第二章-3
*
帰宅後、リシェルは伯爵に、外出許可と、供をつけてくれたことのお礼を言いに行った。
旧友と楽しく話せた、と告げると、しばらく間をおいてから、アルフリートは、「ふむ」と呟く。
「その首飾りは、友人がくれたものか?」
「はい。あったほうがいい、と。魔除けだそうです」
リシェルは嬉しくて、えへへ、と笑う。アルフリートは真顔で、言葉を続けた。
「子ども騙しのものではあるが――礼をせねばな」
*
アルフリートは、青い、不透明な石がついたネックレスを使用人に預けた。リシェルが貰ったものよりは力が大きい。
「いいよいらないよ!」
と、オルガノは言ったけれど、渡さないと伯爵に怒られる、と使用人にごねられて、渋々ながら受け取った。その際、
「リシェルも愛されてるなぁ……」
と呟いた。
*
ベッドの上に仁王立ちして、アズライルは考える。テーブルの上に何やら怪しげなものがある。いつもの(最近の日課になっている)リシェルの日記。ペンとペン立てとインク。花瓶。そして、べろんとした布束と裁縫道具の入った箱。設計図があるようだ。リシェルは何をするつもりなのか。
「……深くは考えまい」
呟いて、テーブルから視線を外し、闇に目をこらす。
ことことと走り出す球根の気配。決して室内には来ないで、排気穴や廊下を伝って、城の中を逃げ隠れしている。
「あと七日……ねぇ……」
期限寸前に、あの男が簡単に球根を握りつぶすだろう。それまで、球根について調べていることも、アズライルには分かっている。
だが、あいつは言ったのだ。
芽吹かせて刺激したお前が、何とかするべきではないかと。
無論、生前であれば、あんなものの始末、アズライルにとっては造作もない。
ただし、今は、見知らぬ他人の体を借りていて、細かな魔法の調整がうまくいかない。だから滑稽な劇を繰り広げているだけのことだ。
(多分な)
「よし、見つけた」
リシェルは昼間、外出などしていたから、疲れていて体が重たい。舌打ちをこらえて、アズライルは城を歩いた。
*
「呪いがいくつか」
呟いて、アルフリートはステッキで石床をなぞる。城へと渡された呪いは、外壁を伝って流れ落ちた。地面につく寸前で止まっている。
いくつか呪文を選び、一つずつ解除して、アルフリートは目を細めた。
「今回選ばれた「生贄」は、命までは取られなかったようだが……恐怖と恨みを利用されたらしいな」
こんな小手先の技で、何を試しているのだろう。
「挨拶代わりか?」
相手は、最初から全力でかかってこない。大型の肉食獣がじゃれるようなものだ。
目的が読めず、アルフリートはこの夜、幾度目かのため息をついた。
*
何だかだるい。眠ったはずなのに疲れが取れない。
「……アズライル様かしら」
彼は(リシェルの体を借りて)頑張っているようだが、球根はいっこうに捕獲されない。
朝食後、リシェルは眠気をこらえて、書庫へ向かった。
「いっそ私が昼間も眠ってしまえば、アズライル様も手を打ちやすいんでしょうけれど」
あまり長時間体を占拠されるのは、やはり怖い。自分が自分でなくなって動く、というのは、本能的に、どうしたって不気味なことだ。
ということで、リシェルはリシェルで、球根に向き合うことにした。
「名前、名前」
書庫に行き、絵本や辞書を引く。魔物が、名前さえ当てれば取ったものを(食べ物であるとか)返す、というくだりを選んで読んだ。
「夜中、晩餐をしているところに、こっそり近づいて、酔って名前を歌っているのを覚えて帰る……球根は歌ってはいるみたいだけど、とても聞いていられないわ」
すさまじい笑い声を思い出し、リシェルは身震いした。
「次。小鳥達が、悪魔の名前を呼びながら歌っている」
リシェルは窓の外を見やった。書庫には窓がなく息苦しいので、書庫の隣にある読書室で読んでいるのだが――小鳥の姿は見えなかった。
「まぁ、小鳥の言葉が分かるなんてこと、生まれて十六年間、一度もなかったもの……」
次だ。次の本をめくる。
ふと、思い出した。
「聞いてみたらいいのかしら?」
球根に。あるいは、球根を売った店主か、球根を栽培していた生産農家の人に。
「でも、魔物の球根なんて、そのつもりで育てたり販売していたわけでは、ないわよね?」
球根としては、何の花の球根を真似ているのだろうか。
「フリージア? それともチューリップ?」
青みを帯びたカタマリは、どんなものにも似ていない。強いて言うなら、ルーベンスが前に言っていた、タマネギに似ている。
「あれは……タマネギさんなのかしら?」
「それはないと思います奥様」
昼食の準備ができたので呼びに来たメアリアンが、戸口で神妙に突っ込んだ。
昼食の前のことだった。早馬が来て、慌ただしく知らせを置いて去っていった。
リシェルは何事かと胸を騒がせる。伯爵に呼ばれて、その感を強くした。
(一体何があったのかしら……)
――昨夜、オルガノ・クラウツは居酒屋に飲みに出かけた。帰りがけに、野犬のような獣、に襲われた。ずたずたに引き裂かれた男女数名とともに、意識もなく、溝に落ちていたという。
全員傷だらけではあったが、幸い、一命は取りとめた。
知らせを受けて、リシェルは口元を押さえて青ざめた。オルガノがどうにか生きている、そのことには、ほっとした。けれど、どうして野犬が出たのだろう。治安もよく、犬はたいてい、飼われていて、管理されているのに。
考え込んでいたアルフリートは、ふとリシェルに水を向けた。
「友人に会ったとき、何か、変わったことはなかったか?」
「……変わったこと」
そういえば――いらない心配をさせたくない、と、敢えて言わなかったことがある。
(大したことではないかもしれないし)
と悩んだが、アルフリートの闇色の瞳でまっすぐに見つめられると、つい、話してしまいたくなった。
(でも……あの紳士は、オルガノじゃなくて、私に話しかけてきた)
リシェルは別のことを口に出した。
「お見舞いに行きたいんですが」
「今は駄目だ。調べさせているが……なぜ彼女が襲われたのかが分からない。言づてと、見舞いの品であれば、メアリアンに頼め。アレのほうがお前よりは数倍、強い。外出させても無事に戻るだろう」
「確かにメアリアンは、前のお屋敷でもボディガードみたいなことをしていたようですけれど、危ないかもしれないときに敢えて外出させるというのはちょっと……。私の友人相手なんですから、私が行きます」
アルフリートはため息をつき、わざとらしく眉をひそめた。
「では、球根の件はどうする」
「えっ、それは、ちゃんと、調べています」
「私も調べてはいる。お前には言わなかったが、刻限の日についてアズライルが球根から聞き出したので、その日まではできれば大人しくしているように。何が起こるか分からないからな」
「期限があるんですか?」
急に不安が増したリシェルに、アルフリートは再びため息をついた。
「大丈夫だ。球根を壊したり閉じ込めたりすることは簡単だ。ただ、アレの目的と、ここに来た理由が分からない。だから泳がせている。使用人達には悪いが……だから泣くな」
「泣いてません!」
びっくりして、リシェルは目を見開いた。
「さっき、オルガノのことを聞いて涙が出ただけで! 球根については、自分でも、何とかします。私が新しい球根を仕入れてほしいって頼んだせいだし、泣いても何にもなりません。だから、そんな、……困った顔なさらないでください」
「困る? そうでもないが」
面倒なだけで。とアルフリートは言って、何となくいろいろなものを台無しにした。後ろで、耳当てを外して首にかけていたマリーベルが、あぁもう、と悔しがっている。
「しかし……こう立て続けに事件らしい事件が起こるとはな。本当に、友人と会った際に、何も異変はなかったのか?」
リシェルが先程の質問に答えなかったので、アルフリートは疑っている。リシェルはやむなく、口を割った。
「いえ、特には……、あの、彼女のことではないんですけれど、ちょっと気になることが」
「何だ?」
「全く、関係がないことかもしれませんが……、オルガノの宿の前で、風変わりな紳士を見かけました。冬曇りの空のような灰色の髪で、シンプルな格好でした。とても……貴族の方のようで。洗練されて……」
そして。
完全に主観であるため、発言を躊躇う。
「……とても、恐ろしい方だと、思いました。少しだけお話をしたんです、すぐに、いなくなってしまったけれど」
「灰髪」
呟いて、アルフリートは不意に笑みを広げた。普段不機嫌そうな人が、悪意さえ感じるほどの笑みを浮かべることに、リシェルは背筋がぞくりとした。
「なるほど? 分かりやすい尻尾を見せて挑発しているわけか」
「犯人に心当たりがあるんですか?」
リシェルには分からないが、アルフリートは何かを掴んだようだ。いくらか声が明るくなった。
「「何」の犯人だ?」
「……、オルガノの件です」
「それ以外についてもまとめて調べよう。おそらく、私への嫌がらせだ」
「嫌がらせのために、他の人を傷つけるんですか」
「そういうものだ。私は、形だけであれ、この街の領主だ。領土内で起こったいざこざは、領主の力不足のせいだと言われることになる。本件は、私の「無能ぶり」を露呈するためのものだ。全く。城の「封印」と女王からの「宿題」だけでは済まされないところがロス家の分家の辛いところだな。何しろ本家からはいつも敵視されるわけだし。面倒でかなわない」
リシェルがじっと見つめているので、我に返った伯爵は咳払いして愚痴を取りやめた。
「ともあれ、城を出るな。お前は「訳あり」で城に居る。もともとここに居たわけではないのだから、わざわざ巻き込まれることはない」
「もう巻き込まれています」
「だとしても」
「心配してますって一言言えばいいのにね」
ルーベンスが室内に入ってきた。アルフリートは眉間に皺を刻む。
「何だ。どこへ行っていた」
「外」
簡潔な回答をしたその手には、血まみれの何かが握られていた。
息を飲んだ者達に、ルーベンスが急に慌てた。
「えっ? これ血じゃないよ、ジャムだから!」
「嘘をつけ」
「嘘じゃない! リシェルんちのジャムがおいしかっただろ? コックのマーチが張り合って、リシェルんちに送るトマトジャムの瓶詰めを作ってたんだよ。俺は手伝ってたわけじゃないんだけど、ヤジを飛ばしてたら襲撃された」
「襲われたんじゃないか」
「だから。血じゃないって。球根が黙って飛びかかってきたから、剣で端っこを切り落としたんだよ。あいつ、ものすごい叫び声を上げてさ。おかげで瓶は割れるわ、マーチは気絶するわ……ほんと散々」
「で、ソレは何だ」
「切り落とした球根の足」
なるほどそれは、トカゲか何かの足に似ていた。
「球根に、足が生えていたんですか……?」
呆然と呟いたリシェルに、
「っていうか、球根って便宜上呼んでるけど、魔物だろ。足があってもおかしくないと思う」
ジャムまみれになった球根の足をテーブルに投げて、ルーベンスは首を傾げた。
球根は荒れ狂った。これまでは、閉まっているドアを開けることができなかった。だが足を切られた怒りのためか、ドアをぶち破り、多くの部屋に侵入した。
さすがに「扉」のある棟は、伯爵が厳重に戸締まりをしたが、壊されるのも時間の問題のように思えた。
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「いつまで夜中に会議をするつもりだ?」
ペン先を紙に叩きつけながら、アズライルは顔を上げた。アルフリートは質問に対し、いささかずれた返答をした。
「いつまで、とは?」
「貴様は昼間、女王から受けた「宿題」をいくつも解かねばならないだろう。領土内の具合も見て回らなければならない。夜中の会議も、こうもたびたびだと、特に得るものがないし、体にも響く。しばらく休まないか」
アルフリートは鼻で笑った。
「出歩くのがつらいのか? 私より年下だったはずだが」
「私は死んでいるからそんなに疲れることはないが、貴様の発言に気疲れすることはある」
そういう話ではなくて、とアズライルは話を軌道修正した。
「リシェルのことだ。本人の意識は眠っているが、体を私が使っているうちは、不完全な眠りだと思われる」
「あぁそうか。それでときおり、昼間に居眠りをする」
「……、貴様のそういうところが嫌いなんだ! リシェルはお前の家の人間なんだから、お前がきちんと目配りしてやれ」
「そういうところは、お前の兄にそっくりだな」
「兄上は関係ないだろう」
アズライルは話を逸らされて、ふてくされる。アルフリートは構わずに続けた。
「灰髪は元気にしているだろうか」
「知らない」
「では――リシェルに負担がかからなければいいのだな? 小瓶に入るか」
「お前は昼間、小瓶と会話したいのか? 私はペンも握れない」
「リシェルがぬいぐるみを作っていたな」
「テーブルの上に置いてあった。言っておくが、手足が短すぎる。ろくに魔法陣も扱えないのは困る」
ぬいぐるみよりも手足が長く、人が話しかけていても不自然でなく、動くのに支障のない、仮の体。
「難しいことを言う」
「何とかしろ。リシェルにこれ以上、負担をかけていいのか? 他の人間に取り憑かせるという選択肢もないぞ。「扉」に何人か使用人を入れて引き戻せば、一時的に私が憑けるかもしれない。だが、それだって危険なことには違いない。下手をすれば「扉」の向こうに吸収されて、出てこられなくなる」
「……あてがある。連絡して、在庫があれば、途中で襲撃を受けてもかいくぐれる者を使いに出そう」
「在庫……?」
在庫、ということは、それは「モノ」であるらしい。
アズライルは怪訝そうに眉をひそめた。
「まぁ任せておけ」
アルフリートはその話を終わらせ、本来の議題に移った。
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その日は朝から、不思議な物音がしていた。
しゃんしゃんと鈴の鳴るような。
リシェルは部屋を出てすぐに、遭遇したルーベンスに聞いてみた。
ルーベンスは肩をすくめて、
「魔法使いが来てるんじゃね?」
とよく分からないことを言った。
「良いお天気」
朝食後、部屋に戻る途中のこと。リシェルは廊下の窓から青空を見上げ、立ち止まった。
リシェルもそう身長が高いほうではないが、小さい何かに、腰の辺りに頭をぶつけられて転びかけた。
「!?」
(一体何?)
振り向くと、スカートにしがみついていた丸っこい掌と、リシェルと同じくらいびっくりして目をまん丸にしている子どもがいた。
「……お名前は?」
「僕、リチャード」
「どちらから来たの?」
「ママが喧嘩して家出したの」
案外しっかりとした口調で、少年は答えた。
「いつまで抱きついてるつもり、アンドリュー」
全く違う名前で少年を呼び、頬より上できりりと刈った黒髪を揺らして、少女が隣を歩き過ぎていく。
「ちぇ」
「貴方、アンドリューという名前なの?」
「どっちでもいいじゃん」
「よくはないけど」
「リチャード! アンドリューもしっかりしなさい!」
「はい」
少女に怒鳴られたリチャードが首をすくめた。彼の足下の影も、返事をする。
びくっとしたリシェルに、少年は肩をすくめた。
「お姉ちゃんは魔法を知らないんだ? 何で城にいるの?」
無駄口を利いている少年に、少女が冷たく声を投げた。
「この城には、魔法を使えない人のほうが多いと聞いてるわ。そこの人が、魔法を知っていても知らなくても、どっちだっていいじゃない。どっちみち、あたし達が異端なんだから」
「異端、って?」
リシェルが聞くと、まとわりついていた少年があぁ、と答えた。
「あのね、僕らは魔法使いんちに生まれたんだけど、ママの嫁ぎ先がフツーの家で、魔法を使うと魔女狩りされそうになるんだよねー」
「余計なこと言わなくていーの」
きゃああ、と楽しげな笑い声が階下から聞こえてくる。ばたばたとした騒々しい足音も。
「……ねえ、アンドリュー。リチャードでもいいけれど。貴方達は、どこから、何人でやってきたの?」
「ママを入れて……何人だっけ?」
少年はそこで視線を天井に流した。
「えぇー? 何人? ねえ何人?」
「子どもの数は十三人だけど、パメラほか五人はお父様の屋敷に残ったわ。学校があるから夫婦ゲンカに取り合ってられないって。お母様も、お父様が留守でつまんないからお出かけしてるだけなのにね、冗談の分かんない奴ら」
「冗談って分かってるから残ってるんだと思うけど」
リチャードが少女に言い返した。
つまり少なくとも八人の子どもと、その母親が来ているわけだ。
髪の毛を引っ張られながら、リシェルはちょっと困惑した。
それで――この子達はどこのおうちの子どもなんだろう?
「姉上」
騒がしくなった城で、眉間に険しい山脈を築き、アルフリートは口を開いた。
「何日滞在するつもりで?」
来るなとか子どもがうるさいとかいろいろな文句は尽きたらしく、それを言うのがやっとのようだ。
姉と呼ばれた人物は、とても華やかな女性だった。黒髪をかき上げて、風のように階段を駆け上がる。横顔も凛々しく美しい。すらりとしたパンツに、体にぴったりとしたシャツ。社交界などくそくらえと言いたげな簡素な格好で、けれど靴だけは磨き上げられた、ヒールの高いものだった。
「伯爵も、お姉ちゃんには勝てないものなのね」
と、玄関付近を通りかかったリシェルは思ったが、実際、彼女を目の当たりにすると、バラの茂みに突っ込んだように頭の中がくらくらした。
「あら! 貴方が弟の奥さんになってくれる奇特な人? 私はメリッサ! よろしくね」
彼女は出会い頭にそう言って、リシェルの片手を握り、肩を抱き、全身で嬉しそうに挨拶をした。
「こんな陰気な城に来てくれて、ありがとう! しっかし小さいわねえ何歳なの? 十六? あいつロリコンなの? 違うか」はきはきとした態度で立て続けに言う。リシェルが目を白黒させていると、さっさと別のところに向かっていった。
颯爽とした彼女が、ふと号令をかけると、どこからともなく子ども達が現れて、彼女の後をついていった。
*
子ども達は、一日中いたずらをした。
使用人はスカートめくりをされたし、絨毯はあちこちではがされた。花瓶には毛虫や蛇が詰められたが、アルフリートは見て見ぬ振りを継続した。子ども達は、食事の席では大人しかったし、食事以外にアルフリートとほとんど遭遇することもなかったのだ。
翌朝、リシェルはマリーベルの悲鳴で目が覚めた。マリーベルは、子ども達に毛虫をプレゼントされたらしい。
球根も、未だに暴れてはいる。だが人のいない階に移ったらしく、時々物音がするくらいだ。今では、子ども達の方がよほど暴力的と言えた。
(球根といい、オルガノといい、大丈夫かしら)
リシェルの不安をかき消すように、子ども達の笑い声が城中に響きわたっていた。
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その日、来客があった。玄関先でリチャード達とかくれんぼをしていたリシェルは、突然の客に、驚いた。
だって、それは。
「こんにちは、お嬢さん」
その男は、灰色の――うっすらと金の混じる、鷹のような目をしていた。視線を真正面から受けて、リシェルはたじろぐ。男の眼差しは、人の目の奥、魂の奥の奥へ、まっすぐに冷たい何かを突き立てるものだった。
胸にトゲが刺さって、痛む。
(怖い)
しばらくして、リシェルはそれが恐怖という感情であることに気がついた。
(やっぱり……この人は、オルガノの宿の前で会った人だわ……)
「こちらへ」
使用人が扉を開ける。男は笑みを浮かべたまま、リシェルから目を離し、歩み去った。
「リシェル様」
リシェルが握りしめていた拳を、メアリアンがそっと開く。掌は白くなっていたが、メアリアンが両手で暖めてくれた。
「あの方は……」
「アレは伯爵の、いけすかない縁者の方です」
「メアリ」
使用人が、メアリアンの態度の悪さをとがめる。だが、気持ちは同じらしく、とりあえずといった口調だった。
「縁者……?」
「魔法使い、ってことですよ」
言って、メアリアンは顔をしかめた。
「うちの伯爵は、魔法使いの中では性格がいいほうです。魔法をほとんど見せびらかしたりしない。……呪いにも関わらない」
「のろい」
リシェルは復唱する。メアリアンが、皮肉げに口の端を持ち上げた。
「リシェル様は聞かなくてもよいものです。呪いというものは、人や獣の死と恨みによってできている。それだけ知っていれば十分です。私達がお守りしますからね!」
「それはっ、」
それは、襲われるかもしれないということだろうか?
不安にかられたリシェルに、「恐れさせるな」とアルフリートの声が飛んだ。上階から声を投げ落とされ、使用人達は慌てて散る。
その後も、使用人達は、客を恐れて、目につかないよう、こそこそと歩いていた。
リシェルも、リチャードをメリッサのところへ送り届けると、急いで自室に引き上げた。
*
アルフリートがリシェルに声をかける、少し前のこと。
「あら、灰髪の。来てるなんて珍しいのね」
メリッサは、借りている部屋で、窓の外を見やり頬杖を突いた。
「ちょっと何か文句言ってやろうかな! よし!」
メリッサは廊下に飛び出す。通りかかったアルフリートが、
「姉上」
制止の意味なのか声をかけた。当然のように、メリッサは止まらない。子ども達もばたばたと騒ぐ。
客が、メリッサに気づく前に、止めなければならない。アルフリートは度重なる制止の声を子ども達にかき消され、大仰に舌打ちした。
「姉上! なぜこの城にいらしたんですか!」
ついに――来城以来聞かなかったことを、アルフリートは口に出した。
「だってぇ。可愛い弟のー、カワイーお嫁さん、見たいじゃない?」
「あれは訳あって預かっているだけで、妻ではありません。それに、姉上、本当は兄上と喧嘩をしたんでしょうが」
「あら嫌だ。蚊?」
メリッサが足を止めた。
弟の頭を、持っていたふさふさした毛飾りつきの扇子でひっぱたく。それから顎を引っかけて、持ち上げた。
「ごめんね、私達ったらお行儀が悪くって! 成金の妻はこれだからって言われちゃうんだけど、悪趣味なけばけばしさも楽しくってやめられないの」
当初と違い、短いスカートと長いショール姿で、惜しげもなく素足をさらしたまま、メリッサはにっこりした。
「……、」
何か言いかけて諦め、アルフリートは小さくため息をついた。
そして、メリッサが派手な姿で客人を圧倒し、満足して部屋に戻るまで、アルフリートの眉間の皺が減ることはないのだった。