第二章-2
*
「昔話の通りなら、相手の名を当てれば、相手は消えるんですよね?」
リシェルの申し出に対し、伯爵は、
「お前がせずとも、アズライルに任せている。また、私も解く準備を進めているから問題ない。その方が安全だ」
と答えた。だが、リシェルは真剣に伯爵の目を覗き込んだ。
「もし、私が名前当てに失敗しても、伯爵が助けてくださるおつもりがある、ということでしょうか」
「そうだな」
「ありがとうございます。でしたら、私が名前を当てても、当てられなくても、誰も困りませんね」
リシェルの結論に、アルフリートは苦い顔をする。
「お前は、柔いように見えて、頑固だな」
「そうでしょうか? 不愉快、ですか?」
「いや。別に」
「……相手の球根は、私が調べていたら嫌がるでしょうか」
「気づかれればな。私がやりにくくなる恐れもある――できれば慎んでもらいたい」
「……調べるだけなら? 古い童話を調べます。お城を探検するついでに、そうした伝承を耳にすることもあるかもしれません」
「非作為を主張するのか。なるほど、一筋縄ではいかないな」
アルフリートは諦めたように、リシェルの「名前探し」を許可した。
*
城はそろそろ寝静まる頃だ。暖かく、居心地のよい寝床を、恋しがらない者はいない。だというのに、伯爵は自分の書斎で資料を広げる。
「……店にいた、灰髪の紳士」
アルフリートは呟くと、口の端に笑みをのぼらせる。
「なるほど……? アズライルが知らせたのか? ロス・エルスの仮当主……最近静かだと思ったが……」
「言っておくが! 私は兄上に連絡を取っていないからな。死んだ身の上だし、こんな小娘に取り憑いて花を咲かせるのが関の山と知れたら、恥を知れとがっかりされるのがオチだ」
「聞き耳を立てるな」
堂々と入ってきた少女姿のアズライルに、アルフリートはいくらかげんなりする。
「お前が化けて出てからというもの、どうも城の具合が悪い。防御や封印は緩んでいないが……皆好き勝手しすぎだぞ」
「黙れへなちょこ。人の悪口をこそこそと。兄上はそのへん、高潔だった! 私が正当な跡継ぎだと喚く年寄り連中もいたが、兄上の方がロス・エルスの当主にふさわしかった。頭もよいし。力もそこそこあるし。魔力でいえば私の方が当然上だが」
「……お前の、無自覚の「そういうところ」が、あいつには鬱陶しかったんじゃないのか? お前が死んで、一番もうけたのはあいつだし」
「もうけたとか言うな。兄上を侮辱するのは許さないぞ」
アズライルは底冷えのする青い瞳で、アルフリートの目の奥を射た。
「私は兄上に喜んでもらいたくて、お前に勝って自慢しようと思ってあんな失態を犯しただけだ」
「だから、……」
何を言っても通じそうにない気配を感じて、アルフリートは沈黙した。
「何だ? 何で黙る」
「お前が分からず屋だからだ」
「お前も分からず屋じゃあないか」
「では、おあいこだ」
それも心外だった。アズライルは顔をしかめる。
「ところでアズライル。球根はまだ捕まらないのか?」
「うるさい。これから捕縛する」
足音高く、アズライルは書斎を出る。
室内で、アルフリートは、魔力に反応して鳴る警鐘の、小さな音に耳を澄ませた。
*
「ふあははは!」
怪奇音で笑う球根に対して、アズライルもまた笑いで答えた。深夜、どこかに隠れていた球根の親玉が安眠妨害するのを、アズライルはついに、捕まえる段に至った。「笑う球根」以外は、皆捕まえられ、籠に詰めて燃やされてしまったので、これが最後の一個である。
「くらえ……!」
アズライルはくるりと身を翻した。細い足で華麗にジャンプして、球根を蹴り落とす。だが、跳ねた球根は暗がりに逃げた。
「こら! どこへ逃げる!」
「あと七日ー」
「何がだ!」
「七日で食べ尽くしてやるうー。ふあはははははは」
「騒ぐな! やかましい!」
魔法で爆発を起こしながら追い回す。だが、球根はなかなか捕まらない。
「アズライル様うるさい!」
部屋から顔を出した使用人に、
「うるさい! じゃまをするな!」
怒鳴り返して、アズライルは駆ける。
城のあちこちで勃発した爆音に、ついに、書斎のドアが開いた。
「……お前は、黙って仕事ができないのか?」
暗がりに立ちはだかったアルフリートの、頭の上を、球根がぴょんと飛び越えた。
「黙れそこをどけー!」
我を忘れて叫ぶアズライルに、アルフリートは、鉄拳を振りおろした。
基本的に伯爵は、書斎にこもって何かしている。あるいは闇色の上着を羽織り、季節に合わないほどの険しい顔つきで馬車に乗り込み、外出する。目隠しをされた御者が馬を進めて、数秒後には風一つ残して消えている。
「魔法使いは忙しいのね」
リシェルは窓に額を寄せて、伯爵の外出を見送った。お茶をいれていたメアリアンが、「それはそうです」と頷いた。
「女王陛下は、国のあちこちの、細かな魔法的ほころびについて、伯爵に解決せよと指示を出されます。伯爵はそれを解いて、送り返しておられるんです」
「詳しいのね、メアリアン」
「多少は。私これでも、前はロスの本家にも仕えておりましたよ。ここよりとっても大きくて階級も決まっていました。息詰まる場所で、私達は存在しないモノのように扱われましたね。作法はそこで叩き込まれました。いざというときの盾になるよう、こうした技も身につけてね」
メアリアンは、ケーキを切り分けるためのナイフを振って微笑んだ。リシェルは納得する。
「それで、球根をたくさんしとめることができたのね」
「そうですよ奥様」
「そうか?」
急にルーベンスが戸口から声を投げた。いつも通り、裾の長い上着姿である。剣が飾りのように軽く見える。だが、球根を刺したときのさくりとした音、切り捨てる鋭さを思い返すと、やはり、騎士というのは伊達ではないのかもしれない。
メアリアンがケーキを切り、クリームとジャムのついたナイフで、ルーベンスの頭を突くそぶりをした。
「勝手に入らないでください」
「勝手に入ったんじゃないし。入っていいですよね奥様」
「奥様じゃありませんけれど、どうぞ、ルーベンスさん」
「さんなんて付けなくたって構いませんよ!」
メアリアンは歯をむき出し、ルーベンスを威嚇した。
ちなみにリシェルは、メアリアンやマリーベル達については、呼び捨てることを当人から厳重に申しつけられたし、随分仲良くなってきたので、そうしている。
「ルーベンスさんは、ルーベンスさん、という感じがしますから」
「そう? 俺も君のことはよく分からないな、何でメアリアンもマリーベルも、いつの間にか君に優しいんだろ?」
ルーベンスの発言は身も蓋もない。
「伯爵の客、だからでしょうか?」
リシェルも思わずそんな返答になる。メアリアンが眉をひそめた。
「違いますよ。ひねくれものには、この可愛らしさが分からないんです」
「俺がリシェルを殴って、リシェルはメアリアンを庇って。それだけで、メアリアンは散々嫌ってたリシェルのことを好きになるのか?」
「人間は、清らかさには勝てないものです。貴方には分からないんでしょうけれどね!」
メアリアンがふふふんとルーベンスに対して勝ち誇った笑みを浮かべた。リシェルは窓の外に視線を逃がした。
「それにしても……伯爵、今日は忙しそうね」
「そうですね、今日は来客があるそうで、いったん外回りの仕事を片づけてくる、とのことでしたけれど」
来客。珍しいことだなと、リシェルはこのわずかな期間での感触で思う。どんな客だろうか。
ふくよかな客人だった。茶色の目は、くるくるとして人なつこい。帽子を取り、使い込んでいるがぴかぴかに磨かれた靴で、玄関から軽やかに入ってきた。
すぐに広間へ行き、伯爵と話をしていたようだ。日が暮れるとリシェルも呼び出され、晩餐が始まった。
こんなことは初めてだ。
アルフリートが忙しいときなどは、リシェルも自室で一人、朝食を採る。けれど、だいたいは伯爵と二人きりで晩ご飯を食べている。使用人は数が少ないといっても、並びきれないし、それぞれの持ち場や、好きなところで食べている。
来客があって、晩餐になるのは初めてで、そこにリシェルまで招かれるというのは、果たしていいことなのかどうか。
(うちは、昔は貴族だったらしいけれど、大おばあさまが亡くなられて、おじいさまとおばあさまが船で冒険に出かけて以来、あの家と庭と畑を家族だけで見てきて……お父様も、地域の役員をしているだけだし)
何だか格式張ったことになりそうだ、と緊張していると、家から送られてきた服のうち、母が編んだレースつきのドレスを、使用人によって着せられた。
「やっぱり奥様と毎日一緒に食事をなさっていて、伯爵もだんだん楽しくなってこられたのね」
などと、使用人達はきゃっきゃと喜んでいたが、リシェルは怯えすぎて青ざめていた。幸い、服をきつく締め付けられもしなかったし、室内にいる伯爵はいつも通りで、客人もにこにこと機嫌がよかった。
他の領地のことや、政治情勢、流行の衣装など、話題はさらさらと流れていく。
客は、リシェルにときおり、こんなことがありましてね、と言いはするが、特に答えを期待しているわけでもなく、心地よい口調で一人、長々と喋っている。
もしかしたら、伯爵は、城を出られないリシェルに、外の話を聞かせてやろうと考えて、リシェルを同席させたのかもしれない。そのくらい、とても長い話だった。
「そうそう。街に魔術師が来ておりましたね」
「ほう」
「若い女で。ちょうど市場で起こっていたいざこざを、うまくいなしておりました。調停したふりをしてその後商売を始めるたぐいの、三文芝居かと思いきや、そうではない。彼女は、馬車に乗って街に帰ってきたばかりという。サウの街宿に泊まるようです」
若い女。魔術師。
ぴん、と背筋を伸ばして、リシェルは客人の方を見た。スープとパンを、中途半端に両手に持って、そわそわと瞬きを繰り返す。
伯爵、アルフリートはちらりと、リシェルを見やった。
「知り合いか?」
「あっ、ええと、聞いてもよろしいでしょうか、不躾なのですけれど」
相手は城主の客であり、リシェルにとっては見知らぬ人なので、直接聞いてもいいのかどうか、分からない。
「えぇ、どうぞ」
小太りした頬肉を揺らし、客は頷く。
「答えられることであればいくらでもお答えしますよ」
「リクリスがよいと言っている。私にまで聞かずともよいだろう」
「ハイ。その、魔術師というのは、旅の方ですか?」
「えぇ、何でも、昔は街外れに住んでいたとか」
「あのっ、おんなのひと、ですよね?」
「えぇ。先程も申し上げました通り。ただ、黒褐色の髪を短く切って。前髪は長いものの、襟足は寒そうでしたね。この陽気のせいとはいえ、シャツの上にはローブを一枚羽織ったきり。ラフカ産のシャツを着せて、流行の三揃えの上着を着せると、さぞや美しい貴婦人になりそうなものですが」
やけに服について詳しいのは、男の、仕入れ行商人という仕事柄なのだろう。
「知り合いか?」
二度目のアルフリートの問いかけに、少女は小刻みに頷いた。
「お名前が、オルガノ・クラウツでしたら、私の知っている人です。小さい頃に、よく一緒に遊びました」
「名前までは聞いていないなぁ」
リシェルはがっかりしそうになった。けれど、魔術師でこの街の出身で、女性、というのは、そうはいない。きっと彼女だ。魔術師は、魔力を持たなくても、周りの力の流れや理を読んで、魔法的なことを行える。理が理解できないと、うまく扱えない。オルガノは頭がよくて、幼い頃は、街を出て大学者になるんだと息巻いていた。やがて魔術師として、見聞を広めるために街を出た。
今、見知らぬ人々に囲まれて暮らすリシェルにとって、幼い頃の友人というのは、本当に、体が震えるくらい懐かしいものだった。
晩餐はつつがなく終了した。宵のうちに、客人は用があると言って城を辞した。
アルフリートが起きているうちに、と、リシェルはおそるおそる書斎に向かった。
「お願いがあるんです……あの、けほっ」
緊張のあまり息を吸いすぎて、リシェルはむせた。
「……街へ行ってみても、よいですか」
「――駄目だ」
張りつめていたものが、するするとしぼんだ。アルフリートは横目でリシェルをちらりと見て、咳払いした。
「というと、すぐしおれる。普段は分かりにくいところもあるが、こういうときは分かりやすいな。特別、城で用事もないだろう。行っても構わない」
「……! あの、用事……球根」
「アレは何とかする。お前が気にしなくてよい」
アルフリートの物言いは、室内にいささか冷たく響いた。リシェルは、「そのまま実家へ帰れ」と言われるだろうか、と心配になった。だが、アルフリートはそうは言わなかった。眉をくつろげ、リシェルを見つめる。
「夕方までには戻れ。友人と話したいことも多くあるだろうが、出先で寝入って、安全に、無事に済むか保証できない」
リシェルは知らず、顔がほころぶ。誰だって、冷たくされるよりも、心に気にかけてもらえるほうが嬉しいものだ。
「はい、気をつけます」
「ルーベンスを供につけると、わずらわらしいだろうな……。メアリアンだと、お前と仲のいいものを見ると、威嚇しかねないし。マリーベルに相談して、他の者を連れて出かけるといい。離れないよう気をつけろ」
「? ルーベンスは確かに、女の子によく話しかける人なので、オルガノがうるさがるかもしれません。オルガノは、ちょっと男の子と仲が悪かったので。もちろん、私に分かるのは、幼い頃のオルガノのことだけですけれど。メアリアンがいいと言ってくれるなら、私は構いません、メアリアンはいい人です、威嚇なんてしないと思います」
分かってないな、という顔をして、まぁ勝手にしろとばかりに、伯爵は少し細い感じのため息をついた。
*
リシェルが外出するということで、マリーベルが供の者を選んでくれた。使用人のうち、街歩きに慣れている、ごく普通の少女である。
置いていかれることになったメアリアンは、とても心配そうにこちらを見ていたが、マリーベルに追い立てられて行ってしまった。
リシェルは、昨夜の客人が教えてくれた宿に向かった。その魔術師は、果たして、リシェルの知るオルガノだった。
オルガノは、短く切った髪を揺らし、ローブを翻して、
「嘘! リシェル!? 来てくれたんだ!」
目を輝かせ、抱きついてきた。
「大丈夫? 元気だった? 怪我はない?」
「それは私のセリフです。長い間、ずっと街を出ていたのは貴方なのに」
「だって心配もするよ! あんた、あの、化け物が出るとかいわくつきの、城へ行ったっていうから。あんたの家で聞こうとしたけど、おじさん達も目を逸らして、あんまり説明してくれないし。事情はよく分からないけど、あんたを売ったんじゃないかと思って!」
「どうしてお父様達が私を売るの?」
リシェルは首を傾げた。後方で、リシェルの連れが、笑いたそうな顔をしていた。
「おじさん達は、バラのジャムを作って販売してるみたいだけど、かなり稀少で高価になってて……。あんなピンク色のバラなんて、あんたの家にないじゃない。何かよからぬ商売に手を出しているんじゃないかって、思って……」
あながち間違ってもいない。
噴き出して、リシェルは何から説明したらいいのか考えた。
「……そうね、もし時間があれば、どこかでゆっくり話しましょう?」
「本当に無事なんだ?」
「無事。……多分。それより、城にはそんなに怖いいわくが城にはあるの?」
「ある。魔法使いや魔術師の間では、わりと有名な話」
そのわりには、街の人達はさほど城を恐れない。
「魔法に関する知識がないからだよ」
オルガノはしかめっ面で説明した。
「あの城が関わるのは、普通の魔法じゃない。もっと古い。もともとこの世にあったもので、妖精とかとは違う。似てるのかもしれないけど、私は妖精のことを知らないし、よく分からない」
お互い、話したいことは山ほどある。ひとまず、場所を移すことにした。
*
あっという間に一日は過ぎ去る。日が暮れてきて、リシェルとオルガノは笑いながら店を出た。
長い長いお茶と昼食の後で、少し買い足したいものがある、と城からついてきた連れが、近くの別の店に入った。その間、リシェルはオルガノの宿の前で、彼女を待つことにした。
リシェルと立ち話をしているうちに、オルガノが何か思いついた。
「渡したいものがあるの。ちょっと取ってくる」
「分かったわ。でも、二人とも宿に入ってしまったら城の人が迷ってしまうから、私は宿の前で待っている」
「ん、分かった、すぐ戻る! 変な人についていかないように!」
「大丈夫よオルガノ」
もともと住んでいた街のことだ。治安もそう悪くない。リシェルは頷いて宿の外で待った。帽子屋のショウウィンドウを見るともなしに眺めて待つ。色とりどりの帽子達。人々は足を止めず、急いで通り過ぎていく。
空はうっすらと夕焼け色に染まりつつある。
不意に、長い黒コートの男が、帽子屋の前、道の角に現れた。帽子のひさしを上げて会釈をする。
「こんばんは」
夜にさしかかる頃合いだからか、若い紳士は口元に笑みをたたえ、リシェルに対してそう言った。
とても礼儀正しい風情がある。だから、
(怖がっちゃ、失礼だわ……)
ぎゅ、と手を握りしめて、リシェルは思う。
相手の目が、うつろで、笑っておらず、暗く、冷たく思えたのだ。
「気をつけて」
紳士の灰色の目が、薄い月のように細められる。
「あの城は、危険だから。今は、遊んでいる状態だけれど、本分は、とても危ういものだから」
「……貴方が、一体何を知っているっていうんですか」
リシェルは腹が立っていた。何も知らない――メアリアンやルーベンスや、伯爵のいる、それなりに平穏な場所のことを、初対面の人に突然非難されたくはなかった。
「私は、とてもよくしていただいています。ご心配なく!」
先程までの人通りが嘘のような静けさだった。
一拍をおいて、リシェルは急に、自分が失礼なことをした、と気がついた。
「あの……貴方のおっしゃっている場所が、私の思い描くのと同じ場所であるとすれば、のお話ですけれど」
相手は黙り込んだままだ。リシェルは徐々に不安になった。
「急に怒ったりして……すみません」
不躾なことを言われたとはいえ、洒落たかわし方や言い返しができなかったことは、まずかったかもしれない。
「貴方がどなたなのか、存じませんけれど……知らない方に、言われたくないことでしたので」
「いえ。これは失礼をした……」
紳士はようやく、笑みを浮かべた。
「アレの奥方ともなろう方に。何も申し上げず、端的になりすぎましたね」
紳士の口調は丁寧だ。けれど、あまり心がこもっていない。底知れなさを感じ、リシェルは足がすくんだ。どこかで、似た感じを、味わったことがある。
(どこ?)
「扉」を開けたとき? あのときは、不安はあったけれど、そう恐ろしくは思えなかった。鬱々とした場所だった――冷たい、死の匂いは漂っていた。けれど、それは誰にでも当然起こりうるもので、自分や友人達に襲いかからなければ、それほどむやみに恐れることでもなかった。
でも、今目の前にいる人から感じる恐怖は。
(きっと、よくないもの)
じわりと、ペン先が引っかかってインクが飛び散ってしまったような、えもいわれぬ違和感がある。
(どうして?)
どうして私は、「それを見知っている」と思うのだろう――?
「早く去った方が身のためですよと、警告差し上げた。お忘れなきよう」
「リシェル!」
宿から、オルガノの鋭い声が飛ぶ。
「あ」
宿から駆け出してきたオルガノに腕を強く引かれ、リシェルは我に返った。
つい先程まで、呆然と、紳士の目だけを見つめていた。
「どうしたの?」
「えっ、今、そこに人が」
そういえば、まばらとはいえ人通りがあるはずなのに、あの男と会話したときだけ、辺りに、一切ひとけはなかった。
ぶるりと身を震わせて、リシェルは息を吐き出した。オルガノは顔をしかめる。
「よく分からないけど、悪いものにあてられたね……一癖も何癖もあるような、魔法使いんちの嫁になんかなるから、変な奴につきまとわれたんだ」
「ごめんなさい」
「謝んないの。あれは向こうが悪い」
「向こう?」
「相手と、それからあんたのうちの人」
「……、伯爵のこと?」
リシェルは話の流れから導き出した。オルガノは、辺りを警戒しながら、険しい表情で頷いた。
「魔法に関わったことのない子を、何の気なしに外に出してる。因縁つけられても文句言えない。怠慢よ。しかも、今回は私の友達が巻き込まれてるんだ。許せない。なめてんのかその伯爵は」
「違うの、お茶のときにも話した通り、私、魔法絡みで体質を改善したいことがあって、伯爵のところへ押し掛けて、善意で置いていただいているの。もともとは無関係なの、だから、伯爵の関係者として狙われたりすることはないって、伯爵も思って……」
「危ないなぁもう」
使用人がやっと買い物を済ませて、駆けて戻ってきた。オルガノは息を吐き出し、
「供の者がいれば、もう大丈夫かもしれないけど」
小さな真珠のついたネックレスを、リシェルの首にかけてくれた。
「お守り。魔除けになると思うから」
「思う、だなんて。腕のいい魔術師だって、よその街で評判になったんでしょう?」
「だって、ここの魔法使いは、本当に古い古い、歴史と呪いを抱えてるから。それに比べたら、私の使う、こんな魔除けなんて、簡単な手品みたいなものだよ。でも、全く持ってないよりはましだと思う」
「オルガノ……私を心配してくれて、ありがとう。でも、オルガノは大丈夫? これがなくなったら、危なくはない?」
「大丈夫大丈夫」
オルガノは陽気に笑って、手を振った。
「全然問題なし。私はあんたほど危ない場所に、いないからね!」