布は覆い隠す
入学式の次の日、一期生は初の講義を終え昼食のために食堂に集まっていた。
王都の中でも一番の学び舎である学院の食堂は無駄な装飾がなく広さと清潔感のある空間だった。
貴族の子弟が喜びはしなくとも、機嫌を損ねることもない。そんな絶妙さであった。
いつもは代わり映えのしない学院の食堂の中で注目を浴びている一つのテーブルがあった。
一人は社交の場にまだ出る前だというのに、その美貌で王都で知らぬ者はいない少女、アリア。
彼女を視界に入れると皆、見入って動きを止めてしまうという現象を学院内で度々起こしている。入学してわずか二日で信奉者が増え続けているようだ。
そして麗しいと言っても過言ではない容姿だけでなく難関である王立学院での入試結果二位という才女だった。
そしてもう一人は公爵家の嫡男であり、王太子殿下の側近候補。家柄や容姿だけでなく頭脳、さらに剣術なども突出した才能を示す少年、エミリオ。彼に出来ないことはないのかと反感を持つ者。逆に将来を見越し媚びを売る者。様々な思惑が渦巻いていた。
将来の王宮での権力の縮図がみられる学院で一期生の中で一人飛びぬけた存在だった。
そんな二人が一緒にいれば、視線を集めないはずがなかった。
だが、楽しく二人で食事をしているわけではなかった。
少年は優雅に食後の紅茶を飲んでいたが、少女は食欲がないのか、ほとんど食事が進んでいなかった。
アリアは意を決して少年に話しかけた。
「……なぜ、となりにいるの?」
「貴女がいるからです」
少女は絶句した。精一杯の勇気を出して言った言葉に、そんな返答が来るとは思わなかったからだ。
少年はその様子を笑い『ようやく聞けましたね。もう少し早くその質問が来ると思っていました』と続けた。
午後の講義が終わり、図書館にアリアはいた。だが、本を探すというわけではないようだ。図書館に入ると脇目も振らずに自習用の机に向かいノートを開くと、勢いよく文字を書き始めた。
――耐えれぬっ! 耐えれぬぞ!! もう、もう吐き出さねばやっておれぬ。
ここが学院だろうと、もうかまわぬ! 日記には鍵だけでなく、新たなもので隠蔽もした。中身の重要さなど、誰も気づかぬよ。
朝からエミリオ少年がずっと傍にいたのだ。何をするにも傍から離れず、とにかくずっとである。
まず、最初の講義が始まる前に横に座られた。
隣、よろしいですかの一言もないのだぞ! 思わず横を見たら自然な笑顔で『何か?』と私の疑問は黙殺された。
おかげで歴史学の共同研究者に自然になっているし、講義室の移動も当然のごとく一緒だった。
自然に扉を開けて、エスコートをしてくるあの少年を、誰か、どうにかしてくれ!! 泣いてしまうぞ。
なぜか、この前の大勢の取り巻き連中は近寄ってこないし、どうしろというんだ。
ク、クレア嬢は怖くて見ておらん。
昼食を食べるため行った食堂でも、なぜかエミリオ少年は私と相席したのだ。
というか、混んでいる食堂の中で颯爽と席をとった彼にエスコートされたというか。いやいや、そんなはずはない。
まぁ、そこでようやく朝からの疑問『なぜ、君そこにいるのかね』と聞けたのだ。
すると彼は『前に言いましたよね、“貴女とならば、私は良い関係を築けると思います”と。……だから、良い関係をつくりに来たのですよ、私は』と言ったのだ――
――パタン、とノートは閉じられた。
革靴の音は静かな図書館によく響く。
アリアは背後の人物に対して緊張している事を悟られぬよう、肩の力を抜きペン先を布で拭った。
「また書き物ですか。何か調べものでも? 大変可愛らしいノートだが」
「えぇ、その様なものですわ」
エミリオはまた、断りもなくアリアの横に腰かけた。机の上に置かれた鞄から大量の紙が出てきた。どうやらまた家庭教師の課題を熟すためにいる様だ。
アリアは自然な動きで、レースが布に縫い付けられたカバーのノートを鞄にしまった。
そして中から本を取りだし、それを読みはじめる。
ペンが文字を記すときの音と本のページをめくる音だけが響く時間が長く続いた。
アリアは一冊が読み終わり、エミリオに挨拶をして帰るべきか悩んだ。
そのときだった。
静かな図書館だから聞こえてしまうほどの囁き声。本棚二つほどを隔てた距離から聞こえたのは、少年二人の声だった。
「……はぁ、あのお坊ちゃん何考えてるんだろうな? ま、あのアリア様の美しさにやられたって事かな。でもあのお坊ちゃんなら、もっといいとこから貰えるだろう? 僕らのアリア様に手を出さないでほしいんだけどな」
「将来の側近候補様の考えねぇ。……頭が良すぎるやつの思考なんか分からないさ。普通なら結婚前の恋人ってやつじゃないか? それ以外の可能性もあるかもしれないが。…………俺たちは精々反抗しないで従っておけばいいのさ。将来の為にね」
二人の少年は声を大きくしては言えない事を話をしていた。アリアが呆然としているうちに声は遠ざかり離れていった。
アリアは驚いていた。内容にではない。邪推、悪意、媚、そんなものは日常によくあるものだ。驚く事はない。
でも、あの声は――アリアは横で、何事もなかったように課題を熟す少年を見た。
あれは彼の取り巻きの一人の声だ。アリアの視線に気づいた彼が答える。
「私たちのいる世界はこういうものだろ?」
平然と本の文字を目で追いながら、エミリオは話す。傷ついている様子はなかった。
慣れてしまうくらい日常によくあることなのかもしれない。
でも彼が悪意に慣れてしまうことは、とても悲しい。いやだとアリアは思ってしまった。
アリアは彼の机に置かれた左手に、自分の手を重ねた。
衝動だった。自分で置いておきながら、その行動に本人が驚いていた。
「ごっごめんなさい!」
アリアは手を離そうとしたが、つかまれてそれはできなかった。
「なぜ?」
エミリオの瞳はまっすぐアリアを見た。
アリアは自分の行動に思考をめぐらそうとした。だが、深く考えなくてもすぐに思い当たった。
単純な理由だった。
「……昔、落ち込んだときに、してもらって嬉しかったから」
平然としていても人の悪意に本当の意味で慣れることがないことを知っているから。
「私が落ち込んだとでも?」
「だから、ごめんなさいと」
上手い言葉が必要ではないこともあるとを知っていた。
遠い記憶の中で彼女が教えてくれたことだ。
アリアの言葉は途切れた。
「あたたかいな。貴女の手はあたたかい」
彼が切なく、切なく、彼女の手を見つめたから。