秘密には鍵を
――とうとう学院まで日記帳を持ってきてしまったな。こんな秘密だらけの日記帳を持ち歩くのは不用心かとも思ったが、鍵も特殊なものを付けたから大丈夫なはずである。
今日は入学式だった。記念すべき学院生活の一日目である。だが、わざわざ日記帳を持ってきたのには理由がある。
朝から気が滅入る事があったものだから少し吐き出したかったのだ。思っていることを表に出すわけにはいかぬし、だからといって我慢したくない。故にここに記そうと思ったのだ。
しかし! だが、だがな、今日は嫌なことを吹き飛ばすほど、よい事があったのだ。
今まで愚痴ばかり書いていた気がするな。今回のような事が続くと嬉しいのだが。
まぁ、まずは、今日の朝の些細な嫌なことから書き始めるかな。そう、今となっては些細なことだ。
気持ちの悪いできごとも、最上にいいことがあれば相殺されるのだと知ったぞ。
今日の朝の食卓の場での事だ。大変おかしかった。一晩でなにが起きたのかと思ったぐらいだ。
いつも穏やかな父上も、押しが少し強いが可愛らしい母上も、なんだか言葉をさがすように思案しているような顔だった。その中で兄上が、いつも家族には優しい表情を険しくし口火を切って話し始めた。
『アリア、お前が家族を思って、まじないをしてくれるのは嬉しい。だがな、お前の身を危険にさらしてまでする事ではないよ』
何事かと思った。リードの事を誤解してか。いや、まさか。
確か、父上がもうすぐ他領に視察に行かれる。だが、そのまじないとしても止められるのはおかしい。
いつもこの方たちは、私のまじないを喜んでくださっていたのだから。本当はリードとの連絡手段であることが申し訳ないと思うほどに。
思案しているうちに、父上と母上が言葉を続けた。おそろしく不快な話だった。
要約すればこうだ。
私に恋着している子爵の子息が、夜中我が家の庭で捕まったそうだ。我が家の番犬に腕を噛まれ泣き叫んでいたそうだ。
兄上が言うには、その少年は昨日の夜、私を慕うあまり我が邸の傍の路上から窓をずっと見ていたそうだ。まじないの噂からユリエの木の近くが私の部屋だろうと当たりをつけたようだ。
そして、部屋の明かりは消えもう眠ったのだなと思い帰ろうとしたときに私が窓に身を乗り出したそうだ。
白い寝着を纏い――あぁ、やめだ、気持ちが悪い。
つまりとんでもなく好みで、気分が高まり、私の口づけた紙が欲しくなってしまったそうだ。
その少年は父上からの子爵殿への抗議や、兄上からの指導もあり二度と同じことをする気にはならないような気持ちになるように説得したらしい。なので、その少年に関しては心配しなくてもよいそうだ。
けれど、やめよと言う。
庭にユリエの木はたくさんある。だが、まじないをすれば、部屋を特定されてしまうだろうと。
今後私の成長とともに増えていくだろう変質者たちに隙を見せてはいけないとのことだった。
断れるわけがなかった、心配して言ってくれたのだとわかるのだから。
落ちこむのも馬鹿らしい。とりあえず朝の内に愛すべき番犬ルカを褒め称えておいた。次はリードに合図の変更をすると伝えねば。
そして次は、ふう、まだ本題には入れぬな。実はまだあるのだが、今度は落ち込むことだ。
学院での初日の今日を、最低な気分からはじめた割には少し持ち直したときの事だ。
二度目になる学院の諸注意、講師との顔合わせ。懐かしく、感慨深いものだった。
もう70年も昔の事なのに大差はないようだ。
一つ違うことをあげるならば、同じ講堂にエミリアがいる事か。
今ですら女性が学院に通う事は珍しいのだ。昔、いかにエミリアが優秀だったとしても彼女と一緒に通う事はなかっただろう。
講堂の中心に座るエミリオ少年のまわりは、彼の歓心を買いたい連中がひしめいていた。
よく、我慢強く対応できると思う。私はとても我慢がならない。
私は一人の少女の話さえ、苦痛極まりないのだから。
この講堂に集められたのは入試成績の上位の30名ほどだ。
そのなかで女性は2名。私とクレアという少女だけだ。
必然的に会話する流れだと彼女は思ったのだろう。私も赤ら顔の男どもに話しかけられるくらいなら、と珍しく愛想よく挨拶してしまった。
まぁ、最初は普通だった。挨拶に自己紹介。これからの生活、勉強についてなど。
むしろ、ドレスや観劇などの話がなく、彼女とは上手くやっていけるかもしれぬと思ったのだ。
だがな、クレアはエミリオ少年に恋なのか、わからぬが憧れているらしい。
エミリオ少年の素晴らしさについて、延々語られたのだ。
――彼女の三時間にわたる言葉を要約すれば。
家柄、容姿、頭脳、精神、剣術、名声、すべてが完璧であるとの事だ。
将来性が高く、結婚相手にこれ以上の相手はいないそうだ。
つまり、私に対して牽制したかったらしい。
私が、その気がないと分かる相槌をしてから、これから仲良くしましょうね。と言われた。落ち込んでしまった。
まぁ、それも、もういいのだ。ここからは私のうれしい報告だ!!
ああ、口元が崩れてしまう。まぁよいか、ここにどうせ人など――
「何か、楽しい事でもありましたか? とても楽しそうだ」
そこは学院の庭園の中、ユリエの木々に囲まれた場所だった。白い石材でつくられた東屋がひっそりとたたずんでいる。その東屋で書き物をしていた少女は驚いたように振り返った。
茶の髪を持つ少年は木々の隙間から現れた。
「驚かせてしまったようですね。申し訳ない。だが、貴女に一つ尋ねたい事があるのです」
少年は手に持った紙片を口元にかざし、不敵な顔で続けた。
「……貴女もよくおわかりでしょう?」
少女、アリアの眼の前に立ったのは、彼女に苦悩と歓喜を与える存在、エミリオ・ハーウェルンその人だった。