4・その空に太陽はあるか(後編)
夜、ESのアナーキスト達は闇に身を隠す様にして直走っていた。それまでの本部を敵に暴かれ、行くところもなくただただ走るしかなかった。
シロウ・ウメモトはジュンヤと妻のメイシィを連れ、ネオ・シャンハイの住宅地の路地を行ったり来たりしていた。
ESの者は皆、団体でいるところを追い詰められるのを恐れて、分散して各個、安全な場所に逃げ込もう、という作戦にでた。コンピュータで管理された街の中で、いつ見付けられるか分からない。偶に、ESの仲間の悲痛な叫び声が聞こえてくる。次は自分たちなのか……、そう思うと足の震えが止まらない。EPTはESの捜索に何十人もの警備隊員を動員している。もしそんなのに見つかりでもしたら大変だ。どうされるのか見当も付かない。とにかく今は逃げよう、ビルとビルの間か、民家の中か。自分はいい、だがジュンヤとメイシィには生き延びてほしい、シロウは切実に天に願った。
どれだけ走ったろう、目の前に半壊した民家を見付ける。およそ、EPTの奴らが何かこじつけてやったんだろう、少し前まで人がいた跡がある。
「ここなら大丈夫だ」
シロウはそう言うと、先ずメイシィを、そして次にジュンヤを、その壊れかかった家の中に入れた。
もうじき崩れそうな壁が殆どで、家の四隅のうち、一隅だけが完全な形を保っている。シロウはそこに二人を寄せ、自分は見張りだと言って穴の空いた壁から外を監視していた。
ジュンヤもメイシィも、そんなシロウの姿に胸を痛めた。二人は知っていたのだ、先程から聞こえる、銃声に倒れる数多の声の声の主は皆、ESの幹部連中であることを。下っ端の者など、誰がESか知る由もない。もう何処へ行ったのやら、気配すら窺えない。シロウはESの創設者である、面が割れていないわけがない。
「もう夜も遅い。お前達はここで休みなさい。あとは俺が何とかする」
二人の心配を余所にシロウはそう言って、散らばったゴミの中から毛布を見付けて二人にそっと掛けた。シロウはその時あまりに穏やかだった。起き上がってシロウに話し掛けようとするジュンヤを、メイシィは押さえ、首を横に振った。ジュンヤは悔しくて堪らなかったのだ。己れの無力さと父の勇気の間にどれほどの隔たりがあるかを実感していたのだ。悔しさをじっと堪え、眠ったふりをした。二人が限を閉じたのを確認すると、シロウは再び穴の空いた壁にぴったりと張りついた。
そして夜も明けてきた頃のことである。瞼の裏に、ふとして父の姿が映った。眠ってはいないつもりが、少し寝ていたらしい。日を開けると、そこに父の姿はなかった。もしやと思って壁の穴から外を覗いた──、そこには……。
立ちはだかるEPTの兵数人と、棒立ちしたままの父がいた。
父さん!! 叫んで出ていこうかとも思う、が、しかし、父の「何とかする」の声を思い出し、堪えた。母のメイシィはまだ気付かぬ様である。父さん……、何とか、何とかして奴らを倒すんだろう。俺はこのままここに居るだけでいいのか? 父の意志とプライドの高さは重々知っていたから、手出し出来ない。
「ここに居るのはお前だけか」
兵の一人がシロウに銃口を向けた。父は両手を挙げて首を縦に振った。
「そうだ」
「ではここでお前を殺しても何の物音もせぬ筈だな」
「そうだ」
兵達は揃って父に銃を集めた。助けに行かなくては!! だが、父を欺くことは出来ない。拳が唸る。
父さん!! そんな奴ら、父さんなら簡単に……!! どうして……?!
「撃て!!」
男の言葉を皮切りに、銃声が鳴り始めた。ズドドドドドド……。鈍い音がこだまする。無抵抗の父の体は海老のように何度も反り返り、跳ねて、穴が沢山開いた。血飛沫が雨のように滴った。ジュンヤの体は火照り、知らず知らずのうちに涙が込上げた。衝動に駆られ、何度も飛び出しそうになる。父は人形のように宙で踊っていた。銃声は父の意識が遠退いた後も、暫く止むことはなかった。
銃声が止み、兵が引いて、辺りが明るくなってきてから初めて、ジュンヤは外に出て父の無残な姿を見た。血の海の中でうつ伏せになって死んでいた。
ジュンヤは漸く慟哭した。
血に濡れた顔は意外にも穏やかだった。
父さん、「何とかする」とはこのことだったのか? 俺達を庇って死ぬことだったのか?! こんな悲しいことってあるか?! 拳を何度も何度も地に撃ち附けた。拳は、灰色の金属で固められた地に砕かれて血色に染まった。
後ろからそっと肩を抱く者があった。母のメイシィである。母は自分に掛けられていた毛布を持ち出し、シロウの骸に被せた。
「この人はね、始めからこのつもりでいたのよ」
メイシィはそう言ってジュンヤの隣にしゃがんだ。ジュンヤは驚いてメイシィの顔を見た。母はただ静かに笑って、
「悲しい顔をしていたら、この人はきっと怒るわ。『俺は そんな軟弱な男に育てた覚えはないぞ』、なんて言ってね。だから泣いているだけでは駄目よ。これから何かを始めなくちゃ」
自分を励ましているかのような母の目から、ほろりと大粒の涙が溢れ出た。彼女はしゃがんだまま、打ち上げられた人工太陽の光りが強くなってゆく様を眺めていた。
ジュンヤも立ち上がってその様を見た。
「太陽があると言ったね、親父は」
次第に青くなる空を見つめた。
「そう、空には太陽があるの。空は、こんな囲まれた塀ではないわ、天に通じる道なのよ。開けた空には雲という 白いものがあって、いつも違う顔をしている。雲からは時折、雨と呼ばれるシャワーが注がれるんですってね。かつて空には飛べる獣が居たという……。私達もいつか飛べるかしら……って、これ、お父さんの口癖だったわよね」
「うん……」
ジュンヤは拳を固めて天を仰いだ。
「飛べるさ。きっと飛べる。──このドームの空に太陽はない。でも絶対に、いつか飛んでみせる、太陽のある空を。それが父さんのために俺が出来る、最高のことだと思わないか?」
朝になり、二人の周りにも人が集まってきた。逃げ延びたESの仲間達だ。誰かが新しい根城に丁度良い場所を見っけたと言い、皆でそこへ向かった。古びたビルと、その周囲の数十軒の空き家に住まうことになった。
父の遺体は他の人と一緒に火葬され、小さな骨壷に入れられた。その壷は今も、この地下室の上のウメモト家の棚の奥に大事にしまってある。父のための墓標さえたてられない鉄の大地を、ジュンヤは嫌いになった。
「でも、あのことがなかったら、俺は今の俺であることが出来なかったと思うんだ。だから、今さらどうこう言うことじゃない」
ジュンヤの将棋を指す手がぴたりと止まった。両膝の上で拳が震えている。強がったってどうしようもないだろう……、ジュンヤの心はそうも言っていた。
時計が午後三時を知らせた頃、ディックとジュンヤは地下室を後にした。そろそろ、少女が帰ってくる時間なのだ。一階に昇ると案の定、メイシィと少女の話し声がする。リビングを覗いた。
「ただ今、ジュンヤ。それに、パパ」
浅葱色の高校の制服を着た、あの少女である。
「お帰り」
男共の顔が急に綻んだ。ディックなど、それまでの神妙な表情など、吹き飛んでしまったようだ。二人は空いているソファーの席にでんと座った。
「ジュンヤ、こっちの調査はもう終わったわ。ついでにまた退学喰らっちゃったけどね」
少女は幼気な目をジュンヤに向けた。少女の名はエスター。エレノアとは彼女の偽名である。覚えているだろうか、あの、ディックと共に現れた金髪の少女は今年、十七になる。シロウを師とし、持ち前の才能で武道を極めたエスターは、ESの特別調査団の一員として、偽名を使い、世に紛れて生活している。特別調査団の任務は、EPT監視下における人々の思想とESに対する意識調査であり、その結果をもとにESは大革命を実現しようとしているのだ。ここでの調査団の活動は今日で終了だ。
「そうか、御苦労様。実はこっちの方も今日で完成したんだ、な、ディック」
ジュンヤはちらりとディックを見た、ディックはこくりと額いた。ジュンヤは立ち上がり、意気揚々に叫んだ。
「今日、決行だ。俺達は今日、空に出る」
メイシィはその時、ジュンヤの中に若き日のシロウを見た。
その目には涙が溢れていた。
「その空に太陽はあるの?」
メイシィのロからふと、懐かしい言葉が出た。皆、見えぬ空を仰いでいた。
「あるさ……」
遠い空の向こうで太陽が燦々と輝いた。