滲んだページ
――日記を書く事を再開しようと思う。
晩餐の時刻だと呼ばれたのだ。仕方ない。私が来ないと食べ始めないのだ、あの方達は。
さて、どこまで書いたのだったのか。
――あぁ、魔の領域が見え、恐るべき未来予測図が脳裏に走ったところまでか。
ふふっこの私が唯々諾々と受け入れたと思うのかね?
勿論、全力で拒否したとも!!
何が悲しくて、妻に抱き上げられねばならないのだ! 違うだろう、むしろするのは私だ。……いや、もうこの先する事はないのだろうが。な、涙などこぼれておらぬぞ!
私は駆けた。魔の領域が視界に入って一瞬後には。
即座に行かねばならなかったのだ。彼が私を振り返る前に。
ドレスの裾を持って走り出す。
目標はぬかるんだ地面にある、均等に配置された石だった。十個、十分だ。
石と石の間を跳ぶ。多少の無様さは気にしない。
やるしかない、やらねばならない。ゆくぞ私!! 跳ぶのだ!
カツッカツッと石とヒールのぶつかる音が響く。
全てを跳び終えて、舗装された道にたどり着く。
よしっ!! と拳を掲げたくなる衝動を抑え、呆気にとられた面々を見る。
私は取り付けたように微笑んだ。
「ごめんなさい。お手を煩わしたくなくて」
言わねばならなかった。私はアリアだったから。
そこで私は勝利の余韻に酔いしれていたのだが。
なぜ、なぜ私はそこで呆けていたのだ。即座に行動していれば、このような事にはならなかったのに。
はぁ、大変動揺する事が起きたのだ。
呆気にとられた面々でいち早く、我にかえったのはエミリオ少年だった。
彼の呼び方はエミリオ少年にしよう。うん。なんだか気に入ってしまった。
彼をエミリアと呼ぶのは、例え心の中であってもやっぱり違うと思うのだ。
内容が逸れてしまったな、本題に戻るか。
彼は微笑み、私と同じ様に石を跳んできた。
優雅である。
茶の髪はさらっと光り輝き、長い脚は石を跳ぶ事も苦ではないらしい。
私の必死の跳躍に対する当てつけだろうか。私の被害妄想か、これは。
私はズンッと沈み込んだ気持ちのままエミリオ少年を見ていた。
邪魔になるなと思い、一歩下がった。
――その時だ、想定外の事が起きたのは。
一歩下がった私の手は、なぜか少年にとられ、彼は私の前で片膝をついていた。
この時の私は、地に膝をつくなんて綺麗な服が汚れてしまうぞ。などと内心で思う余裕もなく、呆然として見ていた。
「この手に力を貸す事を煩わしい等と思う男がおりますでしょうか。少なくとも私は思いません。……もしお嫌でなければ、今後この様なときは私をお使い下さい」
美しい少年が真摯に見上げ言っている。
卒倒しなかった私を、誰か褒めてくれ。褒めちぎってくれ! ひぃぃぃぃ!! 思い出すだけで気が遠くなる。
だが私は頑張った。震えながらも手を振り払わずにこたえた。
「……覚えていたら頼みますわ」
私は忘れるっ!! 明日には絶対に忘れるぞ!
違う存在だと頭ではわかっていても、エミリアに女性扱いされた事が本当に堪えてしまったようだ。それだけだ。
本当は『ここは学院、知識を学ぶ場所です。社交界ではないのですし、必要以上に紳士として接しなくてもよろしいのです。私も守られるつもりはありませんの』と言うつもりだった。
他の男どもならこの台詞だ。
つまり『その様な扱いは社交場で充分である。なぜにこの学ぶべき場でまで、かような扱いを受けねばなるまい!』と言いたいところだったのだ。
伸びた鼻の下をへし折ってやるのだ。
だが、少年はエミリアなのだ。私にどうしろというんだ。
幸せになって欲しい。
この世の誰よりもだ。
だが私は普通ではない。
彼が紳士的な人間で、女性相手にはその様に振る舞う事が彼の常識なのだとしても。
その彼を尊重したいと思っていても、耐えれる事ではないのだ。
……嗚呼、インクが次のページにまで滲んでしまったようだ。
私の、この苦悩は続くだろう。
彼女から離れればすぐ終わることだ。だが、それは出来ない。したくない。
彼女を守る、その私の望みを叶えるために。