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厳冬の旅路

清涼殿を辞し、一旦自邸に戻った薫が向った先は、意外にも武者小路家ではなく、鴻臚館であった。鴻臚館とは、来日した外国使節が滞在する場所であり、平安京を南


北に結ぶ朱雀大路を挟んで東西に二館設置されていた。鴻臚館はまさしく文化交流の場であり、また近接する東西の市場の活気と相まって、平安京の七条大路付近は、大


層華やかな賑わいを見せていた。

 薫は朱雀大路を真っ直ぐ下り、左京側にある東鴻臚館前にて愛馬の紅妃をふわりと降りると、慣れた足取りで中へと入った。入口近くに設置された応接室にて待つと、


やがて取次ぎの官吏に案内され、ひとりの男性が現われた。

 薫が何とも爽快な笑みを浮かべ席を立つと、溌剌とした声を掛ける。

「礼賛! 久し振りだな。元気そうで、何よりだ」

すっとした切れ長の瞳に均整のとれた広い肩幅、すらりとした長身の見るからに雄爽な好青年が、快活な笑みを浮かべると薫に歩み寄る。

「薫! 君も変わらず息災そうだ。懐かしいぞ、二年ぶりか」

 二人は互いに快然として一笑すると近寄って肩を抱き合い、固く握手を交わして久闊を叙した。

 薫が旧知の仲である様子の美丈夫に席を勧め、自らもふわりと着座すると、取次ぎの官吏に茶道具一式を持って来させ、人払いをして部屋の戸を静かに閉めた。

「今年は、平安の都も雪が多いみたいだな」

 礼賛が、火鉢に掛けたお湯を静かに注いでいる薫の手元を見つめながら口を開いた。薫が口元をふっと緩めると、やんわり答える。

「……確かに今年は妙に雪が多くてね。例年より寒くて、火鉢が手放せないのだよ。もっともいくら多いとはいえ、北方の雪国……渤海国の君からすれば、雪のうちに入


らないかも知れないけれどね」 

 薫から熱い茉莉茶を受け取り、礼賛が笑いながら答えた。

「我が国の冬の寒さときたら、半端ではないからな……。いつも日本に来る度、この国は越冬するには丁度いい場所だと感じていた」

 薫が優雅な仕草で茶菓子の入った器の蓋を順次取りながら、尋ねた。

「今回は渤海使としてではなく、私的な渡航で来日したと聞いているが……。この季節に来た所を見ると、北路を通って入京したのか?」

「その通りだ。何と言っても、最短距離だからね」

 渤海国とは、高句麗滅亡後に建国された国であり、現在での中国北部、朝鮮半島北部、ロシアの日本海に面した沿岸部を含む領域を支配下に置いていた。七二七年、聖


武天皇の時代に初めて渤海使が日本へ派遣されたが、この背景には、朝鮮半島南部を支配していた新羅と、大国である唐との関係悪化により孤立を深めていた渤海国が、


当時新羅と対立関係にあった日本に注目し、友好関係を結ぼうとした軍事的思惑が強かった。

 こうして派遣された渤海使は、奈良時代当初、天皇を中心とする中央集権が確立し、大宝律令が施行され、平城京を築き上げ律令国家としての道を歩み出した日本とし


ても大いに歓迎すべき存在であり、唐に習って朝貢貿易の形を取り、非常に厚遇していた。

 やがて、渤海国が唐と融和する方向へ外交政策を転換すると、日本と渤海の関係は、当初の目的を逸し、もっぱら渤海使を通しての貿易と文化交流が主体となっていた


 礼賛が、茉莉茶の豊かな香りを愉しみながら、言葉を継いだ。

「日本への主な航路は三つあるが……。筑紫路は航海日数が長過ぎるし、南海路は暴風雨による大惨事で死者百二十余名の犠牲を出してからは、公に使用していない。日


本海を一気に渡海する北路は最短日数で渡航できるが、大陸から西北に吹く季節風を利用する為、晩秋から初冬にかけてしか来れないという短所もある。今回は丁度、渡


航する用が出来た際に、絶好の季節だったからね。無事、敦賀に着いたよ」

 薫が二杯目のお茶を注ぎながら、くすりと笑った。

「それは良かった。なにせ、前回は出羽国に着港した様だからね」

 礼賛が苦笑しながら薫を軽く睨み付けると、言葉を返した。

「笑い事ではないぞ、薫。それこそ記念すべき初回の渤海使は、君達が言う所の蝦夷地に漂着し、あろう事か大半が殺害されてしまった。前回着いたのが、かつての蝦夷


地だと知った時の我々の緊張といったら、半端ではなかったぞ」

 薫が礼賛の凛々しい瞳を見つめると、失言を詫びた。

「申し訳無い、不注意な発言だったね。当時、まだ朝廷は蝦夷地を平定出来ていなかったから、事情を知らない蝦夷地の民が、異民族の侵略と勘違いして大惨事となって


しまった。今は蝦夷地も平定後、百年近くが経過しようとしている……。二度とそんな悲劇は起こさせない。安心していい」

 礼賛がふっと笑うと、薫を見遣る。

「よせよ、本気で責めた訳ではない。貴国の事情は良く分かっているつもりだ。事実、朝廷は初回から厚く渤海使を歓待したし、初回の渡航から二十年程経ち、再び出羽


国に我が国の一千人に上る人間が漂着した際は、ちゃんと厚遇して貰っているからな。初回の件は不幸な事故だったと認識している。あれは、仕方無い事だった」

 礼賛が薫を快活に見つめると、薫がやんわり微笑んだ。

「……ありがとう。君が、我が国に好意的な見解を持っている事に、私はいつも救われる。それにしても、前回は相当難儀しただろう? せめて佐渡か能登に着けば、ま


だ良かったものを……。よりによって厳冬の出羽とは、苛酷だったね。さぞかし入京も大変だったろうに……」

礼賛が大きく頷いた。

「冬の日本海は時として牙を剥き、凄まじい様相を見せるからな。吹雪ともなれば、荒れ狂う大波と相まって、甚大な被害を被る事になる。昨年、出羽国から京に至る道


の峻烈な事といったらなかったぞ! 烈風を伴う地吹雪は凄絶で、天も地も境無く荒れ狂う風雪は、それこそ人心を悉く凄寥たらしめた。今回は無事、松原客院に着いて


幸運だったよ」

 薫が机に両肘を突き手を組むと、神妙な面持ちで呟いた。

「俊逸極めた航海術を誇る君をもってしても、毎回、着航地が異なるとは……」

 真摯な顔の薫を見つめると、礼賛が微笑み頷いた。

「……まさに毎回、命懸けだよ。君が唐に留学した時も、そうだっただろう?」

「確かにね」

 薫が静かに頷いた。

「いつの時代も航海は命懸けだが……。天候に留意し慎重に読めば、航海術の発展もあって、海難事故は大幅に減りつつある。また最近では、公の船以外にも私的な渡航


船や、民間の商船も多く頻繁に行き交う様になり、貿易も活発になった。その証拠に、こうした船を狙う海賊船も多々出没する様になっている」

「……海賊か。頭の痛い問題だな……。背景が、根深過ぎる……」

薫が不意に深刻な顔で呟くと、俯き加減になる。

「……どういう意味だ、薫?」

沈深とした薫を不思議そうに凝視すると、やがて間を置き、礼賛が静かに語り掛けた。

「……聡明な君の事だ。君の目には恐らく、遥かな未来が見えているのだろうな。……君さえよければ、胸の内を忌憚無く話してくれないか」

 誠実に向けられた礼賛の瞳を見つめると、薫が粛然と頷いた。

「……唐、新羅、渤海、そして日本……。海を持つ近隣諸国では皆、それぞれ海賊の出現に当惑し、頭を悩ませ始めている……。それは単に、航海技術の発展のみが齎し


た弊害ではない」

 薫が両手を眼前に組んだまま、どこか遼遠とした視線で口を開いた。

「……何が、言いたい?」

「……海賊の粛正を徹底できない程に各国の国力が衰退し、……言い換えれば、列国による律令国家体制自体に、限界が来ているという事だ。近い将来……どの国も、律


令による文治政治が崩壊し、群雄割拠の武力による統治時代が到来するかもしれない」

「……薫?」

 薫から発せられた重い予測に、驚いた礼賛が瞠目する。薫が淡淡と私見を述べた。

「例えば唐について言うならば、宦官の専横を許し、愚かな闘争を長きに渡って繰り広げ、中央政府が自壊を始める一方、科挙により出世の機会を与えられた平民が頭角


を現し、財を形成し、力を持つ様になった。ここまでは、文治政治の大いなる成果だった。だが平民の台頭は一方で利権を生み出し、賑わう市場の成長と共に大規模な商


人を発生させ、その経済力と武装能力は今や、無視出来ない程巨大になった。こうして形成された新富裕層を背景に、地方の節度使は力を蓄え、中央政府の意を無視した


勝手な行動を取る様になった。長年の愚行により腐敗した中央政府は、もはやその暴走を抑える事が出来なくなった。税収さえ困難となった政府が重税を課す愚策に及ぶ


と、末期症状とも言える農民反乱が起きた。全国規模で発生した黄巣の乱は決定打となり、唐の崩壊が加速した。唐は早、死に体となってしまった」

礼賛が深く頷くと、続きを促すかの様に薫をじっと見つめる。

「隣国である新羅についても、唐と同様の事態が起きている。各地で発生した農民反乱は深刻で、中央政府の意向は遠方に於いて、顕著に無視される様になった。地方に


発生した新たな有力豪族は、王位継承争いと相まって、ことごとく国土を分断するという暴挙に至り、今や領土が三国に分裂するという異常事態にまで発展している」

薫がふと視線を上げると、傾聴する礼賛に真っ直ぐ視線を合わせた。

「……そして我が国でも、事情は同じだ。各地で広がる荘園は、朝廷の税収能力を著しく低下させ、私荘園や貿易により富を得る富裕層が現われ始めた。荘園同士の抗争


は、国司の手に負えない事態も頻頻に見受けられ、急速な武装化を齎しつつある。遺憾ながら、朝廷としては、武力による制圧を選択せざるを得ないのが現状だ。……と


ころが、実戦経験に乏しい朝廷軍は蝦夷地平定以来、泰平の世に甘んじて形骸化した張子の虎と化し……国司が救援を求める様な規模の反乱を抑えるには、私荘園同士の


抗争で急成長しつつある武士団に頼らざるを得ない。こうした武士団の中には、時節到来とばかりに、朝廷の意向に迎合しながら立身出世を切望する者達もいれば、武力


に裏打ちされた自信から、密かな叛意を持つ者達も存在する。朝廷に従順な武士団と雖も、財政困難な朝廷からの恩賞が未だ充分でない彼等は、私貿易にて利を得る事を


考え出し……制御の効かなくなった一部の武士団は海賊化して暴利を貪るという、人倫に悖る行為に及び始めている。地方で発生する様々な反乱を起こすのも、制圧する


のもまた武士団だ。今でこそ、まだごく小規模なものの……こうした事態が累積すれば、いずれ軍功を重ねた者の意のままになる……武断政治の世となる懸念も払拭出来


ない」

 沈黙していた礼賛が深い嘆息を吐くと薫を見つめ、神妙になる。

「……君の言う通り、各国が築いてきた律令国家が……まさに今、総じて末期を迎えているのかもしれないな。経済活動の発展に伴い、強力な王権が維持出来なくなって


いる……。唐も含め群雄割拠の大動乱時代に突入するのも間近なのかもしれないな……。我が国でも、宗主国である唐の崩壊は、随所にその影響を見せている。唐の支配


力低下は、政府に於ける権力闘争に一層の負の拍車を掛けている。新羅の様に、国家分断の危機も充分あり得るが、それよりも心配なのは……」

 礼賛がふと口を閉ざすと手許を見つめ、無言になった。薫が居た堪れない顔で礼賛を見つめると、組んだ両手を額に当て、俯き加減に言葉を継いだ。

「唐が完全に崩壊したら……新羅も貴国も、唐とは大陸続きという立地にある。求心力を失くした唐が、周辺の異民族への支配力をも失うという事は……」

 言い掛けて、言葉を呑んだ薫に代わり、頷いた礼賛が冷静に口を開いた。

「……虎視眈々と中原を狙っていた異民族は、まずこの機を逃さず覇権を得ようとするだろうね。我が国も様々な異民族に囲まれているが、今の所は良好な関係を築いて


いる。もっとも、大陸という地続きの場所での攻防だからな……。永劫に渡りそうであるかは、全く不明だが……。弱体化した今の我が政府に、万一、強力な軍事力と統


率力を持つ新興勢力が圧倒的な威力で侵略してくれば……ひと溜まりもないかもしれない」

 俯いていた薫が顔を上げ、礼賛の瞳に真っ向から向き直ると、真摯に懇請した。

「もし……近い将来、万が一にもそんな事態に陥ったら……その時は、迷わず我が国へ、亡命してくれないか」

 薫の視線を正面から受け止めた礼賛が、驚愕して瞠目する。

「……自分が何を言っているか、分かっているのか」

 頷いた薫が、極めて冷静な口調で答えた。

「勿論だ」

 礼賛が眉を寄せ、鋭い視線を投げ掛けると、思わず薫を窘めた。

「馬鹿な……百年前とは事情が大きく異なる! 君の国は遣唐使も廃止し……言うなれば、今や外交的には鎖国に向おうとしているのだぞ!」

「分かっている」

 礼賛が語気を強め、辛辣に警告した。

「君は、貴国の国策に、反逆する事になるのだぞ!」

 薫が握った拳に力を込め、凛然と反論した。

「……心配無い。絶対的な鎖国にはならない! 何故なら古来より百済、高句麗、新羅を始め唐といった隣国と我が国は密接な関係にあり、上代から人の往来は激しく、


両国間で帰化する人間だって大勢いた。王室と皇室の血縁関係もあり、百済の時代には王族の亡命も頻繁だった程だ。渤海国とて例外ではない。こうした濃密な関係は、


一朝一夕に容易く切れるというものではない。何も問題は無い筈だ! ……何としても、私は君を助けたい」

清澄なる眼差しで、薫が懇誠込めて礼賛を見つめる。

「貴国は長年文治政治を追及し、学術の振興に寄与し、民の啓蒙に努めてきた。女性への教育に力を入れている事も、また素晴らしい。唐に多くの留学生を送り、唐と高


句麗の良質な文化を継承しつつも独自にそれを醸成してきた貴国の姿勢は、私が模範としたい所でもある。……何より私にとって君は、国こそ違えど……同じ志を持った


同胞の気がして、放っておけないのだよ」

 礼賛が、ふっと口元を緩めた。

「それだけではないんじゃないのか? 正直言って……同情もあるのだろう?」

 自嘲気味に微笑むと、礼賛がふと追憶に耽るかの様な、郷愁に満ちた顔になる。

「……唐の都で初めて君に会った時、正直言って驚いた。唐の都の人間からすれば見慣れた光景だが、君が日本人と知って、驚いたのだよ。百万人が住む唐の都……長安


には、多様な民族が居る。宗教だって様々だ。仏教、儒教、マニ教、景教(キリスト教)、回教(イスラム教)……枚挙に暇が無い程、各地に其其の寺院が乱立している


。まさに人種の坩堝だ。……そんな唐で、君を見た。東洋人にしては珍しい瞳の色。君が混血だという事は、その風貌からして、すぐに分かった」

 薫が静かに微笑んだ。

「……不思議と、君とは馬が合った。……考え方が似ているという事もあったが、一番の要因は、育った境遇が似ていたからかもしれないな。父親が国家の宰相であると


いう事と、互いに、混血だったという事だ」

 礼賛が微笑を浮かべると、柔和な瞳で薫を見つめた。

「私の父は渤海人だが、母は当時、対立関係にあった新羅の出身だった。渤海人自体も、高句麗由来の人間も大勢居れば、契丹と血縁の深い人間も多い。女真族との縁が


深い人間も居る。だが私は、母方が緊張関係にあった国だったという事から、幼少より随分と肩身の狭い思いをした。母は、気苦労が祟って早逝してしまったが……こう


した事情は、君と、程度こそ違えども酷似していた。私には……混血ならではの君の苦悩が、まさに自分の事として、身に染みて感じられた……」

言葉を噛み締める様に切り上げると、礼賛がゆったりと薫に向き直る。

「……有難う、薫。だが、心配は無用だ。万一……そんな事態に陥ったら、私は、母方の祖国である新羅に亡命するつもりでいる」

「……しかし、礼賛!」

 薫が思わず異を唱えると、礼賛が薫を遮り、毅然と誡める。

「……らしくないぞ、薫。……冷静になって、君の立場を考えろ」

 薫が静かに首を振り、愁然として否定した。

「……私は人として、当然の事を言っているんだ」

 深く頷いた礼賛が、微笑を浮かべた。

「……君の申し出は有り難いが、私も最善を考えて答えたつもりだ。私としても、文化や言語が近い新羅の方が、貴国よりは亡命に適していると思うからだ。……だが薫


、君の誠意は友人として……これ以上嬉しい事は無い」

 悲涼を湛えて静黙した薫を見つめ、礼賛が暫し緘黙する。

 先程、薫が私を同胞……と呼んだ。

……同じ母から生まれた、兄弟同然という事だ。

確かに友人……というよりは同胞、いや……死地が同じという意味では、戦友……と言った方が正しいかもしれない。

共に国の繁栄を担い、国益を左右する立場の重責に常時苛まれつつ、刻刻と迫り来る終焉の危機を確と予断しながらも、個個の微力では如何とも抗えない悲愴な時代の趨


勢に、降り募る焦燥感ばかりが犇犇と脅迫する……。己が取捨する未来に一縷の希望を信じ邁進しながらも、何と孤独で不安定な……難渋極めた道程であろうか……。

瞳を閉じた礼賛が、自分と薫の境遇に深く思い入る。やがて、静かに口を開いた。

「……四方を海に囲まれている貴国は、これまで、他国から侵略される危険性が低いと思われていた……。だが薫、先程の話……君はもしや、この国に齎される本当の危


機を察して、殊更憂いているのではないのか?」

 静黙していた薫が、吃驚した様子で視線を上げると礼賛を見つめた。

「海賊が海を荒らしまわる様になり……大陸は、大動乱時代を迎える。その先……もし強力な力を持つ国が大陸を再統一したとして……いつかは、環海に守られた日本と


雖も、侵略の危険に晒される日が来る……。そんな事は、聡明な君からすれば、とうに分かっている事ではないのか?」

 沈深として緘黙した薫を真摯に見つめると、礼賛が雄爽に微笑んだ。

「……だが、安心しろ。もしいつか……その様な事態に陥ったならば、私が、君との友情に懸けて、君と君の国を守ってみせる」

 礼賛から発せられた思いも寄らぬ申し出に、驚愕した薫が眉を顰めると、礼賛の瞳を食い入る様に深く見つめた。

「……どういう事だ、礼賛?」

勇壮なる笑みを浮かべると、礼賛が答えた。

「将来……もし、大陸を統一する様な大国が現われ、貴国を侵略しようとするならば……。貴国に最も近い港を持つ我が国か、新羅がその水軍の拠点となる筈だ。その時


、私が祖国にいようと新羅にいようと……海を越えて侵略しようと欲する様な大国が現われるという事は、既に我が祖国や、母の祖国である新羅もその勢力下に置き、蹂


躙した強国である可能性が高いだろう。……私にとっても紛う事なき敵国だ。……ならば、君を助けると共に、手痛い大打撃を与え、報復してやるつもりだ。……君も知


っての通り、私の唐への留学目的は、学問と共に、水軍技術を一段と研鑽する事だった。今では海に於いての航海術は、唐より勝ると自負している」

 俄かに信じ難い礼賛の言葉に、唖然とした薫が耳を疑った。

「……だから、約束しよう。万一、非業の未来が訪れたなら……私は水軍の長として赴き、大国の水軍もろとも殲滅させて祖国の仇を討ち、決して君の国までも蹂躙させ


はしない。……私しか知り得ない航海術を逆手に取り、例えば南海路か筑紫路を通り、天候を読み切り、必ずや大国の全軍を自滅大破させてみせよう」

「馬鹿な……礼賛! そんな事をしたら、君まで……」

 蒼白になった薫が声高に叫号すると、絶句した。

「……無論、そんな日が来ない様に、君も私も最善の努力を尽くすとしよう」

礼賛の壮絶な覚悟を聞き、愕然とした薫が、静かに首を振った。

「……駄目だ、礼賛。……絶対に、駄目だ」

顔を上げた薫が怜悧な瞳を射る様に礼賛に向けると、苦衷に満ちた表情で口を開いた。

「復讐する事が何になる? ……失われたものが返ってくるとでも言うのか? 憎しみは、それを募らせた所で、何ひとつ救われない。そして流血は、更なる悲劇を招き


……禍根を残すだけだ。憎悪も悲嘆も……最終的にはそれを受け入れ、許す事でしか救われない。それは……いや、……それこそが、我々混血が骨身に沁みて理解した事


であり……君と私が辿り着いた真実ではないのか?」

真っ向から突き付けられた清澄極める薫の正論に、礼賛が思わず両拳を震わせた。唇を噛み締めた礼賛が苦渋に満ちた顔を向けると、ひと言呟いた。

「薫……。君は……祖国を失うという恐怖を、知らないからだ」

悲哀漂う礼賛の双瞳を深く見つめた薫が、哀哀として沈黙する。

「……故国を失う事がどういう事か、分かっているのか? 祖国が他国に蹂躙される……それは単に、住み慣れた土地を失うという事ではない。律令が変わるだけという


事ではない。祖国が、人間的に全否定される……。それは……他者の手による、本人が意図しない手段での、徹底的な自己破壊に他ならないんだぞ」

薫が胸前に組んだ両手に力を込めると、断乎として礼賛に反論した。

「……それでも、命あればこそ! 如何なる苦難に遭おうとも、矜持を忘れず志を同じくする民と共に、耐え難きを耐え……機を窺い、再興の道を探るのだ。君の故国の


崇高な文治政治の精神と、長年培われた巧みな融和精神は、必ずいつか光明となって道を開いてくれる筈だ。一時の激情や過剰な義侠心に任せ、敵もろとも、君を始め民


の貴重な命を散らして何になる! そんな愚行は止めて、忍ぶのだ。……亢龍と雖も、深淵に潜んで伏龍となってくれ……頼む」

愴然として……その胸奥から搾り出す様に発せられた薫の言葉に、礼賛がふと表情を和らげ、親愛の情に満ちた瞳で薫を見つめた。

「耐え……忍ぶ……か。或る意味、私以上の苦患に苛まれ続けた君が出した結論……。君が思い至った、最終的な境地とも言えるな……」

礼賛が呟くと、静かにその瞳を閉じた。


懐かしい長安の、鴻臚寺の迎賓館が瞼に浮かぶ。

多様な国々の留学生が集う中で、取り分け傑出した才覚を見せていたのが薫だった。どこか超然とした薫は、眼を瞠る聡明さで瞬く間にあらゆる学問分野に精通して行っ


た。

留学生を始め、唐の官吏を目指す子弟達にとって、科挙試験に及第する事が共通目的であったが、抜きん出て優秀だった薫は、誹謗の的でもあった。

中華思想に彩られた唐の良家の子弟達からすれば、蔑視の対象である東洋から来た薫が主席である事が、まず気に入らない様だった。

とは言え……流石の彼等も、国家の代表として正統な留学手続きを経て入唐し、ましてや一国の宰相の子弟でもある薫を、表立って誹謗中傷する事は叶わなかった。結果


、薫はことごとく慇懃無礼に扱われ、裏では陰湿な嫌がらせを散々されていた。

東洋から来た留学生の身分とはいえ、かつて玄宗皇帝の並々ならぬ寵遇を受け、唐で客死した阿倍仲麻呂の前例もある。根深い嫉妬に足を搦め捕られた薫は、科挙試験の


際にも妨害に遭い、あろう事か難癖を付けられ受験できなかった。世話役であった公済という高僧が激しい抗議を申し入れ、同じ問題を皆の眼前で薫に解かせてみると、


すらすらと瞬く間に、見事に全問解答した。

こうしたとんでもなく不当な扱いを多々受け続けたにも拘わらず、当事者である薫は一向に平然として、あたかも他人事の様に振舞い、あまりに淡淡としていた。万人が


望む筈の科挙及第が望まぬ形で頓挫したにも拘らず、何故かその怒りや執着が無い……。この無欲な態度が、またもや著しく周囲の癇に障った様で、薫はそれから更に、


ありとあらゆる不利益を被った。

ところが一方で、周囲の喧騒など何ひとつ耳に入らぬ様子で、ひたむきに学問に励む薫の姿勢は、熱心な教官達の心をことごとく掴み、たとえ不利な状況に追い込まれて


も、常に危機一髪の状態で何らかの救いの手が差し伸べられ、不思議と窮地を脱していた。

薫は結局、様々な経緯を経て次年に再受験する事となったが、別件で不測の事態が生じ、受験前に帰国する事となってしまった。

文武両道で完全無欠の性質である薫は、ただそこに存在するというだけで、どうしても周囲より浮き上がり、またその風貌が東洋人として奇異である事も災いして、とか


く孤立しては謂れの無い因縁を付けられ、陥害の憂き目に遭っていた。

薫同様、成績の首位争いに参加していた自分は、唐の良家の子弟達からすれば、唐に朝貢し、冊封された渤海国王に仕える高貴な身分の子弟という公賓であり、賓客とし


て歓待され、むしろ何かと優遇されていた。

水軍の技術習得の為、長安を離れていた私が薫と過ごした期間は、薫が帰国する前の実質半年程だったが……。同じ混血として、故国で肩身の狭い思いを味わっていた私


は、薫が時折見せるふとした表情に、四面楚歌に冷然と振舞う薫の深い胸懐を垣間見た気がして強い憐憫の情を抱き、何かと気になっていた。

薫が帰国する少し前……私は、自分が混血である事を思い切って薫に打ち明けた。

その時の薫の表情と言辞は、今も強烈に、私の中に残っている。


超然とした薫が、およそ見た事も無いほど柔らかな笑みを浮かべると、口を開いた。

「ようやく話してくれたね。ありがとう。実は薄々……そうではないかと感じていた」

驚く私を見つめ、ふふっと笑うと薫が答えた。

「君の雄爽な瞳の奥底には、深い哀しみがある。辛酸を嘗めた君の瞳が、私に寄り添い、いたわりの視線で私を癒そうと試みていた。……私は、いつも君に救われていた


よ」

思いも寄らない薫の言葉に、私は心から驚いた。

……まさか。私は、いつも陰ながら見ているだけで、何ひとつ力になれないどころか、碌に声さえ掛けられなかったというのに……。そんな私に、救われていたと……?

私は何と答えたら良いのか分からず……暫し困惑すると、呆然としていた。

私をやんわり見つめた薫が、ふっと微笑んだ。

「君の気持ちが分かっていても……周囲に何かと疎まれている私の方から君に歩み寄れば、差し障りがあると思い、黙っていた」

唖然としたまま何も言えずにいる私に、薫が凛と言葉を継いだ。

「……私とは、今まで通り距離を置いた方が、君の為だ」

「薫……」

私はようやくそれだけ言うのが精一杯だった。すいと踵を返した薫が肩越しに振り返り、清麗な顔に何とも爽快な笑みを浮かべて、言葉を残した。

「……いつか、渤海使として君が来日する機会があったら、その時は……是非ゆっくり話したいね」

それから私は、薫が帰国した一年後に帰国し……渤海使として渤日を往来する様になり、来日する度、薫が鴻臚館に訪れ、以来親交を深める事になったのだが……。あの


時、こうして初めて交わした薫との会話は、私にとって、心に耿耿(こうこう)としたしこりを残すものだった。


……薫を案じ、気に掛けていたつもりが、逆に薫に気遣われていた。

 君は……孤立無援の状況下にあっても、人の助けを必要としないのだろうか。

君と似た辛苦を経験した私は、冷冷然と振舞う君の中に、確かな悲愴を見出していた。それなのに君は……私が君の悲嘆に気付いている事を鋭敏に感知しながら、私の立


場を慮り、私を颯爽と、鮮やかなまでに峻拒したというのだろうか……。

そうして君は……その後も周囲の誹謗を物ともせず淡淡と振舞い、悲痛を胸奥深く閉じ込め超然としたまま、おくびにも出さなかった。一体君は、どこまで自分の気持ち


を殺し続けるのだろう……。いかに辛抱強く、驚異的な精神力の君といえども……たったひとりで耐え忍ぶには、君が受け続ける苦難は、あまりに重い……。

本当の君自身は、君の胸臆深くで、何を感じているのだろう。それとも……いわれない中傷から心を守る為に……君は、痛覚を麻痺させているのだろうか。私は、君が泣


いている所を見た事が無い。むきになって熱くなり、怒っている君を見た事が無い。君の感情は見事なまでに、稀有なる理性の力によって、完璧なまでに制御されている


……怜悧な君の清冷な瞳に、果たして周囲は命ある人と映っているのだろうか。

冷然と振舞う君自身にも熱い血潮が流れていて、君もまた……かけがえのない、この世で唯一なる存在なのだと、しかと理解し受け止めているのだろうか。

超然と振舞う君を見るたび、限りない不安が私の胸をよぎった。あたかも永久凍土の様に凍て付き閉ざされた本当の君が、解放される日は来るのだろうか……。

……だとしたら、私はいつか、本当の君に会って話をしてみたい……。

 

「約束してくれるな、礼賛。この先いかなる境遇に遭おうとも、自他共に必ず命を守り、粗末にしないと」

 追憶に耽っていた礼賛の耳に、清朗なる薫の声がはきと響いた。思わずはっとするなり双眸を見開き、自分を真摯に見つめる薫をじっと凝視する。

 いつからだろう……薫の表情に、言葉に、確かな人間味を感じ始めたのは……。

そして今、確かに私は、薫の偽りなき本心と向き合い、その心の琴線に触れている。

薫……やはり君は、慈悲に満ちた、確かなぬくもりを持つ、人そのものであったのだね。そして誰よりも深い哀しみを知る筈の……聡明な君が出した結論は、遥かな未来


を冷徹に見通した上の、至上といえる最善策だった。

 礼賛の瞳に、うっすらと涙がにじんだ。礼賛が静かに頷き、薫に応えた。

「……約束しよう。……必ず、守ってみせよう」

 礼賛の言葉に、心から安堵した薫が、瞳柔らかく艶然と微笑んだ。


 久方ぶりの再会に話が弾み、軽食を共にしながら薫がお茶を淹れ直すと、話題は更に国際情勢、政治、文学、芸術と多岐にわたり展開され、またとない歓談のひと時と


なっていた。たけなわとなった所で、おもむろに薫が席を立つと、持参したいくつかの白木箱を机に並べた。謎めいた薫の行動に、礼賛が不思議な面持ちで薫を見遣る。

「これは、前回来日した際に君が興味を示し、欲しがっていたものだ」

 瞠目した礼賛が、思わず身を乗り出した。

「……まさか、薫。……日本刀か?」

 ふふっと頷き、何やら愉しそうに笑みを浮かべると、薫が優雅な手付きで白木箱の組紐を次々と解き、丁重に蓋を開けた。

「おおっ!」

 礼賛が、嬉嬉として嘆声を上げる。薫が白木箱に納められた太刀のひとつを丁寧に取り出すと、すらりとその刀身を抜き放った。太刀影は炯炯として刀身狭く、緩やか


な反りを持つ、それは見事なひと振りであった。

 恍惚とした礼賛が、絶賛するなり太刀に見入る。

「素晴らしい! ……皓皓と煌めく白銀色の刀身は月影を思わせ、優美な金梨地塗りの鞘、精緻な細工が施された装飾具の造りも見事な、極上のひと振りだ! 私にとっ


て何よりの贈り物だ!」

 興奮頻りの礼賛に、薫が面白そうに噴き出した。。

「ふふ、流石だね! 太刀を評する審美眼も、玄人顔負けではないか」

「そうか? それは嬉しい褒め言葉だな! なにせ前回すっかり魅了され、日本刀の虜となってからは、母国に於いても資料を取り寄せ、相当研究したからな」

 礼賛が無邪気な少年の如く瞳を輝かせると、薫が嬉しそうに顔を綻ばせた。

「何? それは、私もうかうかしていられないな。研究したのなら、既に説明は不要だろうが、今、君が手にしたのは山城の刀匠によるものだ。今回は他に、古来よりの


産地である伯耆、備前に加え大和、現在新興として台頭しつつある美濃、相模の刀匠に造らせた。どれも誇れる自信作だが、貴国に持ち帰り、君のいちおしを知らせて貰


えれば、また次に会うまでに用意するとしよう」

「本当か? それは大いに楽しみだな!」

 礼賛が満足気に頷くと、薫と共に太刀をひと通り眺めては作風を愉しみ、丁寧に白木箱に納めた。次いで礼賛が席を立つと、自身の背後に置いた大櫃を開けながら、快


活な口調で口を開いた。

「実は、薫。私も今回、君が喜びそうな物をいろいろ持参した」

 今度は薫が、興味津津の顔を見せる。

「ほう? それは楽しみだな、何だろう?」

 礼賛が次々と、多様な品物を大櫃から取り出した。

「これは、君好みの硝子製の水瓶だ。……それと、これはアラブの商人が齎した石鹸というものだ。皮膚病に良いと聞いているが、使ってみると人体以外にも、様々な物


の洗浄に適している。灰汁や炭より手軽に使える特性があって便利だぞ。こちらの箱は……イスラム帝国由来の医薬品と香料だ」

 薫が立ち上がって歩み寄り、好奇心旺盛な様子で顔を覗かせると、硝子製の水瓶を手に取り、石鹸と医薬品、香料の入った木箱を見つめ、嘆声を発した。

「イスラム帝国か! 戒律の厳しい回教により統治された国と聞くが、税制について見習うべき所が多く、学問の振興も盛んだと聞く。唐に留学中、アラブ人から学んだ


代数学の概念も面白かった。しかし……彼等は、海路を通り入唐した為、主に長江下流の揚州や南の広州を中心に永住していた筈が……貴国とも直接交易しているとは知


らなかった。イスラムの大商人が、貴国にも寄航する様になったのか? それとも、これらは唐か新羅経由の交易品か?」

 無邪気に目を輝かせ、興味が尽きない様子の薫に、笑いながら礼賛が答えた。

「聡い質問だね。君の推察通り、これらは海路を経て齎された品々だ。黄河と長江を結ぶ大運河の西岸にある揚州は、古来より水陸両方の交通の便が至極という絶好の立


地にある。世界を結ぶ大貿易港として長らく栄えているが、今もなお発展し続けているという巨大都市だ。近年、その揚州は勿論の事、広州や泉州といった唐の海沿いに


住むアラブ人が交易の為北上し、新羅に寄航する事も増えて来た。そして最近ではようやく我が国も、緊張状態にあった新羅との関係が好転してね。互いに活発に交易し


始めた。……こちらの箱は天竺インド由来の象牙や香料、香辛料等で……それとこれは、我が国特産の貂と羆の毛皮、それに青磁だ」

 瞬く間に山積みされていく交易品を前に、薫がふっふと笑うと礼賛を見遣る。

「凄いな、礼賛。まるで万国の特産品を一堂に会したみたいだ。流石に貴国は、貿易に主力を置いているだけあるな! ……どれも、本当に素晴らしい品物だ。大したも


のだな! これ程の交易品を一挙に扱うとは……貴国も相当、各国から利を得ているのだろう?」

 あまりに率直な薫のひと言に、礼賛が痛快な様子で一笑する。

「矢継ぎ早に痛い所を突いて来るではないか、薫! ……その通りだ。とりわけ、貴国と唐には旨味を吸わせて貰っている。朝貢貿易は我が国にとって、莫大な利益を齎


してくれる、実にありがたい交易体系だよ」

 薫が思わず苦笑すると、自嘲気味になる。

「かつて初めて渤海使が来日した際、唐に習って朝貢貿易の形態を取ったのが痛かった。体裁としては、我が国が優位に立った貿易に見えるが……正直言って、返礼の回


賜や饗応費用がかさみ過ぎて自滅状態に陥り、公には十二年に一度に制限せざるを得なかった……。とは言え、その後も貴国は貿易による利を求め、我が国としても、大


陸の国際事情に精通している貴国は、唐や諸外国との交易の仲介役でもあり、その貴重な情報や交易品を求め……結局の所、制限後も、こうして我々の様に私的な交流は


続いている」

大いに頷きながら、礼賛が愉快に笑った。

「日本産の絹製品は、非常に出来がいいからね。各国でも人気の品だ。それに最近では、私を含め……太刀の人気が急上昇している。また漆器や、匠による工芸品も実に


繊細で美しい。資源について言うならば、殊に貴国の金銀は良質で、我が国には入手困難な水銀も豊富に産出している。我々も、日本からの交易品は、常々魅力に感じて


いる所だ」

 薫がふっふと笑うと礼賛を見遣った。

「……私の方でも事情は同じだ。貴国を経由する交易品はどれも見事で珍重だが、貴国の特産品もまた素晴らしい。我が国では手にし難い、良質なものばかりだ。殊に、


以前に君から貰った馬と鷹は、傑出していた」

喜んだ礼賛が、感心した様子で口を開いた。

「ほう……? 確か数年前、数頭の子馬を連れて来たが……。君をして随一の贈り物と言わしめるとは……はて。……そうか、思い出したぞ! 中に、一頭だけ輝かしい


血統を持ちながら、とんでもない気性の奴がいたな。……もしやそれは、例の黒馬の事ではないか?   ……あの暴れ馬を乗りこなすとは、大したものだ」

薫が軽く頷き肯定すると、懐かしそうに微笑んだ。

「君が貴国を出航する際、海上に出た途端に暴れ出したと困惑していた黒馬だが……。確かに稀有なる脚力を持ちながら、何とも手を焼く暴れ馬でね……。非常に面白い


事に、私の主と同じ気質の持ち主だった。君に貰った他の数頭と共に調教した後、どれが良いかと引き合わせたら、案の定、瞬時にあの曰く付きの暴れ馬に目を付け、躊


躇無く選択した。今では、時に対等に喧嘩しながらも最終的には見事に屈服させ、騎乗しているよ」

 礼賛が思わず目を瞠る。

「よりによって東宮様の乗騎になっているとは、正直、驚いた。だが、流石だな。君の主は、駿馬を見分ける確かな眼力があるとみえる。君に贈った馬はどれも駿逸には


違いないが、乗りこなせれば騏驎になれる素質があるのは、あの黒馬だけだ」

 頷いた薫が、何やら愉しそうな視線を向けた。

「……今度、機会があれば是非一度、君に東宮に会って貰いたいと思っている。……色々な意味で、衝撃的だよ」

「君に、そう言わせるとは……? お会いするのが楽しみだな」

 快然として、礼賛が笑った。薫がやんわりとした視線を向け、意味深にふふっと微笑む。贈り物の披露が終わり、席に立ち戻った薫が、不意に真顔になるなり口を開い


た。

「さて……最後にひとつ、国際事情に精通している君に、尋ねたい事がある」

「何だ?」

 礼賛が快然と承諾すると、薫に向き直る。

薫が怜悧な瞳を静かに向けると、礼賛を凝視した。

「君は、頻繁に唐に出入りしている筈。……唐の太子に、お会いした事はあるか?」

「……何?」

 眉を顰めた礼賛が、驚いた様子で薫を見つめる。

「……太子とは、どういう人物か、教えて欲しい」

 真摯に自分を見つめる薫の視線を正面から受け止めながら、礼賛が答えた。

「まさか君の口から、その名前が出るとはね……。そして君が、質問の背景を説明しないという事は、私に詳細を話せないという何か込み入った事情があると考えられる


が……。さて、弱ったな。実を言うと……今回、私が来日した裏の理由は、まさにそこにある」

「何?」

 今度は薫が吃驚すると、大きく瞳を見開いた。

「私の場合は、君に話す分には差し障りが無いから、忌憚無く詳細を話そう。実は先程、君と語り合った唐の情勢が示す通り、唐の崩壊は決定的でな……。現在、唐の実


質的な支配権限は、黄巣の乱を平定した軍功により重用され、河南の節度使となっていた朱全忠に移りつつある。こうした背景により唐の太子は、密かに我が国に亡命を


打診し、我が国はそれを了承したのだ」

「何? ……それは礼賛、本当か?」

 驚愕した薫が瞠目すると、礼賛の顔を熟視した。礼賛が深く頷き肯定すると、淡淡と事情を説明した。

「……ところが、申し入れのあった亡命期日になっても唐の太子は現われず……。あれこれ調べ上げた結果、海路を通り我が国に入国しようと試みたまま、我が国の港で


行方不明になったと判明した。周辺を聞き込みして得られた証言によれば、貴国に入国した可能性も払拭出来ないが、かといって、確証がある訳でもない。亡命は、成就


するまで国家機密が鉄則だ……。渤海国政府として、貴国に表立って調査を依頼する訳にも行かず、私が表向き私的な貿易を装い、太子が入国した形跡が有るか否か……


貴国の内情を密かに探るべく、こうして派遣されたという訳だ。……とは言え、私としても、日本側の政府高官で腹を割って話し、秘密を共有出来そうな知り合いといえ


ば、君しかいない。私の任務は、日本側の協力が無ければ調べられない件であるだけに、当初から、君がもし訪ねてくれなければ私の方から、君に接触しようと考えてい


た」

 薫が唖然として礼賛の話に傾聴する。

「……だから君の方から、唐の太子に関する事を聞かれて、正直驚いた。……もしや太子から、貴国に亡命の申し入れや、入国の打診等があったのか?」

 静聴しながら黙考していた薫が瞳柔らかく微笑むと、静かに呟いた。

「……どうやら今回、君と私の利害は一致している様だな……」

「……どういう事だ?」

 謎めいた薫のひと言に、礼賛が思わず問い返す。薫が清爽に微笑むと、短く答えた。

「君の事情を聞いた今となっては、私が、仔細を隠す必要は無くなった」

 薫が礼賛の双瞳を見つめると穏和に微笑み、口を開いた。

「我が国には、我々の祖神であり皇室の祖廟でもある伊勢の神宮に、天皇の代行者として斎宮を赴任させ、大神の御杖代として奉仕させるという古来よりの慣習がある」

 礼賛が不思議そうな面持ちで聞き入ると、話の続きを促すかの様に軽く頷いた。

「未婚の皇族女性から選ばれた斎宮は、神宮より少し離れた場所に在る斎宮寮と呼ばれる宮殿に住み、伊勢国やその周辺域に於いて、女帝と呼ぶに相応しい程の強大な権


力を持っている。朝廷や天皇に対しても多大な影響力を持つ斎宮は、時折託宣という形で、その意向を示す事があるのだが……。実は、今回下された託宣というのが、今


上帝にとって唯一の内親王である当代一皇女様を唐の太子に嫁がせよ、というものだったのだ」

「何?」

 驚愕した礼賛が、いささか興奮気味に瞳を見開くと、思わず口を挟んだ。

「薫、どう考えても……それは、おかしい。唐の現状を考察しても、我が国の現状を勘案しても、全くもって辻褄が合わない。ありえない話だ!」

 薫が頷き、話を続けた。

「私も全く同感だ。しかしながら、朝廷と斎宮の微妙な関係もあり……。実は先刻、内々に呼ばれ、これより斎宮寮に赴き神託が正しく行われているか検分せよとの勅命


を受けた。斎宮に何か変事が起きている可能性が高いと考えられるが、単に、太子の名が偶然神託に挙がっただけという事もある。未だ詳細は何も分かっておらず、推論


だけでものを決めてかかるのは危険だが、太子が既に我が国に密入国したかもしれないという新たな懸念を考慮に入れると……君の抱える案件と、あながち無関係である


とも言い切れない。時に礼賛、君は、太子に面識があるか?」

「勿論だ。長安で、何回かお会いした事がある」

 礼賛が即答すると、薫がふっと表情を緩ませた。

「ありがたいな。私はお目に掛かった事が無いだけに、君という存在が、いやが上にも心強い。……だが困った事に、諸外国よりの賓客は、この鴻矑館から自由に出る事


は許されないという制約がある。さて、どうするか……」

 顎に手を当てた薫が暫く黙考する。

「私が斎宮寮にて、もし……太子に関する情報を掴んだなら、迅速に君に知らせよう。事と次第によっては迎えを遣し、君に密かにここを抜け出して来て貰うという事態


になるかもしれない。だがその場合でも、君には一切迷惑が及ばない様に、最大限の配慮をすると約束しよう。どうだ?」

 礼賛が一笑すると、期待に満ちた瞳を向ける。

「願う所だ! ……では、君よりの使いだと証明する印は何にする?」

「そうだな……。文については、君は、私の筆跡を熟知しているから問題は無いが……。人に言伝を頼む場合は、私よりの使者という証に、これを持たせるとしよう」

 言うや否や、薫がふわりと優雅な仕草で袖より扇を取り出し、礼賛に見せた。それは、高貴な貴族が一般的に持つ檜扇とは大きく異なり、精巧な彫刻が随所に施され、


翡翠と思われる碧玉を幽雅に嵌め込み、繊細な黄金の装飾金具の付いた、真に見事なものであった。

 しばし恍惚と扇に見入った礼賛に目を留め、薫が微笑を浮かべた。

「今、宮中では……趣向を凝らした扇子が大流行していてね。独創性のある典雅な扇子を求め、それこそ皆が競い合うかの様に、職人を尋ね当てては熱心に育成している


のだよ。意匠を凝らし、様々な素材にこだわりをみせたり、技法を工夫したりして鎬を削り、従来からの檜扇以外にも、多種多様な扇が作られる様になった。この扇も世


に二つと無い品だ。だから、私を識別するには丁度良いだろう」

 礼賛が爽快に頷くと了承した。

「了解した。では、おとなしく待つとしよう。……それにしても、まさか君の使命と私の任務がこうして繋がり、ましてや共同して事に当たれるとは、夢にも思わなかっ


た。何と言えばいいのか……感無量だな!」

 薫がその涼やかな瞳を向け、何とも嬉しそうに礼賛を見つめる。

「私も実に、感慨深いよ」

 やんわり微笑んだ薫が、静かに席を立った。

「……では礼賛、私もそろそろ立つとしよう。そして準備が整い次第、伊勢に下向する」

「承知した。大役を任された身だ。いかに聡明な君と雖も、くれぐれも道中気を付けてな」

「ありがとう。では、また!」

 薫が礼賛に別れを告げると、鴻矑館を後にした。



「紅蘭様、お湯加減は如何ですか?」

 盛大な湯煙が立ち上る几帳の陰から、紅蘭付の侍女が顔を出した。

「丁度いいわ!」

 紅蘭が振り返り、快活な声で答える。薄桃色に上気した紅蘭の顔を見つめ、侍女が柔和に頷いた。

「何か、冷たいお飲み物でも、お持ちいたしましょうか?」

 侍女の言葉に、紅蘭が莞然と頷いた。

「ええ、ありがとう。冷水がいいわ」

 しばらくすると、雪を満載した木桶に松をあしらい、優美な水瓶を挿し入れて、華麗な小盆に充分冷やされ霜が降りた硝子製の杯を載せ、侍女が紅蘭に傅いた。

「お待たせ致しました、紅蘭様」

「まあ、素敵!」

 粋な心配りに、思わず紅蘭が目を輝かせる。嬉々として杯を受け取ると、ひと息に飲み、身を乗り出すなり侍女に尋ねた。

「葵は?  今、入ってるのかしら?」

 侍女が微笑み、頷いた。

「はい。隣の湯殿で入浴されていると思います」

顔を綻ばせた紅蘭が、侍女に言付けた。

「では、葵にも差し入れをお願いしようかしら。多分今頃は、相当のぼせ上がってると思うわ。……そうね、松の代わりに、これを入れてくれる?」

 紅蘭が湯殿の岩陰に自生していた藪柑子の枝を手折ると、侍女に手渡した。紅蘭の意を汲んだ侍女が微笑み一礼して退出すると、紅蘭が湯船から立ち上がり、庭に面し


た広大な露天風呂に入り直した。結い上げた長い髪をほどき、ほてった体を冷ますかの様に、ゆるりと肩まで浸かると、岩を枕に天を振り仰いだ。

 大和より初瀬街道を通った紅蘭の一行は、強風が吹きすさび樹氷が凍て付く厳冬の青山高原という最大の難所を抜け伊勢国に至り、神宮参拝前の禊をする為、古来より


の風習に従い七栗の湯(現在の榊原温泉)に立ち寄った。

七栗の湯は、有馬温泉、玉造温泉と並び平安貴族に大人気の温泉であり、年間を通して利用客が絶えなかった。既存の温泉場に長期滞在する湯治客もいれば、気に入った


温泉に別邸を建て、四季を通じて気の向くまま思う存分に湯を愉しむ貴族も多かった。

 古くからの大貴族である紅蘭は、その発祥の地が大和であった事もあり、七栗の湯の中でも源泉を持つ一等地の好立地に、何代も前の先祖より受け継ぐ別邸を所有して


いた。

 温度が低めの温泉を冬でも堪能できる様に、豊かな湧き湯をふんだんに湯船に注いでは追い炊きして楽しみ、体が熱くなれば、源泉のまま愉しむ為に造られた見事な庭


園付きの露天風呂に入り直すという、何とも贅沢な入浴を満喫していたのである。

「紅蘭様」

 露天を囲む岩肌に優優として体を預けていた紅蘭が振り返る。どうやら、先程葵への使いを言付けた侍女が、手桶を手に戻った様であった。侍女が湯殿に入るなり一礼


すると、手にした手桶を恭しく紅蘭に手渡しながら口を開いた。

「葵様より、お礼にと言付かりました」

手桶を受け取るなり、中を確認した紅蘭が口元を綻ばせると、隣接する湯殿に歩み寄り、声高らかに話し掛けた。

「葵、聞こえる?」

「うん、ちょっと待ってね」

 やがて仕切りの板越しに、バシャバシャという水音が近付いて来たかと思うと、それが止むなり、湯煙立ち上る隣殿より返答があった。

「ここなら、はっきり聞こえる。差し入れありがとう、紅蘭! ……気に入って貰えた?」


 隣接する湯殿にて手桶を受け取った葵は、それが紅蘭よりの差し入れと気付くなり、その風雅な趣向に嫣然と微笑んだ。藪柑子とは山橘の事であり、真紅の小さな実を


付けた藪柑子は、正に橘紅蘭という名前そのものを具現していた。

葵が冷水の水差しと杯を丁重に受け取ると、御礼とばかり、湯船に浮かべて遊んでいた小型の船の玩具を取り上げ、手桶に入れて紅蘭に差し入れた。


「気に入るも何も、呆れたというか……いえ、驚いたわ。まさかあんた、玩具持参で来ていたとはね!」

 葵の文様が刻まれた船の玩具を手に取った紅蘭が、しげしげと見つめた。細部まで緻密に造られ、繊細な装飾が施された小船を慎重に湯船に浮かべると、湛然とした水


面を音も無く滑らかに進む船の様子に、精巧極めた見事な造りを見て取り、再度驚嘆する。

「凄いわ、葵! ……これは玩具というより、芸術品の域じゃない!」

隣殿から、朗らかな葵の声が響いた。

「うん! 僕の、お気に入りなんだ」

「どうしたの、これ?」

 ついと独りでに戻って来た船を手に留めると、微に入り細に入り、紅蘭が感心する。

「実はね……僕、入浴はいつも烏の行水だから、よく薫に怒られてさ。それで、殊に冬は風邪をひくといけないからと薫に貰ったのが、その船なんだ。良く出来ているで


しょう?」

 伸びやかに答えた葵の回答に、愛想を尽かせた紅蘭が辟易する。

「……相変わらず、あんたは幼児並みね! それに薫も、呆れた世話好きというものだわ」

 紅蘭の厭味を物ともせず、晴れ晴れとした口調で葵が饒舌になった。

「もとはといえば、薫と大津が小さい時、川でどちらの船が優れているかと、互いに傑作と思える船を持ち寄っては激しく競争して遊んだみたいでね。二人共ああいう性


格だから滅茶苦茶勝敗にこだわって、飲み食いせずに夢中になっては怖い程目が血走って、何だか近寄り難かったよ! この玩具は、言うなれば副産物で、その時得た技


術の粋が、随所に施されているらしいよ!」

 呆れ果てた紅蘭が、深く溜息する。

「……聞いただけで馬鹿げた話だけど、確かにあの二人ならやりかねないわね……。それにいざ始まったら収束が難しそうな、性質の悪い百日戦争に発展しそうな話だわ


。……で? ちなみに……そのくだらない闘争は、結局どちらに軍配が上がったの?」

「それがね、これまた本来は船下りの速さを競っていた筈が……勝負の終盤は、激流で耐え得る耐久性と頑丈さを競い合うという、あらぬ方向に発展して行ったみたいで


ね……」

「……それで?」

 話の雲行きを怪しんだ紅蘭が眉を顰めて促すと、あっけらかんとした葵が軽快に答えた。

「最後は激流での勝敗を厳密に判定する為、二人共に闘船の行方を追尾して激流を下ったらしく……大滝から転落して、あわや滝壺に溺死するという憂き目に遭って止め


たんだって。勝敗は、結局互角の状態でお預けになったままだけど、あれから再挑戦しない所を見ると、流石に二人共、懲りたんだと思うよ」

「……本気で、阿呆なんじゃないかしら」

紅蘭が盛大な溜息を吐くと、事の顛末を容赦無く一刀両断した。

「全く呆れるってもんね! さて、葵、私達もそろそろ上がりましょうか。冬だから、髪を乾かすのに時間がかかるもの」

「うん!」

 紅蘭が立ち上がり、湯船を出た。水音を聞き、追従した葵が水差しの冷水をひと息に飲み干し、慌てて立ち上がる。隣殿から再び紅蘭の声が響いた。

「一緒に、夕餉にしましょう! 御馳走を頼んでおいたから、楽しみにしていてね!」

「うん、ありがとう!」

 葵が満面の笑みを見せると、あたふたと身支度を整えた。


 夜半を過ぎた頃だった。突如として湧き上がった喧騒に、はっとして目を見開いた紅蘭が起き上がる。傍らに控えていた侍女もまた、ごうごうとした騒音に何事かと跳


ね起きた。敏に気配を察した隣室の侍女が、急ぎ灯火に火をともす。

「一体、何事かしら」

 眉を顰めた紅蘭が十二単を羽織りながら、声を顰めた。

「……直ちに、調べて参ります」

 隣に控えていた侍女が立ち上がった時だった。廊下より甲冑と刀剣の擦れ合う音が戛然と鳴り響いたかと思うと、部屋の前でピタリと止むなり、妻戸の奥から声が掛か


った。

「紅蘭様。夜分遅く、おやすみの所を大変失礼致します。侍大将の(たいら)(まさ)(もり)ですが、御報告に参りました」

 侍を預かる真盛の完全武装した物々しい出で立ちに、驚いた侍女が直ちに招き入れると、紅蘭が御簾越しに緊張した声で尋ねた。

「役目、苦労を掛けますね。この騒ぎ……何が起きたのか、不安に感じていた所です」

 真盛が片膝をつき礼を尽くすと、その剛強とした顔を上げる。年の頃三十代後半の男は悍然として、見るからに屈強な男であった。

「御心配をお掛けしまして、申し訳ございません。ですが、どうか御安心下さい。先程、野盗の一団が押し入ろうとしましたが、夜警の任にあった者がいち早くこれに気


付き、小競り合いとなりましたが、無事に撃退しました。念の為、宿直の人数を増やして警備させておりますが、紅蘭様のお部屋は、これより私と副将が交代で警護させ


て頂きたいと思いまして、こうして参った次第です」

 紅蘭が私護衛として引き連れた侍は、その期待に応え、極上の働きを見せた様であった。何とも頼もしい真盛の言葉に、紅蘭を始め侍女達も皆、まずは安心とばかり、


ほっと胸を撫で下ろす。安堵した紅蘭が、柔らかな笑顔で真盛の労をねぎらった。

「頼もしい限りです。都から離れるにつけ道中は危険が伴い、心許ない限りですから……。貴方の功績は、都に無事戻った暁に十二分に報賞しますから、宜しく頼みます


「ありがたき、幸せにございます。姫様も、どうぞ大船に乗ったお心持ちでおいで下さい」 

 義侠心に富んだ顔で頷くと、真盛が白い歯を見せ、豪快に笑った。一礼して勇壮に踵を返すなり部屋より退出し、妻戸の傍らに侍して、寝ずの番に当たった。


 ――翌日、紅蘭一行は七栗の湯を後にし、斎宮寮への道を一路、一志へと向かい山を下っていた。

「昨夜は大変だったんだね、紅蘭。怖かった?」

 同じ牛車の対面に座る葵が、心配そうに紅蘭の顔を覗き込む。頷いた紅蘭が軽い溜息を吐くと、呆れた様に口を開いた。

「全く、あの騒ぎにちっとも気付かないなんて、あんたの鈍感な神経が羨ましいわよ!」

 時折大きく揺れる牛車の動きに戸惑いながら、葵が聞き返す。

「……そんなに凄い騒ぎになってたの?」

「ええ。深夜、部屋の護衛に駆け付けた真盛が完全武装してたもの! 野盗の襲来だったらしいわよ。……でも彼のお陰で、あれからぐっすり寝れたから感謝してるわ!


 父にお願いして、うちに仕える侍の中で一番の兵を護衛に付けて貰って、本当に良かったわ!」

 葵が、感心した顔で微笑んだ。

「……野盗には、何も盗まれなかった?」

「ええ! 屋敷に侵入される前に防げたみたい。だから、被害は何も無かったわ」

 紅蘭が快活な視線を向け、大きく頷いた。

 快調に進み始めた牛車の速度に、山道を脱した事を察して安心した紅蘭が、舌の回転も滑らかに話を続ける。

「……ところで、あんたが同行した理由、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」

 好奇心旺盛な紅蘭に促された葵が穏やかに頷き、まさに答え様とした時だった。

前方より突如として鬨の声が湧き上がったかと思うなり、ガタンと牛車が大きく傾き急停止した。危うく牛車の壁面に衝突しそうになった紅蘭が、小さく悲鳴を上げる。


葵が慌てて紅蘭の手を取り安定させると、物見窓を僅かに開き、外の様子を窺った。

「紅蘭様、大丈夫でございますか?」

牛車の外より、徒歩の侍女が自らも怯えた様子で、緊張しきりに主の安否を確認する。

「ええ……大丈夫。……どうしたの?」

 気を取り直した紅蘭が短く答えると、上擦った声で侍女が囁いた。

「……何者かの襲撃の様です。紅蘭様……どうぞ一時、ご辛抱下さいませ。只今、平真盛殿が、手勢と共に交戦中でございます」

 侍女の言葉に、物見窓より様子を見ていた葵が頷くと振り返り、幾分安堵した口調で紅蘭に説明した。

「確かに強いね、彼! 猛者っぽい屈強な体格の敵を、次々薙ぎ倒してる! 狼藉を働いているのは格好からして……昨夜襲撃して来たという野盗かもしれないよ?」

 紅蘭が葵の隣に歩み寄ると、物見窓を少し広げ、自らも外を覗き見た。

「別邸への潜入に失敗したものだから……再度、執拗に狙ってきたのかしら」

 紅蘭が憤慨して顔を顰めると、葵と共に、再び物見窓を覗き込んだ。

馬に跨った真盛は、まさに大将の器さながら、行列の前後を鮮やかに駆け抜けては士卒を鼓舞して全軍の士気を高め、自らも馬上から太刀を振るい、獅子奮迅の働きを見


せていた。狼藉者の一団は、勇猛な真盛に恐れをなし、劣勢に陥っている様であった。

「真盛、凄いわ! 報酬うんと弾むから、皆、蹴散らしちゃって! 頼むわよ!」

 紅蘭が思わず両拳を突き上げ興奮して喜んだ途端、血相を変えた葵が叫んだ。

「あっ……危ない!」

 紅蘭が慌てて注視する。野盗の集団は、目障りな侍大将である真盛に、まずその狙いを定めた様であった。真盛が駆け抜け様とした瞬間、野盗が藪原より一斉に鉤竿を


突き出し、真盛の馬の足を狙い、これを引き倒した。馬を倒された真盛が空中に投げ出され、激しく地面に叩き付けられる。辛うじて受身を取り起き上がった真盛に、野


盗が夥しい集団で襲い掛かり、切り付けた。大将の窮地に、直ちに加勢に馳せ参じた真盛の副将が数人を切り伏せるが間に合わない。完全に防ぎ切れず、真盛と副将が手


負いとなった。

 真盛達の負傷に悲鳴を上げ、蒼然とした紅蘭が憤慨した。

「なんて卑怯な奴等なの!」

今や形勢は一気に逆転し、指揮官である侍大将の負傷が劣勢に拍車をかけ、全軍の士気さえ低下させ始めていた。葵が瞬時に強張った顔で手持ちの薬箱を広げると、治療


の為の準備を開始する。紅蘭が急ぎ牛車の簾を巻き上げ、侍女に命じた。

「私が野盗どもに話をするわ! 今すぐ、戦闘をやめさせて!」

無謀とも言える主の命令に、戦いた侍女達が血相を変え、口々に説得する。

「なりません、姫様! 危のうございます!」

「あの様に野蛮な輩は、とても話など通じるものではありません!」

「みすみす、命を差し出す様なものでございます!」

 紅蘭が激しく首を左右に振ると、声高に詰った。

「駄目よ、何を言ってるの! 今、やめさせて手当てしなければ、真盛が死んでしまうわ! 貴女達、真盛の護衛無くして、どうやって伊勢へ辿り着けると言うの?」

 紅蘭の叱責に侍女が一斉に押し黙った刹那、背後より乱暴極まりない声が掛かった。

「……いい度胸ってもんだなあ、お姫様」

 およそ初めて耳にする野獣の様な声と下劣な言葉に、恐怖のあまり、紅蘭が麻痺した様に硬直する。危急を察した葵が背後からそっと紅蘭に歩み寄ると、隣に寄り添っ


た。

 野盗の首領らしき男が下卑た薄ら笑いを浮かべながら牛車に歩み寄る。手下を呼び付け、捕縛した真盛と副将を引き摺り出し、紅蘭の眼前に据え置くなり、足で樽を転


がす要領で二人を蹴り飛ばした。不遜にも真盛を片足で踏み付けたまま車中の紅蘭を見上げ、卑猥な口調で放言した。

「あんた、綺麗だね! お姫様を間近で見れるなんて、俺達はついてるってもんだね! だがあんたの頼みの侍は、こうして俺の手中にある。……さて、お姫様! あん


たが意気がってみた所で、一体、何ができるんだい? 護衛を削がれたあんたは、丸裸も同然さ! 俺の胸ひとつで、その運命が決まる。あんたを掻っ攫って嫁にするの


も俺の勝手だし、付き従ってる上品な都女どもは、俺の手下達の妾にしてやったっていいんだぜ」

 ぞっとして今にも泣き出しそうな侍女達を横目で見遣り、蒼白で佇む紅蘭をせせる様に見上げると、首領らしき男が品性下劣な笑い声を立て、悦に入って高笑する。次


いで足下の真盛を見下げ、刻薄な顔で吐き捨てる様に嘲笑した。

「馬鹿みたいな存在だな、侍なんてよ! 俺達から見れば、阿呆の集団だ! 大将さえ捕まえれば簡単に抵抗をやめ、武器を捨てて投降する。一対一で闘う事が原則など


と悠長な事を抜かしてるから、多勢で取り囲んじまえば、あっという間に全滅だ!」

 まさに絶体絶命、危急存亡の秋といえた。慣れ親しんだ京の都と異なり、東宮や薫を始め、野盗の取締りがその任である検非違使も不在という心許無い旅の途中……橘


家に仕える侍の中でも最強を誇る真盛でさえ、今、こうして敵の手に落ちた。気を失った様子でピクリとも動かない真盛を見て取ると、紅蘭が激しい怒りに身を任せ、狼


藉者に対して沸沸と湧き上がる憎悪を露に激越する。

「何という恥知らず! 貴方達の様な、人倫に悖り卑劣極まりない人間に、礼と義、信を重んじ忠に生きる、侍の心意気が分かるものですか! さあ、望みを言いなさい


! 物欲に塗れた貴方達が、宝でも何でも……仮令、荷の全てを持ち去ろうと構いません! 唯、私を始め供の者一切に手を出してはなりません! 私は右大臣の娘、橘


紅蘭。私の一行に危害を加える事は、宮中を始め、朝廷を敵に回す事になりますよ!」

 紅蘭が言い終えるなり、首領らしき男の凶悪な双眸をキッと見据えた。口を利くのもおぞましい程、何とも下拙な野盗達であった。常状は安寧な京の都に居て、風雅な


趣の都人に囲まれ、恭しく傅かれていた紅蘭は、見た目も下賤で粗暴極まる男共に囲まれるというかつて無い経験に、胸中必死に己を奮い立たせていた。

戦々恐々として固唾を呑み、事の経過を見守る侍女達もまた、主同様、こうして野盗に直面するのは初めての事であった。彼女達は紅蘭の言葉に、慄然とする真の我が身


を胸奥に閉じ込め、凛とした己を装い、一歩も怯まず野盗共に相対した紅蘭を敏感に感じ取ると、おのおの覚悟を決めた峻厳な視線を、一斉に野盗に投げ付けた。

だが、野盗の首領らしき男は、果たしてどこまでも猛悪な男であった。彼は蛇蠍の如き双眸を向け、ニタリと笑うと口を開いた。

「……お姫様、あんたは本当に世間知らずの、とんでもない甘ったれだね。俺達野盗の事なんぞ、何も分かっちゃいないね」

男が残忍極まりない眼で周囲をぐるりと見渡すと凶暴な笑みを浮かべ、ぬらりと紅蘭に言い寄った。

「いいかい? あんた等一行を残らず惨殺すれば生き証人も出ず、お宝も何もうざったいあんたの許可無く全て俺達のものになる。それか……男だけ皆殺しにして宝を奪


い、あんたらを手篭めにして連れ帰り、妾として孕ませるか、奴婢として売り飛ばせば、それだっていいんだぜ。俺達にとって朝廷なんざ、どうでもいい。どっちがより


得かという話だ」

 恥辱に満ちた猥褻な男の言葉に、侍女達がヒッと叫び声を上げると、総じて顔色を失い蒼白になる。聞くに堪えない程卑しく酷薄な男の暴言に、葵が薬箱を手にしたま


ま、思わず絶句して立ち竦む。紅蘭が俗悪極まる男に凄烈な嫌悪を感じて手を震わせると、瞬息の間に懐から懐剣を取り出し、自らの喉許に突き付け激昂した。

「慮外者! 誰が、貴方達の言いなりになるものですか! どうあっても手を出すというのであれば、この場で自刃するのみです!」

 刹那、恰も紅蘭の叫号に呼応するかの様に、気絶していた真盛がカッと瞳を見開くなり、簀巻きにされ両腕の自由を封じられた姿勢のまま、素早く上体を転じて男の足


を振り払うなり強烈な体当たりを食らわせ、引き倒した。足元を掬われ、瞬く間に仰向けに転倒した男の首を目掛け、真盛がすかさず自らの足を絡ませると、そのまま満


身の力を込め締め上げる。暫くして、男の両腕が力無くだらんと脱力した。

 それは息を呑む間の……まさに一瞬の出来事であった。

茫然自失としていた侍女達がハッと我に返るなり、付近に居た侍女が、急ぎ自らの懐剣を引き抜くと真盛と副将に駆け寄り、縛り上げられた縄を切り解いた。

 安堵するのも束の間、真盛が荒い息遣いのまま、負傷した体に鞭打つかの如く立ち上がり、よろけた足取りで脱力した男に歩み寄る。太刀を引き抜き、まさに止めを刺


そうと振り下ろした瞬間、突如として飛び込んで来た別の男に、短刀で弾かれ遮られた。肩で大きく息を弾ませながら、真盛が振り返る。

「貴様、何者だ」

 単騎独行、忽然と割り入った男は、倒れている男をヒョイと肩に担ぎ上げると、淡然とした様子で振り返り、口を開いた。

「俺が、首領だ。こいつは少々性根が腐っているが、武勇にかけては一二を争う勇猛を誇り、血気盛んな特攻隊長でね。野盗には欠かせない存在という訳だ」

 飄々乎とした男の風来に、真盛は勿論の事、紅蘭を始め周囲の侍女が揃って瞠目すると驚きを隠せない顔を見せる。首領と名乗る男が口笛を吹き鳴らし馬を呼び寄せる


と、気絶している特攻隊長を乗せるが早いか自らも飛び乗り、馬上から紅蘭に声を掛けた。

「そこな姫様、取引をしないか」

「無礼者!」

 疲労困憊、片膝を突き、手にした太刀に体を預けていた真盛が、分を弁えぬ言葉と態度に立腹し、罵声を浴びせる。真盛同様、満身創痍の副将が牛車の前に立ち塞がり


、首領に向って抜刀しようとした矢先、紅蘭が背後から副将の肩に手を置くと、それを制止した。副将がはっとして振り返る。いつもは明朗な紅蘭が、見せた事の無い険


しい表情で、馬上の首領を睨み付けた。

「戯けた事を! ……奪い尽くし、殺し尽くす。貴方達の本性を知った今、取引などあるものですか! こうなれば、私たち女人も真盛ともども死力を尽くして戦い、貴


方達など撃退して見せます!」

 紅蘭の言葉に、馬上の首領がせせら笑った。

「……ならば俺の勝ちという事になるが、それでいいのか?」

「何ですって?」

 眉を顰めた紅蘭に、首領がニヤリと笑いながら言葉を返した。

「俺達野盗の使う武器には、全て遅効性の毒が塗ってある。このままだと、傷を受けたあんたの護衛は、皆死ぬ事になるぜ。解毒剤は、ほれ、こうして俺が持っている」

 首領が懐から小袋を取り出し垣間見せる。紅蘭が蒼白になると、悔し紛れに声を震わせ、唇を噛んだ。

「……どこまでも卑劣な! ……恥ずかしいと思わないの?」

 淡々として、首領が答えた。

「だから取引しようと言っている。……応じるのか?」

紅蘭が膝の十二単を引き掴み、唇をきつく噛み締めると、苦渋の決断をした。

「……分かったわ、言ってみなさい」

 首領が飄然として、条件を提示した。

「俺が解毒剤をあんたにやる代わりに、それに見合う宝をよこせ。……条件を呑むなら、戦闘を放棄する。つまり、あんたらにこれ以上の危害も加えない代わりに、あん


たらも俺達を追尾しない。どうだ?」

 紅蘭が、頷いた。

「……いいわ。ただし……あんた達は信じられないから、解毒剤を渡すのが先よ! 此方には医者が居るから、あんたが渡したのが解毒剤かどうか直に分かるもの」

「ほう? 医者……ね」

 首領が鼻で笑った。

「どちらかを先渡しするのでは、一方が不利になる。あくまで、同時に引き渡さなければ取引は成立しない。だが、俺が渡す解毒剤が毒ではないかと疑うのなら、俺がそ


の安全を証明してみせよう」

 言うなり、首領が手にした小袋を開き、中の白い粉を自らの手に取り出した。

紅蘭を始め総容が一斉に傾注して瞳を凝らすと、首領がそれを舐めてみせた。

「これで、毒ではない事が分かっただろう? ……さあ、そちらが出す宝は何だ?」

 男の挙動全てを熟視していた紅蘭が、我に返るなり思い澄ます。

しばし無言となった紅蘭に、考え倦ねた様子を察した葵が、背後から囁いた。

「紅蘭、……よかったら、僕に任せて欲しいんだけど」

 驚いた紅蘭が首領に瞳を据えたまま、声を潜めて背後の葵に問い返す。

「え? 葵、どういうこと?」

 持ち前の鋭い洞察力で、黙然として首領を凝視していた葵が、紅蘭にちらと目を側める。

「彼等に引き渡す、宝の事だよ。……僕が、出すから。後は、僕に任せてくれない?」

 平素はとかく臆病で薄弱とした印象の葵が、極めて冷静な態度で願い出た。

「え……ええ」

およそ始めて目にする神妙不可思議な葵に気圧されて、紅蘭が一も二もなく了承する。静かに頷いた葵が紅蘭の前に進み出ると、首領に向かい口を開いた。

「……では、この太刀ひと振りで、どうでしょう」

 葵が腰に佩いていた太刀を外すと面前に差し出した。

 首領を始め総容が、眼前に煌めく美しい太刀に、思わず息を吞む。

白鮫の柄に銀塵地塗りの鞘、兜金から足金物、責金、石突に至る迄の金物全ては白銀で統一され、目貫に葵の意匠をあしらった、何とも幽妙なる拵の太刀であった。

息を凝らした葵が凛として手にした太刀を引き抜くと、やや黒味を帯びた刀身は、恰も鞘から解き放たれた神鬼の如く律動的な気を発し、霊妙無限であった。

「銘は安綱。……この太刀は、伯耆国の刀匠、大原安綱の手による幾多の業物の中でも、稀代の傑作です」

「……伯耆、安綱だと!」

 驚いた首領が大きく双眸を見開くなり、頓狂な声を上げる。思わずごくりと生唾を呑み、眼前の太刀を食い入る様に見つめた。

「……こうしてお目に掛かるのは初めてだが、俺達でさえ、その名前は聞き及んでいる。当代の刀鍛冶の中でも随一の名工だ! これが、かの安綱銘の太刀だとは……!


 興奮頻りに目を奪われた様子の首領を、葵が一瞥するなり言い送る。

「この太刀は見ての通り、霊験あらたかな幽明相隔の剣です」

「幽明相隔とは、一体……?」

太刀に陶酔していた首領が、ふと口を挟んだ。

「幽明、相隔てる威力を持った太刀という意味です。この剣は持ち主を選びます。使い方を誤れば、自らの命を絶たれる様な危険を伴います。くれぐれも慎重に所持して


下さい」

葵が純一無雑の姿勢で忠告すると、首領は既に霊剣の持つ魔力に取り付かれたかの様に半ば陶然と、唯々諾々上の空で葵の警告を聞き過ごした。

「いいだろう。承知した」

 首領が下馬して牛車に歩み寄る。葵に解毒剤の袋を渡し太刀と交換すると、葵の脇に広げられた薬箱に目を留め、ふと問うた。

「……お前が、医師なのか?」

 葵が頷くと、首領がニタリと笑い、放言した。

「……そうか。だが残念ながら、ここ(伊勢国)は早、医者要らずの土地となった」

「え? ……それは一体、どういう意味?」

問い返した葵を鼻であしらうと、首領が待たせていた馬に剽軽な動作で飛び乗った。満悦して手下の野盗共に撤収を命じると、首領が放笑しながら葵を振り返り、言い置


いた。

「……いずれ分かる。……ま、こんな名刀をくれたんだ。道中達者でな、先生」

 砂塵を巻き上げ揚々と去って行く野盗に、背後から紅蘭が、およそ高貴な姫君育ちとは無縁の形相で、激しい罵声を容赦無く浴びせ掛けた。

「馬鹿――! 散々な目に遭わせたくせに、今更、何が達者で、よ! 人を侮るのもいい加減にしなさい! この恨みは絶対に忘れないわよ――! 必ず復讐してみせる


から! 覚えてらっしゃい!」

 嗷嗷と捲くし立てるが早いか大きく息を吐き、ほっと胸を撫で下ろす。次いで、野盗が去るなり下車して真盛と副将の許に駆け付け、直ちに手当てを開始していた葵を


見遣ると、急ぎ自らも侍女の手を借り牛車を降りて、葵の隣に歩み寄った。

「葵、解毒剤は、ちゃんと本物だった? ……真盛と副将の容体はどう?」

 葵が手早く傷の手当をしながら、簡潔に答えた。

「この程度の傷なら、命に別状は無いよ。擦過傷が多いけれど、深い創傷は殆ど無いから大丈夫。……解毒剤は、まだ見てないよ」

 吃驚した紅蘭が蒼白になると、慌てて問い質した。

「えっ……? すぐに確認して、飲ませなきゃ! ……だって毒なのよ? 解毒が遅れて大丈夫なの?」

 真盛の応急処置を終えた葵が副将の損傷程度を確認し、手際良く手当てをしながら淡々と答えた。

「……僕の知る限り、遅効性の毒物に対する有効な解毒剤なんて、無いよ」

 衝撃的な葵の回答に、卒倒する程驚愕した紅蘭が、思わず葵の襟元をぐっと掴むと、蒼然と詰め寄った。

「……何ですって? まさかあんた、それが分かってて、意味の無い取引に応じたの?」

 葵が激しい怒りに満ちた紅蘭の瞳を見つめると、無言のまま手を止め、解毒剤の袋を取り出した。袋から少量の粉を自らの手に取ると、純粋な眼差しで口を開いた。

「今から、これが解毒剤かどうか、確かめるね」

 辛辣な紅蘭の双瞳を真摯に受け止め、葵が解毒剤を舐めてみせた。ひとつ頷くと紅蘭に向き直り、誠実な姿勢で事実を告げる。

「やはり、これは単なる葛粉だよ。勿論無害だから、紅蘭も舐めてみて」

 想定外の事態に愕然とした紅蘭が、葵から解毒剤を受け取り口にする。仄かな甘味を感じるなり、葵の推量が真実であったと悟り、動揺を抑え切れず、激しい虚脱感を


覚えた。悄然として、紅蘭が口を開いた。

「……これが解毒剤じゃないと分かっていながら、みすみす安綱を渡すなんて……。何て事をしたのよ、葵……」

 再び副将に向き直り治療を再開すると、葵が静かに口を開いた。

「あの時、取引に応じなければ、総力戦になってたから……。何としても、双方にこれ以上の犠牲が出る事だけは、避けたかったんだ。真盛殿と副将は、すぐに手当てを


しないと命に関わる危険性があったし……。あの太刀ひとつで事が丸く収まるなら、それが最良だと思ったんだ」

 紅蘭が目を瞠る。そして、思わず言葉を失った。

葵……。貴方……犠牲が無い様に、流血が最少になる様に最大限配慮して……?

紅蘭に背を向けたまま手を休める事無く、葵が言葉を続ける。

「……あの首領も、恐らく特攻隊長の状態を察して、引き際を考えたんだと思う。だから遅効性の毒というのも解毒剤についても、あれは咄嗟の機転であって、彼等が上


手く退却する為の方便だったと思うんだ」

葵の言葉に、紅蘭が心中深く恥じ入った。医師としての本領を発揮し、負傷者の救護に一意専心している葵の背中を凝視すると、紅蘭が激しい慙愧に堪えず、俯いた。

……では葵、貴方は首領の思惑を見抜いた上で、あえて奴等の策略に乗ったというの?……深慮の上の行動だったなんて、およそ思いもしなかった。

……それにひきかえ私ときたら頭に血が上って自尊心を優先するあまり、皆を巻き込み玉砕するなどと……何て軽率な言動を……。

皆の命を預かる総領として、何と短慮な事をしてしまったのだろう……。

無垢な紅蘭の白い両手に、思わず涙が零れ落ちる。

今や紅蘭の胸中は自責の念と、それに付随して湧き起る冥々とした懸念で一杯になった。漠とした遣る瀬無い不安が、無意識に言葉となって口を衝いて出る。

「……でも葵……どうするの? 私達に平然と恥辱を加えようとしていた酷薄な奴等が、人として信用できるとでも? ……もし、本当に毒が塗られていたら……。この


まま遅効性の毒が浸透したら、どうするのよ……」

平素はさんさんとして爛漫である筈の紅蘭が、声を震わせ力無くうなだれる。鬱々と波立つ紅蘭の胸中からほとばしり出た言葉に、惨然としたその胸奥を察した葵が振り


返ると、紅蘭の肩を優しく抱き、慰めた。

「……勿論、僕もそう思って、先程急いで傷を診たんだけど……今の所、毒が侵入した形跡は無いと思う。……無論、遅効性であるなら現段階で断言は出来ないから、油


断は出来ないんだけど……。でも多分、大丈夫だと思うよ」

「……どうして?」

唇を噛み締めていた紅蘭が、葵を見上げると問い返した。

葵がその純然とした透き通る眼差しを向けると、実直に答えた。

「……ごめんね。これが薫だったら、柔和な顔に絶大な包容力で、理路整然とその理由を説明して紅蘭の憂慮を全て受け止め、消滅させちゃうんだろうけど……。……残


念ながら、僕は、上手く説明出来ない。……ただ、あの首領はそんなに悪い人じゃない。本質的に殺戮を好み、血に飢えている類の人間ではないと思う。……でも、僕が


勝手にそう感じたというだけで、何ひとつ根拠は無いんだ」

何とも温純で、胸の内を一切包み隠さず正直に答えた葵に、寧ろ紅蘭の心は安らぎを覚え、心地よく和んだ。心奥で際限無く膨張していた葛藤がその伸張を止め、ふっと


緩む。

超人間的な存在で、絶対的な安心感を与えてくれる東宮や、完全無欠で豊かな知性に裏打ちされた圧倒的な包容力を持ち、何かと頼れる存在の薫とはまた異なり、葵とい


う存在は、動揺する自分と同じ視線で寄り添い、不安を否定せずむしろ共有する事で、いつの間にか自然な形で冷静な紅蘭自身を呼び覚まし、不穏な心中を平静に立ち戻


らせていた。

人に寄り添い、苦難な状況にあってこれを助け、共に歩む。

真に……葵は、医者がその本分なのね……。

……私も、うかうか落ち込んでいられないわ。自分で伊勢に行くと決めたのだもの。私は私の本懐を遂げるまで、踏ん張らないと……。

清浄な葵の本質に触れた紅蘭が、自らの心情を爽快に一新させると、普段の快活な自分自身を取り戻した。

「ありがとう、葵……。貴方のお陰で、ようやく私も愚かな迷いが吹っ切れたわ」

葵が温和に微笑むと、紅蘭が明朗に宣言した。

「負傷者の救護が済み次第、急いで一志に向うわ。ここまで来れば、斎宮寮は目前よ!」

嫣然と頷く葵に、紅蘭が悪戯っぽい顔を向けると、ふと尋ねた。

「これが大津や薫だったら、奴等をどう撃退したかしらね?」

葵が、茶目っ気たっぷりに即答する。

「一騎当千の大津だったら、野盗が口上を述べる前に成敗しちゃってるから、即解決だったかもね。薫だったら……多分双方に犠牲を出さず、此方が失うものは何ひとつ


無かったかも。……そして敵方も、薫にしてやられた事に微塵も気付かず、上機嫌で引き揚げてたと思うよ」

「……そうね、あの二人なら、いかにもやりそうね」

紅蘭が声を立てて笑うと、葵の治療を手伝いながら詫び入った。

「……ごめんなさい、葵。皆の命と引き換えとはいえ、貴方の太刀を失ったわ……。京に戻ったら、安綱に及ばないまでも、必ず見合う太刀を造らせ償うから、堪忍して


ね……」

深々と頭を下げた紅蘭に、一笑した葵が陽気に答えた。

「大丈夫、何も心配する事無いよ、紅蘭」

何故か悠々とした葵に、紅蘭が不可解な視線を向ける。

「……またもや何の根拠も無い僕の勘、だけどね! 安綱は近い内、僕の手に無事戻って来るよ。……そんな気がするから、安心して」

狐につままれた顔の紅蘭に、葵が昂然と断言した。

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