狐と鬼のディス・コード
「琴音、交代の時間だよ」
「え?」
琴音が時計と当番表を照らし合わせてみると確かに交代時間だ。あまりにも忙しすぎて、時計を見ている余裕もなかった。次の当番の生徒に引き継ぎ内容を伝え、その場を離れる。
とりあえず校内を見て回ることにしたのだが、どこか手持無沙汰な気分だ。見たい展示やパフォーマンスがあるわけでもなく、とくにお腹もすいていない。日頃仲の良い友人たちはクラスや部活の当番だったり、役員だったり、彼氏がいたりと忙しない。
狐のお面を頭につけてあちこち歩くだけでも宣伝になるのだが、それだけで最後の文化祭をしめくくるには、物足りない気がする。
「どうしよっかな」
ふと、春葵のことが気になった。風邪が治ってないのか具合が悪そうで、口数も少なかったからだ。電話もメールもしてみたが、反応はない。ときおりすれ違うクラスメイトに尋ねてみても有力な目撃情報はなく、頼みの綱の風雅でさえも分からないと言われてしまった。
彼はどこに行ってしまったのだろう。
いつにもまして春葵のことを考えている自分がいた。どうにも嫌な予感を打ち消すことができないのだ。杞憂だと言われてしまえばそれまでだけど、それでも不安ばかりが胸に溜まる。
いや、こんな気持ちじゃ駄目だ。
頬をパシッと叩き、気持ちを切りかえる。不安を追い出して、春葵を探すことだけを考えなくては。俯きがちな顔を上げ、正面を見据える。
ちょうどその時だった。鬼面の少年が琴音の隣を通り過ぎたのは。
「え?」
琴音の後ろから音もなく追い越していく。その瞬間、強い頭痛と吐き気が琴音を襲った。雑音が蜂のように飛び回り、耳元で唸る。急速に目がかすみ、視界のあちこちでぐるぐると物が回り続け、壁がぐにゃぐにゃとねじ曲がった。その場に崩れ落ちそうになる膝をおさえ、琴音は少年の背中を見つめる。少年は人ごみをすり抜け、角を曲がって視界から消えた。
すると、何事もなかったように雑音が消える。まだ吐き気などの症状はあるが、すぐになくなるだろう。
しばらく茫然と佇む琴音だが、何が起きたのかようやく理解し改めて恐怖する。
「アレは、やばすぎるよ」
琴音はまず、更衣室に走った。
クラスで合わせたTシャツを脱ぎ、いつものセーラー服に着替える。髪をおろし鏡を見ると、縛った跡がウェーブのような癖を作っていた。しかし直す暇はない。
鬼面の少年は、一刻も早く対処しなければならない存在だからだ。
「私の馬鹿!」
琴音は自分自身を責める。彼女は油断していたのだ。
文化祭は誰でも楽しめるイベントだから大丈夫、と思いこんでいた。実際、去年と一昨年は何の問題もなかったのだ。しかしそれは、彼女が幸せで平和な世界にいるからこその思い込みだった。本当は文化祭を憂鬱に思う人もいるし、黒い感情を溢れさせてしまう人だっているのだ。琴音は、そんな黒い感情と対敵する使命を持っていた。
対敵と言っても、そんな大それたことはしない。負の感情を持った人を探し、それが爆発する前に話を聞いたり励ましたりして、霧散させるだけだ。自分ができる範囲から超えることはない。
しかし今回は違う。負の感情は形となり、意思をもって行動を始めていた。こうなってしまえば琴音も自分の領域からでるしかない。
「よし、いける」
自分で作った白狐の面を片手に、更衣室を飛び出した。
はやく探さなければいけない。負の感情が、鬼面の少年が、その源になっている人物に出会ってしまう前に。
更衣室を飛び出し、人の多い南校舎へ向かって走り出す。
琴音のセーラー服と髪がかすかに光っていた。明るいところでは、ほとんど見ることができないが、琴音自身の力と、まわりの楽しげな雰囲気に反応しているのだ。
(落ち着いて。焦ってはいけない)
自分自身に言い聞かせる。焦りは隙を生み出し、その隙間に黒い感情は芽生えると、琴音は知っていた。
落ち着いて、自分の役目と出来ることを頭の中で復唱する。
(闇を払う光は、日常に溢れている。光は私自身だけでなく、身の回りのものにも宿る。服や、筆記用具、自分が触れている物ほど光は宿り、私の力になるだろう。私はたくさんの人を救えるほど強くはないけれど、たくさんの人の力を借りることはできる。闇が大きくなる前に、人々を飲み込む前に、受け止めるのだ)