続 狐と鬼のディス・コード
琴音は二階の窓から鬼面の少年を見つけた。少年は外にある屋台通りに向かって歩いている。誰も少年に気付いていないが、それも時間の問題だと琴音は知っていた。一般人に見えるようになったら最悪の事態といっていい。
階段を駆け下り少年の先回りをする。人とぶつかり謝りながら屋台の脇をくぐり抜け、少年の前に立つ。荒い息を整え少年を見据えた。
少年が琴音を認識した瞬間、空間が歪んだ。音が消え、人々も消える。少年がぐるりと上下と逆さまになった。琴音の視線がぶれ、少年の足元が目に入る。少年はごく自然に地面の上に立っていた。屋台も校舎も少年と同じ向きだ。
上下逆さまで立っているのは琴音の方だった。足元を見ると、青い空が彼女を吸い込むように存在し何処までも広がっている。怯まぬようにできるだけ足元を見ない方がよさそうだ。
少年を真っ直ぐ見つめなおし宣言する。
「この先には行かせないよ」
声が震える。負の感情の塊である少年からは、禍々しいオーラが発せらていた。威圧感に押しつぶされ今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだ。
それでも琴音は少年に向かって歩みだす。足は届くことのない空を踏んでいる。まるで綱のみえない綱渡り。
一歩一歩進むごとに足が震え、重くなる。進んでいるのに少年に近付いていないような錯覚までみえてしまう。
ようやく少年の目の前に立つ。上下逆さまだが顔のある高さは同じ。ゆっくりと手を伸ばし赤い鬼面に触れた。
ザアッと寒気がしたかと思うと、全身が張裂けるような痛みが琴音を襲う。身体よりも心に響く痛みだ。悲鳴にも似た慟哭が流れ込んでくる。
『俺は何も悪くない!』
少年の声が頭の中で反響した。やり場のない怒りや憎しみが琴音に向かって叩きつけられる。
努力が泡のように消え情熱に満ちた心が砕け、ばらばらになった。喪失感に苛まれる心に、孤独が寄りそうように殴りかかり虚無が全てを塗りつぶす。行き場のない憎しみと怒りに呑みこまれないよう、心が堅く閉ざされていく。その先にあるのは絶望――。
『どうしようもないんだよ。全部、俺のせいでいいんだ。俺が我慢すれば何も起こらない。丸く収まるんだ。これでいい。そうだろ?』
少年は絶望していた。
誰に当たり散らすわけでもなく、孤独に絶望をため込んでいたのだ。これでいい、これでいい、何度自分に言い聞かせたことだろう。
琴音は首を振って否定する。
「何も起こらないわけないよ! こんなに苦しんでいるじゃない! もっと自分の意志を貫いて!」
少年は拳をきつく握りしめた。
鬼面に触れさせぬよう琴音の腕を掴む。問答無用で負の感情が琴音に注がれ、琴音の表情が歪んだ。
少年は今にも爆発しそうな暴力を言葉に変換させ、琴音に当たり散らした。
『怒りに身を任せ、破壊すればいいのか? そうすることでしか俺は消えない。でも俺はそんなことを望んでいないから、こうして! こんなにも! 何も見えない!』
「違う! あなたのやりたいことはそんなんじゃない! 絶望しないで!」
『黙れ!』
荒々しい感情の嵐の中、琴音は片手で鬼面をつかむ。白狐のお面は空に吸い込まれ、空から降ってきた。世界が別の形に歪みだす。
「あなたは本当に優しいから、そんなになるまで抱え込んじゃっただけなの」
少年の勢いが急速に弱まっていく。琴音の腕を掴む力も弱まり、鬼面から一滴の涙がこぼれた。
少年の嵐はやみ、ぽつりぽつりと真情を吐露させていく。陽炎のように不確かな声が、琴音の心をそっと震わせた。
こんなドス黒い感情なんて、なくなればいい。こんな気持ちになるくらいなら何も感じない方がいい。なかったことにしてゼロからやり直したい。そんなことはできないと、分かっているし諦めている。だって誰も信じられないから。もう信じたくないから。
俺なんていない方がいいんだ。
「そんなことないよ。大丈夫」
琴音は少年の名を呼んだ。
全て分かるとは言わないけれど、何も分からない訳じゃない。力を振り絞り両手で鬼面をはずした。
その素顔は――……。