった。いつもなら嫌々学校に行く時間ではあるが、今は夏休みの真っ只中だ。あるものは家族と旅行へ行き、あるものは惰眠を貪り、あるものは友達とゲーム三昧……と、それぞれ気ままに長い休みを過ごすのであろう。少年オーディンもまた、気ままに休みを過ごそうというその一人であったが、その気ままは幾分周りと違っていた。
「冒険がしたいな」
これがオーディンの口癖であった。友人たるフェンリルと共にあてもなく歩くようで行き先はいつも同じ道をたどる。流れるままオーディンは古びた吊り橋の縄がちぎれ狐と狼に森へと連れて行かれるのだろう。
「ちょーっとまったぁ! オーディンくんにふさわしいのは私よ!」
前回の世界に変化を加えた。兎の耳が特徴的な小さな白髪の少女がユウヅキとルーナに割って入らせた。
「なんじゃこのちんちくりんは」
「ちんちくりんじゃないわよ! あたしは兎のユキよ! オーディンくん、こんな色気づいたメス達よりあたしと一緒にいきましょう!」
オーディンの手を引くユキ。ルーナよりさらに低く、ゆったりとした灰色のパーカーとふわりとしたしぐさがかわいらしさを醸し出している。
「ちょっと待ちなさいよ! 先に目を付けたのはあたしたちよ!」
「そうじゃそうじゃ、後から来て横入りは許さんぞ!」
強引に連れ出そうとする兎に待ったをかける狼と狐。
「ふーんだ。女は愛嬌、あんたたちは可愛げがないのよ!」
おい、ナイチチ張ってないでさっさと連れ出せ。このままだとまた同じことになるぞ。
「ぬうう、年中発情期の分際で愛嬌じゃと? おぬしのようなせ、性欲の塊につき合わされたら坊やが枯れ果ててしまうわ」
「は、発情なんかしてないモン! 適当なレッテル貼りは楽しいけどそれを話し合いの場で持ち出すのは無能の証拠。いい大人になってもやっているようじゃ知能生命体としての質が知れる」
「は? それが既にレッテル貼りなんだが。そもそもレッテル貼りされるような脇の甘い立ち回りする方に問題が」
オーディンは槍を放ちこれが宴の始まりとなった。酒美野の50の悪鬼はこぞって村を出で4人に襲い掛かった。
「な、なんじゃあの這ってくる鬼のようなアレは!」
「あんな体勢なのに異様に機敏に跳び回るなんて生物じゃないわアレ!」
「オーディンくん! こっちよ!」
今回も酒美野の悪鬼が動き出してしまったが今回はユキが隠れた逃げ道を知っている。そう私が設定した。逃げ道も私が設定して作った。
一目散に逃げだしたユキとオーディン、そして咄嗟に追いかけたユウヅキが隠れ道に逃げ込み、逃げ遅れたルーナが脳みそを吸い出されて死んだ。
「ここまで来ればもう大丈夫かな」
「ふう、本当になんだったんじゃあの化け物どもは」
「分からない、どうしてみんなあんな暴れ出して。みんないいやつだったのに……フェンリルまで……」
隠し通路を抜け、3人はなんとか酒美野の悪鬼を振り切った。狼が犠牲になったが狐が生き残ったので良しとしよう。あとはこの世界の人類を囮に時間を稼ぎ狐とオーディンで子作りをすればよい。
「あやつらがどこまで追ってくるかわからんが、もう少し離れ……!?」
「うっ、うわああああ!」
背中から刃で貫かれユウヅキは絶命した。血濡れたナイフを持ったユキはうつろな目で、恐怖で倒れ込んだオーディンへ近づいていく。
「あたしはね、オーディンくんを助けるために生まれたの。もうあたしは用済みで、あたしとオーディンくんと結ばれるにはこうするしかないの。ごめんね、ごめんね、ごめんね」
誰が為かの懺悔を繰り返しユキはオーディンを強く、強く抱きしめた。オーディンの体がへし折れ、もう声も上げられなくなったころ、酒美野の悪鬼が二人を食い散らした。
どうしてお前も裏切るんだ、お前は私が作ったのに、オーディンもルーナもユウヅキも、私のユキも誰も私の思い通りにならない。みんな私を裏切って消えていく。また失敗した。世界はまたしても収束してしまった。
――goodbye universe――
ある晴れた日の朝だった。いつもなら嫌々学校に行く時間ではあるが、今は夏休みの真っ只中だ。あるものは家族と旅行へ行き、あるものは惰眠を貪り、あるものは友達とゲーム三昧……と、それぞれ気ままに長い休みを過ごすのであろう。少年オーディンもまた、気ままに休みを過ごそうというその一人であったが、その気ままは幾分周りと違っていた。
「冒険がしたいな」
これがオーディンの口癖であった。世界には必ず通過点と終着点が存在する。小説を書こうとしたとき必ず書きたいシーンと最後の締め方を決め、途中がどのように変わっても必ずそのルートを通るように、どれほど世界を改変してもオーディンは冒険がしたくなり、オーディンは槍を投げ、酒美野の悪鬼は世界を喰らう。
酒美野の悪鬼は私の世界が生み出してしまった怪物だ。世界の管理者でも干渉できない存在だ。普段はただの村人だが一度オーディンが槍を投げると羅刹と化しあらゆるものを喰らい、増える、おぞましい化け物だ。
あの悪鬼共を駆逐できるのは狐と狼の力のみ。彼女たちの力はまだ弱く遺伝子を交わらせ力を育むため子供を産まねばならない。
だがオーディンは繊細な男だ。世界の負荷は彼に槍を投げさせる。彼に選択を迫ってはならない。ゆりかごのなかであやす様に生かしておかねば……
次の世界は逃げる途中に兎を犠牲にする。使えるだけ使ったら暴れる前に消えてもらおう。こうして初期設定や途中の関数を変え試行錯誤を繰り返していく。
始まりは一人の男からだった。初めはただ一人、すこし他とは違う、荒々しい人間がいるものだと思っていた。
その男はやがて悪鬼となり人を喰った。そしてその個体を増やし始めた。たった一人の全てを喰らう悪鬼は二人、三人と数を増やし今では五十にまで増え村を作り暮らしている。
ああまたオーディンが槍を投げている。今度は暴れ出したオーディンの首をルーナが叩き切ったが、その生首が冒涜的なけたたましい叫び声をあげ、狐と狼が発狂して殺し合いを始めてしまった。生き残ったほうは子供の悪鬼に虫取り網で首をゲットされて死んだ。やり直しだ。
もはやこの世界は手遅れなのかもしれない。だがこの世界ごと悪鬼を破壊することはできない。たとえ世界が壊れようとも、かの者たちは世界のはざまを泳ぎ別の世界へ流れ着き数を増やすだろう。かの者たちは生物という枠組みを逸脱しもはや世界にとっての病魔と言っても差し支えなくなった。
故に酒美野の悪鬼共はこの世界で根絶やしにしなければならない。だが残された時間遡行の回数は少ない。世界にリセットボタンはない。汚れた表面を削ぎ落しているにすぎない。いずれ崩壊の時が訪れる。そうすれば酒美野の悪鬼共は次元を超え飛び散りあらゆる世界が終焉を迎えるだろう。
残された機会は少ない。誰か世界を救ってくれ。そして私を救ってくれ。
…
…
宇宙時間4891年12月20日21時33分59秒
世界時間1984年07月23日10時00分00秒より3分45秒遅れて、あぜ道の分かれ道でオーディンと落ち合う。
宇宙時間4891年12月20日21時47分18秒
世界時間1984年07月23日10時18分21秒、吊り橋の縄を千切りオーディンを谷底へ落とす。通算157回目。
…
…
宇宙時間4891年12月25日23時44分59秒
世界時間1984年07月23日10時00分00秒より3分45秒遅れて、あぜ道の分かれ道でオーディンと落ち合う。
宇宙時間4891年12月25日23時58分18秒
世界時間1984年07月23日10時18分19秒、吊り橋の縄を千切りオーディンを谷底へ落とす。通算249回目。
…
…
宇宙時間4891年12月31日23時55分59秒
世界時間1984年07月23日10時00分00秒より3分45秒遅れて、あぜ道の分かれ道でオーディンと落ち合う。
宇宙時間4892年01月01日00時09分18秒
世界時間2984年07月23日10時18分20秒、吊り橋の縄を千切りオーディンを谷底へ落とす。通算666回目。
「おかしい」
「同じ時刻にオーディンと待ち合わせて、案山子を西に向かせたのに」
「吊り橋から落とすタイミングがずれた」
「こんなんじゃ実験レポートを提出できない」
「最小二乗法から近似関数を出せないかな?」
「1000年が誤差なんてありえないだろう」
「実験に不備があるのでは?」
「昨日と同じだよ」
「学会に間に合うか?」
「もう年も明けちまってるのに」
「…あ、――そうか暦が変わっちゃったから」
「どうしよう」
フェンリルは独り言をぶつぶつと言いながら、自室を歩き回る。
「世界時間が1000年経つ瞬間を記録してしまった」
「でもおかしいな」
「オーディンの夏休み」
「時の流れを感じなかった」
「どこか故障してる?」
「もう一度やってみよう」
「次は谷底の先まで観察する」
フェンリルは、”オーディンの夏休み”をプレパラートに乗せ、顕微鏡をのぞいた。
――heHe lLl lol o Wwow orl ld――
ある晴れた日の朝だった。いつもなら嫌々学校に行く時間ではあるが、今は夏休みの真っ只中だ。あるものは家族と旅行へ行き、あるものは惰眠を貪り、あるものは友達とゲーム三昧……と、それぞれ気ままに長い休みを過ごすのであろう。少年オーディンもまた、気ままに休みを過ごそうというその一人であったが、その気ままは幾分周りと違っていた。
「冒険がしたいな」
これがオーディンの口癖であった。友人たるフェンリルと共にあてもなく歩くようで行き先はいつも同じ道をたどる。びりっと嫌な音が耳をつんざき、吊り橋の縄の古びた部分が千切れる。
「オーーーディーーーー……」
フェンリルの声が上へ上へ、遠く遠くなっていく。
………
次にオーディンが気づいた時には、森らしき所にいた。らしき、というのは、そこに色が無かったからだ。
ふかふかとした地面を押して起き上がる。そこには藍の抜けた土の香り、緑の抜けた木の香り、白の抜けた森の影画が在った。
彼は孤独だった。殆ど光の届かない谷底で、動植物は深海生物のような独自の生態系を作り上げている。
徐に歩いていると、祠が目に入った。供え物もなく、酷く草臥れた祠だったが、懐かしさが漂っている。
「この祠……見覚えがあるな。確か田んぼの裏にある神社で……寂れてたけど、いつも誰かがお稲荷さんを供えていた」
――フェンリルの自室――
「祠の経年劣化の具合は1000年くらいかな」
「やっぱり向こうでは正しく月日が流れたみたいだ」
「もう少し観察してみよう」
――――
オーディンは声の聞こえる方へ駆けていた。向かわずにはいられなかった。寂寥感が積り彼を押し出す。
「そこに! 誰か! いるんだな!」
「……!」
彼の声に気づいた話し声たちが黙った。そして、ふさっ、ふさっ、ギョロリ、と6つの目がオーディンへ向く。
「。ヨクム、マ、、、、、セ、ユ、�テ、ユ、�ヌ、筅ユ、筅ユ、ク、网セ。ェ。ラ」
「。ヨマオ、マ、、、、、�隍ソ、ッ、゛、キ、ッ、テ、ニテ邏ヨサラ、、、陦ェ。ラ」
「…………」
3匹の化物が何か言いながらオーディンに詰め寄る。
言語は1000年の間に別物になっていた。元狼も、元狐も、元兎も、姿を変えていた。
「あ……あ……」
おっぱいバルンバルンの化物が、……かわいくないな。やり直し。ん゛ん゛っ
オッパイお化けがぴょこぴょこ擦り寄る。ぴょこぴょこ、じょりじょり、がりがり、ぶちゅ――――
オーディンは槍を投げ、これが宴の始まりとなった。槍の衝撃波は3匹の化物を木っ端微塵に吹き飛ばし、破片を悪鬼の餌とした。それでも腹を満たせぬ悪鬼達は共食いをはじめる。それでも満たぬ悪鬼達は森を喰らう。地面をえぐる。世界のテクスチャが破れかかる。
「まだ、終わることはできない。なんとしても、狐と狼の力に縋る。もう一度だ……」
オーディンは静かに目を瞑り、天へ浮遊しながら、薄く薄く世界を削るように――祈った――
――goodbye universe――
「宇宙とさようなら……?」
「呪文を唱えていたのか」
フェンリルは自室の本棚を掻き漁る。
「世界入門」
「違う」
「はじめての世界」
「違う」
「世界ふしぎ発見」
「違う。毎週土曜日よる9時~のやつじゃないかコレ」
「世界トラブルシューティング」
「これか?」
――182頁――
Q:世界の住民が「goodbye universe」と唱えてしまい、こちらからの干渉が困難になりました。
A:極めて稀な事例ですが、世界側の知的生命体がこちらの存在に気づき拒否をする、あるいは偶然その単語を発してしまった場合、閲覧制限・干渉制限が設けられます。goodbye制限では、制限前の干渉は残りますが、以後は閲覧のみ可能となります。解除法は世界側に依存しており、hello 命令で...
―――――――
「こちら側からは打つ手がない……見ているしかないのか」
「幸いオーディンは悪鬼の倒し方を知っている」
「しかし、狐も狼も原型を留めていない」
「誰も世界を救えない」
「そして誰も君を救えない」
「少なくとも君より上位の存在は」
「下位の存在も、あの擦り切れた世界では当てにならないだろう」
フェンリルは頭の栄養を摂るため、電気ポットから抹茶オレを注いだ。衛生面はとうの昔に時間と等価交換されている。
くるくるとオレをかき混ぜながら、机へ戻る。そして、プレパラートを睨みつつ、熟考する。
「希望があるとすれば……」
「残された全ての世界を一気に剥ぎ」
「夏休み初日まで遡り」
「吊り橋から落ちる前に」
「――カ――を完成させる」
「でも、伝える手段がない」
「そも、気づいたとして彼に実行する勇気があるか?」
「リトライ不可能の作戦になる」
「あのまま擦り減って終わる可能性が高い」
フェンリルは匙を投げた。
「オーディン……主人公ってのは、逆境にあるほど孤独だね……」
投げた匙はフェンリルの自室の壁を突き破り、ますます加速してゆき輝く閃光と化した。光は、やがて大空を流れ渡る星のように、それはそれは美しい弧を描いたのだった。やがて光の槍は地に堕ち、その一帯は輝きに包まれたのだった。オーディン・オーディションタイム。
そして、僕たちが住んでいた"世界"は、終わった。
◆ ◆ ◆
―――これまでが僕の書いた、フィクションを交えつつ奇妙奇天烈ながらも何処か切なくて、淡い青春の思い出の一シーンを切り取った、いわば「私小説」であり「備忘録」である。
そう、これまでの事は全て僕の体験談だ。あるいは昔話とでもいうのだろうか。とはいえ話が単調にならぬようにちょっとした虚飾も加えてしまったけれど、それも踏まえた上で上記の事は全て僕が実際に体験してきた出来事だ。故に、ここまでの語り部は、全て僕。そしてこれからの語り部も全て僕が務める。ここからは所謂「後書き」のようなものだと捉えてもらっても構わない。でも、僕としてはここから始まる「後書き」も含めての、「私小説」なのだ。勿論「備忘録」でもある。だから出来れば目を通してほしいと思う。
改めて話すが、僕はかつてフェンリルと名乗る子と共に、顕微鏡からでしか覗けないような微小サイズの物体―――その子はその物体を、「世界」と称していたが―――その物体を覗いては、いわゆるプログラミングじみた作業をすることで物体に干渉し、モニターから見える物体の内部の映像を見てはああでもないこうでもない、これは気に喰わないからちょっと変えようだの、そういった試行錯誤を積み重ねながら世界の変化を楽しんでいた。いとこが焼肉奢ってくれません。―――あの物体が本当にあの子の言った通り、「世界」であるかどうかは信じがたいが、モニターに映る物体内の映像はまさに僕たちの生活と何ら変わりもない、黙考県酒美野郡での日常風景そのものだった(ちなみに僕らの住んでいる黙考県酒美野郡には大きな吊り橋など存在しない)。だから、もしかしたら本当にあの子の言ったように、あの物体はもう1つの「世界」なのだろう。この話がよくわからない方は、是非とも『劇場版ドラ●もん:のび●の地球創世記』を見てみてほしい。具体的にはあんな感じのことをしてた。ただその作品における世界生成と僕たちのやっていた世界生成は少しルールが違う。僕たちの世界生成は、「ちょっと失敗だったなこれ。」と思えたら、巻き戻しボタンで失敗ルートに行きかねない可能性のある分岐点まで戻ることが出来た。まぁゲームオーバーになったからコンティニューを押してセーブポイントからやり直すようなものだ。そういった世界生成を楽しんでいた一連の場面(あと、世界生成において色々シミュレーションした結果)を、北欧神話の文脈を交えつつちょっとした出来損ないの冒険小説……に見せかけたループものSF小説という体で書いたのが「宇宙時間」云々のくだりに入る前までの話だ。
しかし、「ダメだー。もう1回!」のルールが突然適用されなくなるバグが発生したのだ。原因は、今でもあまりよくわかっていない。……もちろんさっきまでの私小説の中でバグの原因が明かされてはいたし、実際に僕たちがそのバグに直面して実際に調べたらそのような内容だったのだ。フェンリル?は分かっていたらしいけど、実は僕はよくわかっていなかった。
で、僕たちはどうやってバグの対処をとればいいのか悩んでいた。フェンリルと名乗っていた子は特に困っていたそうで、「今日は飲みたくない。」と言っていたはずの抹茶オレを口にしていた。ちなみにここだけの話だが、あれは抹茶オレじゃなくて本当は青汁だったのだ。で、バグの対処法として「カーを完成させる。」だなんてよくわからない事を言ったあたりで(ちなみにカーというのはフェンリル?なりの略し方た表現らしくて、実際は「ミニカー」を意味している。それもトミカ製の。)、ようやく抹茶オレが青汁だったことに気づき、フェンリルは抹茶オレをかき混ぜるのに使ってた匙を思いっきり投げた。で、投げた匙が思いのほか勢いがよかったらしく、初速度を超えていないのにもかかわらず僕たちの居た部屋の壁を突き破り、そのまま匙は、流れ星となって、遠い遠い地に堕ちていった。そして―――後で細かい事を色々話すつもりだけれど―――それが災厄となって、結果として、僕たちの"世界"は破滅を迎えた。で、ここで僕が過去に書いた「私小説」は終わりを迎える。
あれから10年経ち、僕は大学生となって研究室生活を送っている。一方で、かつてフェンリルと名乗り、手のひらサイズの世界を好き勝手にシミュレーションしてはあれこれして一緒に楽しんでいたあの子――ちなみにあの子、本名は黄 璃瑠って言うんだけど―――黄は件の災厄を起こした罪の意識があまりに重すぎたのか、ずっと家に閉じこもったきりで、一度も黄と連絡を取れていない。最後に黄と話したのは、まさに"災厄"が起きた(いや、起こしてしまった)あの日、黄の投げた匙が猛スピードで空を翔けるその光景を見て交わしたあの会話だ。確か、こんな感じだったと思う。
「うわっすげwwwwwめっちゃ光ってんじゃんwwwwwめっちゃ光って空飛んでんじゃんwwwww」
「うわすげぇこれ超常現象とかの番組とかで騒がれるタイプの奴じゃんやべぇウケるwwwwww」
「「wwwwwwwwwwwwwww」」
―――読者の中には「これもしかしたら脚色を入れているのでは?」と疑いにかかる奴が出てくるのかもしれないが、物申したい。これは当時の会話を言語という体で"確実に"再現したものだ。実際に、僕と黄はその光景を見て草でも生やしてしまうかの勢いで腹を抱えながら大笑いしていた。事の重大さを全く理解していない僕らの未熟さ故の行為だったが、それでもあの光景は本当に自分たちがしたという事が信じられない程、異様なものであったし、そのあまりの異様さに興奮した僕らはまさに抱腹絶倒という状態で笑わざるを得なかった。
で、勿論これは笑い事では済まされなかった。黄の投げた匙は僕たちの住む黙考県から遠く離れた多留水地方の多留水県に落下した。ただ落下しただけならよかったかもしれないが、実は黄の投げた匙は加速の勢いで大気圏を一度突破し、そして再び大気圏に突入していたのだ。この辺りの物理法則がどうなっているかは、僕は物理専攻ではないからあまりよくわかっていないけれど、大気圏突入時には空力加熱が発生し、匙の面影をなくし光輝く超高熱物体と化していた。で、その物体は、どういう訳かわからんが突然多留水県上空に浮かんでいた月のようなデカい岩の塊に衝突し、その塊と共に落下したのだった。
そして多留水県は落下時の衝突と共に大きな閃光を放ち、やがて光は多留水地方の全てを包んだ。そして、多留水地方は灼熱の爆風に襲われ、大きなクレーターの痕だけを残し、あとは全て焼け野原となったのだった。
多留水地方の壊滅は目本だけでなく、全世界でも騒ぎとなった。なんせ突然デケぇ月みたいな岩が現れて、そしてこれまた突然、目本の領土の3割を占めている多留水地方を壊滅に追いやったのだから。むしろ目本以外の国々の方が騒いでたのではないだろうか。まず目本を飼い慣らしてるような存在とも言えなくはない某超大国が「これは中東で秘密工作している地下組織の仕業に違いない!」だなんて根拠外れにも程がある結論を出し、中東の国々に対し、正義という旗の名の下で攻撃を行った。で、そうしてるうちに超大国の政府が想像していた組織とはまた違う組織が誕生し、どういう訳か知らんが宗教の名の下に、Oh!ベイ!諸国にて頻繁に無差別テロを起こすようになった。で、そういったムーブメントに乗りたかったのかしらんが、目本の隣国の……北の方にある国が、無駄にミサイルを飛ばし、またしても目本の領土が被害を受けてしまった。―――他にも色々あったが省略することにして、ともかく、ドンパチ騒ぎと化した。あの国とあの国同士でミサイルを飛ばし合う大喧嘩の連続だった。おかげで、この10年間の内に全世界の総人口が半数にまで減ってしまったのだ。滅んでいった国々も、数多くいる。幸い、目本は滅びることはなく、黙考県には争いの波が押し寄せてくることはなかった。
だが、争いが齎す悪影響そのものを避けることはできなかった。あの災厄から生じた大混乱 the 混乱によって、全世界の経済が悪化の一途を辿ってしまった。もちろん目本の経済も大打撃を受けた。そのおかげで、僕の父は職を失い、新たな就職先も見つけられることなくそのまま希望も失い、ライブ感のままにI can fly!!!!と叫びJR中央線快速が猛スピードで走る線路へスライドしそのまま昇天した。そこから母は某スーパーマーケットでの勤務を始めた。僕はまだ当時はアルバイトを行える年齢ではなかったが、多少の生活費を稼ぐためにこっそり友人の父がやっている大工の手伝いをしたりした。で、高校へ進学する許可を貰った代わりにアルバイトのできる年齢に達したらそれ以外の仕事にも手をつけた。コンビニエンスストアの店員とか、コンタクトレンズの割引券の配布とか。あと遊園地でのお化け屋敷の役とか、新興宗教のイベントでの物販の売り子なんかもやったりした。当時は大学への進学なんて考えてもいなかったけれど、「高校卒業して大学進学してから就職した方が給料の貰える額多くなったりするかもしれんし、アタシも頑張るからがんばってイイとこ就職してくれ。」という母の言葉を受けて、僕は同時進行で受験勉強をし、黙考県内にある道帝工科大学に進学した。
もちろん大学進学後もアルバイトは並行し、何度か危ういタイミングもあったが留年することはなく某教授の研究室に配属された。そして配属先の研究室で1人になっていた時、就活へのプレッシャーと、プログラムがどうしても思い通りの結果にならないことに腹が立った僕は、誰も居ない時間帯を見計らって、研究室の中で全裸のままウヨウヨとうろついたり、ジャンプしたり、変な踊りをする習慣ができてしまった。そんなある夜、またしても全裸になりながら冷蔵庫を開いて自分の×××を挿む遊びをしていた時のことだ。×××がギュっと挟まれた時の衝撃で、僕は突然思い出したのだ。―――10年前の、奇想天外なあの出来事、僕たちの"世界"が終わってしまったキッカケの事件、その経緯と、結末を、あの直後に、僕が忘れないためにとあるサイトで下書きとして残していた事。僕は何かに駆られたかのように研究室から与えられたノートパソコンを開き、とある小説投稿サイトのアカウントにログインした。そして、僕は見つけたのだ。あの時のことを忠実に、とはいえ私小説みたく書いた、過去の"書置き"を。だが、その書置きは僕と黄と、僕らの遊んだ"世界"での出来事の全てをまだ描写しきれていなかった。それに、僕らの"世界"が終わった訳も、その後も、何も書かれてはいなかった。だから、新たに書くことにした。これまでの出来事の行間を受けるためにも、そして今日までに至る理由を忘れないためにも。
―――これが、例の「私小説」が終わってからこの後書きを書くに至るまでの経緯である。そして、まさに大学の研究室で与えられたノートパソコンを使っていまこの文章を書いている。だからさっき言った"この後書きも、「私小説」であって「備忘録」"というのはそういった文脈も踏まえてのこと。ただ、事件の事は覚えていても、ついさっきまで私小説の存在を忘れていたことには我ながら情けないものである。でも、こうして形に残していれば、何らかのきっかけがあれば、また思い出せる。そういった未来への自分への願いと共に、この文が僕の知らない誰かに見られた時に、「こんなことがあったんすよ兄さんもしくは姐さん。」ということを知らせるために、執筆するに至った。ちなみに例の私小説までは一人称を一切出してなかったのに、なぜ後書きパートになって僕の存在を露にしたのかというと、単純に説明するならば「何となく。」だ。その点はご了承願いたい。
でも、あの直後になぜ私小説として残そうと思ったのかは、もう覚えていない。でも恐らく、贖罪の気持ちがあったのだろう。実際僕はいまでもあの災厄は未然に防げたのではと思う時がある。……いや、あの災厄を起こしたのは紛れもなく僕ではないか。あの時、僕が抹茶オレでなく青汁にすり替えるという馬鹿げたいたずらをしなければ、黄は匙を投げることもなかっただろう。まさか投げた匙があんな大災害を起こすだなんて。……だが、過去を悔やんだって未来が変わる訳がない。ほんのちょっとした"ライブ感"のせいで、僕は未来を大きく変えてしまった。黄は精神を病んで音信不通となり、人と人同士が混乱の果てに争い合い……負の連鎖は連なり、結果として僕のいままでの生活は崩れ去っていった。僕は自ら、僕たちの"世界"を終わらせてしまったのだ。
許してくれだとは言うつもりはない。第一に許しを求める権利すら持たないだろう。ただ、"ライブ感"は時に、世界を大きく揺るがしかねない。この僕がこんなことを伝える資格がないのはわかっているが、この後書きをも含めた物語は、君が特に何も考えずにとった些細な行動で、世界が大きく変わることもあるだろうという啓蒙であり、そして警告だ。だが、気にしてくれなくても構わない。何も考えないでとった行動が結果的に果報をもたらすことだってあるだろう。だから、否定はしない。でも、ほんの少しだけでも覚えていてくれたらなと思う。
ここまで読んでくれてありがとう。そして、本当にごめんなさい。
◆ ◆ ◆
あの後書きを書いてから二ヶ月経った。例の後書きも含めた私小説でもって、あの物語を完成として、何らかの形で世に出すつもりだったのだが、何を想ったのか、まだ公開ボタンを押す気にはならなかったのだ。そしてしばらくした後、研究室でたまに全裸になる習慣をもっていることが周囲にバレて、僕は研究室に行きづらくなり、ニート生活をかましている。
そして、しばらくボーっとしつつ……たまにゼル伝(最新作)とかスプラトゥーンとかドラクエ11をやってたりしていたのだが、ゲームのしすぎで目が疲れ、休憩がてらPS4についていた埃をじっと眺めていたところ、なぜか例の私小説の、本当の「後書き」を、書きたいという意欲が湧いたのだ。
だからまず言いたい事は、例の僕の……いや僕たちの物語は、二ヶ月前に書いたあの後書きも含めて、もう完成された。これから執筆するのはその後の物語。後書きの「後書き」。つまり、僕の物語。
それでまずは、「ゲームしてました~。」だけでは寂しいし、実際ゲーム以外にも色んな出来事があったので、二ヶ月間なにがあったのかを詳細に綴りたいところであるが、いまいち久しぶりに文章という物を考えるので、いまいち頭が働かない。なので、はじめに簡易的に詩を載せようと思う。本当はこのパートを詩づくりに夢中になっている変な友人に任せたかったのだが、依頼をLINEで送ったところ、その返事が「気が向かない。イヤゃ。」ときてしまったので、仕方なく自分でつくった詩を載せることにする。では最初に詩をお楽しみください。
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『オーディン・オーディション』
作者:王 靛
酒美野郡へ行くのかい?
パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
そこに住むある人によろしく言ってくれ、
彼女はかつての恋人だったから。
黙考しながら叫んでくれと伝えてよ、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
呼吸もわずかな吐息も無しで、
そうしたら僕らは恋人になれただろうね。
あの吊り橋を渡り切ってくれと伝えてよ、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
そこには崩れた足場しかないけれど、
そうしたら僕らは恋人になれただろうね。
無限の夏を終わらせてと伝えてよ、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
とめどない時の流れなんてないけれど、
そうしたら僕らは恋人になれただろうね。
どうか槍を投げないでくれと伝えてよ、
パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
それでも悪鬼は襲い掛かるだろうけれど、
そうでなければあなたとは決して恋人にはなれないだろう。
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無意識に浮かんだフレーズだったが、僕はどこか懐かしい気持ちになった。
冷蔵庫からよく冷えたバドワイザーを二本取り出し、そのうち一本目を一気にあおる。
灼けつくような330mlの炭酸が、いままで喉の奥に引っかかっていた何もかもを洗い流していった。
この二か月間で何があったか書こうと思っていたけれど、それもみなアルコールによって曖昧になってしまった。
こうして物語は終わった。終わったんだ、ようやく全てにケリが付いた。
気分が良くなった僕は、久方ぶりに研究室へ足を運んだ。
夏休みのため教授の姿すら見えない。そうなってしまえば研究室はもはや宴の場だ。
小テーブルの上にある誰かが置いていったランプに火をともしてから、おもむろに研究室のブレーカーをすべて落とした。
誰も使っていなかったからなのか、ランプは仄かに埃っぽい光であたりを照らす。
なにか物足りなさを感じてかび臭いラジカセの電源を入れると、たいして音楽に詳しくない僕でも知っているような有名な民族歌謡が流れた。
空虚な研究室を満たしてくれるような曲に満足して、僕はゆったりとしたソファに深く腰を降ろす。
それからしばらく目をつむったまま、深い森のなかで妖精が囁くような、あるいは馬賊が軽快に草原を駆けまわるような音楽に身を任せた。
すっかり日も落ち小テーブル以外のすべてが暗がりに溶け込んだ室内は、そう、冒険の終着点だった。
いまにでも映画のスタッフロールが流れて来そうな雰囲気だ。劇場では観客が一斉に立ちあがり、割れんばかりの拍手の雨を降らす。そして役者が舞台にあがって最後の挨拶を始めるわけだ。役者は想像以上の賞賛に少し照れながら、それでもしっかりと意思の強い声色で次のように切り出す。
「これで、本当に終わりか?」
誰もいないはずの暗がりからぬっと姿を現して、そのまま僕の対面に座った。
その顔は10年前の僕にしてはいくらか大人びているようにも見えたし、やっぱり年相応のようにも思えた。
それから僕を挑発するような視線を投げかけつつ彼は言った。
「まるで死にかけた老猫のような目をしているが、冒険には飽きてしまったのか?」
「あるいは、そうだろうね」
「そうか、そいつは大きなクソったれだ」
10年前のどこか幼くて刺々しい自分自身が、研究室のホワイトボードに走り書きをはじめる。
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『オーディン・オーディション・警察』
作者:王 靛|(10年前)
王 靛さん
お疲れ様です。王 靛|(10年前)です。
いつも楽しく拝見しております。
今回「オーディン・オーディション」という詩の中にいくつか不適切、あるいは事実検証が不十分であると思われる箇所が見受けられたため、ご連絡差し上げた次第です。
以下本文の記載に沿って指摘致します。
>> 酒美野郡へ行くのかい?
>> パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
>> そこに住むある人によろしく言ってくれ、
>> 彼女はかつての恋人だったから。
酒美野郡の彼女は作中にて未定義です。
また可能であれば何をもって交際関係とするかを記載していただけると、より伝わりやすいかと思います。
>> 黙考しながら叫んでくれと伝えてよ、
>> パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
>> 呼吸もわずかな吐息も無しで、
>> そうしたら僕らは恋人になれただろうね。
黙考しながら叫ぶとはどのような状況でしょうか。より読者のイメージしやすい描写に修正した方が良いと感じます。
また呼吸や吐息という単語は空気と血液とのガス交換、つまり外呼吸を前提としています。これは光合成などを行う生物に対してポリティカルコレクトネスに反する表現と受け取られかねません。表現の工夫についてご一考くださいますようお願い致します。
>> あの吊り橋を渡り切ってくれと伝えてよ、
>> パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
>> そこには崩れた足場しかないけれど、
>> そうしたら僕らは恋人になれただろうね。
作中にて吊り橋は縄が切れたと表現されている一方で、ここでの「崩れた足場」という言葉はどちらかと言えば石橋などを連想させます。
このように直感的な連想と内容が異なる場合、読者の理解に遅延が生まれ文章のテンポが乱される可能性があるため、表現の工夫について再度ご検討していただけると幸いです。
>> 無限の夏を終わらせてと伝えてよ、
>> パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
>> とめどない時の流れなんてないけれど、
>> そうしたら僕らは恋人になれただろうね。
夏は季節を前提とした描写です。四季や季節感のない地域に対して配慮が足りないと感じます。
また人によっては夏を不快に感じる方もいらっしゃるかと思われます。読者の背景に対して感度を高めていただきますようお願い致します。
>> どうか槍を投げないでくれと伝えてよ、
>> パセリ、セージ、ローズマリーにタイマ、
>> それでも悪鬼は襲い掛かるだろうけれど、
>> そうでなければあなたとは決して恋人にはなれないだろう。
作中にて槍を投げることと悪鬼が襲い掛かることの因果関係は示されておりません。
また全体を通して参考にされたと思われますスカボローフェアの詩は、イギリス発祥のケルト文化圏で発生したものであります。今回北欧神話を題材としているため不適切ではないでしょうか。
指摘箇所は以上になります。
ご都合がよろしければ、今後どのように対応して頂けるか具体的な改善案の提示を希望しております。
お忙しいところ恐れ入りますが、誠意あるご対応のほどよろしくお願い致します。
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「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
衝動的に10年前の自分が居たという事象をかき消してしまう。
ホワイトボードには何も書かれていないし、この研究室には最初から最後まで僕ひとりだ。
なんとなくライブ感で過去の自分を召喚したのは失敗だった。
うやむやのまま終わろうとしていたのに頭が冴えてしまう。
隠していても仕方がない。僕はこの二か月間の間にドラゴンクエストXI -過ぎ去りし時を求めて-のやりすぎで、過ぎ去りし時を呼び起こすことができるようになっていた。
突き詰めれば過去とは現在の知識の総体だ。もしかしたら、ありとあらゆる知識を追い求めてきた僕は自在に過去をシミュレートできるようになっていて、あたかも過去を呼び起こしているように錯覚しているのかも知れない。でも、僕が全く知らない事象でも再現できるし、この能力の真相は分からない。分からなくてもそうである以上、使えるものはなんだって使いながら生きていくしかない。
もっとも、過去を呼び起こすという行為は、最初こそ胸を躍らせていたものの段々と出来ることの壁が見えてくる。
僕は世界のと一体化し、その過去にアクセスして事象を呼び起こす。ただそれだけの能力だ。
かつて失った家族をもとに戻すこともできる。多留水地方を再生することもできる。
呼び起こした過去はまるで今を生きているかのように喋ったり泣いたり笑ったりする。
でもそれは究極的には虚像であって、決して本物に成り代わることはないのだ。
そして僕は大切に思うからこそ、フェンリルにだけは過去干渉をしないように心掛けていた。
この一線を越えてしまったら恐らく僕の人生は無価値になるだろうと思ったからだ。
10年前の想い出も、あの晴れた日の朝も、10時ちょうどのあぜ道も、すべてが無価値になる。
まあ最後の最後にそれをはちゃめちゃにして人生に幕を引こうと思っていた。
無感動な毎日、虚像に囲まれた日常に僕はうんざりしていてそろそろ十分だとも思っていた。
いいのか?
終わるぞ?
後悔は無いな?
一度決心してしまえば、自分に向いた引き金もずいぶんと軽く感じられる。
さあ来いフェンリル。今一度、姿を現せ。
……しかし何も起こらない。
そもそもフェンリルの過去に干渉することが出来なかった。
これまでそのようなことは一度も起こらなかった。
過去の事象であれば、あらゆるものにアクセスできるはずの僕の能力が効かない。
長らく錆び付いていた僕の心が胎動する。
なぜ?
10年前のフェンリルの周辺事象にアクセスする。
何もおかしなところは見つからない。
試しに当時の自分自身を再び顕現させてみるも特に問題はない。
更に遡る。フェンリルの周辺事象に変わったところは見つからない。
フェンリルが誕生する前後まで遡る。
フェンリルの周辺事象に変わったところは見つからない。
しかしフェンリル自身に対しては、どの時代であっても干渉することができない。
無風の屋内だというのに、不思議とランプの炎が大きく揺れる。
冒険は終わったはずだった。けれど最後の最後にひとつだけ謎が残り、どうにも僕の意識は絡め捕られてしまう。
このまま終われるのか? 答えはノーだ。決まっている。言われるまでもない。
全ての知りたいことを知る、それが僕の生き様だから。
***
10年経ったフェンリル宅は、まるで時の流れから切り離されているかのようにかつて見たままの姿を保っていた。
何度かチャイムを鳴らしても反応はなく、仕方ないので近くの公園で遊んでいた悪鬼を扉にぶつけて強引に開けた。使えるものは何でも使うのが僕の人生だ。
協力してくれた悪鬼に軽く会釈をして家に入ったものの、そこには誰も居なかった。
引きこもっていたはずのフェンリルさえも。
いや、まだいないと決まったわけではない。どこか出掛けているだけかもしれない。
しかし家の中に人の気配はなく、どこか埃っぽい空気は生活感の無さを物語っている。
二階に上がりフェンリルの部屋に足を踏み入れる。
勝手知ったる仲とは言え、女の子の部屋に入るのは少し緊張した。
主のいない部屋はがらんとしていて物寂しい雰囲気を感じる。
整えられた本棚や机やベッドの几帳面さからは、フェンリルの性格がありありと浮かんでいた。
意外だったのは、ぬいぐるみや恋愛漫画、派手目に装飾された写真ボード、ヘアアイロン、化粧品、何に使うか分からないファンシーグッズなどが部屋のあちこちで控えめに主張していたところ。もっと完全に無駄がそぎ落とされたモデルルームのような部屋に住んでいると勝手に想像していた。
「あいつにも可愛らしいところがあったんだな」
全体的に几帳面で神経質でそれでいて無遠慮な性格だったが、ときおり見せるやわらかい日差しのような笑みは思い返してみれば当時の僕には眩しかった。フェンリルといる時間が楽しくなかったといえば嘘だし、フェンリルのことを好きでなかったというのもフェイク。ストレートな思いを伝えるためには心の強度が足りなくて、気持ちばかりがツイストしていたのは間違いない。
そうした僕らの時間を象徴するものが、部屋の片隅にひっそりと置かれている。
『世界』だ。
正確には極小世界を観測するための顕微鏡装置。
僕は確信していた。この『世界』こそが全てのカギを握っている。
かつてフェンリルと僕が夢中になって遊んでいたそれは、経年で少し色褪せたようにも見える。
フェンリル自身には干渉できなくても、『世界』に干渉し、かつてその中で活動していたフェンリルには会う事が出来るはずだ。
あのとき『世界』で起こったことの真相が、すべての謎につながっているに違いない。
僕は能力を解き放つ。
真実を確かめるために僕は時空を超越する。
#####################################
いま僕の中にひとつの仮説が浮かぶ。
しかしそれは同時に別の疑問を生み出すことになる。
とにかく、答えは目の前にあるはずだ。
「なあ、今日はどこ行くんだよ」
口を出したのはフェンリルだ。
そう、フェンリルだ。見紛うことはない。待ちに待ったフェンリル。
自然と心臓が高鳴る。はやる気持ちを抑え、僕は彼女に問いかけに答える。
「どこにもいかない、ここでお終いだ」
「そうはいかないな、君には世界の真理に辿り着いてもらう必要がある。そのために私ははるばる遠い未来から来たのだからな」
思った通りだ。フェンリルが生まれたのは僕より後の未来。未来の存在ならば過去干渉が効かないというのも頷ける。
しかし後の世界から来ているということは、フェンリルが匙を投げてその後どうなったかを知っているはずだ。何故、フェンリルは匙を投げたのか。世界がはちゃめちゃになると分かっていて、何故その行動に及んだのか。彼女には目的があったはずだ。たとえ世界や僕の人生がはちゃめちゃになってしまってでも果たしたい願いが。
「あらためて自己紹介をしよう。私はフェンリル。悪鬼を滅し、未来を救うもの。そして君には家族、友人、大切なもの、最愛のひと全てを代償にして悪鬼の根源を討つ方法を知り得てもらう。申し訳ないが、世界のために人生全部を捧げてくれ」
僕は黙って話を促す。
「私の生まれた時代では悪鬼が世界を支配していた。人類はいいように使役され、何も考えず、まるで死んだように生きていた。私にはそれが我慢ならなかった。そのために世界や時代を奔走して、ようやく君という特異点に辿りついたんだ。…………君は知識のために代償を払い、また喪失を糧に知識を得る……幸か不幸か、そのような星のもとに生まれ落ちた逸材だ。君は大切な存在を喪えば喪うほど、世界の真実に近づくことが出来る」
確かにその通りだ。僕はこれまでの人生で何かを得た分だけ何かを喪ってきた。
平穏な生活、大切な家族、研究室での信頼、そしてフェンリル。過去に干渉する方法を知り得たのも、そうした代償の上に成り立っていたのかもしれない。
「『プロジェクト:オーディン・オーディション』…………。覚えているかい? ユウヅキ、ルーナ、ユキ、私は君にとって本当に特別で大切な存在というものを選び出してもらうために『世界』で様々なヒロインを生成してきた。それでも結局君は誰一人としてヒロインを選ばなかった。ゆえに悪鬼を滅ぼす知恵に辿り着くことも無かった。途中で悪鬼を滅ぼす遺伝子を生み出そうとしたこともあった。どれも失敗だったがね」
自嘲気味な笑みを浮かべるフェンリルに、僕は何も言葉をかけることが出来なかった。
「まあとにかく君が想像を絶するほど色々ごちゃごちゃと試していたんだ。正直イライラしていたし、何度も後悔した。貴重な時間遡行を使って何をやっているんだろうってね。泣いてすべてを投げ出してしまいたかった。そして気付いた。君は、あろうことか、この私に惚れているんだろう。皮肉なことにね! でもそれが分かってようやくこの計画は完遂できることになったんだよ!!」
震える声でフェンリルは言葉を絞り出す。それまでずっと言えずに我慢してきたのだろう。時代も環境も違う場所にたった一人で過ごしてきたフェンリルはどれだけの想いを孤独に抱えてきたことだろう。誰も頼ることが出来ず、誰とも共有することが出来ず、その小さな背中に世界のすべてを背負ってきたはずだ。
挫けず諦めずここまでやってきた彼女の努力を想うと、僕は何が何でも彼女の人生から理不尽を取り除いてやりたいと思う。彼女はあとの人生をずっと陽だまりのような中で幸せに過ごせると良い。だからこそここで彼女を失うなんてことは決してできない。
フェンリルは空に向かって手をかざす。一瞬判断が遅れた。それは過去干渉の合図だった。僕の身体はいう事を聞かず、これまで何度も『世界』を滅ぼしてきた槍がしっかりと握られている。
「時は満ちた!! さあ殺せ!!! 世界の命運をかけてその槍で私の心臓を貫けえええええええええええええ!!!!!」
身体のすべてがフェンリルの制御下に置かれている。僕はゆっくりと槍を構えることを止められない。止められない。止められない。ああ、ちくしょう!!
それでも僕の心だけは僕のものだった。ふつふつと全身に熱が回る。過去干渉を得てからはすっかり錆び付いていた感覚だった。僕はいまとても怒っている。怒りに打ち震えている。
ギュウウウン! 槍が僕の手から解き放たれ、空気を切り裂いた。目標をあやまたず、まっすぐフェンリルに向かって飛翔する。
「くそがああああああああああああ!!!!!」
しかし槍がフェンリルを貫くことはなかった。間一髪で間に合った。
「なんでひとこと相談してくれなかったんだ!!!!! なんでそんな大切なことを勝手に決めちまうんだよ!!!!!!!!」
別方向から飛んできた3本の槍が、僕の投げた槍を空中で相殺する。僕は槍を投げる瞬間の過去の僕を三人呼出し、うまいこと配置したのだ。槍と槍がぶつかる衝撃で、草木は薙ぎ倒され、まるで時空が歪んだような感覚を受ける。平衡感覚が失われ、そのままぶっ倒れてしまいそうになるも、ぐっとこらえて僕は力の限り叫ぶ。
「なんでそんな簡単に自分の命を諦められるんだよ!!!!! なんでそんなに悪者ぶってわざと嫌われるような真似をするんだよ…………!!!!!!」
「オーディン、私も君のことが好きだったんだよ。いつの間にか好きになっていたんだ。君と遊びに出かけるときだけが私の安らげる時間だった。…………それでも、何もかもを選ぶことは出来ない。君のことを好きだという一方で、私は君の人生を利用して責務を果たさなければならない。好きな人の幸せを願うこともできない人生には、もはや価値なんてないからさ」
フェンリルはどこか安堵したような、いまにも泣き出しそうな顔をしている。立っているのもやっとなくらいフラフラだ。全てを背負ってきたその小さな身体と心は既に限界を超えていたのだ。全てを出し切って空っぽになって、いまは目的意識だけが彼女を支えている。
直後、背後にドスンと何かが落下した音が聞こえた。なんてことはない、悪鬼だ。しかし様子がおかしい。
空には禍々しい歪みが現れ、そこから次々と悪鬼が振ってくる。晴れ時々悪鬼。しかもその数が異常だ。
さきほどの槍の衝撃で時空が歪み、別時空の悪鬼も呼び出してしまったのかもしれない。
言い争っている場合ではなくなってしまった。フェンリルもどこか魂が抜けたように佇むばかりで何も動けずにいる。
僕はいち早く彼女の腕を引いて逃げ出そうとする。でも周りは既に悪鬼だらけだ。逃げ場もなにもあったものではない。
頭がスッと冴えてくる。どん底になってからが始まりなんだ。『どうしよう』じゃなくて『どうする』。物事に直面して、行動や選択を迫られて、そうして初めて物語が始まるんだ。もう槍を投げてうやむやなんかにしない、選択を投げ出したりはしない。
「どうにもならんが何とかするぞ」
「物語は、もう終わってんだよ」
「うるせえ、終わってからが始まりなんだよ」
「意味分かんないんだけど」
「分かんなくても、意味不明でも、理不尽でも、たとえどんなに無茶苦茶な物語でも!! バトンをパスされた僕たちはそれを受け入れて、これからの人生を紡いでいくしかないんだ」
とはいったものの僕にできることなんてほとんど何もなかった。
『世界』に住み着いている悪鬼は、フェンリルと同じく未来から来た生命体だった。
いま現れた悪鬼もこの世界のドメインに属するものでない以上、僕の能力は効かないだろう。
いよいよだ、覚悟を決めろ。
悪鬼が僕に飛び掛かる。悪鬼の鋭い爪は僕の首から肩にかけてを深く切り裂き、盛大に血を吹き出したところで僕の身体がふっと消えてしまう。
一瞬前の過去の僕が身代わりになっただけだ。それからも僕はかわす。かわす。猛烈にかわす。
フェンリルの身を庇いながら、いつまで続くかもわからない地獄みたいなワルツを踊り続ける。
流石に厳しいかとネガティブな考えが頭を過った瞬間、僕は上から降りてきた悪鬼に全く反応できずそのまま押し倒されてしまう。
悪鬼に食われる、その刹那だ。
轟音。風圧。強烈な火花が散って、視界が白に染まる。
悪鬼の猛攻を食い止めたのは、剣戟による一閃だった。
「待たせたかしら?」
土煙が晴れようやく姿を現した。それはかつて『世界』が生み出したヒロインだ。
ユウヅキ、ルーナ、ユキ、……名前も知らない肉塊まで、そこには数百人にも上る全員が揃っていた。
「わたしたちは確かにフェンリルが生み出しただけの設定かもしれないけど、でもねオーディン、あなたを想う気持ちは本物なのよ」
「さあ、早く行きなさい」
「ふん、乳ばかりの奴にいい恰好させておけんわ」
「。ヨクム、マ、、、、、セ、ユ、ユ、筅ユ、ク、网セ。」
ヒュー! まだ、終わっていない! 終わっていない!
僕の希望は確信に変わる。フェンリルの目にも一筋の光が宿る。
「行くぞオーディン!!」
「…………ああ!!!!」
#####################################
悪鬼を撒いて深い森を抜け吊り橋のところまでやってきた時、僕たちは既に心身ともに限界だった。
僕もフェンリルも肩で息をして、額からは珠のような汗が流れ落ちる。
たまらず木の根元に座り込み、天を見上げてから僕はおもわず驚きの声を上げる。
「見ろ、空が……!」
突き抜けるような青空はほとんど失われ、ひび割れのような異変は『世界』全体を飲み込むまでに成長していた。
本来はまだ朝だというのに、赤褐色と紫色が緩やかに混ざり合ったような今の空はまるで世界の終焉を示しているかのようだ。
不気味な歪みの中心からは粒のような影が次々に降り注いでいる。勢いこそ収まってきたものの異常な数には違いない。あれが全て悪鬼だとして、僕たちにどうにかできるのか……?
「テクスチャ崩壊か、限界も近いようだ」
フェンリルは何やら不穏な言葉を呟き、それでいて嫌に落ち着きを払っていた。
いま何が起きているのか把握しているのだろうか。あるいは僕には分からない未来が見えているのだろうか。
「騙して悪かったな、オーディン。ここで本当のお別れだ」
草木が揺れる音がした。悪鬼かもしれない。僕らは立ち上がってゆるゆると足を動かしながら、吊り橋の向こう側を目指す。
僕は既に息を整えるだけで精いっぱいだった。思考が追い付かない。ただ、フェンリルの言った「お別れ」という言葉だけがその場に色濃く残留していた。
「君の槍を使って重力場を完成させる必要があったんだ。全ての時空間から悪鬼を引き寄せ、何者も逃がさないブラックホールと化した『世界』に封じ込めることがね」
こちらを振り返るフェンリルの表情は穏やかだ。まるで死人と話しているかのような感覚になる。
吊り橋の終端は遠いようですぐそこまで来ている。このまま逃げ切れると良い。そう思う一方で、僕の足はどんどん重くなっていく。
嫌な予感が僕の足を引っ張っている。この橋を渡り切ったときがフェンリルとの最後の時間のような気がしてしまう。
「槍一本では次元横断レベルの重力場を引き起こせない。しかし槍を複製できるのは君の能力だけ。本当のことを伝えたら君と君は槍と槍をぶつけたりはしなかっただろう。これは君の人生を犠牲にしない、たった一つの方法だったんだ」
フェンリルは一緒に逃げることができないのか? ヒロインたちの力を借りて何とかならないのか? 疑問が湧いて出るも、そんなこときっと考えたに決まっている。どうしようもない。どうしようもない無力感が僕に襲い掛かる。一方で怒りも悲しみも沸く。ぐちゃぐちゃに混ざった感情がいまにも爆発しそうになる。
「赦してくれよ。好きな人の幸せを願う反面、たとえ無価値でも人生に痕跡を残したいと思ってしまうんだ。私は弱い人間だからね」
その瞬間、背後からこの世のものとは思えない悲鳴が聞こえる。悪鬼だ。橋を渡って僕らに追いつこうとしている。
一番先頭に居る悪鬼はもう僕たちに飛び掛かれそうな位置にまで来ている。いまから走ってもとても間に合わない。
どうする。僕はフェンリルを思い切り突き飛ばし、彼女が吊り橋の向こう側に辿りついたことを確認することなくすぐさまロープを断ち切った。
「オーディン!!!」
遠くから聞こえる彼女の声は、橋の崩落する音にかき消されていった。
橋は僕や悪鬼を乗せたまま勢いよく弾け飛び、悪鬼は次々に落下していく。
かろうじてロープの一部をつかんだ僕は、なんとか上まで這い上がろうとする。
しかし同じようにロープの端を掴んだ悪鬼たちが下から徐々に迫りつつあるのを見て、僕はこのまま迎え撃つことを決意した。
もうゆっくり話すこともないだろうと直感して、僕の感情は噴火する。
彼女の想いを代弁するかのように。僕の中に存在する溶岩をすべて吐き出してしまえるように。
「馬鹿野郎、ウジウジしやがって!! 孤独な主人公気取りがよおお!!! たとえどうしようもなくても、それでもあがき続けるんだろがああ!!!!」
滅茶苦茶に暴れて吊り橋の残骸から悪鬼を振り落とす。登ってくる悪鬼を思い切り蹴落とす。
もう自分が崖の上まで登る体力のことなんて一切考えない。
フェンリルに聞こえているかなんて分からないが、それでも僕は力の限り叫び続ける。
「価値が無いだなんて言うなよ!!!!!! 好きな人の!!!!!!!! 尊い願いのために!!!!!!! 人生を捧げられるなら!!!!! 僕はそれでも良かったんだよ!!!!!!!! フェンリルが昏い昏い闇の中で!!!!! どれだけ頑張ってきたと思ってんだよ!!!!!!!! もっと堂々と胸を張れよ!!!!! ようやく願いを叶えられるっていうのに、なんでお前はそんなに悲しそうなんだよ!!!!!!!!!!」
「オーディン!!! 早く登れ!!!」
フェンリルが崖の上から手を伸ばす。
全てがもう遅い。僕にそれだけの力は残っていない。
それに悪鬼だってまだ完全に振り切れたわけじゃない。
声も掠れてきた。それでも伝えなきゃいけない。
「フェンリル!!!!!!!!!!!!!!!!!! お前が居なくなるくらいならなあ!!!!!!!! お前を傷つけて、責任を全部背負わせるような!!!!!! そんな未来なんて勝手に滅びればいいんだよお!!!!!!!!!!!!! 人生を何度やりなおしたってなあ!!!!!!!!!!!!!!!!! 未来の全部を敵に回したってなあ!!!!!!!! 僕はフェンリルを選ぶんだよ!!!!!!!!!!!」
彼女の人生が肯定されると良い。
これまで味わってきた理不尽の分だけ幸せになれると良い。
そして僕はついに何も言えなくなってしまう。
万の知識をもってしても、そのとき僕はこれ以上彼女になんと言葉をかけて良いか分からなかった。
彼女は覚悟を決したかのように涙でぐしゃぐしゃになった顔で、無理やり笑みを浮かべて崖の上に姿を消した。
そして大きな声で、まるで明日の遊ぶ約束でもするかのように僕に向けて言った。
「いずれまた10時ちょうどにあぜ道の分かれ道で会おう!! ――goodbye universe――」
その言葉を最後まで聞き届ける前に、僕は元の世界へと送り返されていた。
一昼夜その場で無になって、それから二度と干渉できなくなった世界をフェンリル宅の裏庭に埋葬した。
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あれから世界各地でときおり悪鬼が確認されるようになっていた。
このままだと本当にフェンリルの言っていた未来が来るのかもしれない。
あのとき僕の起こした行動は本当に正しかったのか不安になる夜もあった。
でも、悪鬼が出るということはブラックホール計画は失敗したわけで、フェンリルが時空のどこかでひょっこり生きている可能性もある。
現に僕は過去に干渉する能力を失った。つまりそれは僕が大切なものを失っていないからで、フェンリルが生きているからじゃないのか? 疑問は尽きないが、本当のところも分からない。
なんとなく悪鬼を追っていればまた会えるんじゃないかと思って、僕はいま世界中を冒険している。
冒険は何もかもを忘れてしまうくらいに楽しい。新しい発見や出会いや経験が僕のテンションを否応が無くぶち上げる。
でもきっとフェンリルが一緒に居たらもっと楽しいに違いない。
だから僕は毎年同じ日に、10時ちょうどにあぜ道の分かれ道でフェンリルを待っている。
「おせーじゃねえか、待ってたんだぜ」と、今度は僕が言えたらいい。
あるいは、今度会った時にはフェンリルにちゃんと告白しようと思う。
フェンリルがたとえどんな世界のどんな時空に居ようと必ず探し出して見せると確信している。
僕はもう自分の気持ちから逃げ出したりはしないし、何もかもを選ぶことだってできるし、後書きの後書きの公開ボタンを押すことだってできる。
僕は彼女を想って空を見上げる。
夏は終わり、草木は色づき、酒美野郡には穏やかな秋が訪れようとしていた。