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三者三様、野盗と会う

鴻臚館を出た薫は、一旦自邸に戻り即刻準備を整えると、武者小路楓と共に、伊勢への官道を一路、斎宮寮へと向かっていた。

宿泊を最小限に留め、約四里(十六㎞)毎に設置された駅に着くたび駅鈴を鳴らし、次々と駅馬を乗り換えては先を急ぐ。鈴鹿峠を過ぎ伊勢国に差し掛かった頃、薫に続


き後方を馳せていた楓が馬を進めて薫に並走するなり、声を潜めて問い掛けた。

「薫……とうに気付いているのだろう? 鈴鹿峠を抜けてから、かなりの人数に付けられているぞ。……どうするつもりだ?」

 前方を注視して馬を馳せたまま、薫が楓に視線を流すと、ふっと微笑む。

「峠道で交戦すれば、こちらが圧倒的に不利になる。……駅子を守り切れないと思ってね。君と私だけなら、何の遠慮も無いのだが……。あと少し麓に下りれば、開けた


場所になる。そこでゆるりと、彼等の言い分でも聞いてやろうかと思ってね」

 優雅だが随所に毒を含んだ物言いに、楓が痛快な様子で薫を見遣った。

「相変わらず、敵に回すと恐ろしい性質だな。相、分かった。ならばそれまで、奴等につけ入る隙など与えぬ様、全力で一気に駆け抜けよう」

 明敏な楓に、薫がやんわり頷いた。楓が再び後方に下がり、見事な手綱捌きで馬を疾走させる。やがて薫の一行は山を下り、開けた平地へと降り立った。 前方を走っ


ていた薫が、不意に手綱を引き絞り馬を止まらせると、機を読んでいた楓が、すんなり薫の隣に馬を寄せ停止した。後方から荷を乗せ付き従っていた駅子達が、突然の休


止に驚くと、主の急変を気遣い薫の許に駆け寄った。

 楓が条々とした藪に向い、凛とした声を大に口上を述べる。

「そこなる不埒者、出て参れ! 既に、そなた等の姿は露見している。隠れても無駄だ!」

楓が言い終えるなり、茫茫とした藪原から、あまたの影がぬっと湧き上がり、次々とその姿を露にした。陰なる者の姿を認めたその瞬間、楓の表情が嫌悪に変わる。

「おのれ、その姿……野盗どもか。これなるは、帝の勅命で伊勢に下向する内大臣、綾小路薫殿の一行である。我等に手出しする事は、帝への反逆行為と心得よ。速やか


に去れ!」

 楓の家系は歴代が検非違使を常任しており、その任は京の治安維持を主とし、一切の非法を検察、糾弾するというものであった。

かねてより平安の都は、夕刻ともなれば殊の外野盗の出没が甚だしく、粛清しても雲霞の如く湧き上がる野盗は、言わば、楓にとって宿敵であり、最たる憎悪の対象でも


あった。

「残念ながら、帝であろうと朝廷であろうと、俺達には、どうだっていい話でね」

 ねっとりと絡み付く様な暴言と共に、楓の前にひとりの男が進み出た。生理的な嫌悪感を抱いた楓が、馬上から蛇蝎の如き双眸の男を見遣り、侮蔑の視線を投げ付ける


「何だ、貴様は」

 首の辺りに鬱血とした痣を持つ男が、ぬらりと答えた。

「……あんた大した剣幕だが、うぶなお坊ちゃんと言った所だね。見ればあんたの一行は、はんなりとした貴族の若様二人と駅子の数人だ。それにひきかえ、こちとら、


優に三十人は超える。多勢に無勢だ。圧倒的な劣勢で、どうしてそんな大口を叩けるんだい? え?」

 下卑た笑いを浮かべながら、男が楓に歩み寄る。刹那、眼前に皓然と一条の光が煌いた。驚いた男が思わず足を止める。楓が冷淡な表情で馬上から睥睨するなり、男の


面前に太刀を突き付けていた。

「貴様に話しているのではない。お前達の首領に話しているのだ。退かぬと言うのであれば、この場で斬る。身の程知らずの発言、思い知るがいい」

 深く冴え冴えとした楓の瞳が、容赦無く男の双眸を射抜いていた。男がチッと舌打ちすると、無礼千万に吐き捨てた。

「へっつ。後で泣きを見るのは、あんたの方だぜ」

 放言するなり男が後方に飛び退き、片手を上げて手下に合図する。刹那、薮原から一斉に野盗が鬨の声を上げ、襲い掛かった。薫の周囲に佇み、固唾を呑んで経緯を見


守っていた駅子が、野獣の如き野盗の咆哮に震え上がり、襲撃を恐れて悲鳴を上げる。薫が、近侍していた駅子のひとりに何やら小声で指示を与えると、楓に呼び掛けた


「楓! 駅子を任せる。後は、私が引き受けた」

 楓が薫に向かい、大きく頷く。同時に薫が、ふわりと馬を飛び降りた。一瞬、自分の馬と息を合わせる様に目を掛けると、馬の臀部を太刀で叩き、走らせる。

次の瞬間、薫の駿馬が猛然と野盗の集団めがけて駆け込んだ。前方の野盗が慌てて防戦するも、意気昂然と駆け回る馬に蹴散らされ、思う様に防げない。縦横無尽に暴れ


回る馬から逃れつつ、野盗共が体勢を立て直そうと悪戦苦闘している間に、瞬息、馬に続いて流れる様な俊足で駆け入った薫に、叫ぶ間も無く斬り伏せられた。

転瞬の間に、薫が踵を返して跳躍する。馬を引き倒そうとしていた敵の眼前に凛然と降り立つと、ふわりと舞う様な足取りで白刃を一閃し、長鉤竿をことごとく斬り倒し


た。

 薫の指示を受けた駅子が乗馬したまま他の駅子の周囲を駆け巡り、敵の侵入を妨害する。巧みに馬を操った楓が、駅子に近付く敵を蹴散らし、太刀を振るって周囲の敵


を次々と薙ぎ倒す。僅か寸刻で、勝敗が決した。

 剣舞を目の当りにするが如く、華麗な太刀捌きで敵を一掃していた薫が、ピタリとひとりの男の喉許に太刀を突き付けた。気配を察した楓が、急ぎ薫の許に馳せ参じる


薫が冷艶な双眸を峻酷に細めると、男の腰元を見遣り、冷厳な口調で問い質した。

「お前が、首領だな。……その太刀を、どこで手に入れた?」

 美貌の麗人が冷然と凄む時ほど、迫力があって怖いものは無い。

剽悍な風貌の首領が度肝を抜かれ心胆を寒からしめると、全身を硬直させ震え上がった。腰に佩いた安綱に手を添え、鞘を掴み、柄を引き抜こうと試みるが手が滑り、背


面を流れ落ちる冷や汗に、もはやどうしたら良いのか判断がつかない。

こんな事態は、かつて一度も経験無かった。

……一体、どうしたというのだ! 首領は、心中必死に自分自身を励ました。

……眼前の男はどう見ても、優雅な貴族の若様そのものだ。そもそも百戦錬磨の俺が、いや俺達が、こうもあっさり敗れ去るなど、有り得る筈が無いではないか。

首領が、冷然と太刀を突き付けながら、何とも優美に佇む薫をチラと盗み見た。

……だが面前にいる男は、現にその端麗な容貌とは裏腹に、瞬間的に俺達を殲滅させる程の技量を持つ、とんでもない奴だった。

……しかし、まてよ。

首領が俯き様に黙黙と、打算的な思考を巡らせた。

先刻、別の貴族から奪って手に入れた安綱は、名刀中の名刀の筈。抜刀すれば、たとえいかなる剣豪であっても、手傷ぐらいは負わせる事が出来る筈だ……。そうすれば


また、毒を盛ったと因縁をつけ、形勢を逆転する事など造作ない!

……そうだ、その手があった。

明察と思える解答に辿り着き、再び安綱の柄に掛けた手に力を込める。

……だが何故か手が震え、全く力が入らない。

首領は、再びありとあらゆる理由を考えては、自分自身を鼓舞する様に試みた。しかし、どうやっても太刀が抜けない。それどころか眼前の男の双瞳さえ、まともに見る


のが恐ろしい。……何て事だ……。これでは手下どもに、示しがつかないではないか。

平素は飄々として自由闊達な首領が、今や恐怖で萎縮し、どうにも動けなくなっていた。……くそう。鷹の前の雀とは、この事か……? 

首領の窮地を感じた手下が数人、決死の覚悟で忍び寄り、薫の周りを取り囲む。

事態を静観していた楓が馬上から太刀を引き抜き、野盗どもを一喝した。

「動くな! 動けば、首領の命は無いぞ」

 楓の叱声に戦いた野盗があとずさる。

薫が周囲を冷眼で一瞥すると首領に向き直り、冷冷淡淡とした口調で再度詰問した。

「その太刀の持ち主を、殺めて奪ったのか?」

 薫の双瞳は凄凄として、晶晶とした厳冬の氷海を思わせた。

静寂の内に凛冽際める薫の尋問は、あたかも絶対零度の氷霜となって、首領の肝を凍結させたかの様であった。逃れられない追及に、ついに首領がええいと腹を決め腕組


みすると、どかりとその場に座り込んだ。

「俺達は、野盗だ! 殺しは、しない。この刀は、一計を用いて奪っただけだ!」

 斬るなら斬れ! とばかりに叫号するなり、腹を括った首領の言葉に、薫がふっと相好を崩し表情を和らげる。

「そうか。……ならば私も、お前達を許すとしよう」

 恩容な言葉であるにも拘らず、首に痣の有る男が突如として、背後から薫に抜刀した。

「お頭、今です、逃げて下せえ!」

 特攻隊長の言葉に驚いた首領が、弾かれた様に振り仰ぐ。

瞬間、一条の閃光が眼前を過ぎった。一陣の風が巻き起こり、砂塵が舞い上がる。風圧を感じた首領が叫ぶ間も無く目を瞬かせると、薫が稜々と冴え渡る優美な白刃を、


静かに鞘に納めていた。鍔元と鞘が錚錚と澄んだ音を立てるや否や、特攻隊長が手にした蕨手刀を取り落とした。

「!」

 首領が駆け寄ろうとした刹那、特攻隊長の帯が切れ飛び、だらりと開けた。

着物の切れ端がはらりはらりと地面に舞い落ちる。あまりの出来事に、特攻隊長が満面に羞色を浮かべ、慌てて前面を繕ったまま、藪の中に逃げ込んだ。

 薫が冷笑を浮かべ、首領に向き直る。

「君に忠義な輩と見えるが……いかんせん粗暴だね。……私は、許すと言ったのだよ」

 薫が薮原を指し示し、ふっふと笑う。

「私も、流血は好まない性質でね。……安心するがいい。君の手下は、皆無事だ。服を切られた故に、羞恥心から出て来れない、というだけだ」

 呆気にとられた首領に、薫の意を汲んだ楓が、冷ややかに微笑した。

「私に向って来た奴等も、全て峰打ちだ。我々は、無益な殺生はしない。検非違使の職務は、原則として逮捕する事にある」

 首領が、茫然と佇んだ。

 ……だめだ、敵わない。

威勢のいいだけの、世間知らずな貴族の若様だと侮ってかかったのが致命的だった。

……俺達は不幸にも、なんて奴等を敵に回してしまったのだろう。

奴等は、こちらの魂胆など手に取る様に見透かし、数手先を読んでいる。機を窺い逃走しようにも……奴等の方が数枚上手だ。

……こうなったら、このままおとなしく処遇を待ち……それに従うより他、助かりそうな道が無い。首領が八方塞とばかり、愕然とうなだれる。

 首領の思惑をよそに、楓が下馬すると声を潜め、薫に問い掛けた。

「薫、どうするつもりだ? 太刀を取り上げ改心させ、このまま放免するのか?」

 薫がその長く美しい手を顎に当て、しばし黙考すると、口を顰めて楓に答える。

「いや……それは、まずい。今、反省を見せた所で、いずれ困窮すれば、懲りずに何度も野盗を繰り返しかねない。根本的な解決を図らねば意味が無い。……太刀につい


ても、強者が奪うという姿勢をみせれば、彼等にとって何の教訓にもならないだろう」

 楓が聡明な薫を見つめると、彼女の職務に忠実な手段で提案した。

「……ならば、このまま縛って斎宮寮に連行し、地牢に入れ、国司の手に引き渡すか?」

 薫が、煌々と澄み渡る星辰の様な楓の双瞳を見遣り、温容に微笑んだ。

「そうだな、本来であれば、当然そうなるべきだが……今回、我々には別の重要な任務がある。彼等を連れて斎宮寮に向うのでは、機動力に欠く。……我々にも彼等にも


有益で、野盗を抜本的に止めさせる方法は……」

 寸刻、熟慮を重ねた様子の薫であったが、やがて静かに駅子に歩み寄り、持たせていた荷の中から白木箱を取り出すと、再び首領の眼前に立ち戻った。薫が、やんわり


とした視線を首領に向ける。

「さて、まずは君が佩いている安綱を見せて貰おう」

 抵抗する意欲をすっかり喪失していた首領が、薫に促されるまま無条件に太刀を差し出した。見事な白銀細工で施された目貫の葵の意匠を認めると、薫が静かに微笑み


、太刀を引き抜いた。傍で見ていた楓が、思わず恍然とした表情で太刀に見入る。やや黒味掛かった霊妙なる刀身をつぶさに検分すると、薫が満足気に頷き、鞘に納めた


「……成程、君の言葉通り、人を斬ってはいない様だね」

 薫が安綱を楓に手渡し、自ら手にした白木箱をすっと開けると、中から精妙な細工が施された華奢な飾太刀を取り出した。梨地塗りに蓮唐草の蒔絵を施し黄金で装飾さ


れた、まことに薫が持つに相応しい、何とも優美なる飾太刀であった。

「これは、私が宮中で使用している儀仗用の飾太刀だ。見ての通り、風雅にして美麗精緻な逸品だが、中は単なる棒が入っているだけで、刀剣としての目的は無い。あく


まで儀式に用いる為の代物だ」

 薫が飾太刀を抜いてみせた。不可思議な様子で話に聞き入る首領に、薫が淡々として言葉を継いだ。

「殺略を旨としない君達には、兵器としての太刀など不要の筈。ましてや安綱は、殺人剣では無い。活人してこそ、その本領を発揮する。故に、安綱は私が預かり、本来


の所有者に返還するとしよう。……そして君には、代わりにこの飾太刀を授けよう」

首領はおろか、静聴していた楓も唖然として瞠目すると言葉を失い、ただただ薫を熟視する。

「この飾太刀を売り払い、それを元手に身支度を整え京に赴き、郊外に家と田畑を求めるがいい。……そして、仕官したまえ。兵衛府か検非違使か……いずれ適性を見て


、仕官口を判断しよう」

言うなり薫が紙と筆を取り出し、さらさらと文を認めた。そして飾太刀と書状を首領に手渡すと、柔和に微笑んだ。

「京に着いたら、二条院に居る西九条信頼という人物を訪ねるといい。そしてこの文を渡すのだ。彼が、君達の世話係として助力してくれるだろう。君達も、もはや……


奪うな。これを最後に、真っ当な道で禄を得、地に足を付けて働くといい」

……許すとはいえ、それはどうせこの場限りの事であり、国司引渡しか投獄か……いずれにしても死刑になる日が少し延びるだけだろうと勘繰っていた首領が、およそあ


りえない薫の言質に仰天すると、摩訶不思議な形相になる。目を皿の様に丸くすると、瞬きもせず薫の顔を凝視した。薫が慈悲に満ちた瞳を静かに向けると、剽悍な首領


の双眸を見つめ、穏やかに尋ねた。

「先程、君を逃そうとして私に切り掛かった男だが……。彼は君と違って、生粋の野盗生まれだね?」

鋭い洞察力で看破した薫に、肝を潰した首領が失声したまま、無言で頷き肯定する。

薫がしばし憐憫に満ちた面持ちで、藪原を見つめた。

「奪う事しか知らぬとは、なんと哀れな……」

呟く様に言い置くと、踵を返した薫が、戻って来た馬に優雅な足取りで騎乗する。次いで不安気に佇む駅子達に目を留め、ふわりと馬を促すと、彼等の許に引き返した。

薫がその場を立ち去ると、周囲を消極的な姿勢で取り囲み、閉口したまま一部始終を見ていた手下どもが、恐る恐るにじり出るなり一斉に、首領に駆け寄った。

「御頭! 大丈夫ですかい?」

「御頭ほどの技量の持ち主が、手も足も出ねえって、どうしたんでさ?」

「せっかく奪った安綱を、みすみす渡しちまうなんて、もったいねえ」

「……奴等、滅法強いが、かなりの甘ちゃんですぜ。闇討ちして奪い返しますかい?」

野盗の手下どもが野盗なりの流儀で、おのおの忠義を訴えると、首領が蒼然とするなり、大きく首を振って否定した。地に両手を突いたまま、愕然として口を開く。

「いや……駄目だ。間違い無く、返り討ちに遭うだろう。足が竦んで手も震え、何ひとつ動けなかった。……柔和な顔をしているが、奴等、空恐ろしい化け物だ」

慄然として口を閉ざした首領の頭上から、凛とした涼やかな声が響いた。

「……そうか、首領よ。綾小路殿を前にして震えが走るとは、お前自身が、それなりの技量を持っているからに他ならない。強者は、強者のみがそれを知る。……今を機


に、改心するのだ。そして、お前も頭領を自負するのであれば、配下の明日を最善に導く手段を選択せよ。綾小路殿がお前達を許したのは、お前の中に残る善性を認めた


からだ」

首領が思わず上を仰ぎ見る。

凛とした楓が、清爽な笑みを浮かべていた。

……俺達が、田畑を持ち、職を得る。……奪わずとも、皆で暮らせる日が……人として暮らせる日が、約束される。それは野盗に衰零せざるを得なかった、かつての自分


の悲願でもあった。感極まった首領が飾太刀を捧げ持つと、楓に平伏する。

「必ずや京に赴き……仰る通りに致します。そして、この御恩は忘れません」

楓がふっと微笑を浮かべると、颯爽と馬を返し、薫の許へと立ち去った。

 

 やがて鈴鹿の駅家に入った薫の一行は軽く昼食を済ませると、小休止を取っていた。先刻より安綱を預かったままでいた楓が薫の部屋を訪れると太刀を手渡し、ふと問


い掛けた。

「……この安綱は初めて見る代物だが、目貫の葵紋からして、葵の所有物なのか?」

 太刀を受け取った薫が、穏やかな瞳を向けた。

「……そうか、楓は、見た事が無かったかもしれないね」

 楓が、その佳麗な顔をふっと綻ばせる。

「その通りだ。私は、およそ彼の白衣姿しか見た事が無いからな」

 薫がふふっと微笑むと、頷いた。炭櫃に掛けていたお湯を取り、優雅な仕草でお茶を淹れる。

「君も知っての通り、豊富に産出する砂鉄に恵まれた伯耆国は、古来より著名な刀工を輩出してきた……言わば刀鍛冶発祥の地であり、殊に大原安綱は、稀代の名工とし


て有名だ。この安綱銘の太刀はそもそも、無類の刀剣好きである大津の所有物だったのだよ」

 初めて聞く話に、楓が興味深げな顔をみせると、薫に話の続きを促した。

「……それがどうして、葵の所有に?」

 湯気立ち上る仄かに甘いお茶を楓に勧めると、薫が話を続けた。

「安綱は、恐ろしいほど鋭利でね。幽明相隔の剣として名を馳せている。……つまり、振るうだけで生死を決定的に分断させる威力を持つ、という事だ。この太刀は、大


津や私でも注意深く扱わないと、怪我をしかねないという代物でね。だからこそ、大津が葵の守り刀として持たせたという訳だ。切れ味抜群の安綱ならば、およそ太刀な


ど持った事の無い葵でも、絶体絶命の窮地に翳すだけで、至高の護身刀となる。それに葵の性格上、まず自ら太刀を抜く事はありえないから、自傷するという心配も無い


 楓が爽快な笑みを浮かべ、感心した様に頷いた。

「……成程、貴方達らしい選択だな」

 薫が柔和な視線を向けると微笑んだ。

「現在、大津が好んで佩刀している太刀は備前の大業物でね。吉井川流域の良質な砂鉄を用い、剛強である大津に相応しい剛健な造り込みでありながら、高尚無比な逸品


だ。古来、伯耆派に似た作風であったものが、現在は独自の作刀に変わりつつある。……というのも、実は大津の刀好きが昂じた結果、長船の地に、東宮直属の多くの刀


匠が召抱えられてね。大津が、言いたい放題の無茶な注文を付けては、自分好みの太刀を作らせているのだよ」

 麗朗な声を立てて、楓が笑った。

「流石は、大津だな。やる事なす事、全てが派手で豪快だ!」

 嬉嬉として、薫が大いに頷いた。

「毎回、無理難題を突き付けられる刀工達の苦労は察するにあまりあるが……こうした大津の積極的な姿勢は、小鍛冶達の創作意欲を否応なく刺激し、刀工集団が互いに


切磋琢磨する事で、この数年、我が国における作刀技術は、飛躍的な向上を見せている」

楓が込み上げる笑いを抑え切れず、爛漫の笑顔を見せると薫をからかった。

「……それは薫、貴方も好んでひと役買っているからなのだろう? 確か貴方も、京に贔屓の刀匠が居たのではなかったか?」

 楓の指摘に、薫がふっふと笑うと頷いた。

「敵わないね、楓には。君が言う通り、私の愛刀は山城の三条に住む刀鍛冶達の手による業物だ。皓然とした地金の美しさもさる事ながら、三日月を思わせる曲線が何と


も優美でね、ひと目で彼等の仕事が気に入ったのだよ。……現在、私が主として彼等の資金援助をして研究に励んでいる所だ。そういう意味では贔屓目かもしれないが、


もとより伯耆、備前、山城を問わず、刀匠達が挙って魂を込め、創意工夫を凝らして生み出した業物を手に取り、その進化を実感するのは、実に愉しいよ。至福の時だと


言っても過言ではないね」

 美術、工芸品を問わず、とかく美しいものをこよなく愛でている薫が、恍惚とした表情を見せた。

「……やれやれ、貴方も大津同様、相当の刀好きと見えるな。だが、気持ちは良く分かる。実に結構だ!」

 楓が、その佳麗な顔に何とも爽やかな笑みを浮かべると薫を見遣る。融融として一笑し、快く歓談した二人は、やがて共に立ち上がり、鈴鹿の駅家を後にした。



 先月、斎宮として赴任したばかりの桜姫は、寂寞として物音ひとつ聞こえない室内に独り座し、悶々として窮していた。

 ……この前の神託は、もう宮中に届いた筈……。

帝かといちが、何かおかしいと思ってくれたなら……気付いてくれるだろうか……。

 桜姫は、火鉢の縁に両腕を乗せ静かに手を組むと、そっと額を当て、深い溜息を吐いた。冥冥暗暗とした炭の奥底に、赤熱した熾火が垣間見える。

 幽閉されて、早二週間……。このままでは、大変な事になる……。

再び長嘆した桜姫が、やおら火箸を手に取り、暗鬱とした炭を小突いた。

崩れ落ちた黒炭の間から、煌々と輝く橙色の熾し炭が姿を現す。明度を落とし、火力を温存しながら杳杳と燃えていた火は今や解き放たれ、新鮮な空気の助勢を得た灼熱


の熾火は瞬く間に光度を上げ、盛んに燃え上がった。

「斎宮様」

 陰暗とした女の声が鳴り響いたかと思うと妻戸が開き、寒風が吹き込む。しばし物思いに耽っていた桜姫が、顔を強張らせて振り返る。

「神託を書いて頂きます」

 突如として現われた女は、斎宮に仕える高位の女官のいで立ちでありながら、桜姫に対して礼を尽くす事無く、極めて不躾な態度で淡淡と自らの要求を述べた。

「……私は、書きません」

 蒼然としながらも明確に拒否した桜姫に向かい、女が冷笑すると口を開いた。

「ほほ……まだその様な事を仰るとは、呆れました。この現状が、何もお分かり頂けていない様ですね」

 不遜な女が陰湿な嘲笑を浮かべたまま桜姫の眼前に歩み寄り、身を屈める。邪知に満ちた双瞳を向けると、語気酷薄に言葉を継いだ。

「貴女様の配下にある命婦、女官を始め女童に至るまで、内院における全ての命は、今や我々の手中にある事をお忘れか?」

 勢い良く燃え盛る火鉢の炭に目を留めると、女がいまいましそうに火箸で黒炭を被せ直し、上から灰を掛け入れた。火勢が弱まり、灼熱の熾火が再び燠となった事を見


て取ると、女が懐から巻物を取り出し、桜姫の御前に突き付ける。

「この文章通りの神託を書いて頂きます。貴女様が拒否すれば人質をひとり、自殺でもなされば囚われの配下は全て皆殺し。我々の命令に背けば、この斎宮寮を殲滅しま


す」

 桜姫は、あたかも人形の様に虚ろであった。

「女人だらけの内院など、何と容易い事!」

 言い捨て高慢に鼻を鳴らし、悪意に満ちた薄笑いを浮かべると、女が立ち上がる。

「夕餉をお持ちする際に、取りに参ります。それまでに、お書き下さいませ」

 有無を言わさず言い置くなり、女が踵を返し退出する。

空蝉の如く自失していた様に見えた桜姫が、唇を噛み締めると、計り知れない屈辱に体を震わせた。胸奥の深潭よりほとばしる凄烈な怒りは、相等の自己嫌悪と相まって


桜姫を苛み、難渋たらしめた。

 口惜しい……。……何と、自分は無力な事か。

 桜姫が愕然として火鉢に両腕を突き、爪が食い込むかの如く、自らの頭を深く抱えた。

 ……ああ、といち。……貴女は、私の異変を勘付いてくれたのかしら。

……今は、貴女こそが……絶望に沈む私に残された、一縷の希望……。

 桜姫が当代一皇女に強く確かな思いを馳せると、静かに顔を上げ……遥か遠く……京の都の方角を、じっと見つめた。桜姫の清澄な双瞳から、潸然として涙が零れ落ち


る。

……といちを溺愛される帝は、さぞかし神託の内容に激怒しておられる事でしょうね。桜姫が涙に濡れたままの瞳で、天を見上げた。

……そして、天にまします我が神よ。

偽りの神託を書かざるを得なかった私を……どうぞ、お許し下さいませ。

 桜姫が神宮の方向に向き直り、地に頭を擦り付けるほどに、ひたすら遥拝した。

何とか……何とか手段を講じなければ。何としても……外に、この窮状を伝えなくては。

かつて無い事態に陥り、焦燥に駆られた桜姫は、祈りを捧げる事で自らを冷静に律すると、その知力全てを傾注して熟考を重ねた。



 斎宮寮に到着した紅蘭は、斎宮寮の中に設えられた迎賓室にて、斎宮寮を預かる総責任者である斎宮寮頭と面会していた。

「……何ですって? ……斎宮様にお会い出来ない、とはどういう事です?」

 吃驚した紅蘭が、思わず頓狂な声を張り上げた。紅蘭同様、斎宮寮頭の言葉に驚いた葵が、続けざまに質問する。

「斎宮様は、どこかお加減でもお悪いのですか?」

 二人の詰問に、斎宮寮頭は自らも困り切った顔を見せると瞳を上げ、誠実に答えた。

「……実は、我々も当惑しておるのです。つい二週間程前から、斎宮様におかれましては、ご気分が優れないと仰せになり内院に篭られたまま、一切のご公務が滞ってお


る状態なのです……」

 斎宮寮頭の言葉に、紅蘭と葵が思わず顔を見合わせた。葵が、自らの不安が的中とばかり大層心配した面持ちになる。

「ご気分が優れない……とは、どういった御容態なのですか? 何か重篤な御病気であるなら、斎宮寮の薬部司から内裏に報告が上がり、直ちに宮中の典薬寮から医師が


応援に派遣されるのが通例ですが……今の所、そういった報告は何も無かった様に思いますが」

 斎宮寮頭を務める壮年の男性が、困惑した顔を見せると、ぼそりと答えた。

「……はい。それが、奉告するにも戸惑う理由でございますので、現在の所、内裏には未だ報告していないのでございます」

「その、ためらう理由とは、なんですか?」

 不可思議な面持ちで尋ねた葵に、斎宮寮頭が、なおいっそう声を潜めた。

「……はい。実は……月の障りが重く、ご気鬱……という理由なのです」

「……月の障り?」

 紅蘭と葵が声を揃えて驚くなり、再び顔を見合わせた。寸陰を待たず、紅蘭が口を挟む。

「……月経であるなら、二週間以上という期間は随分長いわ。……それこそ、何か重篤な病の兆しではないのですか? 医師は、斎宮様の現状を何と診断したのです?」

 斎宮寮頭が嘆息するなり、斎宮寮ならではの特殊な事情を説明した。

「それが……既に皆様ご存知の通り、この斎宮寮は、斎宮様に関わる諸事全般を任された役所ではございますが……。斎宮様は畏れ多くも女宮様であらせられる上に、大


神にご奉仕するという大役を担う清浄な御身でもあり、平素は、周囲の穢れと徹底的に隔絶された内院と呼ばれる御座所で私生活を送っておられます。この内院は、宮中


における後宮同様、男子禁制の上、絶対聖域として扱われ、斎宮寮の敷地のほぼ中央部分に、二重の塀で囲まれた場所にございます。内院に入れますのは女性のみでござ


いますので、我々斎宮寮にて斎宮様にお仕えする男性は皆、斎宮様に近侍して直接お世話する命婦や女官に取り次ぎ、万事を遂行しておるのです。……ですから当然、薬


部司の長官や医生といえども、直接斎宮様をご診察申し上げる訳ではなく、あくまで女官の伝える病状をもとに拝察申し上げ、薬を処方するしかないのでございます」

 斎宮寮頭が告げる想定外の実情に、紅蘭が蒼白になるなり息を呑んだ。

「……何てこと! ……それでは、正しい診断が下せる筈ないじゃない……」

 女医の存在が稀であったこの時代、さすがの後宮といえども、男性である侍医の診察は認められていた。同じ男子禁制とはいえ、後宮以上に徹底して排他的とも思える


内院の様相に、思わず紅蘭が桜姫の身を案じ、絶句する。

一方の葵は桜姫の病状を心配するあまり、胸中密かに重大な決意を呟いた。

 ……僕ならば、本来女性でも男性でもないから、内院に入って斎宮様を診察するのは問題無いと思うけど……。

 葵が、ちらと紅蘭の顔を垣間見る。

葵は、長年に渡り東宮と薫を始め、限られた人物しか知らない自らの体の秘密を、この際、紅蘭に打ち明けるかどうか躊躇した。

 しばし黙考していた紅蘭が、やがて懐から内親王の親書を取り出すと、斎宮寮頭に向い口を開いた。

「……私は、斎宮様の御文が途絶えた事を大層心配された当代一皇女様の命により、遥々こちらへ赴いた橘右大臣の娘、紅蘭です。私の任は、この内親王様の親書を、直


接斎宮様にお届けし、内親王様の許に帰参して、斎宮様のご様子をご報告申し上げる事にあります」

 紅蘭が親書を再び懐中に戻し、斎宮寮頭に闊達な視線を向けると、朗々と言葉を継いだ。

「今聞いたお話では、同伴している医師の葵が無理でも、女人の私が内院に赴く事には、何の異論も無いでしょう。ですから私が直接斎宮様にお会いして、ご病気か否か


、真実を見極めてくるとしましょう」

「……紅蘭、僕は……!」

 単身乗り込む決意を固めた紅蘭に、その身を案じた葵が思わず身を乗り出すと、蒼然として口を挟む。

「葵、大丈夫よ。心配しないで」

 紅蘭が覚悟に満ちた視線を向け微笑むと、凛と葵を牽制した。

秘密を吐露しようとした矢先、出端を挫かれた葵が、真摯に向けられた紅蘭の眼差しを凝視するなりはっとして、続く言葉を呑み込んだ。

 ……そうか、そうだよね。紅蘭にとっては、僕は当然『男』としてしか写っていない。それは桜様にしても同じ事……。斎宮寮頭としても眼前の僕は、どうやっても男


にしか見えていないだろうし……。僕が今、真実を告白した所で……それは却って紅蘭や桜様を始め周囲の皆に、本来無用な動揺を誘うだけなのかもしれない。桜様の御


身に異変が起こり、今こそ個々の冷静な判断と協力が必要とされる局面で、僕の存在が珍獣紛いの腫れ物となり、皆の良知良能を制約する枷になっては意味が無い。……


でもだからといって、紅蘭を単身赴かせるのは、極めて危険な気がする……。……僕は、どうしたらいいのだろう。

 心中波立つ葵の葛藤をよそに、斎宮寮頭は紅蘭の申し出に深々と一礼すると、丁重な謝辞を述べた。

「斎宮様を預かる我々としても手の打ち様が無く、ほとほと困り果てていた所……。まことにありがたい限りでございます。橘様、なにとぞ宜しくお願い致します」


 斎宮寮頭が内院へ取次ぎに向かい、一旦部屋を退出すると、紅蘭が葵に向き直る。

「斎宮様は月の障りとの事だから、女人の私でも少しはお役に立てると思うけど……。考えられる病気としたら、何があるかしら」

「不正出血が続いているとしたら、子宮の病気の可能性が高いけど……。まずは、詳細な経緯と症状を聞いてみないと、それが正常の範囲なのかどうなのか、僕も判断出


来ないよ。……それよりも紅蘭、本当にひとりで大丈夫なの?」

 満面に憂色を湛えた葵の顔を見て取ると、紅蘭が快活に答える。

「……流石にひとりだと心もとないけど、内院は女性なら入れるとの事だから、侍女を数人連れて入るつもりよ! だから、心配しないで」

 幾分安堵した様子で頷いた葵に、はたと思い出したとばかり、紅蘭が口を開いた。

「そうだわ、今の葵のひと言で、ふと思い出したのだけど……」

 何事かと不思議な様相で見つめる葵に、紅蘭が意気揚々として言葉を継いだ。

「そういえば出立前に、私の単独行動を心配した薫に、小鳥を貰っていたのよ、私」

「え? 薫から鳥を貰ったの?」

 葵が、思わず目を瞠る。紅蘭が急ぎ侍女に命じ鳥籠を持って来させると、真綿の様に白い文鳥を両手で取り出し、葵に見せた。

「ほら! この白文鳥を貰ったの。名前は杏姫」

 白雪の如き文鳥は、紅蘭の柳を思わせるしなやかな指に留まると、あたかも置物であるかの様に静止した。躾の行き届いた可憐な白文鳥に、葵が大きく顔を綻ばせる。

「良かった紅蘭、安心したよ!」

 紅蘭が、その存在すら忘れていた程におとなしい杏姫を見つめながら、呟いた。

「薫には『お供に連れて行け』なんて言われたけれど……なにぶん鳥だし、どうしよう」

 葵が安心至極の顔をみせると、温柔に微笑んだ。

「絶対に、連れて行った方がいいよ! 薫の鳥は、訓練されていて賢いから」

 異論の余地無く断言した葵に、紅蘭が不可思議な顔を向ける。

「そうなの? ……薫からは、特に何も聞いてないけど?」

 嬉々として、葵が多弁になった。

「大津の蒼王もそうだけど、薫が調教した動物は、人の言葉が分かるんだ! だから、これでもし万万が一、紅蘭が非常事態に陥った場合でも、この杏姫が、僕か薫にき


っと危急を知らせてくれる筈だよ!」

 これで万事安泰したとばかり、葵がほうっと深い溜息をついた。紅蘭は、小さく華奢なこの愛玩動物が、その実、有能な助手であった事に、新鮮な驚きを覚えた様であ


った。

「……知らなかったわ! ありがと、葵。それを聞いたら、何だか心強いもの」

「そういう事なら、僕は待ってるね! 紅蘭が内院に行っている間、薬部司の医師団から斎宮様の診療記録を見せてもらう事にして、ここにいるよ」

葵の言葉に頷くと、紅蘭が指に留まる杏姫を見遣る。慣れない道中、狭い籠に閉じ込められ、不本意ながら同行させられた筈の手乗り文鳥は、機嫌を損ねる事無く、微動


だにしなかった。

廊下に人が近付く気配を感じ、紅蘭が葵の助言通り、行儀の良い杏姫を袖にそっと匿った。

「お待たせ致しました。橘様、どうぞこちらへ」

 廊下より、斎宮寮頭の声が掛かる。紅蘭が葵を振り返った。

「葵、では後でね」

「うん、紅蘭も用心してね」

葵に見送られ、紅蘭は斎宮寮頭の案内のもと、数人の侍女を伴い、内院に向った。


 迎賓室から延々と続く長い回廊を東の方向へ進むと、やがて斎宮寮の中心部に、堅牢な障壁が現われた。峻嶺の如き隔壁は厳然として人を拒み、紅蘭を含む外界全てを


容赦無く弾劾する絶壁を思わせた。

 内院へと続く唯一の門をくぐると壁渡殿が現われ、斎宮に仕える高位の女官と思われる女性がひとり、立礼したまま紅蘭を出迎えた。

 斎宮寮頭が形式的な挨拶を済ませ、紅蘭を振り返る。

「では橘様。これより先は内院となりますので、私はここにて失礼させて頂きます。今後は、こちらに控える女官と案内を交代しますので、斎宮様の事、くれぐれも宜し


くお願い致します」

「案内、御苦労でした」

 紅蘭が、緊張した様子で斎宮寮頭をねぎらった。次いで瞳を上げ、深遠なる内院をじっと凝視する。両側の壁にて光を遮られた渡殿は冥々として、幽冥なる異界へ誘う


泉門を彷彿させた。自ずから平身させるかの様な、遥かな威圧を肌に感じ、紅蘭が身を震わせる。

 とうとう、ここまで辿り着いた。

この聖域の深奥に桜様が……。……今、参ります。

紅蘭が呼吸を整え、意を決すると侍女を伴い、案内の女官に続いて内院へと、その足を踏み出した。


壁渡殿を渡り終えると、広々とした寝殿に出た。広大な寝殿は深深として静寂に包まれ、人の温もりを排した厳冬の寒風が、紅蘭の柔肌を凛冽に刺激する。

幽幽として人のいる気配すら感じられず、あまりに粛粛とした内院のありさまを訝しんだ紅蘭が、案内の女官に向かい、尋ねた。

「……これは一体、どうしたのです? 斎宮様ともなれば大勢の女官に傅かれ、何不自由なくお過ごしの筈が……寒々として人の気配すら感じられないとは……」

紅蘭に同伴した侍女達も、心なしか薄気味悪さを覚え、互いの身を寄せ合った。

斎宮に仕える高位の女官が、口辺に微笑を浮かべた。

「平素は京においでの橘様からご覧になれば、この斎宮寮は伊勢という僻隅にあり、淋しくお感じになるのも無理はありません。加えて、今は斎宮様が臥せっておいでの


事もあり、なおいっそうの静粛を命じておる所でございます」

女官が、ひとつの部屋の前で立ち止まると立礼し、紅蘭に申し上げた。

「橘様。先程、斎宮寮頭よりご説明があったかと思いますが、斎宮様は御病中にて、大勢でお見舞いになる事を、ご遠慮頂きたく思います。つきましては、侍女の方々は


こちらの部屋で待機して頂き、内親王様の親書をお持ちの紅蘭様のみ、斎宮様の私室にご案内させて頂きたく思いますが、いかがでしょうか」

紅蘭が答えるより早く、紅蘭付の侍女のひとりが即答した。

「それは、なりません。我々は、姫様の護衛がその役目。姫様が斎宮様とご面会の折は几帳越しに控え、姫様のお声の届く範囲で待機させて頂く所存でございます」

斎宮に仕える高位の女官が、慇懃な態度で、瞳冷ややかに釘を刺した。

「貴女方の忠義が分からぬ訳ではございませんが、橘様と斎宮様では、言わずもがな斎宮様の方が、やんごとない身分の御方でございます。斎宮様はご体調優れず、ご気


鬱にて、いかに直接は相まみえぬ侍女といえど、多勢と会われるという行為自体が、大きな負担となられる現状でございます。故に、斎宮様の御身を最優先に、臣下であ


られる橘様には、なにとぞご理解の程を願いたいのでございますが……」

主の身を案じ、なおも反論しようとした侍女を制し、紅蘭が口を開いた。

「分かりました。貴女の言う通りにしましょう。斎宮様のお部屋は、どちらなのですか?」

高位の女官が、廊下のつきあたりの扉を指差した。

「あちらでございます」

侍女達がこぞって身を乗り出し、部屋を確認する。紅蘭は内心、侍女達の待機部屋と斎宮様の私室が近かった事に安堵して胸を撫で下ろすと、静かに頷いた。


「斎宮様、失礼致します」

 高位の女官が軽く扉を叩くと、妻戸を開いて紅蘭を伴い入室した。妻戸を丁寧に閉め直す女官に向かい、紅蘭が怒り心頭に発して、きっと振り返る。

「貴女、一体どういうつもり? 斎宮様どころか、誰もいないじゃないの!」

 紅蘭の通された部屋は、白木の板張りの壁と床、几帳が一対ある他は、調度品の類いが一切無いという殺風景な部屋であった。

 高位の女官が、口元に薄らとした笑みを浮かべると、緩緩と口を開いた。

「慌てなさいませぬ様……。斎宮様の御座所は、二重の扉で厳重に守られておりますので……」

「え……?」

 高位の女官が前方の几帳を指差した。紅蘭が怒りを鎮め、再び前を注視すると、几帳の合間より、純金の装飾を施した白木の扉が垣間見えた。

「斎宮様、京より橘姫君がお見えになりました」

高位の女官が扉を開くと、紅蘭に入室を促した。紅蘭がおそるおそる一歩を踏み出すと、室内より聞き覚えのある清朗な声が鳴り響いた。

「橘姫君? ……まさか、まさか紅蘭? 紅蘭では?」

声と共に前方の几帳がぱっと跳ね上がり、驚愕した面持ちの桜姫が顔を覗かせる。

「桜様? お懐かしい……!」

感無量となった紅蘭が喜びのあまり桜姫に駆け寄ると、背後で静かに扉が閉まる。

ガチャリと施錠する様な金属音に驚いた紅蘭が振り返ると、そこにいた筈の案内役の女官が忽然と消えていた。はっとした紅蘭が、思わず入口に駆け戻ると扉を叩いた。

「ちょっと貴女! どういうつもり?」

紅蘭が渾身の力を込め、扉を開けようと試みる。だが白木の大扉は、非力な紅蘭ひとりの力ではびくりとも動かない。焦った紅蘭が扉を連打すると、大声で喚き散らした


「何考えてるの? 無礼千万も大概にしなさいよ! 冗談じゃないわよ、出しなさい! 早くここを開けなさい!」

ありったけの大声を出し、満身の力を込めて体当たりして何とか開錠を試みる紅蘭に、桜姫が背後から冷静に、その落ち着き払った声で諭した。

「……無駄よ、紅蘭」

驚いた紅蘭が振り返る。

「桜様? これは一体、どういう事ですか?」

混乱を極め、憔悴しきった顔で紅蘭が尋ねた。紅蘭の袖を引いた桜姫が、声を潜めるなり耳打ちする。

「……二週間ほど前だったかしら……。武装した集団が突然現われたかと思うと、あっという間に征服されてしまって……。女官は全員、他の部屋へ移され人質に……。


私はここへ幽閉されたまま、奴等のいいなりなのよ」

紅蘭が驚愕のあまり目を大きく見張ると、瞬きもせず、桜姫を見つめた。

「え? 斎宮寮頭と女官の説明では、桜様の月経が重く、ご気鬱との事でしたが……?」

今度は桜姫が仰天すると、蒼白になった。

「……何ですって? 誰が、その様な偽りを?」

 互いの情報がこうも食い違いを見せた事に、桜姫と紅蘭が思わず蒼然とした顔を見合わせる。ややあって、黙考していた紅蘭が桜姫に事情を説明した。

「斎宮寮頭は、特に虚言を申している様には見えませんでした。むしろ斎宮様のご容態を真摯に受け止め、その対応に困惑している様に見受けられました。斎宮寮自体も


、とってつけたかの様な不穏めいた様相は無く……怪しいのはむしろ、妙に粛静とした内院内部と、ここに私を案内した女ですが、あの女官は、確かに桜様付きの女官な


のですか?」

 桜姫が頷いた。

「ええ。私付き……というよりは、私がこの斎宮寮に赴任した当初から、ここに居た女官です。彼女が、どういう経歴を持つ者であるかは知りませんが……」

 斎宮寮頭が白だとすれば、桜様がご不調であると虚言を吐いたのは、内院の女官であるあの女という事になる。でも、あの女が以前より斎宮寮に属し、使えている女官


だとしたら……彼女もまた狼藉を働く輩に脅され、やむなくせざるを得なかった事なのかしら。何とも分からないわ……いけ好かない女ではあったけれど……。

 紅蘭が一層、混迷した顔になる。桜姫が自らの懸念を口にした。

「……それより紅蘭、内院の様子がことのほか閑静である……とは気掛かりです。囚われの女官達が、今、どこで監禁されているのか分かりませんが……。何か彼女達の


気配なり、内院を武力制圧した狼藉者の姿なりと、感じるものはありませんでしたか?」

紅蘭が即答した。

「それが……人が住んでいるのか疑う程に、静寂です。私が来た時は、武装した人間など勿論の事、私を案内した女官の姿以外は何ひとつ見えず、気配すら感じませんで


した」

桜姫が唖然として困惑する。

「それはおかしいわ……。あれだけの人間を声ひとつ上げさせず、その気配すら感じさせず、見張りの人間さえ付けずにやり過ごすなど……。それに、女官の虚談を妄信


している状態とはいえ、隣接した斎宮寮の役所に一切勘付かれずに留置し続けるなんて、出来る筈が無いわ……まさか……」

言い掛けて、悪しき想像に桜姫が顔を蒼白にするなり言葉を呑んだ。紅蘭が激しく首を振り、きっぱりと否定する。

「いけません、桜様。弱気になっては……」

紅蘭が、自らをも勇気付けるかの様に話題を転じた。

「鬱々と杞憂するより、何とか脱出の方法を探りましょう、桜様。桜様は、この御座所に幽閉されていると仰いましたが、室内では、ご自由にお過ごしなのですか?」

「ええ。時折、狼藉者のひとりが女官姿で現われて、偽りの神託を強要される以外はね」

吃驚した紅蘭が、即座に問い返した。

「……偽りの神託ですって?」

「ええ。『といちを唐へ嫁がせた方が良い』等と、無茶苦茶なものばかり……ね」

「何ですって? ……それは本当ですか?」

紅蘭が思わず声を大にすると、重ねて驚いた。およそ初耳という様子の紅蘭に、桜姫が心外な顔を向ける。

「……え? 紅蘭はまだ、帝やといちから聞いていないの?」

紅蘭が、動転していてうっかり忘れかけていた大役をはたと思い出すと、桜姫に此の度赴いた理由を説明した。

「私はただ……桜様の御文が二週間程途絶えた事を、といちが大層気に病んでいたので、名代として親書を携え、直接桜様にお会いする事だけを念頭に参ったものですか


ら、神託の事は何も……。多分、といちも神託の件は聞き及んでいないと思います」

紅蘭が穏やかに微笑み、懐からといちの親書を丁重に取り出すと、桜姫に手渡した。

「といち……」

桜姫が手紙を受け取るなり、目を潤ませた。

そして親書を愛おしく胸に抱き締めると、感極まった様子で漣漣と涙を溢れさせた。

ああ……といち、ありがとう。貴女の思いが紅蘭を動かし、まさに今、こうして私の希望となった……。そして紅蘭、貴女もといち同様私の身を案じ、遠路遥々、危険を


冒してまで私に逢いに来てくれたなんて……。

桜姫の両瞳から、再びはらはらと涙が零れ落ちる。

涙に滲む親書を熱心に読み入る桜姫を見つめながら、紅蘭はようやく今、といちの願い通りその大役を果たせた事に心から安堵すると、道中の苦難をそっと思い出し、唇


を震わせた。ひと頻り、紅蘭と桜姫がその思いの丈を曝け出すかの様に泣き交わすと、やがて互いに自らの置かれた状況を冷静に知覚し、再び口を顰めて脱出の為の算段


を話し合った。

紅蘭が細心の注意を払い、小声になると口を開いた。

「桜様。実は私、薫に伝令用の小鳥を貰い受け、密かに袖に隠しております。斎宮寮には私に同行した葵が待機しています。小さな手乗り文鳥ですが、これに詳細な手紙


を付けて、何とか外にこの窮状を知らせましょう」

紅蘭の良案に、桜姫が瞳を輝かせると、一も二も無く了承する。

「直ちに手紙を書きましょう、紅蘭。この居室は格子窓に至るまで、全ての扉が閉ざされた密室ですが……こうして火鉢もある事です。探せばきっと、換気の為の空気穴


が設えられている筈……」

寸陰を惜しみ、紅蘭が即座に立ち上がる。

「では、桜様は文に専念なさって下さい。もっとも、文鳥の足に結べる程の短文に限られますが……。私は香炉をお借りして、何としても換気口を見つけます」

二人は手際良く役割を分担すると、早速行動を開始した。紅蘭が香炉に薫香を焚き上げると、湿らせた香木を投げ入れた。ゆらりと立ち上る白煙を追い、部屋を左右に歩


き回る。桜姫が、最大の情報量でありながら最少文字数で済む漢文形式を迷わず選択すると、細分した紙を前に、ぶつぶつ呟きながら校正を重ね、慣れぬ漢文体に苦戦し


ながらも、厳選した文字を書き記した。

「出来た!」

声を潜め、桜姫が筆を擱いた瞬間だった。

ガチャリと開錠する音が響いたかと思うと扉が開き、ざあっと寒風が舞い込んだ。

「斎宮様、失礼致します」

高慢な態度で立礼するなり入室した女は、室内をぐるりと見渡した。

「……香でも、焚いておられたのですか?」

招かれざる者の来訪に、桜姫が女官を見据えると、きっとした口調で叱責する。

「貴女を呼んだ覚えはありません。夕餉までは、まだ時間がある筈ですよ」

女が、邪意に満ちた笑みを浮かべた。

「神託を取りに来たのではありません。貴女を、監視しに参ったのです」

「……何ですって?」

無礼な女の申し出に、蒼然とした桜姫が怒りを露に睨み付ける。女が一方的に身勝手な口上を述べると鼻を鳴らし、桜姫を見下した。

「今までは貴女様お独りでしたから、厠や入浴の際に監視していれば事足りておりました。が、橘の姫君と共においでの今は、何か好からぬ事を策謀なさるやもしれませ


ぬ」

女が手前勘を働かせて言葉を切ると、ついと桜姫に歩み寄る。

「……それを証拠に、神託を書く事をあれほど拒否されていた貴女様が、今はこうして御尊顔も晴れ晴れと……自ずから文机に向われているではありませんか」

どういう心境の変化でしょうね、と、女が陰湿にせせら笑った。

「貴女への呪詛でしたら、喜んで書きもしましょう」

桜姫が女を冷眼で一瞥すると、書き終えた文を片手で握り、火鉢に放り込む。推敲を重ねた一縷の望みは、めらめらと燃え上がり、瞬く間に灰燼と帰した。

几帳の後ろで香炉を持ちながら全てを聞いていた紅蘭は、計画が破綻した事に愕然としながらも、何とか一矢を報いて形勢を逆転させようと、咄嗟に知恵を巡らせた。

紅蘭が袖より杏姫をそっと取り出すと、先程見付けた換気口の中に匿った。

躾の行き届いた白文鳥が身動きひとつせず稽留したのを見届けると、紅蘭が再び香炉を手に取り、几帳の陰よりそっと出でて、女の背後に忍び寄る。

刹那、女を目がけて満身の力を込め、香炉を振り下ろした。不意打ちを喰らった女が、たまらず昏倒する。

「桜様、今です!」

すかさず紅蘭が桜姫の手を掴み、共に部屋の出口に走り寄ると、勢い良く扉を開け放つ。昂然と飛び出そうとした矢先、紅蘭の足がはたと凍り付いた。威勢を削がれた紅


蘭が、背後の桜姫を庇う様に両腕を広げると、じわりじわりと後ずさる。

紅蘭の眼前には、ぎらりとした大太刀が突き付けられていた。

「紅蘭!」

桜姫が金切り声を張り上げると、咄嗟に紅蘭の肩を抱き寄せる。

紅蘭に大太刀を向け驚破した屈強な大男が、悍然と口を開いた。

「逃げ出そうなどと考えない事だ。まさか人質がいる事を忘れた訳ではないな、斎宮様。そしてもうひとりの姫様よ! 俺の背後をよく見るんだな」

 猛々しい男の咆哮におののいた紅蘭が、慄然として血の気の引いた顔を上げると、男の背後には、猿轡を噛まされた紅蘭の侍女達が、荒縄を打たれて捕らえられていた


心胆凍て付くあまりの恐怖に、絶句した紅蘭が脱力し、色を失った。

眼前で再び繰り返された悲劇に、桜姫が遣り場の無い悲憤を胸に刻み、無念至極とばかり唇を噛むと、紅蘭の肩を強く抱き締める。

「もういいぞ、連れて行け」

大男が軽く顎をしゃくると、男の手下共が、抵抗不能の侍女をどこかに連れ去った。

昏倒していた女が、おもむろに起き上がる。女は溌悍した様子で紅蘭に歩み寄ると、庇い立てする桜姫を突き飛ばし、紅蘭の襟元を掴むなり、容赦無い平手打ちを喰らわ


せた。

「随分と、舐めた真似をする姫君ですね。忌々しい」

 屈強な男が大太刀を納めると、扉を閉めながら、女に念を押した。

「大事な人質だ、それ位にしておけ。俺はここで見張る。お前も油断するなよ」

 意気阻喪した二人の姫君は、なすすべなく部屋に戻された。絶望に襲われた紅蘭が気息奄々として換気口を見上げると、杏姫の姿は消えていた。



 二条院にて待機していた茜は、急使が齎した書状にて主命を帯びると、およそ自身の持つ最速記録を以って、東宮の許に馳せ参じていた。

「お捜し申し上げました、東宮様。ご無事で何よりでございます。まさか難波の地においでとは露知らず……こうして参上するのに手間取り、お待たせしてしまいました


久々の再会に心から安堵した様子の茜を見て取ると、東宮がにやりと笑い労をねぎらった。

「ご苦労だったな、茜! お前には、悪い事をした」

 悪かったとは言いながら何とも爽快に笑い、こちらの懸念など全く気に留めていない様子の東宮に、いつもの調子そのままとばかり茜が喜ぶ。

「……東宮様らしいといえば、その通りの行動でございましたが」

東宮がふふんと鼻を鳴らすと口角を上げる。

「お前に読まれる様では、俺もまだまだ底が浅いな」

 茜が莞然と微笑むと、東宮が早速、到着したばかりの茜に尋ねた。

「さて、茜。二条院はじめ、都の様子はどうだ? 大事ないか?」

 茜が片膝をつき畏まると、東宮を見上げ頷いた。

「はい。信頼殿は二条院改築の為、美濃に向かわれておりましたが、飛騨の匠を連れて本日、二条院に帰参される予定です」

 東宮が愉快とばかり、からからと笑った。

「ふふ……信頼の奴、改築工事に並々ならぬ意欲を燃やしていたからな。微に入り細に入りこだわった屋敷に変えてみせると豪語していたが……。俺としては楽しみでも


あり、奴の趣味である忍者屋敷にされそうで、困った部分もある。……ま、俺が気に入らなければ壊すまでの事だ。まずは奴の思う通り、存分にやればいいさ」

 相変わらず何とも鷹揚に構える東宮に、茜が思わず失笑するなり相槌を打つ。

「事前に一切干渉されないとは、随分寛容でいらっしゃいますね。……隼殿と協議を重ね、気合充分でしたよ、信頼殿は」

 東宮がふっと口辺を緩め、茜を見遣る。

「まあいい……奴に一任した事だ。……それで他は? 変事ないか?」

 茜が打って変わり、真摯な面持ちになった。

「紅蘭様が、といち様の名代で伊勢に向われました。薫様は現在勅命により、紅蘭様とは別に、楓様を伴い斎宮寮に下向されています」

 眉を上げた東宮が、怪訝顔になる。

「といちの名代? ……親父が薫に勅命とは、どういう事だ?」

「定期的な御文が二週間程途絶えたという事で、斎宮様の御身をいたく心配されていたといち様ですが……。その心情を酌まれた紅蘭様がといち様の親書を携え、単身伊


勢に下る事を決意された様です。また斎宮様より内裏に届いた託宣が『といち様を唐の太子に嫁がせた方が良い』という俄かに信じ難いものであったので、内々に帝が薫


様をお召しになり、その真偽を確かめる為、伊勢への下向を勅命されました。内裏では現在、といち様を御病中として、対応を先延ばししている状況です」

 ふんと鼻を鳴らした東宮が、辛辣な口調でせせら笑った。

「その様な神託、有り得る筈が無い。でたらめだという事ぐらい、誰でも分かるだろう? 端から真偽も何もあったものか!」

 聞いた瞬間に何の躊躇も無くばっさりと結論を一刀両断した東宮の潔さに、茜が思わず軽く苦笑した。茜の心中を知ってか知らずか、東宮がなおも放言する。

「全く……下らん神託など当初から真に受けず、無視すればいいものを! だが薫め……どうせ朝廷にも斎宮側にも軋轢が生じぬ様に気を回した結果、どうでもいい勅命


を甘んじて受けたんだろう。紅蘭も流石に無謀と言うべきだな!」

 東宮が怒りに任せて一方的に言い放つと、ふと深遠な双眸になるなり呟いた。

「しかし……いかに馬鹿げた神託とはいえ、それが斎宮から発せられたという事実が問題だな。つい先月伊勢に群行した桜が、かの地で発狂したとも聞いていない。……


ならば、桜の真っ当な意志を制限する、何らかの力が働いているのか……?」

 東宮の人並み外れた直感が、伊勢に垂れ込める暗雲を恐ろしいほど敏感に感知すると、鋭く警鐘を鳴らしていた。東宮が閉口するなり、暫し穎敏に黙考する。

それに……あの薫が、いかに勅命であるとはいえ帝に何の諫言もせずに、自らの政務を全て滞らせてまで素直に奉勅するとは……。いくらなんでも、紅蘭や桜を気に掛け


たという単純な理由だけではない筈だ。……おそらく薫も、暗に何らかの不穏を感じて伊勢に下向したと見える。

「よし」

 即断即決した東宮が茜に向かい、凛として口を開いた。

「おい、茜! 路銀の持ち合わせはあるか?」

 突拍子も無い東宮の問いに、面食らった茜が目を瞬かせる。

「は? ……ええと、僅かならございますが」

 茜が懐から路銀の入った小袋を取り出した。東宮が受け取った皮袋を開けると、小銭がからりと転がり出た。東宮が舌打ちするなり苦笑する。

「チッ……。これでは、何の足しにもならないな」

 摩訶不思議な顔を見せ、茜が首を傾げた。

「難波から京までなら、夜半には優に戻れます。もし道中ゆるりとお戻りになっても、東宮様は無条件で駅舎をご利用頂けます。路銀の心配など御無用ですが……」

 東宮が眉を顰めると、短く答えた。

「いや……駅舎はまずい。都に行動が筒抜けになる」

「は……? まさか、東宮様……」

 言い掛けた茜が上目遣いに東宮をちらりと仰ぎ見る。東宮が口角を上げ、敢然と頷いた。

「その、まさかだ。これより、伊勢に向うぞ!」

 言うが早いか黒王を駆り、疾風の如く伊勢街道を目指す東宮に、茜が慌てて馬に飛び乗り後を追う。

「東宮様! ……路銀は、どうなさるのです?」

 前方から、快然とした東宮の声が鳴り響いた。

「何とかなるだろ、心配するな! とにかく急げ!」

 思い立ったが吉日とばかり、東宮が猛然と黒王を駆る。一陣の烈風と化した二人は一路、伊勢を目指した。


 山間部に入った所で東宮が馬を駆る速度を緩めると、ややあって黒王を止め、下乗した。茜が不可解な様相で東宮に引き続き下馬すると、主に歩み寄る。

「東宮様、どうかされたのですか? 日没前までにこの山を抜けませんと、この街道沿いには夜をお過ごしになる小屋などございませんが……」

 東宮が茜を見遣ると、短く答えた。

「しっ……いいから、馬を連れて付いて来い」

 東宮が、枯死した草木が茸茸と生い茂る木立に身を潜める。

蒼蒼とした杉の樹陰は冬枯れした叢樹と相俟って鬱々とした冥闇を形成し、巨躯である黒王の漆黒の肢体をも見事に溶かし込んでいた。

 命じられるまま深く身を潜めた茜に、街道を鋭く注視した東宮が口を顰め、その目的を明らかにした。

「……路銀を調達するぞ」

 置かれた局面を鑑み、茜がもしやと推察して仰天すると、決死の覚悟で東宮を諌めた。

「……貴方様は東宮です、まさか追い剥ぎの真似など……おやめ下さい!」

 東宮が茜をジロリと睨み付ける。

「阿呆! 誤解だ。誰が善良な一般人を狙うものか! 野盗から巻き上げるんだよ」

 誰から巻き上げ様が、追い剥ぎ行為には違いないと感じたものの、思わず呆気にとられた茜が唖然として口を慎む。

「野盗を……襲うのですか?」

 呆然と主命を復唱した茜に、東宮が自信満々の双眸を向けると、にやりと笑った。

「名案だろう? 良民は喜び、俺も助かる。まさに一石二鳥だ! もとはといえば路銀を持参しなかったお前にも責任がある。しっかり稼げよ!」

 東宮が本末転倒に茜を奮励すると、虎視眈々として、野盗の出現を待ち侘びた。


 薫と遭遇し、ありがたくも拝領した飾太刀を胸に、一路京の都を目指して街道を上っていた野盗の一行は、嗷嗷とした喧騒にふと気が付くと足を止めた。

「……何だか、騒がしい様だな」

 野盗の首領が注視すると、やがて前方より野盗姿の屈強な男が髪を乱し、あたかも阿鼻地獄を狂奔する亡者の如く、囂々とした叫喚を上げながら助けを求め、駆け込ん


で来た。

 どう見ても自らと同属と思える男の急難に、野盗が一斉に色めき立つ。

「どうしたんでい?」

 兢々として足が萎え、蹌踉とした男の両脇を、手下共がしかと掴んで助け起こすと、特攻隊長を自負する男が眼前に屈み、男に尋ねた。

「……知らん、知らん、俺は知らん、……勘弁してくれ……」

 見るからに頑強な男が視線の焦点定まらず、ただ喚き散らす。およそありえない程に弱腰の醜態を晒すと、ほうほうとして地を掻いた。

 奇奇怪怪とした男の様子に、野盗共が気を揉んだのも束の間、前方の騒動が急に鎮静したと感じるなり、大地を揺るがす鳴動と共に重厚なる蹄の音が轟いた。

その場に居合わせた一同が、何事かと一斉に目を瞠る。

 あっという間に差し迫った馬蹄の轟音に、茫々とした狂風が巻き起こり、漆黒に彩られた未曾有の影が肉薄する。

「ひいぃぃぃぃぃぃ………!」

 恟恟としていた男が絶叫すると同時に、男の姿が忽然と消えた。

 前代未聞の事態に、茫然自失とした野盗共が一斉に、烈風の吹き抜けた彼方を見遣る。見た事もない漆黒の悍馬に跨った、見るからに身形の立派な貴族の若様が、馬上


より投じた荒縄に頑強な男を捕らえ、拿捕していた。

 無骨な乱暴者である筈の野盗が度肝を抜かれ、思わず固唾を呑んで経緯を見守る。

 馬上の貴人は荒縄を手にしたまま驚く程軽捷に馬を降りると、捕縛した屈強な男を引きずり立たせ、街道沿いの大木に押し付けるなりすらりと太刀を抜き、その首許に


突き付けた。

「ふん……俺から、逃げられるとでも思ったのか?」

 日頃の横暴ぶりは何処へやら……およそ野盗であるとは信じられない程従順に、粗野な相貌の男が答える。

「め……滅相もねえ。もう旅人から強盗するなんて真似はしねぇと誓います。……勘弁して下せぇ……」

 鷹の様な双眸を持つ破天荒な貴人が、ふんと鼻を鳴らすと口角を上げ、にやりと笑った。

「……改心すると、誓うのだな。ならば命だけは、助けてやる」

 言うが早いか男に巻いた荒縄を太刀で一閃し、斬り解く。すっかり腰が抜け、その場にへたり込んだ男に向かい、その眼前に太刀を突き付けると、悪辣無比に命令した


「懐に隠し持った金子は勿論の事、褌以外の身ぐるみ全て、置いて去れ!」

 矜持も何も、恥も外聞もかなぐり捨てた様子の男が、命あっての物種とばかり、言われるがまま瞬息の間に脱ぎ捨てると、命からがら逃走した。

 あわてふためき逃げ去った男を綽然と見遣り、威風堂々とした貴人が放笑する。

次いで金子の入った袋を拾い上げると、掌上でぽんと放って重さを測り、得たりとばかり懐に入れた。

 突如として現われた、野盗顔負けの野盗狩りをする貴人に、一連の行為を見ていた野盗共が総じて肝を潰すと首領に向かい、蒼白顔で声を潜め、口々に申し立てた。

「……俺達が言える立場じゃねぇが、ありゃお頭……とんでもねえ悪人ですぜ」

「その通りでさ! 俺達野盗だって人間だ! いくらなんでも、全財産を巻き上げられ、褌姿で仲間は壊滅状態なんて、悲惨過ぎますぜ。やられちまった奴はもう、人間


不信で、二度と立ち直れないかもしれませんぜ」

 野盗共が総じて自分達の過去は棚上げ、目の当りにした仲間の災難を思い遣ると、甚だ同情して、奔放極まる談義をした。

「あんな奴、見た事ねぇ……。随分身形のいい格好はしてますが、もしかすると、あれも全て盗品かも知れねぇな」

「そうだな……。いくら貴族の格好はしていても、奴の性根は悪魔以上ですぜ! あんな凶漢、俺達野盗の間でも、まず見た事ねぇ……危ない奴ですぜ」

 首領が腕組みすると、口を顰めたまま深く頷いた。

「確かにお前達の言う事は、いちいちもっともだ。とてもじゃないが、高貴な身分の御方がなさる事とは思えない……。貴族とは、こう……綾小路様の様な御方を言うの


だ」

 いささか思い込みが過ぎる首領の言葉に、すっかり感化された野盗共が揃って頷いた。

仲間のひとりが、ここぞとばかりに提案する。

「我等に仕官の道を与えてくれた内大臣様……。お付の武官も『これを機に改心せよ』と諭されていました。……どうです、首領? 京へ乗り込む手土産に、まずはあの


極悪人を懲らしめ、人の道ってもんを諭し、奴もこの際俺達同様、真っ当な道を歩める様に更生してやったら?」

 野盗でありながら、なまじっか正義感が芽生え始めた様子の首領は、同じく中途半端な正義漢となりつつある手下の、甚だ論理の崩壊した申し出に著しい満足を見せ、


頷いた。 

「よく言ってくれた! 俺も、そう思う。……だが、奴は見ての通り、恐ろしく強いぞ」

 学習しない男を地で行く特攻隊長が、昂然と意気込んだ。

「所詮、奴は単騎です。今度は首領にもひと働きして貰って、皆でぐるりと囲んじまえば、奴も逃れられないってもんでさぁ」

 こちとら三十を越える手下に、向こうはたったひとり。隙無く囲めば楽勝間違い無しとの勝算に、首領をはじめ手下共が大きく頷く。

こうして何とも懲りない男である特攻隊長を先頭に、恐れを知らない野盗共が洋々とした鬨の声を張り上げると、徒党を組んで一斉に、悠然と佇む貴人に向かい雪崩れ込


んだ。

 突如として発生した鬨の声に、先に制圧した野盗共の後始末をしていた茜がはっとして後方を注視するが早いか、東宮の身を案じ駆け付ける。

 当の東宮は、爽快な顔で見遣ると好戦的な双眸を向け、すらりと太刀を引き抜いた。

「何だ、身の程知らずの阿呆ども、この俺様に挑む気か?」

 言うが早いか東宮が剽軽に跳躍して黒王に跨ると、群がり押し寄せる野盗共には目もくれず、瞬息眼光鋭く目を曝し、只ひとりに狙いを定めた。次の瞬間、東宮が獰猛


な笑みを浮かべるが早いか黒王を駆り、此方へ突進してくる野盗共に向かい、単騎独行、猛進した。

 圧倒的無勢にも拘らず、恐れるどころか勇猛果敢に打って出る。

意表外の行動に、出端を挫かれた野盗共が一斉に動揺をみせ、たじろいだ。

目にも留まらぬ速さで駆け入った東宮が、手にした黒太刀で、左右から突き上げる野盗共の蕨手刀を軽くあしらうと、標的に向かい荒縄を投じる。両手を搦め捕られた首


領が、容赦無く引き倒されると、野盗共の視界から消えた。

一瞬で捕縛された首領が、烈風の如く駆け抜ける漆黒の駿馬に無情にも引き摺り出される。やがて前方で悠々と黒王から下乗した東宮に襟首を捕まれ、引き据えられた。

 勝利を確信し、眼前の悪漢を調伏し、正道たらしめるという正義に彩られた野盗共の甘美な夢は、僅か寸陰の間に瓦解した。

 自らの失態に蒼然とした特攻隊長が真っ先に首領に駆け寄ると、野盗共が血相を変えて後を追う。野党共が、東宮と首領をぐるりと取り囲んだ。

「動くな。動けば、此奴の命は無いぞ」

 東宮が険相な顔で野盗共を睥睨すると、冷然とした口調で言い放つ。

即刻東宮の許に馳せ参じた茜が野盗共の背後から音も無く忍び寄ると、気配に気付いた東宮が茜に目を遣り、その動きを牽制した。

 東宮が鼻を鳴らすと虎狼の如き笑みを浮かべ、野盗共を一蹴する。

「ふん、何ともだらしない奴等だ。もっと骨のある奴はおらんのか」

 首領の喉許に太刀を突き付けたまま豪語する極悪人に、仁義に悖る行いとばかり、怒り心頭に発した野盗共が咆哮した。

「だまれ、この悪漢が! 貴様の様な、人皮畜生に言われたくないわ!」

「何?」

 およそ存外な野盗の遠吠えに、東宮が耳を疑い目を覚ますと、興味深そうに尋ねた。

「人皮畜生だと? 俺に、言ったのか?」

 居直った様子の野盗共が、有りっ丈の敵意を剥き出しにすると、堰を切ったかの様に、一斉に罵詈雑言を浴びせ掛けた。

「惚けるな! 盗人の上前を取る人間が、善人なものか!」

「そうだ、この極悪人! 首領を離せ!」 

「さっきも別の野盗に、極悪非道の振る舞いをして追放しただろ、一部始終見ていたぞ! お前はそれでも人間か?」

 甚だ主客転倒した逆上に、東宮がやれやれとばかり嘆息すると呆れ顔になる。笑止千万と言葉を返した。

「盗人猛々しいとはこの事か? 全く、逆恨みもいい加減にしろ! お前等、どう見ても野盗だろう? 野盗のお前等に言われる筋合いは、毛頭無い」

 特攻隊長が蛇蝎の如き目を剥くと、声を荒立て噛み付いた。

「黙れ! 野盗だからこそ、分かる事もあるんでぃ。俺らが只の盗人なら、俺ら野盗を食い物にする貴様は、真の極悪人だ!」

「そうだ、そうだ!」

 手下の野盗共が、こぞって激しく非難する。東宮が、呆れ果てた顔で苦笑した。

「全く、片腹痛い連中だな! ……仕方無い。いいか、こんな辺境ならば支障無いから、教えてやる。俺は、東宮だ。斬奸して何が悪い! これ以上の暴言は許さんぞ」

 その場が一瞬、静まり返る。時を移さず、辺りはどっと割れんばかりの嘲笑に包まれた。抱腹絶倒した野盗共が、前後左右に転げ回る。

「はははは! あんた、相当な腕利きだが、頭はどうしようもなく悪ぃんだな、気の毒によ! もっと増しな嘘でも吐けばいいのによ!」

 野盗のひとりが込み上げる笑いを堪えきれず、大声で高言する。

「全くだ! ……俺らには分かってんだぜ、あんたの正体が! 追い剥ぎして幾ら身形を整えたって、その品性までは繕えねぇ。残念だったな!」

 野盗共が、腹の底から放笑した。

「それにしても、東宮様とはねぇ? 全く、俺らを馬鹿にしてるってもんだぜ! いかに野蛮な俺らだって、東宮様程高貴な御方なら、ひと目で分からないとでも思うの


かい?」

 無礼千万な野盗共の暴言に、茜が蒼白になるなり、おそるおそる東宮の御気色を窺った。東宮が、沸々と湧き上がる灼熱の怒りに、苦虫を噛み潰した顔で無言になる。

主命により後方待機とはいえ一触即発の危機に、茜がハラハラした様子で経緯を見守る。恐れを知らぬ野盗のひとりが、なおも広言した。

「気の毒にな、あんた……。まだ、本物の上流貴族に出会った事ないんだろ? だから恥ずかし気も無く、東宮だなどという大法螺を吹く気になるんだ」

 特攻隊長が大きく頷き真顔になると、黙然とした東宮を見つめ、蛇蝎の如き瞳に憐憫の情を満々と湛えると、誠心誠意、東宮を諭しに掛かった。

「なあ、あんた……どうでい? もうこんな稼業から足を洗って、真っ当な仕官口でも探したら……? あんた程の剛腕なら、性根さえ入れ替えれば、仕官には苦労しね


ぇ。あんたさえ良かったら、俺達と共に上京しないか? 二条院の西九条様が、あんたに合う職場を世話してくれる筈だぜ」

 成敗の対象である野盗共に、あろう事か軽視された挙句、よりによって同情され諌められるとは、何たる屈辱だ……。

沸騰直前の憤慨を辛うじて押さえ、東宮が生じた疑問に炯眼を側めると、厳然と問うた。

「西九条? ……信頼か? 一体、どういう事だ」

 特攻隊長が、眼を丸くして驚いた。

「こりゃ驚いた。あんた、名前まで知ってるとはね。そうだよ、二条院という御屋敷に居られる、西九条信頼様だ。俺達の恩人である綾小路様が、紹介状を書いて下さっ


た」

 東宮が、眉を顰める。

「薫が?」

 特攻隊長が、再び驚いた顔を見せる。

「あんた、内大臣様まで知ってるとは驚きだ。やけに詳しいねぇ」

「……その手紙を、見せろ」

 東宮が、特攻隊長の面前に太刀を突き付ける。東宮の鬼気迫る迫力と、煌然として眼前に煌いた太刀に、戦いた特攻隊長が慌てて答えた。

「あんたが拿捕した俺らの首領が、大事に持ってまさぁ」

 刹那、東宮が太刀で足元の首領を一閃すると、荒縄を斬り解いた。安堵するのも束の間、東宮が冷然と太刀を突き付ける。首領が両手を挙げ敵意の無い事を示すと、懐


中より薫の書状を取り出した。東宮が、その鋭敏な双眸を転じると、荒涼とした後方の木立に身を潜めた茜に向かい、凛と命じる。

「茜! 不審な動きがあれば、遠慮はいらんぞ!」

 東宮の発声に驚いた野盗共が、慌てふためき振り返る。だが東宮の言葉とは裏腹に、冬枯れした樹海は闇闇として、物音ひとつしなかった。

野盗が狐につままれた様相で首を傾げ、泰然とした東宮に向き直る。東宮が敵の真っ只中に在りながら、大胆不敵にも鏗然と太刀を鞘に納め書状を広げると目を通す。

 当初の目的通り、この極悪人を捕らえて天誅を下すならば、まさに今が絶好の機会の筈である。敵の渦中にて眼前の敵より目を離すという無謀極めた剛胆な行為は、明


らかに致命的な愚挙となる筈であった。

だが、周囲を取り囲む野盗共は、この千載一遇の好機を各々理解しながらも、何故か一様に足が凍結したかの様に、飛び掛れないでいた。眼前に佇む人非人は、今や四面


隙だらけの筈である。何故、足が動かない……何故だ……。

野盗共が、改めて繁々と眼前の偉丈夫を見た。

 洗練された緋色の狩衣は見た事も無い程の上物で、腰に佩いた太刀は黒漆に純金の豪奢な装飾が施された、それは見事なひと振りであった。烏帽子こそ被っていないも


のの、その威風堂々とした風貌は、一方ならぬ威勢を以て他者を圧倒させていた。

「あんた、字が読めるのか……?」

 文盲は当然という野盗生まれであり、生粋の野盗育ちである特攻隊長が吃驚して呟くと、配下の手下同様、微細に渡り観察していた首領が、黒漆の太刀に彫られた菊の


御紋を認めるなり蒼然として、憚りながら口を開いた。

「まさか……貴方様は、真に東宮様……?」

 東宮が薫の書状を読み終えると、ついと首領に返し、睨め付けた。

「この阿呆! ようやく、分かったか」

 仰天した首領が絶叫を上げると、全身を投げ出し、地に頭を擦り付ける程に平伏する。驚愕した手下共が血相を変えるなり、首領に続いて我先にと手を突き低頭した。

 いささか興醒めした様子の東宮が口を開く。

「確かに薫の筆跡だ。お前等、薫に会ったらしいな」

 首領が、急ぎ手下に命じて薫より拝領した白木箱を持ってこさせると、飾太刀を捧げ持ち、悔悟慚羞に堪えない面を深く下げ、答えた。

「は、はい。この飾太刀を売り払い、身支度を整え入京する様に仰せ付かりました」

 東宮が飾太刀を一瞥すると、さしたる興味も示さず、そのまま黒王に歩み寄った。

首領が当惑した顔を見せると、慌てて東宮の背後より声を掛ける。

「と……東宮様! この飾太刀をお持ちにならなくて、良いのでしょうか? それに、散々無礼を働いた、破廉恥極める我等に対する仕置きは、どうなさるのでしょうか


? どうぞ御遠慮無く、どうぞ御存分に!」

 首領が、はきと申し出る。奸盗であった過去は何処へやら……見た目こそ賤劣でありながら、その魂こそ侍宜しく昇華され、覚悟を決し一斉に頭垂れた野盗共に、東宮


が肩越しに振り返る。

「つまらん。既に薫が手を打ち、更正途上にあるお前らならば、先程の俄か正義も頷ける。……さても珍妙な、野盗崩れと会ったというものだ」

 淡淡として独り言の様に呟くと、東宮がひらりと黒王に跨った。

「そのまま上京するがいい」

 言い置くなり手綱を取り、瞬息の間にその場を後にする。

 慚悔に暮れていた首領が思わぬ処遇に顔を上げると、寒煙棚引く彼方の山間に、悠々と消え行く東宮を仰ぎ見た。

 悄然と平伏していた手下共が、おそるおそる顔を上げ首領を見つめた。深く息を吸うと、胸をほっと撫で下ろす。

「お頭、首が繋がって良かったですね。……これで、ようやく安心でさ。俺、正直言って、この世の中、捨てたもんじゃねぇなあと思いましたよ。……あの御仁が東宮様


なら、野盗あがりの俺らが仕官したって、そこそこ勤まるんじゃないか……ってね」

 別の野盗がしきりに同調すると、言葉を継いだ。

「お頭、俺も、そう感じました。……だって、俺らが本気で勘違いしたほどの筋金入り、野盗の大親分の様な性分の東宮様が、鼻持ちならない貴族達の上にいる。何とも


痛快じゃありませんか」

 手下共の言葉に、首領が笑うと大きく頷いた。

「そうだな……。一度は凋落した俺だが、今度こそ胸を張って、やり直せる気がする」

 こうして野盗共は、東宮の意志とはおよそ無関係に各々勝手な希望を見出すと、洋々たる前途を夢見て、京へと勇進した。


「東宮様、何とも災難でございましたね」

 東宮の後を追い、颯然と馳せ参じた茜が、背後より声を掛ける。

東宮が手綱を締め速度を緩めると、不機嫌そのものの顔を向けた。

「全く失礼な奴等だ! この俺様を、人非人呼ばわりするとは」

 茜が微笑むと、感心した様子で慰める。

「それでも寛大にお許しになられるとは、流石です」

 東宮がふんと鼻を鳴らすと、その口辺に何とも狡猾な笑みを浮かべる。

「許した訳ではない。奴等に何を言っても無駄だと踏んで、当たる場所を変えただけだ!」

 話の雲行きを危ぶんだ茜が顔を曇らせ、幾分躊躇して尋ねた。

「もしや……八つ当たりの先は、薫様ですか?」

 東宮が再び黒王の腹を蹴ると、その速度を不意に上げた。

「くだらん事を言うな。日が落ちる前に、峠を抜ける。先を急げ!」

 答えをはぐらかした東宮に、茜が軽く嘆息する。……やっぱりそうなのですね、東宮様。……でも、恐らく逆襲に遭い、余計に進退窮した事態になりますよ。

茜が先行する東宮の背を見つめ、先行き不安に嘆息する。やがて虚心坦懐、自らの任務に集中する事にした。

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