第二章-4
*
灰髪の紳士、レスタート・ロス・エルスは、アルフリートと話した後、すぐに帰ってしまったらしい。使用人達も心なしか気が楽そうな顔をして歩いている。
残り少ないバラのジャムをお茶に入れて、リシェルはほっと一息ついた。
開いていたドアを、ルーベンスがノックした。
「どうしたんですか、ルーベンスさん」
「誰も書斎にいないと思ったら、今日はリシェルの部屋でお茶会?」
「今日は皆さん、お忙しいみたいですよ」
マリーベルとメアリアンは、メリッサの子ども達が荒らした部屋を片づけている。アルフリートは客が帰った後、難しい顔をしてうろうろ歩いていた。
子ども達は外で、枕を投げて遊んでいる。そろそろ飽きてきたらしく、声が小さい。そのうち戻ってきそうだった。
ルーベンスはいつも通り、テーブルに腰掛けて勝手にポットからお茶をいれ、クッキーをかじった。
外が明るい。室内には日向の匂いが満ちている。
「そういえばルーベンスさん、貴方はどうして伯爵のところへ来たんですか?」
「俺?」
クッキーを頬張りながら、ルーベンスはちょっと考えた。
「どうだったかなぁ……前にも言ったと思うけど、俺、それまで貴族とか王族の姫に仕えてたんだ。それはそれで給料もよかったし、暗殺者相手に、姫君を庇いながら戦うのとかも、まぁ面白いんだけど」
「面白いだなんて……」
「君は、そりゃよくないことだと思うんだろうけど。俺は剣の腕と顔で飯食ってたので」
「人の仕事を悪く言うつもりは、ありません。ただ、面白がるのはどうかと思っただけです」
「……俺としては、顔って言ったところに突っ込みを入れてほしかったんだけど」
妙な沈黙が下りた。
「えぇと。それで、姫君に仕えてると、装飾品として騎士も、賑やかな場所に連れて行かれることが、たまにあるんだよね。つまり、晩餐会とかパーティーに。その席で、何度かアルフリートを見かけた。それまで俺は、呪いとか魔法使いとか、あまり縁がなかったんだけど、あっちのほうが面白そうだなと思って、声をかけたんだ。何かあったら、雇え、って。売り込みって言うの? あいつも、魔法使いより、剣が使えるやつを探してたみたいで、結局、今みたいな感じになった」
子ども達が騒ぎながら、屋内に駆け込む。その音が徐々に近づいてくるので、ルーベンスは急いでクッキーを飲み込んだ。お茶も一息に飲み干してしまう。
「俺ちょっと、あの子どもの面倒見るのは無理!」
「ルーベンスさんは、いいお兄さんになりそうに見えますよ?」
「君、適当に言ってる」
テーブルから下りて、ルーベンスは戸口に向かった。そのまま行ってしまうのかと思ったが、ふと、真顔で振り向いた。
「君さ」
「はい?」
「……何て言うか……俺に、今までにない可能性を見いだそうとしてないか?」
「今までにないかどうかは、分かりません。無責任ですが、ただ言ってみただけです……不愉快でしたら、ごめんなさい」
「いや。いいけど。別に。屋敷によっては、騎士が子守までするとこもあるみたいだし……でもなぁ。子連れの奥様といろいろあったりした身の上だと、清らかじゃなさすぎでしょ」
リシェルは小さく息を飲んだ。
「ルーベンスさん、まさか、メリッサさんに手を出して――」
「出すわけないし! あの性格のお姉さんだよ、俺なんてけちょんけちょんにされるよ」
「あぁよかった……伯爵がこのままでは、眉間以外のどこに皺を作ったらいいのか分からなくなるところでした……」
「……君さ。何気なく、すごいこと言うよね」
呟いて、ルーベンスは気を取り直して部屋を出た。
*
子ども達は、走り回っていなければ、ごくごく普通の、大人しい子どもだった。その日の午後は、メリッサに叱られて、静かに勉強を始めている。
書庫の隣にある読書室で、リチャードとその姉、アンジーはうなっていた。リシェルも、球根の名前を引き続き調べている。
「ねえ、ママはパパとお別れしちゃうのかなぁ」
「リチャードは、それは嫌なのね」
椅子に座ったリシェルに、リチャードはへばりついた。
「もちろん! パパもママも、かっこよくて優しいもの。ちょっとばあやがうるさいんだけど……」
「何にうるさいの?」
「勉強。しろって……」
「それは言われるでしょうね」
笑って、リシェルは本を開く。
「歴史が苦手? それとも算術?」
「国語。古代何とか語とかさぁ、絶対要らないっての」
「絶対ってことはないのよリチャード」
アンジーが顎を上げた。
「魔法使いの端くれなら、端くれらしくまともに学問しなくちゃ!」
「してなくちゃ、っていうのは苦しいことのように思えるわね。昔の言葉を学んだら、古い歌も歌えるようになるのかしら?」
「……? そうかも?」
「歌で魔法を編んだりもできる?」
「できるけど」
「そうやって、いろいろな場面で役に立つかもしれないことを、この可愛らしい頭に詰め込んで、活かしていくのね」
頭を撫でられ、リチャードは「えへへ」と笑み崩れた。アンジーがため息をつく。
「ばっかみたい」
「アンジーだって、とっても賢いわ。貴方化学は得意? 調理場の給湯レンジを直してくれたって、料理担当のジョシュが言ってたわ」
「化学じゃないし!」
反射的に怒鳴り返しながらも、ちょっと照れくさそうである。
読書室は再び、静かになった。たまにリチャードがうめいている。
球根が、どこかの階で笑い出した。遠いらしく、あまり破壊力はない。
本から顔を上げて、リチャードが手を叩いた。
「そういえばさ。僕、学校でスウェアっていう花を育ててたんだ。うちがスウェア家だし、いいなって思って。枯れちゃったけど」
「まぁ。それは残念ね」
「そのときに、クラスの子にすっごくバカにされてさ。バカな悪魔のリチャード・スウェア、って、はやしたてられたんだ。昔話に出てくるそいつと、同じ名前だからさぁ。普段は、そういうことでからかわれたりしないんだけど。で、これって、役に立つ?」
リチャードは、いたずらっぽい目でリシェルを見上げる。
その、意味に気がついたリシェルは、
「そうね……試してみましょうか!」
力強く微笑んだ。
リシェルは急いで球根を探した。球根の声を頼りに、進行方向を読み、先回りする。部屋のドアを開け、埃臭い中を歩くと、そっと隠れた。
リチャードもついてきた。危ないからと、アンジーはルーベンスを呼びつけて、一緒に連れてきた。
球根が隣の部屋を荒らしている。物音が近づいてきて、全員、不安と緊張で黙りこくった。
突然、球根が室内に駆け込んだ。
人間に気がついて、大声で笑い始める。
「さあおまえを食ってやるぞ!」
空中に、花瓶やテーブルが舞い踊る。それらは風のあまりの強さに、絨毯に落ちることができない。
ルーベンスが剣を抜くか躊躇い、球根を睨みつける。リチャードはルーベンスの上着の裾を掴んで、半分、宙に浮かんでいた。アンジーはリシェルの後ろで尻餅をつく。
息もつけない風の中、リシェルは、舞い上がろうとする椅子の足を掴み、引き寄せる。その陰から、声を張った。
「貴方の名前は、リチャード・スウェアよ!」
荒れていた風が、ひときわ、咆吼のようにとどろいだ。
球根は、悔しげに騒いで窓を壊し、やがて前触れもなくかき消えた。
「……、静かになった?」
球根の笑い声も、物音もしない。
「僕、だめかと思った……お姉ちゃん、すごいや、ありがとう」
ルーベンスの上着にしがみついたままリチャードがそう言った。リシェルのスカートを掴んでいたアンジーも、我に返ってリシェルから離れた。
「あーあ!」
ルーベンスがため息をついた。
「頑張ったなお前!」
ぽんぽんとリシェルの頭を撫でる。リシェルは、ルーベンスが初めて素の顔を見せた気がして、不思議な気がした。
「お前はすごいなぁ……!」
「何ですか?」
ルーベンスの手放しの賞賛を受けて、リシェルは首を傾げた。
「俺は、球根をぶった切るつもりで来てた。だけど。お前は、昔話の通り、名前を当てるだけであいつを追い払ったんだぞ? よく面倒くさがったり、さぼったりしなかったなぁ」
「面倒くさがったりさぼったりも、してましたけれど……でも、名前が見つかってよかった。リチャードが昔話を思い出して、教えてくれたおかげです」
お茶を飲んだり、庭で日向ぼっこをしたり、外出して友人に会ったり、友人へのお見舞いの品を実家に頼んで、送ってもらったり、十分すぎるくらい、さぼっている。
「いやぁ……俺が仕えてたお姫様っていうのは、何が起こっても人のせいにしてさ。自分ではそういう、君がやった名前探しとかそれに類する努力なんて、一切しなかったし」
「お姫様は、他に仕事があるでしょうし。私はそういう身の上でもないから、……居候の身ですからできることは自分でやりたいですし」
リシェルは真面目に答えたが、ルーベンスはばんばんとリシェルの背を叩いて、馬に対する感じで褒め続けてくれた。
球根が消えて、城内は(夜中の)静けさを取り戻した。
(よかった!)
ただ、昼間は球根の代わりに、メリッサの子ども達が暴れ回った。木を抜こうとしたり絨毯をはがしたり、相変わらず、かなりの狼藉ぶりであった。
騒々しさに疲れもする。だが、子ども達とお茶を飲んだりしていると、どことなく穏やかな空気が漂うようになっていた。
「これでもう、大丈夫ね」
「全然! 大丈夫でも何でもないわ」
ぼんやりと呟いたリシェルに、アンジーが表情を険しくした。
「いいこと? ここは怖いお城なのよ。貴方みたいな素人がいたら、危ないんだからっ」
「そうねぇ」
確かに、球根の事件といい、ただの人間である自分では、うっかりすると死んでいたかもしれないのだ。
「……よかった、球根の名前を当てられて。ありがとうリチャード」
「うん! 僕も、役に立ててよかったー」
「そういうことじゃなくって」
アンジーは焦れて、カップを小刻みに揺らした。
「伯爵も、対策を考えてくださっていたのだもの。もし名前が分からなくても、きっと安全に、球根を追い払えたでしょうね」
「そうじゃないったら」
「アンジーのおこりんぼー」
「リチャード!」
横槍を入れた弟に、アンジーは拳をお見舞いした。
「お姉ちゃんがぶった!」
「ぶってない!」
「今のはアンジーが謝るところだと思うわ」
「だってこいつが!」
「アンジーは叩いたことを謝る。リチャードは、アンジーに言ったことを謝る」
顔を見合わせた姉弟は、ほぼ同時にため息をついて、肩をすくめた。
「めんどくさっ」
リチャードが席を離れ、廊下へと駆けていく。
「照れ隠しなのよ、あいつったら」
「アンジーも?」
「……そういうこと言うんじゃないわよ、恥ずかしいったらないわ!」
「ふふ」
リシェルはおかしくなって笑う。くすぐったい気持ちで、胸がいっぱいだ。
「そうそう……これをね、渡そうと思ったのよ」
気を取り直して、アンジーが鍋敷きのようなものを取り出した。
「あげる。別に、あんたのために作ったんじゃないからね。暇だからやっただけで」
「これは、ティーポットを乗せたらいいの?」
「花瓶でも何でも、好きにすれば」
丸い敷物は、かぎ針編みらしく、目が粗い。赤紫と白の糸が、幾何学模様を描いていた。
「とても器用ね、これは何の模様?」
「魔法陣が入ってる。いざとなったら、これが魔除けになってくれると思うわ」
「ありがとう、大事にするわね!」
リシェルは、ぎゅっと編み物を握りしめた。アンジーに抱きつくと、アンジーはやだもう何考えてんのこの人、と言いながらも大人しくしていた。
「貴方達がいなくなったら、とても寂しくなると思う」
リシェルは思わず呟いた。
それに合わせたように、午後、客人が訪れた。
子ども達の父親だった。
「おおメリッサ……! 私が不在の間に、なぜ、なぜ家出なんかしたんだい……! 胸が張り裂けてしまうかと思ったよ……!」
その男性は、鼻の下辺りにちょろりとしたちょび髭を生やしていた。彼はダンディさをかなぐり捨てて、劇役者のように玄関前の階段に倒れ込んだ。
「メリッサ! ここにいるのだろう私の女神!」
異様な光景に、最初のうちこそ使用人達も集まって見ていたのだが、やがて「いつもの人だ」「たまに見る人だ」と呟いて散っていった。
「メリッサ!」
「ハイハイ」
メリッサが、来たときと同じ簡素な服装で、音高くドアを開けて玄関先に現れた。
「迷惑よ、ハニー」
「メリッサあぁああー!」
「はいはい、帰るんでしょう? 帰るわよ!」
子ども達を呼んで、メリッサは屋敷の前の階段を下りる。子ども達はそれぞれ、荷物を持って現れた。父親が連れてきた使用人達も、慌てて駆け寄り、城の使用人から鞄や道具を受け取った。
「じゃあね」
見送りに出たリシェルに、メリッサは盛大に片目をつぶって見せた。
「あぁそれと」
メリッサは、夫を振りほどこうとしたができず、引きずって屋内に戻ろうとした。リシェルは「ご用ですか?」と彼女に近づく。
「あぁリシェル。元気でね。分かってると思うけど……灰髪って知ってるわよね? あいつには気をつけて。この城に、アズライルの魔力が残ってる。貴方にもね。嗅ぎつけられてると思うから、気をつけるというよりは、死なない努力をするように」
「そんな、物騒な……」
「あり得なくはないのよ。残念ながら。私はもう出たけど、ロス家は、呪いのおかげで栄えてきたから」
「でも、どうして私が……その方に、何かされたりするんでしょう?」
一瞬、メリッサが真顔で、リシェルの目を覗き込んだ。
「可愛い子ぶってるわけじゃなくて、本当にそう思ってるのね?」
「私は……魔法に関しては、ほとんど関係がないはずです」
「あいつは弟を見殺しにした。その、弟が、貴方に関係しているなら、……また何かしても、おかしくはないんじゃないの?」
確かに、あの灰髪の紳士のことを、リシェルは数度目撃し、怖いと感じている。でも、彼がリシェルに敵意や底意を持っているからではなくて、なぜかその存在自体が怖かった。
「私の知っている灰髪は、人や獣を殺して、その恨みを使って魔法を行うような奴。それでいて人間としては紳士のそぶり。社交界でもお嬢さん達からの人気がすごい……分かる? 最低なのよ」
「メリッサー、帰ろうよー」
「分かってるわよ」
メリッサは足下の夫を一蹴りすると、リシェルを撫でて微笑んだ。
「じゃあね。気をつけて」
「メリッサさんこそ、お気をつけて」
不安にかられて、リシェルはメリッサの手を取った。メリッサは余計に笑い出して、「貴族としての身分とかスポンサーとかのことを考えたら、あいつは私を殺したりしないわ。魔法の使える、アンジーやリチャードもいるし。魔除けに関してはおばあさまから貰ってるの。心配しないで!」
あっさりと、馬車に乗り込んでしまった。
*
伯爵が問い合わせた職人から、申し込み商品が整ったとの知らせがあった。
メアリアンが使者として選ばれた。伯爵の姉と子ども達が行ってしまった直後なので、リシェルもちょっと寂しさを覚えた。
「絶対に外に出てはいけませんからね。知らない人についていかないように」
柳眉を逆立てて、メアリアンはリシェルに言い聞かせた。
「メアリアンは、数日で戻ってくるんでしょう? 大丈夫よ。しばらく出かける予定もないし、部屋と書庫を行ったり来たりして、天気の良い日には畑を耕して過ごすから、心配要らないわ」
「知らない人を入れないように。玄関を開けてはいけませんよ!」
「メアリアン。お城に来る方は、伯爵のお客様。私の知らない人もたくさんいらっしゃるから、玄関を開けないわけにはいかないわ」
「許しません!」
ひし、とメアリアンはリシェルに抱きつく。玄関先には黒塗りで家紋の入らないタイプの馬車がある。リシェルは、御者台の人が目隠ししているのが気になった。
「はいはい、さっさと行け行け」
ルーベンスが、近くの窓から手を振った。メアリアンはリシェルを離さず、ルーベンスを睨みつけた。
「ちゃんと働きなさいよ、ぼんくら剣」
「俺、剣じゃないし。暗殺者とか来てないから特にすることないだけで。無能呼ばわりはないよな!」
「今のところその剣は飾りになっているじゃありませんか! 役立たず。奥様に何かあってみろ、本当に二度と立たなくしてやる」
「あっは、早く行けば?」
メアリアンはもう一度リシェルを抱きしめ直すと、意を決して、バスケット一つを手に、しずしずと馬車に乗り込んだ。
「お姉ちゃんみたい」
ふふ、とリシェルが笑いをもらすと、
「お姉ちゃんっていうか、姑の、嫁猫かわいがりバージョンみたいだな」
ルーベンスがやれやれと首をすくめた。
*
ここは住みづらい。息苦しい。
一つきりの目を瞬き、ソレは闇から這い出した。
どこだ。どこへ行けばいい。おれはそれを知っているはずだ。
四つ足で、地面を蹴って歩く。
仲間達は、失敗した。
数匹で、呪いの材料にされて、命じられた通りに行動して――そして死んだ。呪いをはね返されて、呪いに蝕まれて死んだ。
――これはチャンスなのだと、魔法使いはしたり顔で言っていた。うまくすれば、お前は死なずに済むのかも知れない、と。
とんでもない。
一つ目を瞬いて、痛む足を引きずって歩く。
きっとすぐに、返り討ちにあう。
夜更けの石床は冷たくて、こわばった身にはひどく堪えた。
仲間達が死んだという知らせの前に、この城に潜んで、隠れ蓑となる騒動の間はずっと、静かにしていたけれど。
このまま、死んでいくのだろうか。そんなことばかり考えていた気がする。
穏やかな、日差しの降り注ぐ島に、帰りたい。潮の匂いが懐かしい。
郷愁が頭をもたげるにつれて、むくむくと、黒い怨念が胸に湧いた。
許せない。
命じられた通りにすることが、できれば、出ていけるのに。
許せない。
それを阻む、全ての物事が。
歩いていると、不意に眩しい光が、目を射抜いた。驚いた。ドアが開き、そこから明るい光が射していた。そして、金色の髪の少女が、緑色の目をぱちぱちさせて、廊下にいるこちらを、見つめていた。
(ころされる)
心臓が吹き飛んで、どこかへ逃げていったような気がした。倒れたその身を――少女は少しだけ逡巡すると、自分の部屋に引き入れた。
*
「大丈夫?」
最初、リシェルは、その生き物が、先日馬車にひかれかけていた竜なのかと思っていた。
でも、これは「別人」だ。この生き物は、鱗と羽と、鋭い牙や爪を持っていた。そして、目は頭に一つきりで、とても大きなものだった。
瞬膜を瞬かせたきり、一つ目は硬直していた。
「どうしておれをたすける」
「どうして? ……どうしてかしら。貴方は、城の人やものに、悪さをするような生き物ですか?」
「する。予定だ」
「しない、というのも、できるんじゃないですか? いきなり暴れたり、飛びかかってきたりしないし、貴方は私と対話ができるみたいだから……考え直して、悪さはやめにしませんか?」
「悪いことをする。予定だ」
一つ目は言葉を繰り返した。予定だ。予定だ。
(それをしたくないのね)
リシェルは考えて、それから、一つ目を籠に入れたまま、ベッドの下にそっと隠した。
「貴方の気は、そのうち変わるような気がします。元気になったら、そっとでいいから、元いたところへ、帰ってね」
「それはむりだ」
一つ目はもごもごと何か言っていた。リシェルは、食べられるかしら、とパンと飲み物を籠の横に置いて、慌てて外へ飛び出した。*
アズライルは悩んでいた。
ばかばかしいことに、リシェルは毎日、日記をつけていて――その全てがアズライル宛のものだった。ついに根負けして、返事を書いてやったのだが、リシェルの喜びようはすさまじく、「やった!」と数ページに渡って書かれてしまい、アズライルは後悔もしたのだった。……そして今、アズライルは迷っている。
ぐっすりと眠っているべきベッドに、リシェルの姿はない。アズライルがその体を借りているから、当然だ。
ベッドの横には、リシェルの友人がくれたネックレスと、伯爵の姉の子がくれた編み物が飾ってある。
そしてベッドの下に、妙な生き物がいた。
(この辺りのものじゃない……そして何かに呪われている)
解呪は、アズライルの得意分野ではない。
アルフリートに相談しなくてはならない。だが、これを知れば、アルフリートは勿論、これを殺すか捨てるかするだろう。
リシェルは日記に、この子を助けたいと書いていた。
(別にどうでもいいのだが)
と思いつつも、アズライルは悩んでいた。
そして、
(いざとなれば、私がリシェルを守ればいいか……)
ひとまず危険がなさそうなので、結論を先延ばしにした。
「遅かったな」
書斎につくや、そう言われ、アズライルは顔をしかめた。
「毎回同じ時間に出てこられるものか! こっちは死んでいる身なんだぞ? 働かせるな、罰当たりめ」
「さて、リシェルに与える防御について、続きを考えようか」
*
一つ目は困っていた。すぐ見つかって殺されるはずだったのに、一つ目はまだ、生きている。
金色の髪の少女は、一つ目を、使用人達から隠し通していた。
伯爵は外出している。
どうしたことか、誰も一つ目のことに気がつかない。
「貴方、何も食べないでいて、大丈夫?」
少女の発言は、慈悲深いとも、愚かともとれる。
じっとうずくまって、一つ目は考えた。
どうして、温かい掌で撫でてくるのだろう。どうして、撫でられたところが、気持ちよくなるのだろう。穏やかな気持ちになる。目を細めて、うたたねさえできる。
この状態が間違っている、ということは、一つ目には分かっている。
この少女を殺したら、自分は自由になれるだろうか。それをずっと、考えている。
*
リシェルはちょっとだけ迷っていた。
(あの子を匿ってから、特に異変は起きていないわ……でも、伯爵に黙っているのも、よくないし……)
夢の中、リシェルの目の前の青年は、いつも通りに寝そべっている。リシェルは彼に話しかけた。
「ねぇリュウ。やっぱり、こんなことは危ないかしら」
「何が?」
「竜によく似ている、一つ目の生き物のこと」
「あぁ。この間言ってたね」
あれは、床に据え付けて飾る大きな花瓶と同じくらいの、竜のような生物だった。
「匿っていて、安全かしら」
「安全じゃなかったら、捨てるの?」
「安全じゃなかったら、その子が安全に暮らせるところへ、つれていかなきゃ」
「……、君の身が安全かどうか、じゃなくて? その、一つ目の生き物の身を心配してるの? 君、ばかなの?」
「何、その言い方……」
さすがにリシェルは傷ついた。するすると、柔らかい口調でリュウは続ける。
「ばかでもいいよ。君がそんなだから、僕はまだここにいるんだし。ところで、僕は夢の中にいるから、現実のことは分からないや。君に取り憑いて暴れてたけど最近仲良くなった人って、いたよね? その人に聞いてみたら? 死んでるとはいえ、現実に居る存在なんだし、役に立つかも」
「そうね……」
アズライルとは、日記を介して「会話」できるようになったのだが、今回の件に関しては、特別何も書いてこない。
それもまた、ちょっと不安ではあった。
「聞いてみる」
「うん。でもまぁ、僕は、その生き物のことを歓迎できない」
「どうして?」
「どうしても」
リュウは目を閉じて、そのまま寝てしまった。
*
「メアリアンは元気にしているかしら」
昼間、リシェルは、閑散として見える自室で、ため息をついた。目の前でマリーベルが、使い終わった茶器を片づけている。
「伯爵が防御魔法を施しているんですから、無事に決まってますよ! まぁ、本人の気持ちは、不安もそりゃああるかもしれませんがねぇ」
「どういうこと?」
マリーベルは、しまったな、という表情をしたが、すぐに気を取り直した。
「本人のいないところでお話するのもなんですけれど……以前、メアリアンは、ロス・エルス本家に仕えていました。ご存じと思いますが、本家には魔法使いばかりいる。その中で、魔法を持たないメアリアンは、人の扱いうる武器を用いて、窮地を切り抜けてきたそうです。けれど、魔法で八つ裂きにされるような目に遭い、魔法使いを、無意識に恐れてしまうようになりました。幸い、傷は残っていないようですけれど」
八つ裂き、という言葉で、リシェルは青ざめて固まった。
それほど酷い目に遭った――それで、アズライルがルーベンスに取り憑いたとき、動けなくなっていたのか。
「ひどい……」
「もう、きっと大丈夫ですよ! アルフリート様が拾ってくださって。ここはあの子や私のように、魔法と無関係の人間でいっぱいです。楽しそうに、リシェル様のお世話をしているじゃありませんか! さぁさ、元気を出して。私ったら、余計なことを言ってしまいましたね」
マリーベルはリシェルの背を、厚い掌でごしごしと撫でた。
「大丈夫ですよ」
「そうだといいと、思います」
そのような中で、あの生き物を匿っていることは――やっぱりまずいことかもしれない。魔法と魔法使いについては、危険がつきものだろうから。
実際、ときおりだが、ぎらりとした殺気を感じることがある。
茶器が片づけられ、他の者も出ていった部屋で、リシェルは何となく振り返る。
先日、熊のぬいぐるみを作ったが、アズライルに「要らない」と拒否されたので、今度はそこそこ手足の長い人形を作っているところである。
(……?)
特に異変はない。
リシェル以外に、室内には誰もいない。だが、気配はする――一つ目の生き物が、ベッドの下にいるからだろうか。
不安が点々と、リシェルの胸に足跡をつけていった。
*
数日が経過して、メアリアンが戻ってきた。
「あぁもう大変でしたよ! 簡単な仕事でしたけれどね」
矛盾したことを言いながら、メアリアンはショールを外した。外の匂いが室内に流れ込む。使用人達は、おみやげの菓子を貰ってきゃあきゃあ喜ぶ。
「さてリシェル様。ご機嫌はよろしいですか? 変わったことはありません?」
「元気よメアリアン。貴方も、無事でよかった」
「当然です。いかなる妨害工作も、私には通用しませんよ。魔法関連の嫌がらせなんて、伯爵の公用車に乗っている私には効果ありませんし」
すぐに支度しますね、と帰ってきたばかりなのにメアリアンは仕事をする気満々である。
(……私、何か忘れてる)
「あっ」
「どうかされました?」
リシェルは何でもないのとぎこちなく言い訳して、メアリアンが部屋に来るまでに、一つ目をどうにかしなくては、と思案した。
*
「というわけなの。ごめんなさいね」
リシェルは、使われていない部屋に、その生き物を移すことにした。
説明を聞いていた生き物は、随分衰弱した手足を、小刻みに震わせた。
「……なぁ」
「はい?」
「……おれはおまえをころせないんだ。どうしたらいいんだ」
ほろほろと涙をこぼし始めた生物に、リシェルは慌てて手を差し出す。撫でながら、
「じゃあ、殺さなくてもいいと思うわ」
「そういうわけにはいかない。おれは、このしろで、いちばんつよいものをころすように、命令されている。……森でねていたら、捕まって、そういうふうにのろいをうけた」
「いちばん、つよい……」
「なのに、どうしてだ? どうしておれは、いちばん、魔力もない、体力もない、たたいたらつぶれてしまうような、かんたんなつくりの女の子なんかに、かかわりあって時間をつぶしているんだ?」
「……私が貴方を、部屋に隠したのがいけなかったの? 貴方を苦しめているの?」
「そうじゃない。いや、そうかもしれない」
がたり、と扉が開く。
「何です! ……これ」
メアリアンが戸口で大声を出しそうになり、リシェルにジェスチャーで指示されて息を潜めた。それに気づかないようで、透明で大粒の涙を転がり落としながら、一つ目の生き物は呟いた。
「おれは寿命をすわれてる。このまま、のろいをかけてきたやつにやられて、しぬのはいやだ。けれど、このしろの、誰のことも、ころしたくない。ころすのはいやだ」
「呪いを、解けるかもしれない人がいる。だけどその人は強いから、貴方は我を忘れて襲いかかってしまうかもしれない……」
呪い、というもののことが、今一つ分からないけれど。
この子を苦しめている。命を削っている。
人を、傷つけさせようとしている。
「どうして、おれは、おまえのことをころせないんだ」
「一番弱い者が、一番強いんですよ。どうしてそういうことを、分からないものかしら」
それまで黙っていたメアリアンが、リシェルと会うまで思っていなかったことを言う。
「弱さにも強さにも、種類ってものがあるんです。人を守れる、つよさが、弱い者にも宿っている」
満ち足りて、メアリアンは笑みをこぼした。
「それは、母や父にも似ている。客観的に強かろうと弱かろうと、子にとっては彼らはつよいものですよ」
「母」
ぽつりと、一つ目の生き物は復唱した。
「おぼえはない」
伝わらないか、とメアリアンが少しがっかりする。だが、
「仲間はいたけれど。……しらないものを、おれは、あたえられていたのか」
ぱち、と、一つきりの目を瞬いて、彼は言った。
「じゃあ、もう、いいや」
その声が、ぐにゃりとぶれる。光の中にほどけて、姿がかき消えてしまった。
「あっ……」
「魔物はいつも、唐突にいなくなりますねえ」
メアリアンの声に、リシェルは、違う、と首を振る。
あの球根のように、去っていったのではない。
あの子は、きっと、永遠に。もう――。
涙をこらえて、リシェルは空になった籠を睨みつけた。
「どうしたんです奥様!」
泣きたい、でも泣けない。もういいや――あの子の言葉が、胸を強く締め付ける。
どうにかしてやれなかった。悔しい。
「……泣いてもいいんですよ奥様……。気持ちを通わせた相手なんだったら、いなくなって悲しいのは、当然です」
メアリアンが優しい言葉をかけてくる。
リシェルは結局、声を上げて泣いてしまった。