黒水晶の瞳
黒水晶の魔法は空を舞う。
第四回小説祭り参加作品
テーマ:魔法
※参加作品一覧は後書きにあります
不吉だと、翔子は思った。
彼女は両手に夕食の材料を詰めたビニル袋を携え、白い息を吐きながら大型ショッピングモールからの帰り道を歩んでいた。
曇天の日暮れの薄暗さが翔子の不安を煽る。
道の途中では商店街を通るが、世間の例に漏れず、件のショッピングモールのお陰で、寂れたシャッター街と化していた。
翔子の背後から、11月の寒風が駆け抜け、乾燥した枯れ草が地面のタイルの上を滑る。
しかしシャッター街の人通りは絶えない。ゆく人々に理由を尋ねれば、雨風を凌げるアーケードがあること、住宅街からショッピングモールへの近道であることの2点が返ってくるだろう。
翔子もその一人だ。
シャッター街で唯一開店休業状態ながらも細々と続けていた老夫婦の衣服店はつい先日、白旗の張り紙をシャッターに貼り、灰色の怪物の一員になってしまった。
人情味を喪失した退廃的な世界の到来を告げる寂れたアーケードの下、背後から一羽のカラスが空気を擦る音を立てながら翔子の頭上を追い抜いた。
二度ほど毛羽ついた翼を上下させ滑空。カラスは力を入れすぎた紙飛行機のような上昇を見せ、商店街の街灯に見事着地した。
ガァー! 遠くのカラスの群れだろう、異様な鳴き声に呼応して、そのカラスも歓声を上げた。
不吉だと、翔子は思った。
ふと、小学三年になる息子の雄太のことが気にかかった。今日は学校の帰りに友達と一緒に公園へ遊びに行くと言っていた。彼には5時半になるか、外が暗くなってきたら、すぐ家に帰るよう言っている。言いつけを守ってくれる時もあるが、時々誘惑に負けて帰りが遅くなってしまうこともある。
何より雄太は善からぬ上級生に絡まれることがあるのだ。
以前何かの拍子に因縁をつけられたようで、それ以来時々思い出したように雄太に対して悪さを働くらしい。最後に手を出したのは夏休みの時だったか。
雄太は決して相手に手を上げることはしない。そこのところの感情のコントロールは得意なようで、翔子としても誇らしげではあったが、彼らはそこにつけ込んだのかもしれない。
翔子はバッグから携帯を取り出した。5時半にはなっていない。まだ遊んでいるかもしれなかった。
「雄太、帰ってるかな」
自宅に電話をかけたが、電話には誰も出なかった。
カラスの瞳には、携帯をバッグにしまい、早足でアーケードを抜ける女性が映った。
「はぁ、はぁ――」
ママにどう言おう。
雄太は、手提げ袋を胸に抱えて家路を駆けていた。走るたびに背中のランドセルが擦れて熱くなる。
日は既に暮れかけている。小学生が下校するには遅い時間帯だ。
抱いている手提げ袋が、モゾモゾと動く。
「もう少しで、俺ん家……だから、な!」
声も絶え絶えに、手提げ袋に話しかける。
街路灯が一斉に光り、路面を照らしはじめた。雄太は焦った。
絶対ママに怒られる。けれども、そんなことよりも――!
雄太は抱えたその中身を守らなくてはいけない義務感にかられていた。
少年が一軒家の門に飛び入り、玄関のインターホンを押したのは、既に日が暮れてからのことだった。
――黒水晶の瞳
「まーたこんな時間まで遊んで!」
翔子はドアに掛けたチェーン越しに息子を叱った。
「変な人が雄太を連れて行くかもしれないんだよ!」
帰宅して家に息子がいないことを知った翔子は、もうじき帰ってくるだろうと夕飯を作りながら待っていたが、帰ってきたのは日没後。
雄太に何かあったのではないかと心配して、先ほど雄太の友達の母親に電話をしたところだった。
「うん。でもママ」
「『でも』じゃないでしょ!」
「ママ聞いてって!」
勇気を振り絞り、母親の説教を押し切った雄太は、ドアの隙間からもぞもぞ動く得体の知れない手提げ袋を母親に見せた。
両手で抱えた手提げ袋の中でもぞもぞ動く。ということは、生き物を拾ってきたに違いない。
翔子は怪訝な顔で聞く。
「雄太それは?」
「ケガしちゃってたから助けてきた」
「だから何を拾ってきたの?」
「ガァァ!」
雄太が答えるまでもなく、手提げ袋が自己紹介。
翔子は顔をしかめて吐き捨てた。
「ダメ! 汚いから捨てなさい!」
「でもカラスがケガしてるんだよ! 寒いのに放したら死んじゃうよ!」
「めっ! そのカラスが病気を持ってるかもしれないでしょ!?」
「どうして、泥だらけの猫は助けてもらえて、ケガをしたカラスは助けてもらえないの? そんなの差別じゃん!」
翔子は言葉に詰まった。
去年の夏、翔子は息子と買い物に出かけた帰りに、側溝の足場の下でドブまみれになった子猫を保護した。そのことを彼は指摘したのだ。
「カラスの声が汚いから助けないの? ゴミを漁ってるから助けないの?」
「いい加減にしなさい!」
翔子は怒鳴った。周囲の家々から、翔子の声が反射する。ガァァ! 大声に反応して、袋の中のカラスが暴れるのを、雄太は押さえつける。
さすがの雄太も、母親の怒気に怯んだ。
「雄太、カラスはだめ。家の中で飛び回るし、ママはカラスの世話ができないから、家に入れても何もしてあげられないよ」
「カラスは俺が自分の部屋で世話をするから。それだったらいいでしょ? 猫の時みたいに、世話の仕方を調べればいいじゃん」
子供というのは意外なところで核心を突いて大人を困らせる。しかし子供。詰めは甘い。
……その雄太の部屋の世話とか掃除は、全部私がやってるんだけど。
雄太が自分の部屋の管理ができるきっかけになれば。結局私が世話をする羽目になるんだろうと薄々勘づきつつ、翔子は溜め息を吐いてチェーンロックを外した。
息子は嬉しげな笑みを見せた。
雄太の部屋に翔子もついていき、雄太が部屋の中で手提げ袋からカラスを解放した。すると、カラスは翼をばたつかせながら勢いよく飛び出した。
手提げ袋の中で散々暴れたカラスの羽はボサボサになっていた。翼を骨折したらしい。左の翼が不自然に垂れ下がっている。
翔子から見ても、確かにこの状態で冬を越せそうにはなかった。
「ママ」
「うん、確かにケガしてるね」
出血もあった。翼の前縁から赤黒い血が滲んでいる。
まさか。翔子は手提げ袋の中の物をひっくり返すと、案の定、袋の内側や体操着袋に血が付いていた。
一方カラスはその行動を威嚇と思い込んだのか、二人に対してクチバシを大きく開いて応戦したかと思うと、雄太の体操着袋を奪い取った。
どうやら餌が入っている袋で威嚇されたと勘違いしたようだった。
「カラス、返して!」
雄太が手を伸ばす。カラスはひょいとそっぽを向き、歪なステップで雄太から逃げる。足もケガをしているようだ。
雄太の部屋には布団、勉強机、本棚、そしておもちゃ箱タワーなどが充実していた。
飛べるカラスであれば、立体的に逃げ惑う事もできただろう。しかし飛べないカラスの逃げ場は床だけだ。ましてや戦利品を咥えての逃走。
ヤツは人間を翻弄するかのような動きで対抗するが、どちらかというと圧倒的に人間様のほうが有利であり、特に母親翔子の覚悟を決めた必殺・両手鷲掴み戦法に、カラスは為す術もなくひっ捕らえられた。
「雄太、体操着袋取って」
雄太は体操袋を、抵抗するカラスから力づくで奪い取った。
「はぁ……」
手のかかるカラスだ。
ふと翔子は、カラスの目が白く濁っていることに気がついた。カラスの目は黒いはずなのに。やっぱりこのカラスは病気……もしかしたら、白内障かもしれない。
人間だけじゃなく、犬や猫も老化すると白内障になることがあると、翔子は知っていた。同じようにカラスが白内障になったって、何ら不思議ではないのだ。
もしそうなら、このカラスはお年を召した老鳥ということになる。詳しく観察してみると、カラスの羽に艶はなく、パサついている。
老鳥と言って差し支えない。となると、このカラスはこの先長くないのでは……
突如、カラスは一矢報いんとでも言いたげに、尾羽の付け根から翔子の膝の上に無慈悲な射出攻撃を敢行。
油断していた翔子に、回避行動をとる余裕など全くない。
「いやっ!?」
翔子のはいていた短めのスカートは、生暖かいそれを人体への直撃からフォローするには、些か長さが足りなかった。
でろんと暖かく、しかし垂れる水分は急速に冷たく。翔子はその感覚に反射的に掴んでいたカラスを掲げ、事態を把握した彼女の顔は完全に引きつていた。
雄太は呆気にとられたようにそれを眺める。部屋の中の時間が止まった。
「……ママ、ウンコしたよ?」
「雄太わかってるなら拭いてよ……」
涙目の翔子に雄太は立ち上がって机のティッシュ箱から何枚か引っ張り、嫌そうにソレを拭き取った。
息子が変なものを拾ってこなければ……翔子はがっくりと首を折った。
インターネットを使った翔子の調べによると、やはり雄太の拾った老鳥は、両目に白内障を患っているようだった。
くしゃくしゃに丸めた保温代わりの新聞紙が敷かれた大きなダンボールの中に入れられ、上から脱走防止のスチールラックの網棚を被せられた。
時折出るカラスの鳴き声は、ここから出せと言わんばかりに大きい。
「そんな声出すなって。ほら餌持ってきたぞ」
雄太は網棚を少し浮かせ、今日の夕食で出た余りの食材を手で差し入れた。カラスは二、三度警戒気味に首を捻り、それが自分に与えられた食料だと分かると、素早く雄太の手の平からかっ攫った。
「うぉっ!? ママ食べた!」
「カラスもお腹すかしてたんだね」
雄太の背後で見守っていた翔子は笑顔で応えた。
先ほど夕飯を食べながら雄太にカラスを拾った経緯を聞いたところ、カラスは公園内で地面すれすれの低空飛行をしていたという。その最中、運悪く走行中の自転車の後部と接触して地面に転がり落ちてしまった。自転車に乗っていた50歳ぐらいの男性は、衝突したカラスを迷惑そうにチラリと見ただけで、自転車に異常がないことを確認して去って行ってしまったらしい。
地面に転がったカラスの様子がおかしかったため、雄太とその友達が保護。日も暮れかけだったので、雄太は家に連れ帰って今に至る、ということだった。
飛び方がおかしかったということは、よく見えていないのだろう。翼と足のケガが完治したとしても、街に放てばまた同じようにぶつかって、ケガをするかもしれない。自動車とぶつかりでもしたら、それこそひとたまりもない。
ケガをしたカラスを引き取ってくれるところがないかも、翔子はインターネットでチェックした。自分たちの住む自治体では、ケガをしたカラスは放置するよう、捕まえないよう呼びかけていた。
とはいえもう雄太が連れ帰ってきちゃったし、今更放そうとは言えない。かといって、カラスをこのまま命尽きるまで育てる気は、翔子にはなかった。
カラスは、餌を貰ったことで少しは気を許したようだった。大きくがなりたてることもなく、タッパーに入れた水を差し入れれば、クチバシを漬け、中の黒い舌をせわしなく上下させて水を飲んだ。
「雄太。カラスのケガが治ったら、ちゃんと元いたところに返そう」
「うん。カラスの目の病気も治してあげるんだよね」
翔子は小刻みに首を横に振って否定した。
「このカラスの目の病気は、人間にはまだ治せないんだって。だから、足と翼が治ったら、放してあげよう。カラスも、本当は大空で飛び回りたいはずだから」
最も研究が進んでいるだろう人間でさえ、白内障の治療には手術が伴う。動物病院に連れて行っても、害獣の治療は受け付けてくれない。
「……ママ、このカラス飼いたい」
カラスを自分のペットにできないか。雄太には連れ帰ってきたときから、そんな野望があった。
雄太は、友達が家でペットを飼っていることが、羨ましくてしょうがなかった。友達と一緒に家にお邪魔すると、犬が嬉しそうに尻尾を振りながら駆けてきて、仲間を連れた主人に飛びかかるのだ。その愛くるしさと友達の表情ときたら。
雄太はこれまで何度か翔子にペットが欲しいと懇願した。そのたび翔子は「魚ならいい」と答えていたが、雄太は満足いかなかった。
帰ってきたって、魚は玄関まで出迎えてやくれはしない。ただ水槽の中で漫然と泳ぐだけで、猫のように主人に甘えて膝の上で寝てしまうことも、犬のように散歩に連れて行くこともできない。ただ生命維持装置の中で、上から餌が降ってくるのを食らうだけだ。
以前公園に、肩にオウムを乗せた老人が来たことがあった。老人が教えた芸を雄太たちの目の前で披露し、言葉を話した。
オウムも賢いけれど、カラスだって賢いという。ならば、飼って芸を教えれば、応えてくれるのではないか。そんな期待があったのだ。
「カラスはね、飼っちゃいけないんだって」
翔子は雄太に優しく諭す。
子猫を保護したときも、雄太はその子猫を飼いたいと泣いて聞かなかった。
猫の引き取り手が見つかった後にそう言い出したので、既に手遅れだった。
その後も猫を飼いたいと雄太が言うので、父親と三人でペットショップに入ったが、あまりの価格の高さに財布がノーを突きつけたのだった。
「どうして?」
「ここの決まりでね『カラスを飼っちゃいけません』ってルールがあるから」
「どうしてインコやオウムが良くて、カラスは飼っちゃダメなの?」
「それはね雄太。カラスは人間に悪さをするから、人間たちはカラスを追い払おうって頑張ってるの。カラスがゴミ箱を漁って散らかしているところ、雄太も見たことあるでしょう? みんな頑張っているのに、雄太だけカラスを飼う訳にはいかないの」
「でも」
「それにね」
翔子は言葉を被せた。
自分たちの生活領域を際限なく広め、動物を追いやり、果ては絶滅に追い込んでいる。つまるところ、人間のやっている本質は単なるエゴに他ならない。だからといって、人間社会のルールを破っていいわけではない。カラスの飼育が法律で禁止されているならば、それに従うべきなのだ。
「仲間のカラスもきっと寂しがっていると思う。だから、早く手当てをして、仲間のところに返してあげなくちゃ。雄太だって、お友達や家族がいなくなっちゃったら、寂しいでしょう?」
「……うん」
「カラスが公園にいたんでしょう? 帰してあげてもそこでカラスに会えると思う。前の猫みたいにバイバイするわけじゃないから」
雄太は頷いた。ママの言うとおりだ。家で飼っちゃいけないならば、外で飼ってしまえばいい。カラスの仲間が寂しい思いをすることもないし、俺だってカラスに会いに行ける。
誰も悲しむことなんてないのだ。
翌日は土曜日だった。
世間では、学校を週五日制にするか、週六日制にするかで議論を呼んでいるようだったが、雄太の住む地域では、まだ五日制のままだった。
時刻はまだ七時を回っていなかったが、普段は寝坊気味の雄太は、昨日の出来事の興奮の後味に叩き起こされるようにして目を覚ました。
起きてすぐ、雄太はカラスの様子を覗いた。昨晩、患部の消毒と、骨折している左の翼の固定をした。カラスは怖かったのか相当抵抗したが、それを押し切って翔子が骨折の手当てをしたのだった。
「ケガはどう、カラス?」
カラスは突然覆いが取り払われ、慌てふためいてバックステップをとった。いくら景色がよく見えなくとも、光の加減は分かる。
カラスは濁った両目を声のする方に向けた。間違いない、昨日の子供の顔だ。
「ごめん、寝てた?」
雄太はカラスが飛び跳ねた様子を見て、そっと様子を覗くべきだったと頭の片隅で後悔した。
一方のカラスは呆気にとられて、その少年の顔を見つめた。
少年が鳴いている。いや、吠えている? カラスは返事を返せない。
「餌を持ってくるからな」
昨日の今日だから、まだ自分が怖いんだろうな。
雄太は警戒している様子のカラスに一言話しかけて、食べ物を求め部屋を飛び出した。
……行ってしまった。
カラスは、人間が何をしようとしているのかできなかったが、昨晩の乱暴のこともある。今回は攻撃を免れたかもしれないが、次はどうなるか分からない。
翼と足の痛みは、厳然たる事実としてそこにある。手負いなのだ。殊更用心するに越したことはない。
雄太が果たして食べ物を持ち込んでカラスに与えたとき、カラスはこの少年と、公園でエサを撒く老人と似ていると感じた。攻撃してくるなど危険な面を併せ持つ一方で、どういうわけか自分のための食事を用意する。
攻撃は身を持ってかわそう。与えられる食物は頂こう。
カラスが囲いの中にバラ撒かれた餌をついばむのを見ながら、雄太は腕組みをした。骨折が治るまでの間の世話は、雄太の中では期間限定のペットと認識は大して変わらない。
しばらくの間、俺はこのカラスを精一杯可愛がってやるのだ。
「これからしばらく世話するのに、『カラス』って呼ぶのは良くないよな」
ペットとして扱うからには、名前をつけなくてはいけない。どんな名前がいいだろうか。雄太は名付けることが思いのほか難しいことを知った。
ポチやタマは犬と猫の専売特許だし、カラスは黒いからクロだ、なんて安直な名前は、世の中にいるかもしれない、密かなカラス飼いの付ける名前と被りそうで嫌だった。
「なあカラス、お前の名前はなんて言うんだ?」
カラスは餌をついばむのをやめ、雄太の顔を見る。カラスは名前を尋ねられていることを知らない。
雄太はこちらを見るカラスをじっと観察した。ケガした翼や足以外で特徴的なところといえば、ボサついて裂けた羽、白濁した両目。やはり目が白いというのは、雄太にとって突出して特徴的であった。
目に同じ病気を患っているカラスはいるかもしれないが、カラスの中で身体が黒いカラスの割合に比べたら、圧倒的に少ないだろう。
「なんだ、雄太もう起きてたのか」
背後から、野太い声が雄太の部屋を覗きこんだ。
昨晩、雄太の父賢一が仕事から帰ってきたのは、日付が変わる一時間前のことだった。
家に帰ってくるなり、翔子に雄太がケガしたカラスを連れ帰ってきたことを知らされた。翔子は苦しい顔をしたが、賢一は息子の行動を聞いていて、誇らしく感じた。相手がどうであろうと、分け隔てなく手を差し伸べることができる息子に育ったのだ。
「カラスを拾ったんだって? ママから聞いたぞ」
「うん。いま餌やって、こいつの名前を考えてるところ」
「名前か」
賢一は部屋に入って雄太の隣からカラスを覗きこんだ。ダンボールの中のカラスは、賢一が普段遠目から見た感覚で把握していたよりも大きかった。
見知らぬ影にさっと身を引き、影の主をカラスは見上げる。その目に異常があることに賢一は気がついた。
「目が白くなってるな」
「ママが白内障って言ってた。このカラス年とってるんだって」
「こんなに目が濁ってたら、飛ぶにも不自由するだろうな」
雄太は父親にカラスを保護した経緯を伝え、翼と足の治療が終わったら外に放つと言った。
「ママが動物病院じゃカラスは診てくれないし、目の病気はどうにもならないんだって」
診察してくれる獣医がいたとて、カラスの白内障の治療ができる獣医はどれだけいるのだろうか。賢一は考えた。人間の目とは大きさも勝手も違う。それに手術となれば、高額な出費を強いられるだろう。
老い先短い害鳥のために奔走するのは割に合わない。ケガだけ治療して、あとは自然に任せる選択は、道理にかなっていた。
賢一は昨晩寝る前に少しだけ、インターネットで動物の保護について調べていた。最後まで家で飼う選択をするためには、行政の許可を得ないと違法である。ケガの保護のためだけであれば、行政に申し出れば預かってもらえるらしい。 ただし、ハト、スズメ、カラス等の害鳥や、その他例外の条件に当てはまる動物は預かってもらえない。
つまり交通事故に遭遇し、重傷を負ったカラスを保護をすることは法律で禁止されている。罰金か懲役刑が頂ける違法行為だ。
もっともな話である。行政はカラスの数を減らそうと四苦八苦しているのだ。その中で「カラスの数を増やす」行為にもなりかねないカラスの保護を許すはずもない。
「まぁ、害鳥だからなぁ」
賢一はため息をついた。
安易に法を軽んずる行動を親がとることは、子どもに良くない。ならば「そいつを保護することは許されない」と断罪して、息子の眼前で手負いのカラスを家の外に叩き出すか。
良いことをして咎められる。賢一は不請の救済を決意した。
息子には違法行為であることは伏せ、ケガの治療だけしてこっそり放そう。長居させれば、人間の保護下で野生に戻る力を失うかもしれない。またケガをして、今度こそ死んでしまうかもしれないが、それはそのときだ。
「そうだな。雄太の言うとおり、カラスはケガが治ったら解放してやるべきだ。元住んでいた世界に戻してやらないといけない」
「うん」
ただ、おかしな話だが、ケガをしたカラスは放っておかないといけないルールがあるんだ。賢一は説明した。
雄太は奇妙な顔つきをした。
「人助けしていいんでしょ? 動物だって助けることはいいことでしょ? じゃあ、なんでカラスはダメなのさ」
「人間に悪さをするからさ。生きていくためとはいえ、ゴミを漁られては人間が困る。人間がこんなルールを作ったのは、カラスの責任なんだよ。カラスは本来、自然の中で得られる食べ物の限度の範囲内で生きていくべきなんだ……その自然を破壊しているのは俺達人間なんだけどな」
「やっぱおかしいじゃん」
「さすがだな雄太は。将来政治家になって、このルールを変えてくれるかい?」
「やだよ。政治家なんてずっと怒られっぱなしじゃん。俺はサッカー選手のほうがいい。パパはママにずっと怒られっぱなしだから、俺なんかよりずっと政治家に向いてるよ」
父は苦笑いを浮かべた。
「カラスの治療は本当はしちゃいけないことだ。けども助けてしまった以上、できるところまで治療して、できるだけ早く野生に帰そう」
「うん」
話を戻すが。父は腕を組んで、カラスの名前の件に話を戻した。
「俺が雄太のカラスに名前をつけるなら、目が治るよう願いを込めた名前にするな。そんな名前で考えてみたらどうだ?」
「うーん、例えば?」
「そうだな……」
どんな名前だろうな。賢一は自嘲気味に答えた。
父子が揃って名前の案に悩む中、中途参戦した寝起きの母、翔子の鶴の一声により、カラスはモリオンと名付けられた。
「今日からお前の名前はモリオンだぞ」
雄太が上から話しかけるが、当のカラスは警戒するどころか、二人の様子に飽きてしまったらしい。すっかりエサを食べ尽くして、優雅に水を飲んでいた。
カラスの頭は動物の中でもかなり良いと言われているが、モリオンと名付けられたその老鳥も例外ではなかった。
「公園で餌をくれる人間もいるが、人間の巣で餌をくれる人間もいるらしい」とでも認識したのだろう。一週間もすると世界の変化を許容し、雄太に懐くようになった。
この変化を一番喜んだのは当然、仮初の飼い主である雄太だ。
いくらなんでも、狭いダンボールの中に常時閉じ込められておくのは苦痛だろうと考えた雄太は、自分が部屋にいるときは、カラスを紙の檻から出した。
室内で放鳥しているとき、イスに座っておやつを与えようとすると、モリオンは太もものところまで、クチバシと両足を駆使してよじ登ってくる。モリオンは骨折の治療のために翼が動かせないのだ。
カラスからの初めてのアプローチだった。今までにない行動は、雄太の中にあった意思疎通の困難な相手に対する警戒心を大いに刺激させた。
「うおぉっ!?」
蹴飛ばすようなことはせず、むしろ驚きと刹那の混乱で硬直した反応を見せたのが幸いだった。すぐにモリオンの行動が甘えであると理解した雄太は、嬉々として翔子の元へ報告をしに、階下へ駆け降りたのだった。
とはいえ、相手は動物。しばらくは雄太自身が持つ警戒心のお陰でおっかなびっくりであったが、次第に雄太の壁も崩れ、モリオンを腕に乗せる事もできるようになった。
ただ、室内で放鳥をすれば、糞の問題は回避できない。無差別テロを行うモリオンを、どうするべきか悩んだ雄太が母に相談すると、彼女が昔、学校で習ったパブロフの犬の実験の話を雄太に語った。
「モリオンがうんちしそうになったら、雄太がトイレに連れていってうんちさせるの。カラスでできるかどうか分からないけど、賢いからそのうち覚えるんじゃないかな」
「へぇー」
彼女は底の浅くて広いダンボールを押し入れから持ち出し、古新聞紙を敷き詰めたものを雄太に手渡した。
「やってみる!」
かくして、モリオン専用の簡易トイレが、雄太の世界に増設された。
しばらくして。モリオンは野糞をすることを忘れた。
保護から二週間ほど経ったある日。放鳥させたままリビングで夕食を食べた雄太が、モリオンの餌を手に自分の部屋を開けると、なぜか部屋の中でボールが跳ねていた。
「モオォォリオォォォン――! そいつぁ俺のスーパーボールだ!!」
「アァ!」
「『アァ!』じゃねえよお前!!」
モリオンはボール遊びをひとりでに覚えてしまった。
室内で食っちゃ寝するだけの生活は、暇潰しでもなければ退屈なのだ。
学校で骨を折って一時入院した友達の経験談から、カラスもそうなのだと雄太は理解した。モリオンとボール遊びをするようになった。
雄太がボールを投げると、モリオンはそのボールを追って駆けまわり、それをキャッチすると、雄太のところへ持ってくるのだ。
犬と全く変わらないじゃないか。
家にあるものを与えてみたり、ときには少ない小遣いを握りしめ、モリオンが好きそうなオモチャを最寄りのペットショップに買い求めたりもした。与えるおもちゃは、目が悪くてもよく分かるよう、色彩の強いものや音の出るものを選んだ。
与えた直後こそ警戒するものの、人間のカラス避けグッズを学習してしまうカラスのことである。三日もすれば、すぐモリオンお好みのプレイスタイルを編み出して、遊び始めた。
雄太は市販のゲームよりも、モリオンと一緒に遊ぶほうが楽しかった。誰も飼ったことのない、自分だけの可愛いモリオン。
モリオンがオモチャを咥えて「遊んで」と寄ってくる姿を見れる度に、自分もカラスの仲間になったような、そんな感覚に浸るのだった。
「グォイォ……」
モリオンが奇妙な鳴き声を出しはじめたのは、保護からおよそ一月が経過した12月だった。
机に座って宿題をしていた雄太は、聞き慣れない鳴き声にすぐ気がついた。
「どうした、モリオン」
雄太がモリオンに近寄って体の様子を見る。フンはいつも通りだし、ケガが悪化して膿んでいることもなかった。
心配になった雄太は、すぐこのことを翔子に伝えた。もしかしたら何かの病気にかかったのかもしれない。翔子はそう答えた。
「病気が酷くなっても、動物病院では治してもらえないからね……とりあえず、これで保温しておきなさい」
携帯カイロを数個渡された雄太は、その中の一つの封を開いて、モリオンの檻に入れた。
「モリオン、カイロ持ってきたぞ。ママが体温めたほうがいいって」
「オイオ」
「あれ、モリオン?」
「オイオォ!」
「すげえ、喋った……!?」
携帯カイロの袋の束を片手に持ったまま、雄太は呟いた。そうか、さっきの鳴き声は喋る練習だったのか。
喋った言葉は明瞭だけど不明瞭。自分以外の誰かが聞けば、きっと「来いよ」だとか「もういいよ」と聞こえるだろう。
「モリオン」と喋っていると知っているのは、自分だけなのだ。自分だけのモリオン。
雄太は、モリオンの中に人間の心があると言われても、もう驚きはしなかった。
正月三が日の最終日。
全開にした窓から、冬の身の凍る寒風が雄太の部屋に吹き込む。
顔に冷たい風がかかる。分かってはいたことだ。けれども、雄太の目は赤く泣き腫らしていた。
「モリオン……寂しいけど、今日でさよならしなくちゃいけないんだ。」
モリオンは久しぶりの冬の風に、羽を大きくふくらませて身震い。
濁った両目を雄太に向け、くいと首を傾げる。
俺だって知らんぷりしたかったよ。雄太の目に一段と涙が溜まった。
語りかける様子を、両親は部屋の入口から顔を出して見守っていた。
クリスマスの頃には、モリオンは部屋の中を飛べるようになっていた。
傷の跡は残ってはいたけれどほぼ治ってしまっていたし、足取りも少し不自由な様子はあれど、もう外の世界に飛び立つだけの力はあった。
「どうせなら、新年めでたく元旦に帰してやろう」
父、賢一は、七面鳥を囲んだ食卓で提案した。
雄太は当然、まだ足が少し不自由だとか、傷の痛みがまだ治っていないと主張した。
「でも、もう歩けて飛べるんだろう? 最初からそういう約束だったじゃないか」
「……うん」
そう言われると、雄太には手も足も出なかった。
まだ一週間近くある。公園に行けばきっとまた会えるさ。
自分を説得させて、しぶしぶ頷いた。しかし、やはり当日になると別れを惜しんでゴネてしまったのだ。
野生にいるモリオンは、家にいるモリオンとは違う。
仲間と一緒にまた生活できるようになるのは喜ばしいことだし、雄太もそれを望んでいる。
けれども、帰ったモリオンは野生のモリオンであって、俺だけのモリオンじゃない。
自分だけに甘えてくれるモリオンじゃないと嫌だった。
けれども、人間の世界ではモリオンは生きていけない。
約束は守らなくてはいけない。
そう両親は説得したが、雄太はモリオンを手放すことができなかった。
結局、モリオンの世話を貫き通した褒美という名目で、両親は三が日の最終日までモリオンと過ごすことを許したのだった。
雄太はモリオンの足に、不格好なミサンガを結んだ。大晦日の夜、テレビに見向きもせずに、雄太自身が編んだ白いミサンガ。引っかかって邪魔にならないよう、結んだあと余計な紐をハサミで切り落とした。
「モリオン。健康と長生きのお守りだ。絶対、絶対失くすんじゃないぞ」
このままずっとモリオンに話しかけていたかった。
もう一度、モリオンが膝の上に初めて乗って、餌をねだったあの瞬間に戻れたら、どんなに幸せなことだろう。
けど、これは契約なんだ。群れの仲間は、雄太と一緒にいる間、モリオンのことが心配で、嘆き悲しんでいたかもしれない。
俺が連れ帰ってきてしまったがために、辛い思いをしているかもしれない。
だから。雄太はその思いを振りきって。
「さあ、仲間のところに戻る時間だよ」
雄太はモリオンを窓の枠に乗せる。モリオンはひょいと反転すると、雄太の腕に飛び乗った。
「オイオ!」
「バカ! 俺は人間だ。カラスの仲間んとこに帰るんだよ!」
モリオンをもう一度窓枠に乗せた。雄太は甘えてくるモリオンに耐え切ることで精一杯だった。
やっぱり、モリオンは雄太にしがみついた。ぐっと湧き上がる感情が、勝手に窓を閉めてしまいそうだった。
雄太は何度も何度も、窓枠にモリオンを乗せ、モリオンを乗せた腕を外に突き出した。それでも自分のところへ寄ってくる。
「アァァッ!」
モリオンが抗議の声をあげる。遠くから、モリオンの声に呼応して、カラスの鳴き声が聞こえた。
午後の昼下がり。日が短い冬の太陽は、モリオンとの別れを催促する。
夕方の空は、目の悪いモリオンにとっては危険だ。暗くなる前に寝床へ帰さないと。薄暗い空の下じゃ、せっかく助けたモリオンがまた大けがをする。
それじゃあ意味がないじゃないか。
「モリオン!!」
雄太は大声を上げて叱った。正月の、一段と閑静な住宅街に響く声。音のした方角から三羽のカラスが顔を出した。向かいの家の屋根に一羽。電柱に一羽。上空に一羽。みな、こちらの様子をじっと伺っていた。
「……さよなら」
窓枠に乗せたモリオンの背中を思い切って押して、突き落とすように窓の外へ押し出す。モリオンは押し出されながら雄太を一目見て、ようやく。前を向き直し、窓枠を蹴っ飛ばす。
黒光りする大きな老いた翼を広げ、モリオンの身体は空に舞い上がった。
雄太は、群れに加わって飛び去っていくカラスを見届けて、窓を閉め切った。雄太は力尽きた。
うずくまる。滲む涙が止まらなかった。嗚咽を抑える力なんてなかった。
モリオンの魔法にかけられた翔子は、息子に歩み寄った。
「よくやったね……偉い。偉いよ雄太」
床に転がった傷だらけのスーパーボール。小鳥を模した起き上がりこぼし。まだ温かい檻の中のカイロ。
雄太は母親の腕の中で慟哭の声を上げた。
どうも、電式です。
今回は時間がなかったので、書ききるのさえ大変でしたが、どうにか完結まで持ってこれました。
モリオンの魔法が届きますように――
第四回小説祭り参加作品一覧(敬称略)
作者:靉靆
作品:煌く離宮の輪舞曲(http://ncode.syosetu.com/n4331cm/)
作者:東雲 さち
作品:愛の魔法は欲しくない(http://ncode.syosetu.com/n2610cm/)
作者:立花詩歌
作品:世界構築魔法ノススメ(http://ncode.syosetu.com/n3388cm/)
作者:あすぎめむい
作品:幼馴染の魔女と、彼女の願う夢(http://ncode.syosetu.com/n3524cm/)
作者:電式
作品:黒水晶の瞳(http://ncode.syosetu.com/n3723cm/)
作者:三河 悟
作品:戦闘要塞-魔法少女?ムサシ-(http://ncode.syosetu.com/n3928cm)
作者:長月シイタ
作品:記憶の片隅のとある戦争(http://ncode.syosetu.com/n3766cm/)
作者:月倉 蒼
作品:諸刃の魔力(http://ncode.syosetu.com/n3939cm/)
作者:笈生
作品:放課後の魔法使い(http://ncode.syosetu.com/n4016cm/)
作者:ダオ
作品:最強魔王様が現代日本に転生した件について(http://ncode.syosetu.com/n4060cm/)