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奪還 ひとまずの落着

  

 

 息を殺して暗暗とした廊下を速やかに渡り、突き当たりに設置された大扉の錠を難無く損壊して忍び入る。刹那、頭上から襲い掛かった凶暴な気配に、瞬息抜刀した東


宮が太刀風鋭く薙ぎ払うと、眼前の光景に唖然として目を疑い、俄かに静止した。

「……紅蘭?」

「……大津?」

 およそ想定外だった人物の出現に、真っ二つに分断された文机を大きく振り上げたまま、度肝を抜かれた紅蘭が、ぽかんと口を開け瞠目する。

「……何をしている?」

 頓狂声を発した紅蘭の背後をちらと見遣り、何やら自分に向け一斉に注がれた視線と、呆然とした大勢の女官の姿を認めた東宮が太刀を納めると、怪訝顔で紅蘭に問い


掛けた。

「……何って……」

 東宮の背後に茜と楓、薫を視認した紅蘭が、翳していた文机をがらんと取り落とした。

「……また、奴らが来たと思って……。これでぶん殴って脱出しようと……」

 ぶわっと涙を溢れさせた紅蘭が、東宮を繁繁と凝視した。

「阿呆! ならば、よく見てから殴れ!」

 呆れ顔で嘆息する東宮に、紅蘭が飛び付くなり、その胸元を思い切り叩いた。

「馬鹿――っ! 助けに来たなら、知らせてくれたっていいじゃない!」

「何ぃ? それが、助けを待つ者の態度か? わざわざ出向いてやったんだから、素直に感謝したらどうだ!」

「何よ――っ! 助けてなんて、頼んでないわ! 私だって、決死の覚悟だったのよ! それなのに、いきなり斬る方がずっとおかしいじゃない! おとなげないわよ!


「なんだその屁理屈は? ……お前、支離滅裂だぞ!」

 久々の再会も何のその、相も変わらず丁々発止と繰り広げられる遣り取りに、苦笑した楓が背後の薫に囁いた。

「……人質という境遇に置かれた精神的苦痛は、如何ばかりであろうと憂慮していたが、想像以上に元気そうで、まずはひと安心といったところだな」

 目笑していた薫がくっくと頷くと、穏やかに相鎚を打つ。

「大津が来た事で、絶対的な安心感を得たのだろうね。言葉とは裏腹に、胸奥の不安が一気に解消されたのだよ。……確かにあれだけ舌が回る様なら、自力歩行での脱出


に何の問題も無いだろう。それに、潜入した最初の部屋が人質を捕えた部屋とは幸運だった。まずは重畳だが……」

 薫が双眸を欹てると、素早く周囲を精察する。侵入口となった大扉の外を警戒していた茜が、不意に室内に立ち戻るなり紅蘭に目礼し、声を潜めて東宮に進言した。

「東宮様。今の所、敵も突然の鯨波に驚いたと見えて、付近に人の気配は感じられません。直ちに、人質を脱出させましょう」

「そうだな。敵がこちらの思惑通りに動いたとしても、稼げる時間は限られている。紅蘭、話は後だ。斎宮寮から連行された人質は、これで全員か?」

 迅速果断を誇る東宮が、鋭敏な双眸で多勢の人質を見渡すと、急転直下の救出劇に茫然として自失していた斎宮寮の女官達が一斉に我に返って頷き、東宮を見上げた。

「はい。斎宮寮から強制連行された女官と、紅蘭様付きの侍女は全員、こちらにおりますが……」

 斎宮の側近であり女官達を束ねる命婦が、ひとりの少女を伴い進み出ると、東宮に立礼して申し上げた。

「この部屋には我らが監禁される以前から、彼女がたったひとりで捕らわれておりました」

「何?」

 眉を顰めた東宮が見遣ると、俯き加減に佇む女性は、まだ年の頃十ばかりと思われる、日焼けした肌に健康そうな肢体でありながら、どこか憂いを帯びた様相の少女で


あった。

「お前は、何者だ?」

「……」

 ビクッと体を震わせた少女が怯え切った双瞳で唇を震わせ、東宮を仰ぎ見る。命婦が困惑顔で東宮を見上げ、口を挟んだ。

「実はこの娘ですが、どこから来たのか、どうして此処に捕らわれているのか、何を聞いても返事をしないのです。話し掛けると反応はするので、耳は聞こえていると思


われますが……話したくても口がきけないのか、それとも話せない状況にあるのか……私どもも、何も分からない状態なのです」

「……それはまた、厄介な話だな」

 やれやれと嘆息した東宮が、言い知れぬ不安を湛えた少女の双瞳をじっとみつめる。ややあって、不意に東宮が片手を少女の眼前に差し出した。

「事情は知らんが、此処から逃げたい気持ちは確かなのだろう? ならば、共に来い。その後のことは、後で考えればいい」

 少女は、威風堂々とした東宮の、圧倒的な存在感を持つ大きな手を凝視した。見るからに強靭な手掌は無条件に少女を許容し、暗黙のうちに最上の庇護を約束していた


。本能に従うべきなのか……躊躇した少女が噛み締めていた唇を震わせると、その両目を潤ませた。

「ほら、時間が無い。早くしろ」

 東宮が再び促すと、小さく頷いた少女が遥か頭上の東宮を見上げ、おそるおそる自らの手を差し出した。

「それでいい。……楓!」

 にやりと笑った東宮が、少女の手を取り、ぐいと引っ張るなり楓に預ける。

「外には葵と斎宮寮の武官が待機している。楓を先頭に、茜が助勢して迅速に脱出しろ。殿は、俺と薫が引き受ける」

 一同が無言のまま頷くと、瞬く間に脱出が始まった。

平真盛率いる手勢と斎宮寮武官による奇襲は、絶大の効果を発揮していた。

多数の銅鑼を打ち鳴らし、実際の数倍以上に規模を虚飾した鯨波は、敵の虚を衝く上で最大級の威嚇効果を発現させ、不定期に繰り返される緩急こもごもの襲撃と相俟っ


て功を奏し、敵を迷走させ混乱させていた。

敵の本拠地に突入したにも拘らず、およそ最短で捕囚された人質の部屋に辿り着けたという幸運と、迅速に開始された救出活動で、女官達は次々と解放されていった。

「葵!」

「紅蘭! 楓!」

聞き慣れた声に、古井戸脇に身を潜めていた葵が顔を綻ばせると、紅蘭に駆け寄った。

「よかった、紅蘭! 無事だったんだね! 本当に良かった!」

最後の人質が無事に脱出した事を視認して、その長き旅路を慮り、思わず共に抱き合い感涙に噎ぶ紅蘭と葵に、眼光鋭く周囲を警戒した楓が小声で諌めた。

「今、茜が斎宮寮の一軍に人質の救出成功を伝えている。お二人は皆を束ねて軍と合流し、直ちに斎宮寮に戻られよ。殿を終えた大津と薫が脱出すれば、火計の手筈とな


っている。依然として、この場は大いに危険だ。斎宮寮にて待機されている斎宮様も、皆の生還を確認して初めて安堵される事であろうし、くれぐれも油断は禁物との、


薫からの伝言だ」

紅蘭と葵が一瞬で緊張感を取り戻すと神妙に頷き、楓と共に離宮跡の脱出口を凝視した。やがて薫と東宮らしき人物の影が揃って姿を現し、一同がほっと胸を撫で下ろし


た刹那、金属が弾け飛ぶ轟音と共に、忽然と二人の人影が掻き消えた。


 脱出を目前に突如として発現した獰猛な殺気に、瞬息気付いた東宮が振り返った瞬間、四方八方から無数の鎖が東宮を目掛け、凶暴無比に襲い掛かった。

瞬時に太刀で一閃した薫が数本を薙ぎ払い、東宮を防御する。とっさに鎖を両断しながら驚異的な身体能力で利き腕の把住を逃れた東宮であったが、流石に全てを防ぎ切


れずに、左手を鎖に搦め捕られた。

「大津!」

 反射的に二の太刀を振ろうとした薫が、頭上からの凶猛な気配に、叫ぶや否や俊敏に東宮を抱え、飛び込む様に床へ突っ伏した。

刹那、薫の背後に巨大な(まさかり)が轟音と共に落下した。優に四方八尺を超える怪物並みの鉞が、ずんと地面に突き刺さる。あたかもその場の生命はおろか空気さえ


遮断するかの如く容赦無い刃はぎらりとして冷酷に光り、間一髪に危機を脱した東宮と薫が驚愕する。戦慄する間も無く、三度急襲する敵の凶手に、即応した薫が瞬時に


態勢を立て直し反撃すると、左腕を拘束されたままの東宮が立ち上がり、暗然とした敵を睨まえたまま緊締された左手に力を込め、鎖をぐっと手繰り寄せた。

「おのれ、何奴だ?」

 暗暗とした四辺から、ぬうっと姿を現したのは、羆の毛皮を惜しみ無く身に着け、見るからに粗暴な武器を所持した信じ難い人数の大男であった。身の丈七尺近いと思


われる、あまたの武装した集団が、隙間無く東宮と薫を囲い込む。

生来剛毅で、たぐいまれな豪傑である東宮が、左腕の縛鎖を一刀のもとに断ち切ると、退路を断たれ一転して陥った窮地に不利を悟り、舌打ちした。

「チッ。こいつら、はなから俺達を狙っていたのか?」

 薫が東宮の背後に自らの背をぴたりと合わせ警護しながら、鋭利に周囲を牽制する。

「奇妙だ。落ちてきた鉞は、まぎれもなく唐のもの……。だが眼前の彼らは、まさしく渤海人の風貌で、明らかに大津、お前に狙いを定めている……」

「何? 渤海人だと?」

 静黙した薫が、心中深く自省した。

……何という誤算だ。敵の目論見が何であるかは不明だが、まさか大津を標的にするとは思いも寄らなかった。敵は、大津が東宮であると知って襲撃しているのだろうか


……いや、そもそも東宮の守役として、敵がどうあれ常に不測を念頭に置き、諸事万端において警戒すべきだったのだ。……いずれにせよ、何としても、大津は守り抜く


取り返しがつかない大失態に、絶体絶命の危機に直面した薫が覚悟を新たに、かつて無いほど沈着、かつ鋭敏になる。

「渤海人に直接恨まれる様な真似は、した覚えがないが……」

 東宮が四方をぐるりと見遣ると口角を上げ、不敵に笑った。

「……だが誰であろうと、俺を捕えるつもりなら、返り討ちは覚悟の上だな?」

 言うが早いか瞬発した東宮が、眼前の巨漢の鳩尾に痛烈な一撃を加えると戟を奪い取り、一挙に十人前後を叩き伏せた。倒した男を躊躇無く踏み付け跳躍すると、戟を


振り回したまま、大胆にも敵のただなかに着地するなり旋回し、更に十数人を薙ぎ倒した。

 東宮の攻撃と同時に薫が袖から杏姫を密かに放ち、倒れた敵の武具を素早く遠方に蹴り飛ばしながら流れる様に相手の間合いに入り、敵の武器を瞬く間に奪取しては次


々と、唯一撃で相手の急所を正確無比に打ち抜き倒した。

 だが真に恐るべきは、敵の常軌を逸した忍耐力であった。

 ……おかしい。

強大無比な敵を前に一歩も怯まず、変わらぬ猛撃を加えながら、驚駭した東宮が思わずちらと目を欹てた。剛力を誇る東宮の攻撃は、尋常でない破壊力を以て悉く敵を撃


破し、背後の薫も、恰も一陣の風が吹き抜けるかの如く、相手の攻撃を鮮やかに受け流しては、最少の打撃でいとも巧みに敵を打倒していた。……流石は薫だ、と舌を巻


く。

だが、倒されても踏まれても、敵は次々と起き上がって来るではないか……。いかに巨体とはいえ、それが幸運にも致命にならぬ程度の痛手に減衰させる効果があったと


仮定しても、人体の急所を確実に衝かれながら瞬時に戦線復帰するなど、有り得ない……。

……どういう事だ。

 不意に、薫と視線が合った。以心伝心に東宮の疑問を解した薫が指摘する。

「……奴らは、おそらく薬か何かで、痛覚を麻痺させている」

「チッ……厄介だな、きりが無い」

 東宮が舌打ちした瞬間、目を側めた薫が、腰に佩いた刀子を矢の如く投げ付けた。

 カンッという甲高い音と共に、木片が割れ飛んだ。

 驚いた東宮が、背後を振り返る。雲を衝く大男の集団に紛れ、密かに潜行していた様子の直衣姿の男が仮面を割られ、唖然として立ち竦む。

「お前は……!」

 男の素顔を見た薫が、吃驚するなり瞠目する。果たして、東宮には全く見覚えの無い顔であった。直衣から垣間見える色白の痩身は見るからに脆弱で、眼光だけが異様


に際立ち、あたかも真っ当な神経を蝕まれたかの様な形相であった。

「薫、知っているのか?」

 東宮の問いに、男を凝視したまま、薫が頷いた。

「名は、藤原(ふじわらの)(とも)(なが)。嘗て勧学院の首席だった男だ。秀才であるが故に将来を期待されていたが、横領罪が発端となり、最終的には謀叛幇助の罪


で流刑となった」

「……お前のせいでな! お前さえ、余計な事をしなければな!」

 薫の言葉に敏感に反応した男が一瞬で顔を紅潮させると、癇癪声で喚き立てた。あまりの勢いに、東宮が呆れ顔で嘆息する。

「やれやれ……。つまりは、脛に傷持つ輩が、逆恨みか」

「何ぃ?」

 知長と呼ばれた男が益々興奮すると、東宮に向かい、敵意を剥き出しに睨み付けた。

容赦無く正鵠を射る東宮の物言いに、薫が思わず苦笑すると口を顰める。

「……気を付けろ、大津。奴はこう見えても、怒りで我を忘れる性質ではない。狷介孤高だが、怯弱である故に策に通じ、巧詐に長けている」

「ふん、小心者が如何に才気煥発して小細工を弄した所で、たかが知れている。刃向うならば、破滅させるまでだ」

東宮が鼻で笑うと、好戦的な表情になった。

「ふふ……成程なぁ。綾小路、お前を心服させたという東宮は、いかほどであろうなぁ。力任せの浅慮な暴虎で終わるのか、さてまた、亡国の暴帝となるのか……」

知長は薫の忠告通り、まことに得体の知れない男であった。先程までとは打って変わり平静になると、好奇に満ちた不快な視線で東宮をまさぐり、緩慢な口調で評価した


「東宮のその減らず口が、どこまで叩けるか……見せて貰おう」

知長がバチッと指を鳴らすと、再び大男が大軍となって襲い掛かった。一撃必殺で迎撃するならば寧ろたやすいが、相手は友好国の渤海人……。外交問題に発展する可能


性もある為、出来る事なら危害は加えたくない。痛覚を遮断させ狂った様に執拗な攻撃を繰り返す敵に、致命させずに再起不能とさせるには……。巨躯を誇る相手との体


格差も相俟って、流石の東宮と薫も自身の体力を顧み、攻撃手段を変更せざるを得なかった。

薫が関節を逆に折り、次々と敵の戦力を物理的に殺ぎにかかると、薫が開いた突破口を足掛かりとして東宮は知長ひとりに狙いを定め、瞬く間に知長の眼前まで迫り来た


危機を感じた知長が、戦闘の混乱に乗じ、いつの間にか視界から姿を晦ませた。



東宮と薫の姿が掻き消え、うろたえて右往左往する葵の許に、杏姫が舞い降りた。

「杏姫?」

 驚いた葵が、楓と紅蘭に向き直る。

「手紙は付けていないけど、事情から察して薫が放ったんだと思う。……どうしよう。二人が敵の手に落ちたとは考えたくないけど、現に、こうして待っても出てこない


所を見ると、攻撃されているのかも……。どうやって助けに行こう。軍と合流して突入するのでは遅すぎる気がするし、どうしよう……!」

 真っ青になり慌てふためく葵に、楓が静かに首を振る。

「今、戦力が劣る我々が突入したところで、人質が増えるだけだ。再突入は考えるべきでは無いだろう。しかし解せないな……。敵は、殿の大津と薫が脱出する段階で初


めて人質の脱走に気付き、攻撃を仕掛けたのだろうか。……だとしても、あの二人の戦闘能力を考えれば、たかが数人の追撃など物ともしない筈。それが突破して出て来


れない所をみると、よほど大軍の主力部隊に遭遇したか……それとも罠に嵌り、新たな人質となって、脱出不能な状態に陥ったのだろうか」

「まさか……」

 真顔で相談に加わりながらも、紅蘭が、いまいち緊張感に欠ける発言をした。

「でも、あの本能全てが異常発達した超人の大津に、思慮にかけては最早神域に近い薫という天下無敵の二人に敵う、敵なんかいるのかしら……。勝負を挑んだとしても


、惨敗で抹殺滅亡って感じじゃない? ……そうなる根拠は無いんだけど、何となくそういう展開になりそうじゃない?」

「……」

 紅蘭の言葉に、楓と葵が一瞬顔を見合わせると閉口した。

冷静にして沈着な薫であれば、どういう手段を最善とするだろう……。楓が暫時鋭意に思慮に耽ると顔を上げ、決断する。

「……残された我々は、やはり想定外の事態が発生したと仮定して、周到であるべきだ。茜と軍が戻り次第、二人の居場所を知る杏姫を茜に預け、内部に潜入して様子を


探って貰おう。我々は人質救出の作戦と労力を無駄にしない為にも、まずは軍と共に、一刻も早く斎宮寮に戻り、鉄壁の防御を敷いて敵に備えるべきだ。二人の救出は、


茜の報告を待って、私が手勢を率いて向かうとしよう」

 楓としても、動静が不明となった二人を残して引き揚げる事は、まさしく苦渋の決断であった。

 ……必ず、無事に戻って来い。……私が戻るまで、何としても、持ち堪えてくれ。

 顔を上げた楓が凛として離宮跡を凝視する。紅蘭の言葉に何故か落ち着きを取り戻した葵と、当初から楽観視していた紅蘭は、静黙したまま佇む楓に、その退っ引きな


らない心中を感じ取ると、一も二もなく楓の提案に従った。



 ギインという音と共に、東宮の太刀が真っ二つに折れ飛んだ。

「何て馬鹿力だ!」

 折れた太刀を投げ捨てた東宮が、とっさに相手の一撃を両手ではっしと受け止める。

刹那、不意に飛来した刀子が東宮の肩口に突き刺さった。委細構わず、東宮が両腕に満身の力を込めると振り下ろされた戟を真横に引き倒し、前屈した敵の上半身を膝で


痛烈に蹴り上げる。

「大津!」

 東宮の負傷に驚いた薫が目を配った一瞬の隙に、敵の猛撃を受け吹っ飛んだ。

瞬時に受け身を取った薫が激突した壁から立ち上がると、床を一蹴して跳躍するなり、東宮の周囲にいた敵を叩き伏せる。

 東宮が肩口の刀子を引き抜くと、二投目を放とうとした男を目ざとく見遣り投げ付ける。刀子は容赦無く男の腕を貫き、男の持つ刀子が弾け飛んだ。

奴らを戦闘不能にさせるまで、あと少し……。

東宮が周囲を睨まえた瞬間、その場の敵がことごとく崩れ落ちた。

「東宮様! 薫様!」

 天井から飛び降りた茜が目礼するなり、二人の安否を気遣った。

倒れた敵が泡を吹いて痙攣しているのを確認した薫が微笑する。

「茜! 良かった、間に合ったか」

「はい、薫様。杏姫をお返しします」

「御苦労だったな、茜。……痺れ薬を使ったのか? お蔭で助かった」

 東宮が大きく嘆息すると、流石に疲れた様子で脱力した。東宮の許に駆け寄った薫が、直ちに東宮の傷口を診る。

「……傷は浅いが、体調はどうだ?」

 薫が東宮の双眸をじっと見つめた。無論、殺意ある敵からの毒害を懸念しての事であった。東宮が頷くと、薫の憂慮を察してか、珍しく真摯に答えた。

「今の所、何ともない。単なる掠り傷だ。心配は無いだろう」

「もう少し、動かず様子を見た方がいい。万一の場合だったとして、急激に動き回るのは極めて危険だ」

「ああ、そうだな……」

 東宮が頷くと、薫が静黙する。その場がしんと静まり返った。

 ……過去、どれ程の危機を潜り抜けて来た事だろう。

毒殺……それは、東宮である大津にとって、常に傍らにある死の恐怖であった。

大自然の営みが齎す野生的な死とは全く異質の……予測不能な人の思惑によって人為的に発生し、強制的に被る死。幾度の暗殺から脱し、九死に一生を得て来た東宮と雖


も、未だに寡少な受傷さえ警戒せねばならないという悲しい現実であった。

「……済まなかった。お前が負傷したのは、私の責任だ」

 薫が向き直ると軽く東宮の胸を小突き、自戒に駆られた苦悶の表情を浮かべる。

「差し当たり、即効性の毒の懸念が払拭されて安心した。だがそもそも敵陣に入るなど、あまりに軽率だった。お前を危険に晒してしまったとは……もっての外だ」

 深く自責する薫を横目で見遣り、東宮がくっくと笑うと口を開いた。

「馬鹿言うな、突入を命じたのは俺だ。……お前、親友とはいえ臣下の分際で、高慢にも俺の作戦にケチを付ける気か? 負傷したのがお前のせいとはおこがましい。敢


えて責任を問うなら、たかが一刻前後の戦闘で損壊するなどという、不届き千万の太刀のせいだ」

 自らの乱暴な使い方には何ひとつ言及せず、あっさりと太刀の品質のせいと決め付けた東宮が、破損した黒太刀を拾い上げると鞘に納め、薫を一瞥する。

「お前の太刀が折れてないのが、何よりの証拠だ。俺の方は、まだまだ改良の余地があるという事だ。全くもって見掛け倒しの、腑甲斐無い代物だ。さっさと持ち帰って


長船の刀匠どもに突き返し、気合を入れ直してやる」

「いや……私の浅慮だよ」

 東宮らしい心遣いに、短く答えた薫が呵責を湛えた瞳で微笑した。

薫の心理的負担を軽減するかの様な東宮の口振りに、微笑ましく聞いていた茜であったが、話の矛先が何やらあらぬ方向に八つ当りめいてきた事にいささか当惑すると、


黙然とした薫の姿にふと自らを重ね、心配そうに様子を窺った。

 薫様……。いかばかりに、己を責めておいでだろう。

 薫同様に東宮の警護がその役目である茜にとって、薫という存在は驚異的であった。

薫の太刀が折れなかったのは、所持する山城の太刀の強度が優るのでは無く、おそらくはこれだけの人数を相手に長期戦を覚悟した為……。つまり、自身の武器は最後に


東宮を守護する手段として極力温存した結果であり、また東宮に比べて薫の息切れが殆ど無いのも、無駄な動きを限界まで省き、体力を削らない攻撃態勢を保つ事で持久


力を向上させ、極限まで東宮を護衛する力を残そうとした深慮故であると、茜は感じていた。

 自分であれば、無我夢中で攻守しながら先々を考えて制限付きの戦闘をするなど、まず不可能に近い。やはり、大した御方なのだ……。そもそも常人の私からすれば、


薫様が非難されるべき点など、全く見受けられないのに……。

勿論、東宮様もきっと、全てを分かっておられるに違いない。私がもっと早く駆け付けられれば、もしかしたら薫様のご負担を幾分軽減して差し上げられたのかもしれな


い……。 だが敬愛する二人に、救援として微力ながらも役立てた事が、茜は何より嬉しかった。

「さて茜。俺は、もう動いても平気だ。今のうちに、さっさと脱出するぞ。案内しろ」

「はい」

 はきと頷いた茜を先頭に、落下した鉞とは反対の出口に向かった三人であったが、不意に茜が身構えるなり立ち止まった。夥しい人の気配に、東宮と薫が再び臨戦態勢


になる。


「……ほう。大したものだ、あの人数を悉く倒すとは……!」

 背後に再び多数の渤海人を従えた知長が優位に驕り、余裕綽々として感嘆した。

「ふん、尻尾を巻いて逃げたのかと思ったが、今更出て来て何のつもりだ? 渤海人は俺の一存で斬れないが、日本人であるお前は別だ。俺の匙加減でどうとでもなる。


今の内に、命乞いした方がいいのではないか?」

 ……無論、一切聞かないけどな。東宮が鼻でせせら笑うと挑戦的な態度を見せた。

「成程。この期に及んで、虚勢だけが盛んとは空しいな。だが残念ながら、挑発には乗らない。この勝敗はお前達の負けで終わる。さて綾小路。これが見えるか?」

 名指しされた薫が双眸を欹てると、知長が背後から後ろ手に縛りあげられた人物を引き据えるなり、その喉元に太刀を突き付けた。

 驚愕した薫が思わず絶句する。知長が悦に入った陰湿な笑声を上げた。

「はははぁ! 流石のお前も言葉が出ないと見えるな! いいか、此奴を助けたかったら、東宮ともども武器を捨てろ! そこの女もだ!」

 凝視した薫が信じ難い光景に眼を疑うと、凍り付いた様に凝立した。

「礼賛! ……何故、ここに?」

……礼賛? 東宮と茜が思わず顔を見合わせた。

静黙した薫に代わり、東宮と茜を一瞥した知長が饒舌になる。

「渤海国宰相の息子であり、綾小路、お前とは旧知の親友である筈だな! ……流刑になってから、私はお前への復讐ばかりを考え、お前の事は何でも調べた。ただ殺す


だけでは飽き足らないからなぁ! お前の全てを奪い、蹂躙して、絶望の淵に追い落としてやる。完膚無き迄に破滅させてやるつもりだ。……ふふ、渤海国の要人が日本


で死んだとあれば、戦争に発展してもおかしくない。しかも勅使として伊勢に下向したお前の眼前で死んだとあれば、お前も帝も東宮も太政大臣友禅も! 全員一挙に失


脚だぁ。お前は国賊として都中を引き回され、一族郎党、無残な最期を迎えるだろうよ」

 ははははははぁとばかり、知長が高笑した。

……東宮ともども武器を捨てれば、己どころか主君の命の保障が無い。かと言って、従わなければ今度は礼賛が殺される……。

背後には雲霞の如き敵の大軍が控え、包囲を突破して脱出するのは、どう考えても不可能であった。進退窮まる薫が絶体絶命の窮地に立たされる。孤立無援の逼迫した事


態に、茜が自らの非力を悟ると蒼然として戦慄する。

 突如、がぁんと響く音と共に東宮が自らの太刀を鞘ごと放り投げると、その場にどかりと座り込んだ。

「いいぜ、これで丸腰だ。煮るなり焼くなり、お前の好きにするがいい。その代わり、礼賛から即座に刀を引け」

 平素は御所であまたの帯刀役に守護され、国家要人の最たる存在である筈の東宮が、自らの意思で生命の安全を放棄し他人に委ねている……。およそ有り得ない行動に


、東宮の選択如何に拘らず自分の勝利を確信していた知長が度肝を抜かれて仰天すると、言われるがまま無意識に礼賛に向けた刃を返し、思わず言葉を失った。

青天の霹靂とばかり肝を潰した茜が、必死に東宮を諌めに掛かる。

「東宮様、何という事をなさるのですか。貴方様のお命がいかに尊いか……この様な暴挙はどうかお止め下さい、自重なさって下さい!」

取り乱した茜に、東宮が峻厳に目を剥くなり叱責する。

「いいか茜、そして薫。……よく聞け。冷静に、何が最善かを考えろ。東宮の代わりなら、都にいくらでも居る。だが戦争になれば、国の代わりは無い。双方が食い合う


だけの無益な戦に、争いに無関係な人々の血をあまた流すというのか? 答えは初めから決まっている。さあ、武器を捨てろ」

茜が首を振ると、ぶわっと涙を溢れさせた。

「と……東宮様、私にとっては貴方様の代わりなど、おりません。東宮としての貴方様がいつか帝になられ、きっと世を寛容に導いて下さる……。その将来を切望して、


この国の未来を掛けて、貴方様だからこそ、お仕えしているのです。貴方様以外の東宮など……私には考えられません、絶望で亡国したも同じです!」

 微動だにせず、東宮が茜に冷然と命じた。

「茜、武器を捨てろ」

「……っ東宮様!」

茜が手にした懐剣をがらんと投げ出すと膝を折り、悔しさのあまり号泣した。

「薫」

東宮が薫を促すと、緘黙していた薫が不意に礼賛を見つめ、口を開いた。

「……礼賛、ひとつ聞きたい。君は、()から(・・)の(・)使者(・・)だ(・)と言われて、捕えられたのか?」

後ろ手に縛られ、俯き加減だった礼賛が静かに目笑すると薫に応えた。

「……その通りだ、薫」

観念した様子の薫が腰に佩いた太刀を外すと、がらんと知長の前に投げ捨てた。

「はははははははぁぁあ! ざまぁないな! 私の勝ちだ!」

高笑した知長が薫の太刀を手に取るなり、すらりと抜き放った。

煌々とした白銀の刀身……見事な太刀だ。

完全勝利を目前にした知長が、東宮の条件を難無く反古にすると、薫の太刀を礼賛の頭上に振り翳した。

「忠告しておく。……お前は、礼賛という男を、全く理解していない」

冷眼を向けた薫が、冷冷然と言い放つ。

「完全無欠のお前としては、さぞ無念至極だろうなぁ。負け惜しみか?」

……お前の太刀で、親友を斬ってやる! 思い知るがいい! 何という快感だ! 

怨敵に報いる絶好の機会とばかり上気した知長が、迷わず刀を振り下ろした。

「……フッ……だから、お前は薫に敵わないのだ」

 礼賛が、低い声で呟いた。

瞬間、俯いていた礼賛が執縛されていた両手を解き、太刀筋を余裕で躱した。同時にその長い脚で知長の膝を強烈に払い、蹴り飛ばす。

知長の手から、太刀が弾かれた。

はっしと自らの太刀を取り戻した薫が、すかさず東宮を防御した。派手に転倒した知長が瞬く間に起き上がり、転がるようにして渤海人の集団に紛れ込むと、巨躯を誇る


渤海人同士が激しく戦闘を開始した。知長が痩躯を活かして狡猾に逃走する。

「渤海人が同士討ちだと……? 一体、どういう事だ?」

唖然とする東宮に、守衛する茜もまた状況を摑みかねて呆然とする。

やがて瞬く間に雌雄を決した渤海人の一団が、同じく渤海人の集団を捕縛すると、礼賛に片膝を突き一礼した。

「御苦労だった」

礼賛が渤海語で労うと、薫に向き直る。

薫と礼賛が、がしっと腕を組み合うと爽快に笑い、互いの再会を喜んだ。

「ありがとう礼賛、君のお蔭で助かった。なんと礼を述べたら良いか……」

礼賛が雄爽な笑みを浮かべて首を振ると、今までの経緯を薫に話した。

「君も私に聞きたい事が山程あるだろうが、かいつまんで事情を話すとしよう。実は君が伊勢に出立して間も無く、都の市場を散策していると、正規ではない渤海国の交


易品に紛れ、唐の太子の私物が売られているのを見付けたのだ。配下を動員して売人を調べさせた所、尾張湾から伊勢湾にかけての海路を利用して密貿易をしている渤海


人の一団だと判明した。通常、北路から来日した一団ならば陸路を利用するであろうし、南路から来て密貿易をする輩も船を本拠とする筈だが、何故か奴らは陸のどこか


を拠点としている様だった。丁度捜査に行き詰った段階で、都合のいい事に、()から(・・)の(・)使者(・・)で(・)は(・)ない(・・)()が、君の名を騙って私を


呼び出した」

懐から扇を取り出した薫が、艶麗に微笑んだ。

「……そうか。それは、暗号を決めておいて何よりだった。それで敵の誘いに乗り、故意に捕まっていたのか」

礼賛が頷いた。

「そうだ。我々渤海人が陸を拠点に密貿易する為には、日本人の協力者が必要だからな。その日本人の正体を暴く為、渤海人であることを利用して、配下を密貿易団に潜


り込ませた。太子の情報も得られれば一石二鳥だったという訳だ。そうした所、知長に会った。彼は密貿易の資金の一部を見返りとして得る代わりに、渤海人の密貿易団


に衣食住を提供していた様だ。ここは……君が来た所を見ると、伊勢なのか? 私には詳細な場所は分からないが……」

薫が頷くと、礼賛の推察を肯定した。そして得心した様に口を開いた。

「成程、これではっきりした。ここは斎宮の離宮跡だ。利害が一致していた知長と密貿易団は、斎宮寮から続く隠し通路を利用して斎宮寮の内院を意のままに操り、潜伏


に必要なものを調達していたのか……。偽りの神託を出したのは、私をおびき寄せる為……。おそるべき知長の執念によるものだったのか……」

……しかし、それには斎宮のみが知る内院の通路を熟知する者が敵側に居た事になる。

知長がいかに文献を渉猟したとしても、内院の機密情報を得ることは難しいと思われた。では、一体誰が……。これは、斎宮寮で捕えた女官を深く詮議する必要があるだ


ろう。

不可解と言えば……人質と共に拘束されていた口のきけない少女は一体……。

知長にとって、何か不都合な事情を知って捕らえられたのだろうか……。

そもそも本態的に喋れないのか……それとも、喋りたくない(・・)だけなのか。

それに、気になる点がもうひとつ……。知長が得た資金は、知長が己の私怨を晴らす為だけに利用したというのであれば、いささか規模が大き過ぎる。

全てを失い、流刑に処されていた知長が、何故様々な情報を知り得たのか……。

知長は、勢力を取り戻しつつあるのか……? 

その人脈は……? 財力は……? そして戦力は? 分らない事だらけだ……。

背後に何か……知長と思惑が一致する黒幕が居て、組織的に大掛かりな陰謀を企てているのだろうか。……だとしたら……。

不穏に忍び寄る敵の気配に、薫が深い懸念を抱くと沈思黙考する。


静黙した薫を見遣り、眉を顰めた東宮が口を挟んだ。

「……解せないな。敢えて、奴を泳がせたのか?」

思慮に耽っていた薫がはっとして呼び覚まされると、東宮を見つめた。

「知長を捕えようとすれば、できた筈だ。お前も礼賛も、逃走する奴を何とはなしに放置したのは何故だ? 未だに、奴から必要な情報が得られていないからか」

……奴を、泳がせた? 情報が得られていないから? 

東宮の指摘に、ふと奇妙な違和感を覚えた薫が、再び緘黙する。

……確かに、礼賛の思惑はそうかもしれない。太子の行方を追う礼賛ならば、知長が太子と何らかの繋がりがあると睨み、故意に泳がせた可能性がある。

だが私の場合は、少々違うかもしれない。……今、深追いしてはならない気がしたのだ。

突如として現れた知長の目的は、本当に私だけなのか? 私に根深い殺意があるのは確かだが、渤海人に命じた標的は、明らかに東宮だった。私への冷酷な報復として主


である東宮を狙ったのか? ……目的が私であるなら問題無いが、東宮も含まれるのであれば、東宮を巻き込む事だけは、何としても回避しなければならない。既に東宮


は負傷している。絶対的な防備を固め知長の思惑を探るまで、これ以上の潜入は危険だ。

だがこれは……礼賛の前で、東宮に言うべき事ではない。

薫がちらと慧眼を欹て礼賛を見遣る。何とも鋭敏な東宮に、心から感嘆した様子の礼賛が薫の視線に気付くと、暗黙のうちに頷いた。

……太子の事を、今こそ東宮に話さなければならない。

礼賛が、東宮の眼前に進み出るなり敬礼した。

「東宮様。戦闘となり、ご挨拶が遅れました事を、心よりお詫び申し上げます。既に薫との会話でお気付きでしょうが、私は渤海国宰相の息子で、名は礼賛と申します。


薫とは唐への留学時に知り合い、以後渤海使として来日する度に親交を深める知己であります」

頷いた東宮が、愉快そうに苦笑した。

「……堅苦しい挨拶は無しだ。薫の旧友であるならば、薫同様、俺に敬語は不要だ。だが、お前も人が悪いな。配下を潜ませ、当初(・・)から(・・)()に(・)細工(


・・・)して(・・)ある(・・)なら、少なくとも茜が泣く事は無かった」

茜が赤面すると俯いた。礼賛と薫が思わず顔を見合わせると、おかしさを堪え切れずに吹き出した。

「はっはっは、薫! 君の言った通りだな! いや参った。確かにあらゆる意味で衝撃的、なんとも型破りな東宮様だ!」

礼賛が大笑するなり薫の肩をばんと叩いた。くっくと笑った薫が、礼賛に詫び入った。

「いや、全くだ。済まないな、礼賛。当然にして礼を言うべきところだが、何せ東宮は、素直ではない。これでも君に、深甚感謝しているつもりなのだ。許してやってく


れ」

礼賛はともかく、薫の言動が著しく癇に障った東宮が、苦虫を噛み潰した顔になる。ようやくにして笑いを噛み殺した礼賛が、再び東宮に敬礼すると口を開いた。

「失礼致しました、東宮様。実は以前より、殿下のお人柄については薫から聞き及んでおりましたので、大層興味深く思っておりました。今回、この様な形で初対面とな


り、果たしてどの様な御方であるのか、己の目で確かめるには千載一遇の機会であると思い、殿下方の様子を限界まで窺っていたのです」

ふと顔を上げた礼賛が、東宮の双眸を深く熟視すると、温柔な瞳で微笑んだ。

「……東宮様、殿下は自らの生命の危機に瀕し、毅然とした態度で迷わず己を捨て、戦争を回避する手段を選び、民と国益を優先されました。まことに東宮として相応し


い、皇帝となられるべき器量の御方でございました。渤海国代表として、次期天皇の殿下が寛猛相持つ御方であることを歓迎し、恒久なる具徳の発現を心待ちにする次第


です」

薫が温容に微笑み、礼賛を見つめる。

「……やはり、薫の旧知だな。……弁が立ち過ぎる」

こそばゆいのか、ふいと視線を逸らせた東宮に、薫と茜が顔を見合わせると、礼賛に目礼して詫びるなり失笑した。


「成程な。それで、唐の太子の行方は、まだ分からないままなのか?」

礼賛から説明を受け、太子の失踪を知った東宮が尋ねる。

「本来王族のみが所持する品々が売られていた事からして、太子が日本のどこかに上陸した可能性は高いものの、現在、安否情報すら定かではないのが実情です」

礼賛が流暢な日本語で答えると、薫が口を挟んだ。

「礼賛の捜査で、売人がここを根城として活動していた事が明らかになったのであれば、太子が近辺に潜伏……或いは監禁されている可能性が高いのではないのか?」

薫の指摘に、考え込んでいた茜が口を開いた。

「売られていた経緯が売買の結果であったのか、盗品としての出品であったかによっても、捜索範囲と手段が異なって来ますね……」

もっともな茜の見解に総容が頷くと、その場がしんと静まり返る。

「とりあえずここについては、あらゆる場所を配下に探らせたが、太子の影はおろか情報すら得られなかった」

礼賛が捜査の限界を告げると、東宮が決断した。

「ならば最早これ以上、ここに長居しても無用な事。一旦斎宮寮に戻り、今後を検討するとしよう」



 東宮一行が斎宮寮に戻った途端、紅蘭が飛び出して来た。

「ああ――っ薫! 良かった、通訳してよ!」

 先程までの経緯は何だったのか……慌ただしい日常に突如引き戻された薫が、紅蘭に強引に腕を摑まれると、奥の部屋へと連行される。

「大津! 茜も無事で良かった! 心配したんだよ!」

 東宮の無事に胸を撫で下ろした葵が東宮に飛び付くと、楓の姿が無い事に気付いた東宮が葵に尋ねた。

「葵、楓はどうした? 無事に脱出した筈だろう?」

「うん、一緒に戻って来たけれど、ちょっと立て込んでいて外してる。経緯を話すから、ちょっと待ってね」

 背後の礼賛と渤海人に気付いた葵が斎宮寮頭と女官に茶の準備を依頼すると、皆に座を勧め、自らも座して話し出した。

「実は大津と薫の姿が見えなくなってから、僕等は軍の到着を待って斎宮寮に引き揚げて来たんだけど……」


 葵と紅蘭が斎宮寮に到着すると、楓と斎宮寮頭が中心となって、直ちに斎宮寮は厳戒態勢を執った。鉄壁の防御を確認してから東宮と薫の救出に向かうつもりであった


楓は、各所の防備に油断が無き様、細心の注意を払って巡回していた。すると地下牢に捕えていた女官が脱走を試みて役人に発見され、より堅牢な牢に移されたという一


報が入った。

「それでね、楓が『脱出を試みるのは、後ろめたいことがあるからだ』と断言して、『私が必ず吐かせてやろう』と意気込んで、今、門部司と共に地下牢で詰問している


んだよ」

 ……いかにも楓らしい行動だ、と東宮が爽快に笑う。

「紅蘭は? 俺達が戻るなり薫を連れ出した所を見ると、別の問題でも発生したのか?」

 葵が頷くと、その経緯を説明した。


 楓が防御策を講じて門部司を率いて巡回に出た間、紅蘭と葵は斎宮の手当てを終えて休ませると、斎宮寮頭と共に、敵の正体をあれこれと推量して話し込んでいた。

すると斎宮寮の財政を司る蔵部(くらべの)役人が訪れ、遠慮がちに報告した。

「あのう斎宮寮頭様、この様な非常事態に際しまして、大層申し上げにくいのですが……」

 斎宮寮頭が対応に逡巡すると、紅蘭が口を挟んだ。

「今なら、いいわよ。別に実のある話をしている訳でもないし。どうしたの?」

 斎宮寮頭が紅蘭に同意すると、蔵部役人がおずおずと話を切り出した。

「……実は、私どもでは価値が分かりませんので、斎宮寮頭様に目利きして頂きたいものがあるのです」

 話の内容に驚いた様子の斎宮寮頭を差し置き、目利きと聞いて、紅蘭が興味津々に身を乗り出した。

「目利き? 一体、何の?」

「はい。実は、浜辺に住む漁民なのですが、換金して貰いたいと役所に届け出たものが、我々には価値を測りかねるものでして……。どうしたら良いか上司と相談して、


寮頭様に目利きをお願いする次第です」

「そうか……。私に分かるかどうか……自信が無いが、まずは出してみなさい」

 斎宮寮頭に促された役人が差し出した小箱を見て、紅蘭の顔色が蒼白に変わった。

「そ……それは、どうしてここに? え? 一体、どういう事?」

 狼狽する紅蘭を不思議そうに見た斎宮寮頭が、綺麗に布張りされた木製の小箱を手に取ると開けてみた。何の変哲もない小箱の中は、空であった。

「ちょっと……ねぇ、少し私に見せて頂戴」

 紅蘭が小箱を手に取ると繁繁と見つめ、感心頻りに頷いた。

「……やはり、見た目より遥かに重いわ。……間違い無い」

 きょとんとした様子の葵が、紅蘭に尋ねた。

「……何の事? その箱が何か、知っているの? 紅蘭」

「これは……前に薫から見せて貰って、その時教えて貰ったんだけど……」

紅蘭が小箱を開け、箱の底を覆った布を躊躇せず破ると、底板の四隅に窪みが現れた。懐剣で一か所を衝くと底板が外れ、中から錦に包まれた黄金造りの箱が現れた。

驚いて目を瞠る三人の前で、紅蘭が箱を開ける。中から出てきたのは、印綬であった。

「唐から入って来た知恵らしいけどね……。高貴な身分の貴人が大切な印綬を守る為に、敢えて敵の目を欺く工夫をして、粗末な仕掛け箱で覆って、その価値を隠匿する


んだって。この黄金造りの小箱も、宝玉をふんだんにあしらった豪奢なものだし……唐製かしら? いずれにしても、相当高貴な身分の方のものかも……」

 説明しながら、印綬の文字を読んだ紅蘭が顔色を変えた。

「太子って……? 確か桜様が仰っていた……といちの嫁ぎ先に勧められたという、神託に出て来た名前じゃなかった? ……貴方、確か漁民が持って来たって言ってな


かった?」

 慌てふためいた紅蘭が、斎宮寮頭に、漁民を連れて来る様に急ぎ命じた。


「太子だと?」

 葵の話に驚愕した東宮が、思わず礼賛と顔を見合わせた。

「確かにそう刻印されていたんだよ。それで、それを持参した漁民に話を聞いてみたんだけど……急な病人がいるからとせがまれて浜辺の小屋を貸してあげている人に、


自分たちは貧しい身形で換金に行けないからと、薬を購入する資金を調達する為に、印綬の秘密は何も知らされずに、あの小箱を渡されたみたいなんだ」

「何と……。では、その急な病人というのが、まさか……」

 礼賛が事の経緯に絶句する。

「それで……浜辺の小屋に避難している人々を、迎えに行ったのか?」

 東宮が、葵に話の続きを促した。

「うん。その浜辺というのが、この斎宮寮の目と鼻の先だったから、斎宮寮頭と僕達で、すぐに迎えに行って斎宮寮に連れて来たんだけど……皆一様に衰弱していたから


、直ちに薬を利用すると却って毒になるので、とりあえず湯あみと食事を済ませて、今、紅蘭が付き添って別室で休ませているんだ。彼らは片言の日本語以外は喋れない


から筆談で会話していて、詳細はまだ聞いていないけれど、体力を回復してから話を聞こうと思っていた。紅蘭が薫を通訳として連れて行ったのは、もしかすると、ぽつ


ぽつと経緯を話し始めた人がいるのかも……」

「何と……。私ならば、太子とは面識がある。ひと目お会い出来さえすれば、真贋が立ち処に判明するものを……。もどかしいが、話すのもやっとという現状では、お部


屋に立ち入り拝謁させて頂く事は、著しく礼を欠く行為であろうな……」

 いてもたっても居られない様子で礼賛が焦燥していると、薫が現れた。

「薫、どうだった? 先方の様子は?」

 葵が身を乗り出すと、静かに端座した薫が口を開いた。

「侍女だという女性の話を聞く限り、太子に間違い無いと思うが、太子と思しき御方は今、熟睡されている。最終的には面識のある礼賛の判断を仰ぐことになるだろう。


彼らから聞いた話をかいつまんで話すと、どうやら太子を乗せた船が難破して漂流していた所を渤海人の密貿易団に助けられ、金目のものは殆どその時に奪われてしまっ


たらしい。その後、身分を隠したまま伊勢の港まで来たものの、太子が酷い船酔いで生死を彷徨ったらしく、衣服と引き換えに薬を求め、船を降ろして貰い、そのまま動


かせずに浜辺近くの漁師に頼んで、空き小屋で避難させて貰っていた様だ。だがいっこうに容体が良くならないので、念の為、町医者に船で貰った薬を診せたら、最近こ


の辺で万能薬だと偽って出回っている麻薬だと言われ、新たな薬を購入しようと、到頭印綬の入った小箱を手放す事を決断し、漁師に換金を依頼した様だ。無論、小箱の


秘密は教えず、後に買い戻すつもりであったらしい」

薫の話を深く傾聴していた礼賛が、太子の災難を慮ると双眸に涙を滲ませた。

「私も、船旅の過酷さは身に染みて理解しているつもりだ……。殿下が、どの様な思いをされたかと思うと……」

「礼賛……」

薫が、思わず遠い過去を思い出した。

公済様と渡った唐土……。なんと魅力的で、そして何と恐ろしい……まさに、命懸けの旅程であった。……それを礼賛は幾度も苦難に遭遇しながら決して怯まず、果敢に


挑戦して往来しているのだ。……なんという情熱。……なんという勇気。

……礼賛、私は君を心から尊敬する。……誇りに思うよ。

薫が慈愛に満ちた柔和な瞳で礼賛を見つめた。


 翌日、目覚めた太子に、礼賛と薫が拝謁した。まごう事なき太子の姿に、座礼した礼賛が心から安堵すると口上を述べた。

「……太子様。心より、お捜し申し上げました。私は渤海国より殿下をお迎えに参った礼賛と申します。これより先、私が渤海国まで、必ずや殿下をお守り致します」

「遥々、渤海国よりの迎え、大儀であった。……頼もしい限りと感謝します」

 事の成り行きを見届ける為同席した薫が、雄爽とした礼賛の背中を見て微笑むと、そっと席を後にした。

 当初から面会を控えた東宮同様、公の立場上の問題があったからである。こうして太子の渤海国への亡命は、暗暗裡に完遂される事となった。



「昨日、礼賛が出立した」

 帰京後、二条院に顔を出した薫が東宮に報告する。

「ほう、思ったより太子の回復が早かったと見えるな。……ま、俺は知らない(・・・・)()だが」

「当然だ。お前は、罹って(・・・)も(・)いない(・・・)重篤(・・)な(・)風邪(・・)により一週間以上、二条院で静養していた筈の身の上だからな」

 痛烈な薫の皮肉に、東宮がチッと舌打ちすると言い返した。

「……お前の厭味も、そうとう堂に入って来たな。俺が伊勢に行かなかったら、内院をどうするつもりだったんだ、お前? 感謝しろ」

東宮(・・)()、早く支度しないと、帝の御召に間に合いませんよ」

 東宮の言い分など微塵も取り合わず、何とも艶麗に微笑んだ薫が慇懃至極に促した。


 久久に参内した清涼殿は、行きかう人々の視線をやけに感じる堅苦しいものであった。

「チッ。全く鬱陶しいな! 今日は気のせいか、久方に俺を見たとばかり、無闇矢鱈とねぶる様な視線の嫌な連中ばかりだ。……ほら、見世物ではない、あっちへ行け!


 殿上人をしっしと払い、所構わず噛み付いては不機嫌極まりない東宮に、眉を顰めた薫が苦言を呈する。

「気のせいではないぞ、大津。今日は実際、異常なほど皆が皆、お前に傾注している」

「何ぃ? ……やっぱりか。何とも失礼な奴らだ」

「……何事か、あったのかも知れないな」

 ……絶対、お前の素行に関係する事だと思うがな。一気に滅入った薫が嘆息する。


 帝に拝謁すると、帝はおよそ見た事も無い程上機嫌であった。伊勢より帰参した薫が、まずは詳細を報告する。目を細めた帝が甚く満足すると薫を労った。

「御苦労であったな、薫。そなたの早馬による迅速な報告書により詳細を知ったが、藤原知長に関しては、既に全国で指名手配犯として、検非違使が追跡しておる。また


斎宮寮の地牢にて、武者小路中納言の詮議を逃れる為服薬し発狂した女官も、時折正気に返る際に尋問しておる所だ。まだ詳細な調査が必要な部分はあるが、ひとまずこ


れで落着し、伊勢の斎宮も、さぞかしそなたに感謝しておる事であろう。実はそなたの留守中に、斎宮より最新の神託が届いておってな、それにより、朕は斎宮が解放さ


れ元に戻ったと悟り、安心しておったところじゃ」

「私の留守中に届いた、新たな神託……と仰いましたか?」

 帝の言葉に、眉を顰めた薫が記憶を辿る。

……まさか……斎宮様が監禁中に書かされた、もう一通の神託では……?

微かな不安が胸を過った。稀に見るほど嬉々とした帝の様子も何か怪しく引っ掛かる……。

「神託は『東宮は大津では無く、有希皇子が良い』というものであった。これこそ、真の神意じゃ! 常々、朕も思っておった所じゃ。神通力というものは、凄いものじ


ゃのう! 積年の朕の懸念を一瞬で払拭し、殿上人も諸手を挙げて感涙に噎び、喜んでおったわ」

 ……やっぱり、そんな事か……。

伊勢での一件の後始末と、東宮の不在証明に奔走していた薫がやれやれと深く嘆息するなり、呆れ果てて閉口する。

「阿呆らしい。揃いも揃って、馬鹿ばかりだな!」

 鼻を鳴らした東宮が、大笑するなり放言した。

「……何じゃと?」

「徹頭徹尾、馬鹿げた神託に振り回され、一喜一憂するとはな! 偽りの神託も見抜けず、右往左往するなど見苦しい。神託云云で暗愚に迷い、狼狽して薫に検分を命じ


るよりは、己の心眼を鍛えたらどうだ?」

 帝がかっかと笑うと、からかう様に東宮を見遣った。

「ふん、何とでもほざくが良いわ。さぞ不本意であろうな。そちが軽んずる神託により、廃位を提案された身としては、立つ瀬がないであろうからな!」

「何ぃ?」

 眉を上げた東宮が、わなわなと身を震わせた。

「そちが馬鹿どもと嘲った輩が、そちの言う馬鹿げた神託により提案されたそちの廃位を決めたのだ! ……さぞかし結果が、気になる事であろうな」

悪辣な顔で睥睨し、たっぷりと厭味をのたまった帝に、東宮が苦虫を噛み潰した顔になる。

「くそう、また勝手な事を……」

 ぎりっと歯噛みした東宮に、帝が揚げ足を取る様にせせら笑った。

「何を言う、朝儀に出席しない方が悪いではないか」

「俺は寝込んでいたと、知っていただろう!」

「みえすいた嘘を吐きおって。どうせ、どこぞで遊び呆けていたのだろうが。白状せい!」

恒例の親子肉弾戦の口火が切られると、飽き飽きと傍観していた薫に大蔵卿が歩み寄り、声を潜めて耳打ちした。

「御安心下さい、薫様。……採決は意外にも、反対多数で否決されました。それを知って、帝はあの様にご満悦であらせられるのです」

……なんとまあ同じ、素直でない厄介な個性だ。薫がふっと相好を崩すと頷いた。

「それより薫様。これを御覧下さい」

一巻の巻物を手にした薫が、不思議な眼差しで大蔵卿を見つめた。

「何だ? ……これは、各省の予算案ではないか」

薫が手にした巻物の紐を解き、目を通す。

「ええ、そうなのですが……」

大蔵卿が無言のまま、ある数字を指し示した。

「何!」

仰天した薫が珍しくも声高になる。とっさに手を止め足を止めた帝と東宮が、驚きのあまり振り返った。

「どうした、薫?」

東宮が尋ねると、眉間に深い皺を刻んだ薫が、東宮の眼前に巻物を突き付けた。

「斎宮寮が軍備を異常に強化して、四桁上乗せした予算を請求してきた。明細を見ても、この時代に無かったと思われる兵器まで満載だ……。当然、こんな予算は承認出


来ない。だが既に暴走した斎宮様が、全てを事前決済で購入済、との事だ」

斎宮の暴走に驚愕しつつも、しれっとして東宮が答える。

「それは斎宮の判断なのだから、斎宮が責任取ればいい話だろう? 俺には関係無い」

飄飄と言い放つ東宮を、薫がぎろりと睨み付けた。

「そうは行かない。お前、身に覚えがあるのではないか? 斎宮側は、東宮が『何かあれば俺に言え、必ず助けてやるから』と確約した……と、その言質を証明する女官


の署名百人分と共に、ここに送り付けて来てあるぞ。言わば、お前は連帯保証人だ」

「何?」

肝を冷やした東宮が、自分の言動を振り返る。

……確かに伊勢を去る前に……桜に対して、言った覚えのある台詞だ……。

「あ……あれは、軍事的な救援をするという意味だろう! 財政支援など、断じて約束していない!」

東宮の言葉に、大蔵卿が瞠目するなり口を挟んだ。

「え……東宮様は、お約束された記憶がおありなのですか? 東宮様は一週間以上二条院にて寝込まれておいででしたので……私はてっきり、斎宮様が気鬱されて妄言さ


れているのかと思っておりましたが……」

驚いた大蔵卿が薫に同意を求めると、薫が笑顔で頷き、眦を欹て東宮を無言で牽制した。

……チッ。くそぅ。伊勢に行ったことがバレると、後々もっと面倒だ。

東宮が悔し紛れにぎりぎりと歯噛みすると、薫に食って掛かった。

「くそう、俺に、どうしろというのだ!」

「そうだな……。少なくともお前はこの先、百八十年以上、ただ働きだ」

 薫の容赦無い最後通告に、堪忍袋の緒が切れた東宮が猛り狂った。

「百八十年? ……一生どころか、一生の何回分だよ、それ! 鬼か、お前は! お前も一緒に責任取れよ! 葵に紅蘭に、といちも親父もだ! 皆で割ればいいではな


いか!  お前、少しは考えろよ!」

 東宮の背後で、愉快千万と豪快に笑う帝が、声高らかに薫に命じた。

「ならんぞ、薫! 一生、ただでこき使うのじゃ!」

 ありえないと咆哮し続ける東宮を放置したまま、薫がくるりと巻物を巻き終えると、温雅な瞳で大蔵卿に手渡した。

「……そういう事だから、君は何も責任を感じなくていい。後は、私が引き受けた」

 寒波など何のその、積雪など物ともしない熱気を孕んだ清涼殿の乱痴気騒ぎに、その場を後にして良いかためらった大蔵卿であったが、留まっても自分に出来ることは


皆無でありまた無益であると悟ると、仏の様に微笑む薫の笑顔に見送られて、清涼殿を後にした。



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