3・その空に太陽はあるか(前編)
地球暦四九九年、初春の日の午後のことである。
ネオ・シャンハイの某高校で、校長が一人の少女を校長室に呼びだしていた。もうしばらくするとその少女がやってくる。校長は自分で呼び出しておきながら不安でたまらなかった。
校長は皺苦茶の婆であった。気の強い面構えはしていたが、どう踏んでも少女に勝てないことは明瞭なのだ。彼女がこの学校に転校してきて早三ヵ月。問題を起こさない日はなかった。毎日のように職員室に呼び出されているというのにケロッとしている。気味が悪いというか何というか……。とにかく何を考えているのか分からない。だが、それも今日で……。
「エレノア・オーリン……」
呟いて振り返り、窓の外を見る。中庭の植木が人工太陽に照らされてきらきらと輝いている。
地球がEPT(地球計画班)政府により統治され始めてから約五世紀。人々は政府に従い、そして豊かな生活を手に入れた。その思想も穏やかになり、先史の時代より犯罪も減った、戦争も起きない。なのに彼女の目ときたら、それはもう獲物を探る獣のようだ。エレノア……。正体の知れぬ娘をなぜここに入れてしまったのか。今更ながら考え込んだ。
校長は向き直って少女を待った。
広い机の上の紅茶が甘い香りを湯気に乗せてそこら中に運んでいる。しかし、そんなのは何の気休めにもならなかった。
インターホンが鳴った。自動ドアが、シュンと音をたてて開いた。
「失礼します」
一礼して少女が入ってきた。ドアは再びシュンと音をたてて閉じた。少女は大股でこちらに向かってくる。立ち止まり、
「何か御用でしようか」
全く平然とした様子である。校長はふうと溜め息を吐いて話を始めた。
「エレノア・オーリン……、あなたに重大なお知らせをしなくてはなりません……」
少し体を乗り出して、エレノアに言い聞かせるように話す。
明るい金髪と深い緑色の瞳を持った少女は静かに婆の話を聞いた。
「いいですか、エレノア。よく聞いてください。あなたにはこの学校を辞めていただかなくてはなりません……。退学です。これは学校が決めたことです。従ってもらいますよ」
二人きりの校長室に少し冷たい空気が流れた。校長は、壁に掛けてある歴代の校長の写真や政府から戴いた数々の賞状やトロフィーが自分を嘲笑している気がした。なんとかしてこの寒気から脱出しなければと思っていた矢先、
「はい、分かりました」
エレノアの声が聞こえた。今までとは少し違う、低めの声だ。表情が少しずつ変わっているのに気付く。笑みは沈んで冷徹に、無駄の無い美女になった。左手で髪を掻き揚げて耳に掛ける。チラッとパールのピアスが覗いた。
腕を組んで校長を見下し、彼女は、
「これでもう六校目です。お気になさらないで下さい。皆さん保守的な方ばかりなんですね。この世界がお好きなんですか? この星には何がありますか? 教えて下さい」
と言う。
校長は耳を疑った。まさかとは思ったがこの娘は……。
「ESよ!! 誰か来て!!」
目一杯力を込めて叫んだが、防音のこの部屋から外には聞こえない。
少女は沈黙している。
校長は忙しい手で手元のスイッチを押した。手が汗だくだ。あまりのことに視点が定まらない。おろおろして後退りしたがすぐに窓にぶつかった。言いようのない恐怖に襲われる。
「ESが潜んでいたとは……、私も迂闊だつたわ。こんな……、こんな……」
「私があれだけ暴れても気付かないなんて最低ね。それもこれもあなた達が保守的すぎるせいよ。そう……、私の問題行動を公にしたくなかったあなた達のミスだわ」
エレノアは一歩一歩前進し始めた。
と、大きな音が聞こえた。部屋の両側の壁が回転し、新たな部屋がひとつずつ現れる。中から計二十体のガードマシンが一斉に飛び出した。人型のそのマシンはY字型の拳を突き出してエレノアを襲った──が。
「どうしてこんな雑魚を出すの。もっと強い相手が欲しいものだわ!!」
助走も付けずにハイジャンプ、そして廻し蹴り、五、六体を一掃する。着地と共に足払い、そして中段にパンチ、蹴り、相手に隙を与えない。あっという間に二十体は地に伏した。
エレノアはさっと浅葱色の制服のスカートを翻して校長に向き直った。息も乱さず表情なく近寄るエレノア。
校長は既に気が気でなかった。
「あなたには一生『空』の意味が分からないわ」
そう言うとエレノアは校長の後ろの窓を突き破って、五階下の地上に飛び降り、そのまま何処かへと消えていった。
ネオ・シャンハイのとある場所で二人の男が向かい合って将棋を指している。
二人は人を待っているのだ。待ち人は少女である。若い男と中年の男と二人いるが、少女はこの内の中年の方の娘らしい。
そろそろ帰る時間かな、と、父親が腕時計を見る。
一方で若い方の男は堅い床の上に座布団を敷いて胡坐をかいて悩んでいた。王手をかけられているのだ。成金ごときにやられてたまるかと思いつつ、将棋盤の隅に追い詰められた自分の王将に成す術はなかった。
「畜生、負けだ。完敗だ」
負けた男は悔しそうに体を反り返した。短い黒髪の前髪を立てた、今年二十歳になったばかりのその男は、ジュンヤ・ウメモトという。日米のクオーターである。武道を嗜んでいるから体ががっしりしている。精悍な顔つきがとても涼し気だ。
ジュンヤはしばらく床に手をついて反り返したまま地下室の天井を眺めていた。
罅割れた天井の隅には、何処から入り込んだのか、蜘珠が巣を作っている。飾りなんて何もない。このコンクリートで固めらた地下室でこの人と将棋を指しているとほっとする。世の中の煩わしさも忘れてしまいそうになる。
ジュンヤはゆっくりと姿勢を正して男を見た。男は指し終えた将棋の駒を定位置に並べ換えていた。真っ黒な髪に少し白髪が日立つ。立派な口髭にも白いものが見える。
そうか、この人ももう四十九になるのか、年が経つのは早いものだな。そういえば、俺が初めて会った時、この人はもっと若かった、俺も子供だった。ジュンヤはふと、七年前のあの日のことを思い出した。
その日、十二歳のジュンヤは父親に将棋の指し方を教わっていた。
父のシロウ・ウメモトは将棋の好きな男だった。いつも優しくて、そして強くて、ジュンヤは父を心から尊敬していたのだ。ジュンヤは地下のコンクリートの部屋で父と将棋を指すのが一番好きだった。父がいつも、
「将棋はなあ、こういう静かな所で指すのが一番いいんだ。精神が安定して冷静になれる。我々のような武道家の端くれにとって、最高の精神鍛練の場だと俺は思う。それに、このパチンて音が響くのがこの上なくいい」
と言って、嬉しそうに自分を見てくれるのが一番好きだった。
父は、ESという団体の創設者だった。
ES、正式名称はEarth Saver、反政府組織である。地球は今日、狂科学者を中心に組織されたEPT(地球計画班)により、支配されているが、ESはそのEPT政府による圧政から人々を解放しようという勇気ある者達がつくる団体なのだ。シロウ・ウメモトは息子だけでなく、そうした人々にもまた尊敬されていた。
頼れる男に訪問者があった。
父と将棋を指している折、インターホンが鳴った。一度ばかりでなく何度も何度も鳴るもんだから、流石のシロウも、
「何だ、何度も何度も。一度押せばそれでいいだろうが」
と言って、そそくさと階段を駆け上がった。ジュンヤは何か面白いことが起きそうだという子供ながらの予感を胸に、父の後を追った。一階に着いても、まだインターホンは鳴っていた。なんて迷惑な奴だと思いながらも、シロウは平静を装ってインターホンに出た。
「どなたですか。用件を述べてください」
「シロウ・ウメモトだな。話がある。私はEPTの最高幹部の一人でディック・エマードという」
答えたのは意外な人物だった。これは全くの賭けだと思った。玄関先の監視カメラには、一人の男と、彼に抱えられて毛布に包まった少女が映し出されていた。シロウは自分の前のモニターの映像の意味を暫く考えた。外はもう暗い。
シロウの出した結論はこうだ。
「今、戸を開けます。話を聞きましょう」
ジュンヤは二人の応答に胸が高鳴ったのをはっきり覚えている。
初めて会った時、その男は酷く汚れた服を着ていた。髭は数日間剃っていないらしく茫々だつたし、髪はもしゃくしゃで、眼の下に隈なんかつくつていた。本当にEPTの偉い人なのかなぁとジュンヤは不審で堪らなかった。父の話によると、このディックという人は逃げてきたのだという。寝ずに逃げてネオ・ニューヨークシティーから、ここネオ・シャンハイまで来たのだと。しかし、謎めいた男のことよりもジュンヤが気掛かりだったのは、彼が連れてきた少女のことだった。
少女は名をエスターというらしい。長いストレートの髪にドキドキした。そっと、父達の目を盗んでエスターのいる部屋に潜り込んだ。ベッドの上でぐっすり眠っているエスターは眠れる森の美女みたいな気がして、ジュンヤはゆっくり覗き込み顔を少しずつ近付け唇が触れそうになって慌てて体を起こした。ああ、俺は何をしていたんだろう、馬鹿じやないか、これじゃあ。それからもう一度エスターの顔をじっくり眺めて部屋を出た。
「お休み」
初恋だったなあ。思いながらジュンヤは再び将棋を指し始めた。ディックは無言のままだ。
「こうしていると、親父を思い出すんだ」
「……」
「親父がいた頃は三人でやったよな、こうやって、将棋さして。結局、親父には一回も勝てなかった」
「三年だ」
ディックがふと呟く。
「ああ……、三年だ。親父が死んで三年になる。あんな事件さえなけりゃ……」
「不幸な事件だった」
「そう、あんなことさえなければ親父は……」
ジュンヤの中で三年前のシロウの死んだ日が動きだした。




