8・蒼い空に消えた(後編)
家で待っていたのは、ただの肉の塊と化したエレノアだった。頭と胴体、手足、バラバラにされ、血の海に沈められた。刃物で切り裂かれた跡はない。古代、四方向に紐を付け、牛馬で引いて切り裂いた刑があったというが、多分、そういうことをされたんだろう。
自慢にしていた長い金髪、血糊が付いてベトベトしている。ディックは恐る恐る、妻の頭を抱えた。苦しそうな顔。涙の跡が見える。妻は苦しい中、自分の名を呼んでいたのだろう、助けを求めていたのだろうと思うと逃げたくなる。
「何が……、何がいけないんだ。俺は俺なりにやってただけだ。何でこうなるんだ。どうして俺だけこうなるんだ──!!」
彼の慟哭は誰の耳にも届かない。天には届いただろうか。死者は星になるという非科学的な迷信を、彼は信じたくなった。愛しい妻は蒼い空に消えた。
でもまだ、エスターが居るじやないか。エスター、実験体として手術が施される前に、俺が救ってやる。エレノアの分も。
ディック・エマードは上がりかかった夜の帳の中、ネオ・ニューヨークシティーの中心に聾える政府のビルヘと急いだ。
だが、彼に幸せの兆しは訪れなかった。ビルで待っていたのは警備員で、彼は目隠しをされ、四角い部屋に放り込まれた。
目隠しを取って初めて、彼はティン・リーの恐ろしさを知った。そこは白い、何もない部屋だった。天井に付いている蛍光灯と自分だけが、唯一この空間にある。こういう所に長くいると、人間はどうなるかというと……。
「大分疲れているようだな、ディック・エマード」
リーの声が聞こえた。どこかにスピーカーがあるらしい。
ビルの一階分くらいの広さの部屋にディックは一人とり残されて声を聞いていた。
「プレゼントだ。君にはその部屋をプレゼントしよう」
「プレゼントだと……。嘘を付くな。お前の魂胆は分かっている」
隠されているだろう盗聴マイクに届くよう、大声で反抗する。
「お前は俺を廃人にしたいのか?! それが望みなのか!」
「そうだ。私は貴様を叩きのめしてやりたいのだ。白い空間、それは即ち無を表す。考える動物、人間は無に堪え切れず狂いだすのだ。恐怖、不安、幻惑……、貴様はどんなふうに私を楽しませてくれるのかな」
「……!」
ティン・リー……、貴様という男は……。音声が途絶え、ディックは再び一人になった。外からの音は一切聞こえない。孤独感が襲う。
知っている、知っているとも。狂った人間がいかに奇妙でいかに恐ろしいか。お前がそうだ、リー。お前のように俺を狂わそうというのか。精神鍛練を積んだ者でさえ絶え切れぬというこの空間で、俺は狂わずにいられるんだろうか。
白い空間は彼を包み込み、ありとあらゆる幻を見せる。
先程見た妻の遺体がすぅーっと目の前に浮かんできて、そこから絶え間なく流れ出る鮮血は足元に泉を作った。泉からぷくぷくと血が湧きだす。小さな手が血の中で喘いでいる。手はずんずん沈んでいって、到頭何もなくなった。
目に焼き付いて離れないのは何も妻子のことばかりではない。ティン・リー、あの狂った男もまた、ディックを悩ます。自分が信じていたもの、愛していたもの、全ては消えて、塵となる。楽しい日々は思い出されず、目の前の悪夢ばかりが聞こえてくる。
──俺の名を呼ぶエレノア。もうやめてくれ、俺には何も出来ないのだ、エスターさえ助けてやることが出来ない。
別の部良からディックを監視していたティン・リーは、哀れな旧友の姿を嘲笑した。隠しカメラは、狂ったように壁を叩き続けるディック・エマードの姿を捕らえていた。きっちりと固めていたはずの髪は乱れ、声も絶え絶えに彼は叫び続けていた。何と言っているのか既に分からない。白い部屋から出たいらしいことだけは読み取れるのだが。
「所詮、この男も人間だ」
リーはマイクを手に取った。
「エマード、私と賭けをしないか」
ディックの動きが止まった。辺りをきょろきょろと見回す。
「FILE.Dに協力するというなら、出してやってもいい」
「エスターを、エスターを返してくれ。俺にはあいつしかいないんだ、返してくれ」
漸く彼の口から人の言葉が聞けた。涙でぐしゃぐしゃの顔。
リーは満足していた。そうだ、私に請うのだ、そうしたら全ては私の思うままだ。ディック・エマード、貴様も私にとっては駒に過ぎんのだ!!
「いいか、私の質問にだけ答えろ。協力するのか、しないのか。しないというなら、死ぬまで貴様はその部屋から出ることは出来ないと思え」
ディック・エマードが覚えているのはそこまでだった。
その後、白い部屋から解放され、FILE.Dに携わることになる。娘の体に埋め込まれていく機械の部品、それに反してエスターは美しく成長した。愛するエレノア・オーリンのように。虚ろな日で過ごす日が何年となく続いた。罪悪感は途方もなく巨大で、押し潰される……、そんなもんじゃない。死以上の苦しみ、生きることそのものが彼にとっては苦しみだった。そして今も──。
ノック音が聞こえた。ディックは返事をしなかったが、ドアが開いて人が入ってきた。エスターだ。父を見付け、側に寄った。父の涙の跡に、エスターは切なくなる。
「ごめんね。パパ」
(また、心配かけたのね、私。知っているわ、自分がどんな生い立ちをもった人間なのか。もうパパに心配かけないって決めてたのにね)
エスターはそれだけ言って部屋を出た。
「謝らなければならないのは、俺のほうだ……、エスター」
父のかすかな声を聞いた気がした。
シベリアの民の助勢が明らかになったので、作戦変更して一気にEPTに打撃を与えることにした。ジュンヤ・ウメモトが指揮を執り、ディック・エマードが監督する。
今、ESとEPTとの最後の戦いが始まろうとしているのだ。最後というのは言い過ぎかもしれない、だが少なくともESはそうだと信じている。世界を揺るがして、EPTを倒そう、そうすればこの星は救われると信じている。
作戦が実行に移されるまであと三日。ES要塞は慌ただしく動いていた。
ジュンヤ・ウメモトはスカーレット団長やシベリア側の代表者アンリ・ゲルニコフと共に作戦会議を続行している。ディック・エマードは科学チームを率いて、最大の難点である人工衛星の使用について研究を重ねている。エスターや他の特別調査団の団員達、シベリアの者達は、細かい作業にてんてこ舞いだ。皆が皆、それぞれ夢を持ちながら実行の日を待った。
作戦実行前夜、ディック・エマードは眠れずに、一人シベリアの雪原に佇んで空を見上げた。
何年か振りに雪が止んだとシベリアの者は喜び、自分達の穴で酒盛りを開いている。空は晴れて満天の星空、うっすらと細い上弦の月が西の空で沈みかかっていた。
星なんてものは本や映像で見たことがあるくらいで、こうして肉眼で見たのは今日が初めてだ。心が吸い込まれていく、こんな澄み切った気持ちになったのは子供の頃以来かもしれない。俺もこの地球に住む人間の一人なのだな、当然のことなのに感慨深くなってしまう。
空か……、故人シロウ・ウメモトの夢だった、空に行こうと急かされた。
要塞の下部ハッチが開いて、エスターがやってきた。寒いでしょうと白衣の上に毛布を掛けてくれた。
「俺はな、お前の親なんかじゃない」
ディックは初めて、娘に胸のうちを語る決心をしていたのだ。
「俺は親として、何一つしてやれなかった。何も守れない、雪辱を果たすためだけに生きる嫌な男だ」
「もし本当にそれだけなら、私はパパのこと好きになれなかったわよ?」
「……」
一瞬、エスターがエレノアに見えた。俺は科学が好きなだけの何の取り柄もない男だが、とプロポーズした時のエレノアの答えとよく似ていたのだ。血は争えんとはこのことか。
「お前は何のためにここにいる?」
娘に唐突な質問をぶつけてみたが、何も返ってこなかった。
「俺はお前の母親のために、つまり、俺の妻のためにここにいる。俺に関わってしまったばかりにいらん巻き添えを食って人生を駄目にした彼女のために、そして、お前のために」
「私は駄目になんか……」
ディックは要塞に向かつて歩きだした。
「あと五日だ……」
意味ありげな一言がエスタ一に突き刺さる。五日……? どういうこと、パパ……。
夜は明けて、いよいよ運命の日がやってきた。