沈黙の内院
迎賓室にて桜姫の病状日誌に目を通しながら紅蘭を待っていた葵は、俄かに慌しい寮内の様子に気付くと顔を上げた。
「勅使殿、お役目ご苦労様でございます。どうぞこちらへ」
幾分緊張した斎宮寮頭の声が響いたかと思うと、まもなく大勢の官吏に囲まれ、薫と楓が姿を現した。葵が歓喜するなり席を立つと、薫を出迎える。
「薫! どうして、ここに?」
葵の姿を認めた薫が、瞳柔らかく艶然として口を開いた。
「葵! やはり、紅蘭と伊勢に来ていたのだね。無事で何よりだった」
勅使として訪れた薫に、斎宮寮頭が恭謙すると上座を勧める。薫がふわりと端座すると、随従した楓が葵にふっと微笑み、凛と侍座した。
「勅使殿のご使命とは、どの様な向きでございましょうか」
下座に平服し、甚だ恐縮した様子の斎宮寮頭に、薫が温顔を向けると端的に答えた。
「突然の下向に、さも驚いた事であろうね。だが安心し給え。私の用向きは、君達の処遇に直接関するものではない」
斎宮寮頭を始めその場の官吏が一斉に胸を撫で下ろす。薫が温柔な瞳を向け微笑んだ。
「勅命により、私はこれより斎宮様に拝謁して勅旨をお伝えしなければならないが、取次ぎを頼みたい」
「は……はい」
いささか当惑した様子の斎宮寮頭に、楓が凛然と問い掛けた。
「勅使殿の命である。急急として律令の如くされよ。……何か、不都合でも?」
「い……いえ、不都合などは……。ただ……」
実直な斎宮寮頭が蒼惶するなり現在までの経緯を話すと、眉を顰めた楓が問い返した。
「……何? では現在、紅蘭殿が内院にて、斎宮様にお会いされているのだな?」
「はい。もう、一刻程になるかと思いますが……」
斎宮寮頭が答えると、楓がちらと薫に目を配る。静黙していた薫が、ふと怜悧な双眸を欹て庭を一瞥すると、おもむろに口を開いた。
「……では、橘殿の所用が済み次第、我々が拝謁出来る様に、貴殿に取り計らって頂こう。それまでは、ここを人払いして貰いたい。私も武者小路中納言も、息つく暇も
無い強行軍だったからね。幸い、侍医の榊殿も居られる事だから、旅の疲れを癒しながら、暫しゆるりと休ませて貰うとしよう」
薫が柔和に微笑むと、斎宮寮頭が恭しく平伏した。
「はい、畏まりました。ただちに、仰る通りに致します」
斎宮寮頭が退出し、付近から人の気配が無くなると、楓が愉快とばかり笑い出した。
「薫! 貴方も、友禅様譲りの役者だな! 怪しまれずに、まんまと人払いするとは」
薫が艶然として目笑する。
「人聞きの悪い。楓、君だって同じ事をした筈だ」
きょとんとして静観する葵をさて置き、楓が笑った。
「全く、貴方という人は油断も隙もならないな。仏の様な顔で人を安慰しておきながら、その実、冷徹に詳察して真実を見極める。彼等を安心させて泳がせたはいいが、
どう決着させるつもりなのだ?」
薫が口元を綻ばせると、やんわりとして楓に答えた。
「流石に、斎宮様と斎宮寮側……同時に調べる事は難しいからね。神託が出されるまでの経緯の何処に問題があるのか……さてまた、その顛末が正当であれば、神託その
ものは、あれで正しい事になる。あくまで慎重に判断しなくてはね。……だが」
不意に口を噤んだ薫が目を側めると庭を見遣り、端雅な足取りで欄干に歩み出た。ふと庭木に手を伸ばすと、枝葉に留まっていた白雪の如く真白な文鳥が、薫の指に飛
び乗った。驚いた葵が、思わず口を挟んだ。
「あれ、杏姫?」
楓が不思議そうな顔で眉を上げると、青ざめた葵が薫に向き直る。
「紅蘭と一緒にいた筈なのに! 薫、まさか紅蘭に……」
薫が静かに頷いた。
「……何か、良からぬ事があったらしいな」
言葉の端端に、緊迫する状況を察した楓が眉を顰める。
「紅蘭の使い鳥か? 見た所、手紙は何も付けていない様だが……?」
葵が蒼然として、憂慮を露に薫を見上げた。
「手紙を書ける状況に無かったのかもしれない。……大丈夫かな、紅蘭。一体、何が起きたんだろう……。どうしよう、薫」
静黙していた薫が、手にした純白の文鳥を愛撫するなりその下顎を擽ると、杏姫が訥訥として声を発した。
「……我唯幽閉。……多数人質。……唯唯諾諾。……孤立無援。……紅蘭!」
葵と楓が吃驚するなり、思わず顔を見合わせる。断片的な杏姫の言葉に、内院の内情を窺い知った薫が顔を曇らせた。
「文鳥はよく人に慣れ、覚えた人語を復唱する性質がある。杏姫の言葉を聞く限り、これは斎宮である桜様の言伝だ。人質を多数とられた上に桜様は幽閉され、孤立無援
のまま唯唯諾諾と何者かの意思による神託を強要された状態と思われる。……どうやら紅蘭は桜様にお会い出来たものの悪意ある何者かに捕えられ、共に窮地に陥ったと
見えるな……」
鋭利な楓が薫の言葉に頷きながらも、抱いた疑念を口にした。
「では斎宮寮の人間は、内院で起きた変事を知らぬまま内院の女官が齎す情報を鵜呑みにして、斎宮様が御気鬱とばかり当惑しているとでも……? ……腑に落ちないな
。得体の知れぬ敵が多数の人質を内院に捕えているにも拘らず、斎宮寮の人間が誰も気付かないとは、流石に不自然ではないか……? もしや、杏姫の能力を逆手にとり
、敵方が我々に仕掛けて来た罠……なのでは?」
楓の指摘に、冷静な薫が頷いた。
「確かにあらゆる可能性を模索し、考慮する必要がある。だがそもそも、といち様の文を届けに赴いただけの紅蘭が一刻を過ぎても戻らぬという現状は、内院で何か想定
外の事態が起きたと見て間違いないだろう。楓の懸念に加え、待機していた葵が内院の異変に気付かなかった事からして、まずは秘密裏な内院の実態を明らかにしなけれ
ばならないな……」
「では当初の想定通り、私が女官姿で内院に潜入しようか?」
颯爽と申し出た楓に、薫が答えようとした時だった。ふと、近付く人の気配に気付いた楓と薫が、瞬時に目配せするなり静黙する。
「勅使様。お休みの所を、大変失礼致します」
斎宮寮頭が廊下で平伏するなり言上した。
「橘殿が、戻られたのか?」
薫が問うと、斎宮寮頭が困惑頻りに返答した。
「それが……。内院に斎宮様への取次ぎを申し出ました所、『今日は日が悪いので、男性である勅使殿にはお会い出来ぬ』と一蹴されまして……」
「何?」
さしもの薫が驚くと、憤慨した楓がきっとした態度で詰難した。薫の手に乗る文鳥が、俄かの励声に慄いた様子で薫の袖口に飛び込んだ。
「何と申される! 無礼も大概に致せ! 内大臣殿は、畏れ多くも帝の厳命を受けた勅使であらせられるぞ! 貴殿も承知の通り、奉勅した使者の言葉は帝の意に同じで
ある。斎宮様といえども勅使を蔑ろにされる事は、帝への謀反に相当する重罪! なんと心得るおつもりか!」
激しい非難に逼迫した斎宮寮頭が、おそるおそる斎宮の疏状を奉上すると、受け取った薫が目を通す。果たして、確かに斎宮である桜姫の筆跡であった。血気に逸る楓
を抑え、静慮していた薫が口を開いた。
「弁明のお言葉、確かに受け取りました。……では明日、拝謁致しましょう。ですがこれ以上は、たとえ如何なる理由が生じようとも、一刻の猶予も認めません。斎宮様
には貴殿から、その旨をしかとお伝え下さい」
恐懼した斎宮寮頭が退出すると、楓が怪訝な顔で薫に向き直った。
「何故だ、薫? 桜様と紅蘭が囚われた可能性の高い今、勅使に対する不敬を口実に、内院に踏み込む絶好の機会であったのに! これでは、むざむざ敵に一日を与えて
やった様なものではないか。どうするつもりなのだ?」
沈深なる薫が、冷徹に答えた。
「……まだ、敵を見極めた訳ではない。未知の敵が既にあまたの人質を取り、内院をほしいままにしているならば、内院はまさに敵の『実』だ。やみくもに敵の『実』を
攻めても、此方が大敗を喫するだけだ。敵の虚実を知るまでは、此方の態勢を曝す訳には行かない。現時点で斎宮寮の人間が、此方に忠勤な味方であると断定出来た訳で
もない。……最悪、我々の小勢のみで敵を破る場合には、敵の『虚』を衝くより他ない。今在る敵の『実』を分散して『虚』を誘うには、此方が敵の思惑に乗った振りを
して、機を窺うより無い」
楓がふふっと口元を綻ばせると嫣然とする。
「雅趣に富んだ貴方が、まさか『孫子』にまで深く精通しているとはね! 流石は大津の懐刀だな! ……それで、その口振りだと、敵の虚実を探る手段が、貴方にはも
う見えているのではないのか?」
興味津々と身を乗り出した楓に、薫が艶麗に目笑する。
「聡いね、楓! 実は、杏姫のお陰で気付いたのだが……」
薫が直衣の袖口から萎縮した杏姫を取り出すと、胸元にそっと匿った。
刹那、薫が庭に大きく片手を差し伸べると、一陣の風が舞い込んだ。
大きな影が楓と葵の眼前を過ぎると、薫の腕に留まった見事な大鷹を認め、嬉しそうに葵が叫んだ。
「蒼王!」
得心した楓が、薫の胸に隠匿した杏姫を見遣り、大きく頷いた。
「成程、俄かの叱声におののいたと思ったが、蒼王の出現に身を竦ませていたのか!」
「そうだ。何故、伊勢にいるのか不明だが、まもなく大津がここに来る。東宮である大津ならば、内院の禁忌であろうと、斎宮様の名の元に発せられた意思が何であろう
と、一切の遠慮が不要だ。この難関を突破して敵の出方を窺うには、まさに打って付けの存在だ」
「……あれ、薫。何か手紙が付いてるよ?」
蒼王の足に取り付けられた小筒に気付いた葵が、慎重に手紙を取り出すと読み上げた。
「あと半刻で斎宮寮に着く。薫、飯と風呂」
「……蒼王を先によこした理由は、それか……?」
楓が瞠目するなり失笑する。著しく緊張感を欠いた手紙の内容に、総容が甚だ呆気に取られると、怒り心頭に発した薫を筆頭に長嘆した。
「ふん、内院が落ちていたとはな!」
予告通り半刻後に現われた東宮は、一連の経緯を聞くと、鼻を鳴らして憤慨した。
「もうじき、紅蘭が内院に行ってから二刻になる。大丈夫かな……紅蘭」
葵が満面に憂色を湛えると嘆息する。
「敵の目的は定かでないが、人質を取り、斎宮様を傀儡とする輩だ。桜様は勿論、紅蘭も大切な人質として、そう邪険には扱われていないと思うが……。精神的な疲労は
相当なものだろう」
薫の懸念に同調して頷くと、東宮に向かい楓が尋ねた。
「……それで、どうするのだ? 正面から皆で内院に赴くのか? それとも、私と茜で密かに潜入して内情を探ろうか?」
鋭敏な東宮が、にやりと笑った。
「今、茜に命じ、内院を除く斎宮寮内を探らせている。……お前等が、斎宮寮頭に会った印象はどうだ? ……信用に足る人間だと思うか?」
安座していた葵が、感じたままの見解を述べた。
「……僕の見た限りでは、職務に忠実で、桜様の御気鬱を本気で心配しているみたいだった。紅蘭も同意見だと思うけど、彼は、信じても大丈夫じゃないかな」
頷いた楓が、言葉を継いだ。
「確かに葵の言う通り、不器用なほどに真面目な男に見えた。朴訥として、実直な人物に思えたぞ? 薫はどうだ?」
淡淡として、薫が頷いた。
「私も、同感だね。彼は内面よく表に表れ、読み易い。人情を解して絆され易いが、権威に弱い。純朴で、およそ企謀に向かない人物だと感じた」
得心した東宮が、いつの間にか背後に控えた茜を見遣る。
「俺も一見した感想は、お前等と同意見だ。……さて茜、どうだった?」
茜が一礼して畏まると、答えた。
「はい。総容が自らの職務に精勤しており、不審な点は見受けられませんでした」
東宮が頷くと、凛として命じた。
「よし。では、決まりだ! 斎宮寮頭をここに呼べ」
内院が知らぬ間に敵に浸襲された可能性があると聞き、斎宮寮頭が真っ青になる。動転しながらも、露とも気付かなかった己の失態を責め、甚だ恥じ入った。
「悠長に慚悔している暇は無い。失ったものは、自らの手で取り返せ」
「は、はい」
東宮の一喝に、顔を上げた斎宮寮頭が甚く恐縮する。
「心配するな。何も、お前だけにやらせるつもりはない。お前は、忠烈な手勢を率いて共に来い」
豪然と立ち上がった東宮が双眸を転じると、総様に尋ねた。
「お前達、支度は出来たか?」
楓が颯爽と立ち上がると、爽快な顔を向け微笑んだ。
「勿論だ。念の為、弓矢も用意した。抜かりは無い」
「葵」
葵が薫より戻された安綱を佩くと、幾分緊張した様子で頷いた。
「薫、どうだ?」
広広とした地図を手早く折り畳み、懐に入れると、艶然として薫が答えた。
「問題無い。……覚えた」
怜悧な薫に舌を巻くと、東宮が踵を返した。
「これから内院を奪還する。数多の人質がいる。失敗は、許されない」
眼光鋭い双眸を炯炯と光らせると、東宮が宣言した。
「内院に告ぐ。東宮様のお成りである。至急、開門されよ」
当然として外界を峻拒する内院は、凛とした楓の要請に、傲然と屹立していた。
森厳無比に聳立する内院に、業を煮やした楓が声高に叱責する。
「即刻開門せぬとあれば、直ちに門扉を破砕する!」
刹那、壁渡殿と寝殿を隔てる暗暗とした関門が音も無く内側に開き、高位の女官姿の女がひとり現れた。
「……これはこれは東宮様。唐突なる入御とは一体、何事でございましょうか」
東宮がじろりと女官を一瞥する。
「ふん。別件で近くに来たから、たまには先祖参りでもしようと思っただけだ。これより、神宮へ参拝する。御幣を捧持して斎宮も同道しろ。斎宮は何処だ?」
直入に用件を述べた東宮に、女官が恭しく一礼すると、緩緩と答えた。
「……おそれながら斎宮様は御気鬱にて、また女性特有の『穢れ』の時期にも当たり、現在公務は全て憚り、神宮への参拝に同行という行為は、不可能な状態であらせら
れます。されども神宮には常時神官が居りますので、東宮様の御参拝には何の支障もございません」
眉を上げた東宮が、ふんと鼻であしらうと口角を上げた。
「そうか。ならば、じかに見舞ってやろう」
言うが早いか、今にも豪然と踏み入ろうとした東宮に、驚いた女官が瞠目する。
「なんと仰せられます? 内院は、一切の殿方の出入りを禁じた清浄なる場所。東宮様といえども、掟を破る事は許されません。それに……」
女官が東宮の背後をちらと見遣ると、厳然として戒めた。
「背後に武官を従えておいでとは、何たる事です! なんと物物しい。臥せておいでの斎宮様に武装したまま御見舞いとは、あまりに無作法ではございませんか! 内院
は宮中同様、武器の所持は一切、認められません。どうぞ、このままお引取り下さいませ」
頑なる女官の申し出に、東宮に侍立する楓が冷笑する。
「貴女は宮中同様と言いながら、何の礼儀も弁えておられぬ様だな。殿上で帯刀が許されぬのは一般の臣民なればこそ! 皇嗣である東宮様は勿論、東宮様の守護が役目
の帯刀役は、いかなる場合も帯刀が許される。先程から無礼であるのは、貴女の方だ」
女官がぐうの音も出ず引き下がると、静黙していた薫が東宮に進言した。
「……されど、斎宮寮頭の手勢まで率いては、内院の禁忌に著しく抵触する事はおろか、斎宮様の見舞いという此方の誠意も、不本意ながら疑われる事でしょう。ついて
は、内院の門扉を開いたまま、斎宮寮頭の精鋭は此方に待機させ、我々帯刀役のみ随従されて見舞われる方が良いかと思います」
東宮が、にやりと笑うと頷いた。
「相、分かった。他の者も、異存は無いな?」
「はい。帯刀先生(帯刀役の長)に、従います」
楓と葵が口を揃えると、不安気に動静を見守る斎宮寮頭を見遣り、東宮が命じた。
「今、聞いた通りだ。お前は手勢と共に、指示があるまで此処に待機しろ」
内院陥落の危機と知り、東宮を奉じて内院奪還の一翼を担うと意気込んだ斎宮寮頭が、出端を挫かれ、俄かに当惑顔になる。
「案ずるな。異変があれば、直ちに貴殿の助力を要請する」
東宮に侍立していた薫が双眸を欹て目を配ると、安意を得た斎宮寮頭が黙諾した。
「では、斎宮様の御許にご案内致します。くれぐれも、静粛になさって下さい」
先鋒を買って出た楓が先導する女官の背後にぴたりと身を寄せると、声を低めて囁いた。
「小細工を弄せず、しかと斎宮様の許に案内して頂こう。ゆめゆめ誑かそうなどと考えない事だ」
こつんと背にあてがわれた物騒な鋒鋩に、女官がひっとおののいた。
内院は殊のほか静寂であった。女官に先導され、凛冽なる廊下を歩きながら、楓、東宮、葵、薫が各々五感を鋭意に研ぎ澄ます。不思議な事に、人の気配は何も感じら
れなかった。殿の薫が、何やら短く文を認めると矢柄に結び、密かに放つ。放たれた矢は正確無比に、内院入口にて待機する斎宮寮頭の眼前の床に突き刺さっ
た。
驚いた斎宮寮頭が急いで矢文を広げ、薫の指示を確認する。
『機を見て、火の騒ぎを起こす。直ちに呼応して、大挙されよ』
命を得た斎宮寮頭が静かに頷くと、全身全霊を傾け、その時を窺った。
未だ内情が分からぬ内院は、戦で言えば城攻めの様なものである。既に内院が完全に陥落しているのであれば、まさに敵が万全の態勢を整えている死地に飛び込む様な
ものであった。堅固なる要塞に、正面から当っては勝ち目が無い。何としても、敵の虚を衝かなければ……。鉄壁の防備に『虚』を誘わなければ、勝算が無い。
怜悧な薫が己の戦力を見極め、内院を検分して敵の内情を探りつつ、行雲流水の如く柔軟な姿勢で対応する。先程、あえて勢力を二分したのは、有事の際を憂慮すれば
こそであった。東宮を守り、犠牲無く人質を全て解放して、内院を奪回しなければ……。生来冷静なる薫が、いやが上にも冷徹になる。
無論、薫の進言を直ちに笑って聞き入れた東宮は、以心伝心に同じ境地に居た。もっとも、論理的で智謀に長けた薫とは異なり、全てを当然の様に、その恐るべき本能の
まま理解していた。
女官が白木扉の前に立つと、一同を振り返り一礼する。
「斎宮様の御座所でございます。只今、斎宮様に取り次いで参りますので、しばしお待ち下さいませ」
入室した女官が開いた扉を閉めようとした刹那、扉の内側を瞬時に垣間見た楓が、はっしと太刀の鞘を挟み、制止した。
「見れば、扉は二重ではないか? 故に、こちらの扉は、開いたままにして頂こう」
なんとも冴えた楓に、女官が顔を曇らせる。ちらと背後を振り返り、答えた。
「……分かりました。仰る通りに、致します」
女官が両開きの扉を開くと、眼前に施錠された白木扉が現れた。背後を楓に脅かされた女官が扉の前に歩み寄り、錠を外すと立礼して口上を述べる。
「斎宮様、只今、東宮様がお見えになりました。お通し致します」
がらんとした空間に、何とはなしに違和感を覚えた葵が四方を見遣ると、女官の目を潜り、四隅をそれとなく歩いていた薫がはっとして東宮に囁いた。
『油断するな。床板に二つ、人の温もりが残っている。つい今し方まで、此処に人が居たのは間違い無い。姿は見えぬが、近くにいる筈だ』
薫の忠告に、東宮がふんと口角を上げる。
『天井裏には、茜が居る。未だ何の反応も無い所を見ると、此処には誰も居らず、敵方は俺達の気配を察して奥に引っ込んだといった所だろう。胡散臭い奴等だな。化け
の皮が剥がれるまで芝居を続けるつもりらしい。……機を逃さず、騒ぎを起こせ』
薫がふっと微笑すると頷いた。
斎宮御座所の扉が開くと、楓に伴われた女官が先立ち入室する。楓の指示により、解錠された扉が再び大きく開かれると、東宮がずいと部屋に踏み入った。
部屋の奥にある御帳台は御簾が降ろされ、正面には几帳が置かれていた。
几帳の前に歩み寄った東宮が安座すると、眼光鋭く口を開いた。
「久方振りですね、斎宮。野宮での潔斎を終え、つつがなく群行を終えられた貴女が気鬱で臥せていると聞き及び、驚きました。お加減はいかがです?」
東宮に侍座した薫はもとより、油断無く女官の挙動を監視する楓と葵が帳台を注視すると、几帳越しの御簾の奥より斎宮が答えた。
「……東宮様。遠路遥々のお越し、真に恐縮です。本来であれば御簾越しとはいえ、懐かしい都の話を聞かせて頂きたい所でございますが、何分体調が優れず、貴い貴方
様に臥せた醜態をお目に掛ける訳にも参らず、どうぞ几帳越しの無礼をお許し下さいませ」
果たして、斎宮である桜姫本人の、紛う事なき声であった。なんとも悲涼漂う斎宮の声色に、その場がしんと静まり返る。
炯眼を欹て、辺りを精察した東宮が、にやりと笑うと口を開いた。
「成程。侍女も遠ざけ、ひとり淋しく臥せておいでとは、余程に重篤と見受けます。見舞いに参ったのですが、丁度良い。病が気鬱であるならば、直ちに治して差し上げ
ましょう」
言うが早いか、安座していた東宮が太刀を引き抜くと眼前の几帳を蹴り倒し、御簾を一閃した。東宮に呼応した楓が眼前の女官を瞬く間に拘束する。瞬時に抜刀した薫
が、倒れた几帳を切り裂き刀身に巻き込み、火鉢で点火するが早いか、素早く廊下の遠方に投げ付けた。
廊下に火種を確認した斎宮寮頭が、合図と同時に歴とした口実を得ると、大声で叫んだ。「内院が、火事である! 日頃の禁忌はさておき、直ちに内院を消火せよ!」
切迫した事態に、斎宮寮が俄かに周章する。かつて無い怒号叫号が響き渡る。
「緊急事態である! 人命第一に救助せよ! 斎宮様と東宮様を御守りするのだ!」
「急げ!」
斎宮寮頭が、手勢を率いて内院に大挙した。
裂開した御簾を払い除け、悍然と踏み入った東宮が瞬息、足を止めた。
帳台に踞座する斎宮の頚に突き付けられた鋭利な鋒鋩を認めるや否や、太刀を正眼に構え、じりじりと距離を詰めると、斎宮の背後の人影を容赦無く睨み据える。
背後の人影が東宮の挙動に傾注したまま、無慈悲な刃先を突き付けられた斎宮の両手を後ろ手に強暴に締め上げ引き摺り立たせると、自らもむくりと立ち上がる。何と
も驚いた事に、雲を衝くばかりの大男であった。
長身である筈の東宮や薫をも凌駕する大男に、臆した葵が、ひっと声を上げると戦いた。
綽綽とした大男が捕囚の斎宮を軽々と引き立てると、徐徐に後ずさる。優位に事を運んだと思った刹那、手に激痛を感じた大男が、思わず短刀を取り落とした。
一瞬にして東宮が、目にも留まらぬ速さで斎宮の肩を引き掴むなり自らの背後に匿うと、疾風の如く飛び込んだ薫が短刀を遠方に蹴り飛ばし、大男の喉許に太刀を突き
付ける。
瞬息の間に、形勢が覆された。男が手甲を貫いた刀子を引き抜きながら舌打ちすると、暗々裏に背後に忍び寄り、一撃で逆転の窮地に追い込んだ茜を憤然と見遣る。
「斎宮様! 東宮様!」
廊下を轟轟と踏み鳴らし、斎宮寮頭が手勢を率いて駆け付けると、絶対不利を悟った大男が、チッと舌打ちするなり身を翻す。切っ先上がりに太刀の鋒鋩を突き付けてい
た薫が迷わず一閃すると、男が咄嗟に肘を突き出し前腕で防御する。肉を切らせたまま、魁偉な体格を利用して体重を乗せ、剛悍に薫の太刀を押し退けると、間髪入れず
上空より襲い掛かった茜を撥ね除け、強引に逃走した。瞬時に体勢を立て直した薫が、敏活に追跡する。
寸寸に切り裂かれた御簾に、踏み荒らされた御帳台を目の当りにした斎宮寮頭が唖然として佇立すると、迅速果敢な東宮が、頭ごなしに叱責した。
「何をしている、斎宮寮頭! 手勢の半数を、薫の助勢に回せ!」
斎宮寮頭が慌てて命を下すと、斎宮寮の警備を担う門部の武官が、直ちに薫の後援に向う。東宮が背後を振り返り、斎宮に問い質した。
「桜、仔細は後だ。大事無いか? 紅蘭と侍女どもはどうした?」
斎宮の襟元に血が滲んでいるのを見て取った東宮が、心配顔で遠慮がちに斎宮を見守っていた葵を促した。
「葵、遠慮はいらん。桜を診てやれ」
頷いた葵が手当ての為薬箱を広げると、目笑して葵に感謝を表しながらも蒼然として、斎宮が口を開いた。
「私の事は、いいの。それより大津、急いで紅蘭の捜索を! 紅蘭とは、つい先まで一緒だったけれど、貴方が来る直前に、大薙刀を持つ男に連れ去られたわ」
「何? どこで監禁されているのか、分からないのか?」
眉を顰めた東宮が問い返すと、執縛した女官を引き据えた楓が口を挟んだ。
「ならば大津、この女官を詰問するか? 先程からの態度を見ても、此奴は恐らく奴等と内通しているか、手先として潜入している間者だぞ? 詳細は何でも知っている
筈だ。打ち据えれば、全て白状するのではないか?」
何とも恐ろしい楓の提案に、女官がひっと悲鳴を上げると斎宮に哀願した。
「あんまりでございます、斎宮様! どうぞ、東宮様に申し上げて下さいませ。私は斎宮様が赴任される以前より斎宮寮に属し、忠実に御仕えしてきた女官でございます
。それは斎宮寮頭様が、誰より御存知の筈でございます。此度は、忽然と現れた多勢の粗暴な者共に、あっという間に内院が占拠されてしまい、大勢の女官が人質とされ
た為、私は奴等の言いなりになるほか無かったのでございます! ただただ斎宮様の御身と同僚の女官達を守る為、やむなくした事でございます! 斎宮寮頭様!」
「……確かに彼女は長年斎宮寮に仕えている女官であり……今までの勤務態度は、これといった落ち度も無く勤勉でありました……」
哀訴する女官に斎宮寮頭が訥訥と答えると、斎宮が口を開いた。
「……私は赴任してこのかた日が浅く……そなたの過去は良く分かりませんが……」
困惑気味の斎宮に、楓が口元を綻ばせると、女官に向かい、鋭い口調で言葉を返した。
「それならば、聞こう。斎宮様が御気鬱であるという不埒千万な虚談を捏造したのは誰だ? 仮に、内院を制圧した『敵』に脅されて吐いた欺瞞としても、普通であれば
一命を賭してでも内院の危機を斎宮寮に知らせるのが、女官の道理ではないのか?」
青ざめた女官が、必死に反論した。
「……人質があればこそ! 斎宮様を無上に思えばこそ、でございます!」
冴え冴えとした楓の双瞳が、凛然として女官を見つめた。
「では、こうして斎宮様が保護された今、敵について正直に答えよ。敵の数は? 目的は何だ?」
顔を上げた女官が、取り乱した様子で切に訴えた。
「分かりません! 突如として現れた粗野な者達に瞬時に制圧された内院で捕縛された私は、大薙刀を持つ男と、先程逃亡した大男、奴等の仲間である礼儀知らずな女に
のみ命じられ、他は何も知りません! 本当です!」
静黙していた東宮が不意に片手を上げ、女官を遮ると口を開いた。
「茜、急ぎ、内院を調べろ。斎宮寮頭、内院に隠し通路や密室の類いはあるのか?」
拝命した茜が直ちに姿を消すと、吃驚した斎宮寮頭が顔を上げ、実直に答えた。
「ある筈がございません! 内院は外界と隔絶された聖域でございます。内院は二重塀で囲まれ、寝殿の南側には門部司があり、昼夜を問わず警護しています。斎宮寮の
中央に位置する内院は四方全てを役所に囲まれ、出入りは厳重に管理されています。また内院内部には男手が無く、采女ばかりでございます。斎宮寮に秘めたまま、その
様に大それた事など出来よう筈がございません」
東宮がふんと鼻を鳴らすと口角を上げ、その場にどかりと安座した。
「……ある筈が無い。そう思い込むのが、何より危険だ。おかしいではないか。女官の姿が見えず、訪れた筈の紅蘭が現に見当たらない。……人の気配も無い」
東宮が斎宮寮頭を一瞥すると、眼光炯炯とした眦を欹て女官を見据えた。本能的な恐怖を感じた女官が寒心を覚えると竦み上がる。
「この女官は、現時点で正邪の判別が難しい。故に、厳重な監視を付け、地牢に監禁しておけ。万事片が付き、潔白が証明されれば解放してやろう」
拘束された女官が連行されると、清涼な瞳を向け、慇懃至極に楓が尋ねた。
「東宮様、どうされるおつもりですか?」
公を意識して丁寧な口調ながら、どこか高揚している楓に、東宮が思わず苦笑する。
「……やれやれ、分かり易いな、楓! まあ、暫し待て。未だ敵の本体と接触した訳ではない。まずは、薫と茜の報告を受けてからだ」
血気盛んな楓が快爽に頷いた。
廊下に飛び出すが早いか全速力で逃亡する男を追い、薫が疾走する。寝殿と中庭を隔てる回廊を曲がった刹那、男の姿が消失していた。怜悧な薫が注意深く四方に目を
配ると、片膝を突き、床を確認する。
「薫様、ご無事で!」
「援護致します!」
「御命令下さい!」
馳せ参じた門部の武官が随従するなり、口々に薫の指示を仰いだ。槍を保持する武官が掻き消えた大男を求め、中庭の庭木を突いては捜索する。
回廊の床に点在する血糊を認めた薫が、顔を上げると冷静に口を開いた。
「奴は、手負いだ。そう遠くへは行っていない」
薫の意を受け、点点とした血痕を迅速に追尾した武官が、声高に報告した。
「薫様、どうぞこちらへ! この井戸で、血痕が途絶えています!」
血塗られた手形を井戸端に残したまま、雲散霧消として男の姿は消えていた。陰暗なる奈落の底を一瞥した薫が、拾い上げた石を投げ落とすと、カンという乾いた音が
響いた。
「……? 水が無い様ですね」
「空井でしょうか?」
その場が一様に驚くと、ひとりの武官が薫を見上げ、勇敢に申し出た。
「奴が潜伏しているに違いありません。私が底に下り、止めを刺してきましょうか?」
静黙していた薫が首を振ると、武官を制止した。
「……いや、それには及ばない。直ちに、灯火を持て」
灯火を取りに武官が全力で走り去ると、不意に薫の背後から声が掛かった。
「どうされたのですか? 薫様」
「茜」
建物内部を調べ終え、庭を探り始めた茜が薫に経緯を尋ねると、申し出た。
「東宮様に、内院をことごとく洗う様に命じられています。井戸の形状を調べると共に、私が奴を生け捕りにしましょうか?」
薫がふっと微笑むと、意味深に答えた。
「いや……おそらく奴は、底にはいない」
首を傾げた茜が理由を尋ねようとした刹那、武官が灯火を持参した。薫が井戸に灯火を投げ入れると、井戸の底が明明と照らし出される。
果たして薫の推察通り、人の姿は何処にも無かった。追撃を断念せざるを得ない状況に、武官達が八方塞がりとばかり消沈する。悄然とした武官と、狐につままれた様子
の茜に、揺揺と燃える炎を熟視していた薫が口を開いた。
「見給え。灯火の煙が立ち上らず、煙火は横に流れている。横穴が在る証拠だ」
薫の指摘に、武官が慌てて井戸の底を覗き込む。あっと息を呑み、俄かに活気付くと、こぞって追撃の許可を求めた。
「薫様! 直ちに底に下り、追尾致します。どうぞ御命令を!」
再び薫が首を振ると、はやる武官を冷静に諌めた。
「いや、駄目だ。狭隘な空間では、先に地の利を得た者が圧倒的に優位になる。横穴がどの程度のもので、敵の戦力がどれ程かは分からないが、君達をあたら死地に送り
込む訳には行かない」
「では、どうされるのです?」
薫が瞳を上げると温柔に微笑み、明瞭な指示を下した。
「狼煙に使う白煙を、燻り出しの要領で横穴に流せ。横穴がどうあれ、たとえ伏兵がいようとも、敵の本拠が地下であるとは考え難い。まず横穴の形状を知る事で、敵の
本体を窺い知るとしよう」
「はっ」
機知に富んだ薫の命に、武官が揃って一礼すると、直ちに作業が開始される。薫が茜に向き直ると尋ねた。
「茜、楼閣の様に、周辺を俯瞰できる場所は無いか? 案内して欲しいのだが」
頷いた茜がふと薫を見つめると、莞然として口を開いた。
「はい、薫様。すぐに御案内致します。あの……白煙についてですが、『混ぜ物』をしても、宜しいでしょうか?」
茜の提案に、思わず苦笑を浮かべた薫が艶然として頷いた。
「ふふ、思考回路がすっかり主に似て来たね。いいだろう。流血を好まない私の信念を理解している君ならば、よもや分量を違える事も無いだろう。横穴には、確率が低
いとはいえ、人質が居る可能性もある。……眠らせる程度だぞ」
茜がはきと了承すると、急ぎ薫を高台に案内する。瞰下した薫が、斎宮寮の郊外に立ち上る白煙を認めると、懐の地図を広げて位置を確認する。やがて頷くと、茜を促
した。
「直ちに、報告に戻るとしよう」
「何? 内院にある空井が、暗渠として斎宮寮郊外に通じているだと?」
東宮が眉を上げると、頷いた薫が周辺の地図を広げ、指し示した。
「そうだ。×印に白煙を確認した。おそらく、横穴が地上に通じる場所だろう」
鋭利な双眸を欹てると、東宮が茜に問い掛けた。
「茜、内院内部に隠匿された空隙などはあったか? 人の気配は?」
片膝を突き、畏まった茜が即答する。
「ございませんでした」
「……という事は、内院は既にもぬけの殻か。これで分かった。敵は空井を通じて侵入し、密かに内院を制圧した後、斎宮寮に気付かれる事なく暗渠を使い、人質もろと
も何処ぞの本拠地に移動したと見えるな」
鋭敏なる東宮が自身の見解を述べると、頷いた薫が地図上の一点を示し、口を開いた。
「敵の本拠だが……。地の利を見る限り、この離宮跡だろう」
「離宮跡……? まさか、そこは廃墟の筈ですが……」
思いも寄らない薫の指摘に、吃驚した斎宮寮頭が思わず瞠目する。
「建物はございますが、長年の放置により荒廃が進み、倒壊寸前と思われますが……。その様な場所に、よもや得体の知れぬ輩が潜んでいようとは……」
斎宮寮頭が驚嘆すると、楓が怪訝顔で首を捻る。
「だが、腑に落ちないな。斎宮寮の地図にも、内院が保持する詳細図にも、この空井の記載が無い。敵方が長年の陰謀の末、徐徐に侵襲した隧道だとしても、いくら何で
も内院に敵が侵入口を開けば、気付かぬ筈が無いではないか」
もっともな楓の疑問に、黙然としていた葵が口を挟んだ。
「井戸は、もとから内院にあったものなんじゃないの?」
葵の言葉に頷いた楓が、深まる謎を口にした。
「ならば何故、外部の敵が、井戸の位置を正確に把握出来たのだ? 内院に内通者が居たと仮定しても、地図上欠落した井戸の存在を、正確に知っていた者という事にな
る」
「そう言えば……」
不意に口を開いた桜姫に、一同が一斉に傾注する。
「中庭の空井……もしかしたら、それは……。歴代の斎宮がお忍びで内院を脱出する為に、密かに設えた間道かもしれないわ」
「何? どういう事だ、桜」
東宮が眉を上げると、問い質した。斎宮である桜姫が俄かに苦笑すると、眼前の斎宮寮頭を憚りながら小声になる。
「……私も、まだ赴任して日が浅いから、全部を読み終えた訳ではないけれど……。外界と隔絶された内院に居住を強制される斎宮は、日常が抑圧されているせいなのか
、孤独で居た堪れないせいなのか、はたまた都への強過ぎる郷愁があると言えば良いのか……」
「……だから、何だ?」
歯切れの悪い物言いに、痺れを切らした東宮が結論を促すと、赧然とした桜姫が、一層声を顰めて話を続けた。
「だからね、……歴代の斎宮が記した私日記によると、所在は明記されていないけれど、密かに内院を脱出して、逢引に使う様な抜け穴があるみたいなの。……日誌は、
ちょっと読んだだけで、もう何と言うか、赤裸々なのよ。狩の使いとの許されぬ恋を綴ったものや、怨恨、呪詛まで、何でもありといった所だわ。隧道は、抑圧された斎
宮のあらゆる欲望の捌け口として、秘密の通路的に、歴代が利用していたらしいのよ」
あられもない暴露話に、その場がしんと静まり返る。
眉を顰めた東宮が、やれやれと盛大な溜息をつくと問い返した。
「……まあ、全ての自由を阻害された身としては当然、有り得る話だな。……それで? どうなんだ? その不謹慎な抜け穴は、ひとつだけなのか?」
「……おそらくそうだと思うけれど、何分、文中には場所が特定されていないのよ。先代の斎宮様から遡って読み始めたのだけれど、少なくとも先代の日誌には一切の言
及が無かったから、現在も存在している隧道だとは、思いも寄らなかったわ」
静黙していた薫が桜姫の言葉に頷くと、推察する。
「空井が歴代斎宮による秘密の間道であるのは、間違い無いだろうね。出口が斎宮寮郊外という遠方だった事を考慮すると、こうした暗渠を造るのには相当な労力を要し
た筈だ。それが万事を斎宮寮に秘めたまま、複数存在するとは考え難いな」
東宮が、満座に目を配ると謀議する。
「ならば、ぐずぐずしている暇は無い。俺達の存在は現在、大薙刀の男と、取り逃がした大男が知るのみだ。奴等が敵の本拠である離宮跡に戻り、敵が態勢を立て直す前
に奇襲を掛け、殲滅してやる。問題は、今回は火計が使えない点だ。さて、どうするか……」
鋭敏な東宮が暫し静慮すると、楓が憂慮を口にした。
「先ず斥候を出し、敵の戦力や伏兵の有無を探らせるのが最良だが……。その場合、斥候の帰参を待つ間に、敵方に此方の存在が知れてしまうのは否めない。だが、離宮
跡が敵の本拠と決めて掛かってやみくもに奇襲した所で、万一外に伏兵があれば、逆に敵の火攻めに遭い、全滅するのは此方だ。敗北必至の危険を被るよりは、無難に斥
候を出して様子見をした方が得策ではないか?」
楓の意見に柔和な瞳で頷きつつも、薫が私見を述べた。
「確かにね。だが奇襲であれば、何より迅速を旨としなければ。私も、奇襲には賛成だ。直ちに、離宮跡に急行した方がいい。……斥候については、既に手を打ってある
」
東宮がにやりと笑うと薫を見遣った。
「流石に周到だな! どう攻め入るつもりだ?」
薫が懐中より扇子を取り出すと、地図を指し示しながら説明した。
「暗渠の出口には、先程、一軍を張り込ませた。徒歩で暗渠を逃走する奴より、馬にて地上を駆ける武官の方が断然速い。また、たとえ奴が地下の間道に潜伏したままだ
としても、茜の提案により、白煙に細工をしてある。程なく、奴を生け捕りに出来るだろう」
楓が頷きながらも、ふと抱いた懸念を質問する。
「だがそもそも、大男の血糊が井戸についていたというだけで、姿は見えなかったのだろう? 可能性は低いが、もし大男が空井を使わず逃走していたら、どうするのだ
?」
薫がふっと微笑むと、袖から布切れを取り出した。
「これは、先の交戦で掠め取った奴の着物の切れ端だ。既にこれを用いて犬を使い、追わせている。何処に潜もうと、追撃からは逃れられないよ」
「成程。奴にひと太刀浴びせたのは、この為か……」
何とも恐るべき薫に、楓がつくづく感心する。
「紅蘭の護衛として随従し、斎宮寮に待機している平真盛殿に協力を要請し、斎宮寮の一軍を率いて正面から離宮跡に攻め込ませる。突いては退くという挑発を巧みに繰
り返し、敵の関心を集中させ、次第に離宮跡から誘い出す。我々は、生け捕りにした大男を反間として敵の本拠に侵入し、人質を救出する。救出が成功すれば
、斎宮寮に合図する。斎宮寮頭が一軍を率いて平真盛殿の軍と挟撃すれば、状況に応じて火計も使える地形だ。敵に退路は無い」
怜悧な薫の策謀に、東宮が満足気に頷いた。
「よし。では斎宮寮頭は、あたかも俺達が未だ内院に居るかの様に見せ掛け、合図があるまで鋭意に警戒しつつも、傍目には通常業務をしている様に振舞え。兵力を二分
する為、軍備が手薄になるが、敵に悟られぬ様に努め、油断するなよ」
「はっ。御命令の通りに致します」
斎宮寮頭が満を持して一礼すると、東宮が瞬時に立ち上がる。侍立する薫が斎宮寮頭に向き直ると、真摯な双眸を向け言い置いた。
「斎宮寮頭、地牢の女官の事だが、ゆめゆめ厳重な警備を怠るな。……武者小路中納言の指摘通り、あの女官には裏の顔がある。今は敵の虚を衝く事が先決だが、色々と
詰問したい事がある。決して逃さぬ様、肝に銘じて確と心得よ」
一途なまでに実直な斎宮寮頭が緊張した面持ちで了解すると、東宮一行は離宮跡を目指して疾風の如く、隠密裡に斎宮寮を後にした。
手負いの大男を捕えたとの一報を受け、馬を下りた東宮一行が条条とした薮原に馬を隠し、人目を避けて歩み寄ると、門部の武官達に捕縛された大男が引き据えられて
いた。
大男の様子がおかしい事に気付いた東宮が、武官を問い質す。
「……これは、どうした? どこで捕えた?」
武官が一礼すると、直ちに答えた。
「はっ。例の間道出口にて、井戸の木枠にもたれる様に座っておりました」
惘惘として俯いたままの大男を見遣り、眉を顰めた薫が茜に問い掛けた。
「茜、『混ぜ物』には、何を用いた?」
後方に控えた茜が畏まると、ひとこと答えた。
「鉤葛と鹿の子草を少し、使いました」
「そうか、成分としては釣藤鈎に吉草根……」
茜の回答に頷いた薫が首を傾げると、大男に近付いた。
薫の背後に佇む葵が、ふと俯いた大男の首筋に大量の発汗を認めると、駆け寄るなり薫を制止し、注意を促した。
「待って、薫! この大男は尋常じゃないほど発汗している! 何かの疫病かもしれない。 安易に近付くのは危険だよ! 僕は医者だから、僕が診るよ。皆、下がって
いて!」
疫病の疑いと聞き、茜と楓が葵の命に従い、東宮である大津を庇い、後退する。
容態を確認する葵の後方にて、片膝をついた薫が大男を精察した。
……確かに、おかしい。
茜の使用した薬草では、どちらも鎮静効果が起きる筈。たとえ茜が、鉤葛の中でも薬用成分が最も多く含まれる葉の部分を用いたとしても、劇的な薬理作用を齎す代物で
はない。……考えられるとしたら、その血行促進効果により、何か別の薬物の服用効果を増強させる程度だが……大量の発汗に加え、朦朧としたまま自失状態とは……。
「あれ? 熱は無いし、脈は、酷くゆっくりだ……。おかしいな」
疫病を疑い診察していた葵が呟くと、首を捻った。はっとした薫が、葵に尋ねる。
「葵、瞳孔は、どうだ?」
大男の双瞳を確認した葵が、緊張気味に答えた。
「……まだ日中だけど、それにしても不自然だよ。異常な程、縮小してる」
葵が言葉を切ると、薫を振り返る。
「これは……疫病じゃない」
葵が断言するや否や、ついと大男に歩み寄った薫が、不意に大男の負傷している前腕をむんずと掴んだ。粗雑に巻かれた粗布に、止血の不十分な傷が開き、血が滲む。
「あっ!」
「薫?」
まさに傷を抉るという凶暴な行為に、吃驚した茜と楓が叫号する。温雅な薫の信じ難い暴挙に、息を呑んだ葵が思わず目を瞠った。
不思議な事に、激痛に悶える筈の大男は、眉ひとつ動かさないまま漠然としていた。
泰然自若として経緯を見守る東宮が、眉を顰めると薫に尋ねた。
「……どういう事だ?」
粗末な布を取り去った薫が懐中から白布を取り出すと、大男の割創に押し当て止血する。別の白布を裂き、瞬く間にきちりと傷の手当てを施すと、大男の着衣を淡淡と
して改めながら、東宮に答えた。
「……奴はおそらく、傷の応急処置と共に鎮痛薬を飲み、誤って中毒に陥ったんだ」
男の胸元から小さな酒瓶と二つの小袋を取り出した薫が、小袋を開ける。ひとつの袋には粉末が、もうひとつの袋には乾燥させた茸が入っていた。
少量の粉末を手に取り、舐めた薫が顔を曇らせると静黙した。薫同様、中身を確認した葵が蒼白になると顔を上げる。
「中毒って……薫、これは阿片では? ……それに、この乾燥茸は一体……?」
「……紅天狗茸だ」
「ベニテングタケ?」
初耳とばかり驚いた様子の葵に、薫が冷静に説明する。
「毒を持つ茸だが、中毒を起こしても、まず死ぬ事は無い。中毒症状は発汗、縮瞳、心拍数低下、胃腸の異常といった所だ。乾燥させると毒性が強まり、酒と共に服用す
れば、効果が現れやすい」
「……効果、だと?」
東宮が、厳然と問い返した。
「そうだ。……実は、毒である紅天狗茸を酒と共に服用するのは、渤海国の呪術師などが古来から用いる民間療法でね。鎮痛の他、幻覚を引き起こし、集団の意志を統一
したり、気分を高揚させる場合に効果があるとされ、適宜、用いるのだよ」
およそ想定外の指摘に、さしも剛胆なる東宮が、意表を突かれて瞠目した。
「……渤海国の呪術師だと? では敵は、渤海国の人間だとでも?」
「……断言出来ないが、可能性は高い。……葵、莨菪はあるか?」
沈着な薫が東宮の問いに頷くと、我に返った葵が答えた。
「うん、少量なら、薬箱に入れてある。阿片中毒にも有効だと思うけど、今聞いた症状なら、紅天狗茸による中毒にも、治療効果が期待できそうだね」
「拮抗薬の筈だ。処方する量は様子見で構わないが、急いで投与した方がいい」
「うん」
薬箱を広げた葵が直ちに治療を開始すると、沈思に耽った薫を見遣り、東宮が口を開いた。
「此奴を口実として内部に侵入し、反間として利用するつもりだったが、これでは役に立たないな。まもなく、反対側に布陣した真盛が攻め入る筈だ。こうなれば、混乱
の隙に乗じて、臨機応変に侵入するぞ」
その場の一同が視線を上げ黙諾する。果敢なる東宮が、凛として命じた。
「武官達は治療中の葵と共に、この場に待機しろ。人質の救出に成功すれば、この場に誘導する様に仕向けよう。斎宮寮に出撃の合図を送ることは勿論、人質の保護を第
一としろ。無論、此方に何か異変があれば、逐一知らせる。万一、お前達に異変があれば、伝令鳥で知らせろ」
「はっ」
拝命した武官が整整と総礼する。ほどなく、突如として耳を劈く鬨の声が湧き上がると、勇猛を誇る東宮がにやりと笑った。
「鯨波だ。では、行くぞ!」
言うなり薮原に身を潜め、暗暗裏に離宮跡に忍び寄る。阿吽の呼吸で背後にぴたりと随従した薫、楓、茜と共に暫時、耽耽として機を窺うと、やがて紛紛とした離宮跡
を睥睨していた東宮の姿は、忠烈なる随身もろとも、いつの間にか消え去っていた。