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第二章-2

「昔話の通りなら、相手の名を当てれば、相手は消えるんですよね?」

 リシェルの申し出に対し、伯爵は、

「お前がせずとも、アズライルに任せている。また、私も解く準備を進めているから問題ない。その方が安全だ」

 と答えた。だが、リシェルは真剣に伯爵の目を覗き込んだ。

「もし、私が名前当てに失敗しても、伯爵が助けてくださるおつもりがある、ということでしょうか」

「そうだな」

「ありがとうございます。でしたら、私が名前を当てても、当てられなくても、誰も困りませんね」

 リシェルの結論に、アルフリートは苦い顔をする。

「お前は、柔いように見えて、頑固だな」

「そうでしょうか? 不愉快、ですか?」

「いや。別に」

「……相手の球根は、私が調べていたら嫌がるでしょうか」

「気づかれればな。私がやりにくくなる恐れもある――できれば慎んでもらいたい」

「……調べるだけなら? 古い童話を調べます。お城を探検するついでに、そうした伝承を耳にすることもあるかもしれません」

「非作為を主張するのか。なるほど、一筋縄ではいかないな」

 アルフリートは諦めたように、リシェルの「名前探し」を許可した。

 城はそろそろ寝静まる頃だ。暖かく、居心地のよい寝床を、恋しがらない者はいない。だというのに、伯爵は自分の書斎で資料を広げる。

「……店にいた、灰髪の紳士」

 アルフリートは呟くと、口の端に笑みをのぼらせる。

「なるほど……? アズライルが知らせたのか? ロス・エルスの仮当主……最近静かだと思ったが……」

「言っておくが! 私は兄上に連絡を取っていないからな。死んだ身の上だし、こんな小娘に取り憑いて花を咲かせるのが関の山と知れたら、恥を知れとがっかりされるのがオチだ」

「聞き耳を立てるな」

 堂々と入ってきた少女姿のアズライルに、アルフリートはいくらかげんなりする。

「お前が化けて出てからというもの、どうも城の具合が悪い。防御や封印は緩んでいないが……皆好き勝手しすぎだぞ」

「黙れへなちょこ。人の悪口をこそこそと。兄上はそのへん、高潔だった! 私が正当な跡継ぎだと喚く年寄り連中もいたが、兄上の方がロス・エルスの当主にふさわしかった。頭もよいし。力もそこそこあるし。魔力でいえば私の方が当然上だが」

「……お前の、無自覚の「そういうところ」が、あいつには鬱陶しかったんじゃないのか? お前が死んで、一番もうけたのはあいつだし」

「もうけたとか言うな。兄上を侮辱するのは許さないぞ」

 アズライルは底冷えのする青い瞳で、アルフリートの目の奥を射た。

「私は兄上に喜んでもらいたくて、お前に勝って自慢しようと思ってあんな失態を犯しただけだ」

「だから、……」

 何を言っても通じそうにない気配を感じて、アルフリートは沈黙した。

「何だ? 何で黙る」

「お前が分からず屋だからだ」

「お前も分からず屋じゃあないか」

「では、おあいこだ」

 それも心外だった。アズライルは顔をしかめる。

「ところでアズライル。球根はまだ捕まらないのか?」

「うるさい。これから捕縛する」

 足音高く、アズライルは書斎を出る。

 室内で、アルフリートは、魔力に反応して鳴る警鐘の、小さな音に耳を澄ませた。

「ふあははは!」

 怪奇音で笑う球根に対して、アズライルもまた笑いで答えた。深夜、どこかに隠れていた球根の親玉が安眠妨害するのを、アズライルはついに、捕まえる段に至った。「笑う球根」以外は、皆捕まえられ、籠に詰めて燃やされてしまったので、これが最後の一個である。

「くらえ……!」

 アズライルはくるりと身を翻した。細い足で華麗にジャンプして、球根を蹴り落とす。だが、跳ねた球根は暗がりに逃げた。

「こら! どこへ逃げる!」

「あと七日ー」

「何がだ!」

「七日で食べ尽くしてやるうー。ふあはははははは」

「騒ぐな! やかましい!」

 魔法で爆発を起こしながら追い回す。だが、球根はなかなか捕まらない。

「アズライル様うるさい!」

 部屋から顔を出した使用人に、

「うるさい! じゃまをするな!」

 怒鳴り返して、アズライルは駆ける。

 城のあちこちで勃発した爆音に、ついに、書斎のドアが開いた。

「……お前は、黙って仕事ができないのか?」

 暗がりに立ちはだかったアルフリートの、頭の上を、球根がぴょんと飛び越えた。

「黙れそこをどけー!」

 我を忘れて叫ぶアズライルに、アルフリートは、鉄拳を振りおろした。


 基本的に伯爵は、書斎にこもって何かしている。あるいは闇色の上着を羽織り、季節に合わないほどの険しい顔つきで馬車に乗り込み、外出する。目隠しをされた御者が馬を進めて、数秒後には風一つ残して消えている。

「魔法使いは忙しいのね」

 リシェルは窓に額を寄せて、伯爵の外出を見送った。お茶をいれていたメアリアンが、「それはそうです」と頷いた。

「女王陛下は、国のあちこちの、細かな魔法的ほころびについて、伯爵に解決せよと指示を出されます。伯爵はそれを解いて、送り返しておられるんです」

「詳しいのね、メアリアン」

「多少は。私これでも、前はロスの本家にも仕えておりましたよ。ここよりとっても大きくて階級も決まっていました。息詰まる場所で、私達は存在しないモノのように扱われましたね。作法はそこで叩き込まれました。いざというときの盾になるよう、こうした技も身につけてね」

 メアリアンは、ケーキを切り分けるためのナイフを振って微笑んだ。リシェルは納得する。

「それで、球根をたくさんしとめることができたのね」

「そうですよ奥様」

「そうか?」

 急にルーベンスが戸口から声を投げた。いつも通り、裾の長い上着姿である。剣が飾りのように軽く見える。だが、球根を刺したときのさくりとした音、切り捨てる鋭さを思い返すと、やはり、騎士というのは伊達ではないのかもしれない。

 メアリアンがケーキを切り、クリームとジャムのついたナイフで、ルーベンスの頭を突くそぶりをした。

「勝手に入らないでください」

「勝手に入ったんじゃないし。入っていいですよね奥様」

「奥様じゃありませんけれど、どうぞ、ルーベンスさん」

「さんなんて付けなくたって構いませんよ!」

 メアリアンは歯をむき出し、ルーベンスを威嚇した。

 ちなみにリシェルは、メアリアンやマリーベル達については、呼び捨てることを当人から厳重に申しつけられたし、随分仲良くなってきたので、そうしている。

「ルーベンスさんは、ルーベンスさん、という感じがしますから」

「そう? 俺も君のことはよく分からないな、何でメアリアンもマリーベルも、いつの間にか君に優しいんだろ?」

 ルーベンスの発言は身も蓋もない。

「伯爵の客、だからでしょうか?」

 リシェルも思わずそんな返答になる。メアリアンが眉をひそめた。

「違いますよ。ひねくれものには、この可愛らしさが分からないんです」

「俺がリシェルを殴って、リシェルはメアリアンを庇って。それだけで、メアリアンは散々嫌ってたリシェルのことを好きになるのか?」

「人間は、清らかさには勝てないものです。貴方には分からないんでしょうけれどね!」

 メアリアンがふふふんとルーベンスに対して勝ち誇った笑みを浮かべた。リシェルは窓の外に視線を逃がした。

「それにしても……伯爵、今日は忙しそうね」

「そうですね、今日は来客があるそうで、いったん外回りの仕事を片づけてくる、とのことでしたけれど」

 来客。珍しいことだなと、リシェルはこのわずかな期間での感触で思う。どんな客だろうか。


 ふくよかな客人だった。茶色の目は、くるくるとして人なつこい。帽子を取り、使い込んでいるがぴかぴかに磨かれた靴で、玄関から軽やかに入ってきた。

 すぐに広間へ行き、伯爵と話をしていたようだ。日が暮れるとリシェルも呼び出され、晩餐が始まった。

 こんなことは初めてだ。

 アルフリートが忙しいときなどは、リシェルも自室で一人、朝食を採る。けれど、だいたいは伯爵と二人きりで晩ご飯を食べている。使用人は数が少ないといっても、並びきれないし、それぞれの持ち場や、好きなところで食べている。

 来客があって、晩餐になるのは初めてで、そこにリシェルまで招かれるというのは、果たしていいことなのかどうか。

(うちは、昔は貴族だったらしいけれど、大おばあさまが亡くなられて、おじいさまとおばあさまが船で冒険に出かけて以来、あの家と庭と畑を家族だけで見てきて……お父様も、地域の役員をしているだけだし)

 何だか格式張ったことになりそうだ、と緊張していると、家から送られてきた服のうち、母が編んだレースつきのドレスを、使用人によって着せられた。

「やっぱり奥様と毎日一緒に食事をなさっていて、伯爵もだんだん楽しくなってこられたのね」

 などと、使用人達はきゃっきゃと喜んでいたが、リシェルは怯えすぎて青ざめていた。幸い、服をきつく締め付けられもしなかったし、室内にいる伯爵はいつも通りで、客人もにこにこと機嫌がよかった。

 他の領地のことや、政治情勢、流行の衣装など、話題はさらさらと流れていく。

 客は、リシェルにときおり、こんなことがありましてね、と言いはするが、特に答えを期待しているわけでもなく、心地よい口調で一人、長々と喋っている。

 もしかしたら、伯爵は、城を出られないリシェルに、外の話を聞かせてやろうと考えて、リシェルを同席させたのかもしれない。そのくらい、とても長い話だった。

「そうそう。街に魔術師が来ておりましたね」

「ほう」

「若い女で。ちょうど市場で起こっていたいざこざを、うまくいなしておりました。調停したふりをしてその後商売を始めるたぐいの、三文芝居かと思いきや、そうではない。彼女は、馬車に乗って街に帰ってきたばかりという。サウの街宿に泊まるようです」

 若い女。魔術師。

 ぴん、と背筋を伸ばして、リシェルは客人の方を見た。スープとパンを、中途半端に両手に持って、そわそわと瞬きを繰り返す。

 伯爵、アルフリートはちらりと、リシェルを見やった。

「知り合いか?」

「あっ、ええと、聞いてもよろしいでしょうか、不躾なのですけれど」

 相手は城主の客であり、リシェルにとっては見知らぬ人なので、直接聞いてもいいのかどうか、分からない。

「えぇ、どうぞ」

 小太りした頬肉を揺らし、客は頷く。

「答えられることであればいくらでもお答えしますよ」

「リクリスがよいと言っている。私にまで聞かずともよいだろう」

「ハイ。その、魔術師というのは、旅の方ですか?」

「えぇ、何でも、昔は街外れに住んでいたとか」

「あのっ、おんなのひと、ですよね?」

「えぇ。先程も申し上げました通り。ただ、黒褐色の髪を短く切って。前髪は長いものの、襟足は寒そうでしたね。この陽気のせいとはいえ、シャツの上にはローブを一枚羽織ったきり。ラフカ産のシャツを着せて、流行の三揃えの上着を着せると、さぞや美しい貴婦人になりそうなものですが」

 やけに服について詳しいのは、男の、仕入れ行商人という仕事柄なのだろう。

「知り合いか?」

 二度目のアルフリートの問いかけに、少女は小刻みに頷いた。

「お名前が、オルガノ・クラウツでしたら、私の知っている人です。小さい頃に、よく一緒に遊びました」

「名前までは聞いていないなぁ」

 リシェルはがっかりしそうになった。けれど、魔術師でこの街の出身で、女性、というのは、そうはいない。きっと彼女だ。魔術師は、魔力を持たなくても、周りの力の流れや理を読んで、魔法的なことを行える。理が理解できないと、うまく扱えない。オルガノは頭がよくて、幼い頃は、街を出て大学者になるんだと息巻いていた。やがて魔術師として、見聞を広めるために街を出た。

 今、見知らぬ人々に囲まれて暮らすリシェルにとって、幼い頃の友人というのは、本当に、体が震えるくらい懐かしいものだった。


 晩餐はつつがなく終了した。宵のうちに、客人は用があると言って城を辞した。

 アルフリートが起きているうちに、と、リシェルはおそるおそる書斎に向かった。

「お願いがあるんです……あの、けほっ」

 緊張のあまり息を吸いすぎて、リシェルはむせた。

「……街へ行ってみても、よいですか」

「――駄目だ」

 張りつめていたものが、するするとしぼんだ。アルフリートは横目でリシェルをちらりと見て、咳払いした。

「というと、すぐしおれる。普段は分かりにくいところもあるが、こういうときは分かりやすいな。特別、城で用事もないだろう。行っても構わない」

「……! あの、用事……球根」

「アレは何とかする。お前が気にしなくてよい」

 アルフリートの物言いは、室内にいささか冷たく響いた。リシェルは、「そのまま実家へ帰れ」と言われるだろうか、と心配になった。だが、アルフリートはそうは言わなかった。眉をくつろげ、リシェルを見つめる。

「夕方までには戻れ。友人と話したいことも多くあるだろうが、出先で寝入って、安全に、無事に済むか保証できない」

 リシェルは知らず、顔がほころぶ。誰だって、冷たくされるよりも、心に気にかけてもらえるほうが嬉しいものだ。

「はい、気をつけます」

「ルーベンスを供につけると、わずらわらしいだろうな……。メアリアンだと、お前と仲のいいものを見ると、威嚇しかねないし。マリーベルに相談して、他の者を連れて出かけるといい。離れないよう気をつけろ」

「? ルーベンスは確かに、女の子によく話しかける人なので、オルガノがうるさがるかもしれません。オルガノは、ちょっと男の子と仲が悪かったので。もちろん、私に分かるのは、幼い頃のオルガノのことだけですけれど。メアリアンがいいと言ってくれるなら、私は構いません、メアリアンはいい人です、威嚇なんてしないと思います」

 分かってないな、という顔をして、まぁ勝手にしろとばかりに、伯爵は少し細い感じのため息をついた。

 リシェルが外出するということで、マリーベルが供の者を選んでくれた。使用人のうち、街歩きに慣れている、ごく普通の少女である。

 置いていかれることになったメアリアンは、とても心配そうにこちらを見ていたが、マリーベルに追い立てられて行ってしまった。

 リシェルは、昨夜の客人が教えてくれた宿に向かった。その魔術師は、果たして、リシェルの知るオルガノだった。

 オルガノは、短く切った髪を揺らし、ローブを翻して、

「嘘! リシェル!? 来てくれたんだ!」

 目を輝かせ、抱きついてきた。

「大丈夫? 元気だった? 怪我はない?」

「それは私のセリフです。長い間、ずっと街を出ていたのは貴方なのに」

「だって心配もするよ! あんた、あの、化け物が出るとかいわくつきの、城へ行ったっていうから。あんたの家で聞こうとしたけど、おじさん達も目を逸らして、あんまり説明してくれないし。事情はよく分からないけど、あんたを売ったんじゃないかと思って!」

「どうしてお父様達が私を売るの?」

 リシェルは首を傾げた。後方で、リシェルの連れが、笑いたそうな顔をしていた。

「おじさん達は、バラのジャムを作って販売してるみたいだけど、かなり稀少で高価になってて……。あんなピンク色のバラなんて、あんたの家にないじゃない。何かよからぬ商売に手を出しているんじゃないかって、思って……」

 あながち間違ってもいない。

 噴き出して、リシェルは何から説明したらいいのか考えた。

「……そうね、もし時間があれば、どこかでゆっくり話しましょう?」

「本当に無事なんだ?」

「無事。……多分。それより、城にはそんなに怖いいわくが城にはあるの?」

「ある。魔法使いや魔術師の間では、わりと有名な話」

 そのわりには、街の人達はさほど城を恐れない。

「魔法に関する知識がないからだよ」

 オルガノはしかめっ面で説明した。

「あの城が関わるのは、普通の魔法じゃない。もっと古い。もともとこの世にあったもので、妖精とかとは違う。似てるのかもしれないけど、私は妖精のことを知らないし、よく分からない」

 お互い、話したいことは山ほどある。ひとまず、場所を移すことにした。

 あっという間に一日は過ぎ去る。日が暮れてきて、リシェルとオルガノは笑いながら店を出た。

 長い長いお茶と昼食の後で、少し買い足したいものがある、と城からついてきた連れが、近くの別の店に入った。その間、リシェルはオルガノの宿の前で、彼女を待つことにした。

 リシェルと立ち話をしているうちに、オルガノが何か思いついた。

「渡したいものがあるの。ちょっと取ってくる」

「分かったわ。でも、二人とも宿に入ってしまったら城の人が迷ってしまうから、私は宿の前で待っている」

「ん、分かった、すぐ戻る! 変な人についていかないように!」

「大丈夫よオルガノ」

 もともと住んでいた街のことだ。治安もそう悪くない。リシェルは頷いて宿の外で待った。帽子屋のショウウィンドウを見るともなしに眺めて待つ。色とりどりの帽子達。人々は足を止めず、急いで通り過ぎていく。

 空はうっすらと夕焼け色に染まりつつある。

 不意に、長い黒コートの男が、帽子屋の前、道の角に現れた。帽子のひさしを上げて会釈をする。

「こんばんは」

 夜にさしかかる頃合いだからか、若い紳士は口元に笑みをたたえ、リシェルに対してそう言った。

 とても礼儀正しい風情がある。だから、

(怖がっちゃ、失礼だわ……)

 ぎゅ、と手を握りしめて、リシェルは思う。

 相手の目が、うつろで、笑っておらず、暗く、冷たく思えたのだ。

「気をつけて」

 紳士の灰色の目が、薄い月のように細められる。

「あの城は、危険だから。今は、遊んでいる状態だけれど、本分は、とても危ういものだから」

「……貴方が、一体何を知っているっていうんですか」

 リシェルは腹が立っていた。何も知らない――メアリアンやルーベンスや、伯爵のいる、それなりに平穏な場所のことを、初対面の人に突然非難されたくはなかった。

「私は、とてもよくしていただいています。ご心配なく!」

 先程までの人通りが嘘のような静けさだった。

 一拍をおいて、リシェルは急に、自分が失礼なことをした、と気がついた。

「あの……貴方のおっしゃっている場所が、私の思い描くのと同じ場所であるとすれば、のお話ですけれど」

 相手は黙り込んだままだ。リシェルは徐々に不安になった。

「急に怒ったりして……すみません」

 不躾なことを言われたとはいえ、洒落たかわし方や言い返しができなかったことは、まずかったかもしれない。

「貴方がどなたなのか、存じませんけれど……知らない方に、言われたくないことでしたので」

「いえ。これは失礼をした……」

 紳士はようやく、笑みを浮かべた。

「アレの奥方ともなろう方に。何も申し上げず、端的になりすぎましたね」

 紳士の口調は丁寧だ。けれど、あまり心がこもっていない。底知れなさを感じ、リシェルは足がすくんだ。どこかで、似た感じを、味わったことがある。

(どこ?)

 「扉」を開けたとき? あのときは、不安はあったけれど、そう恐ろしくは思えなかった。鬱々とした場所だった――冷たい、死の匂いは漂っていた。けれど、それは誰にでも当然起こりうるもので、自分や友人達に襲いかからなければ、それほどむやみに恐れることでもなかった。

 でも、今目の前にいる人から感じる恐怖は。

(きっと、よくないもの)

 じわりと、ペン先が引っかかってインクが飛び散ってしまったような、えもいわれぬ違和感がある。

(どうして?)

 どうして私は、「それを見知っている」と思うのだろう――?

「早く去った方が身のためですよと、警告差し上げた。お忘れなきよう」

「リシェル!」

 宿から、オルガノの鋭い声が飛ぶ。

「あ」

 宿から駆け出してきたオルガノに腕を強く引かれ、リシェルは我に返った。

 つい先程まで、呆然と、紳士の目だけを見つめていた。

「どうしたの?」

「えっ、今、そこに人が」

 そういえば、まばらとはいえ人通りがあるはずなのに、あの男と会話したときだけ、辺りに、一切ひとけはなかった。

 ぶるりと身を震わせて、リシェルは息を吐き出した。オルガノは顔をしかめる。

「よく分からないけど、悪いものにあてられたね……一癖も何癖もあるような、魔法使いんちの嫁になんかなるから、変な奴につきまとわれたんだ」

「ごめんなさい」

「謝んないの。あれは向こうが悪い」

「向こう?」

「相手と、それからあんたのうちの人」

「……、伯爵のこと?」

 リシェルは話の流れから導き出した。オルガノは、辺りを警戒しながら、険しい表情で頷いた。

「魔法に関わったことのない子を、何の気なしに外に出してる。因縁つけられても文句言えない。怠慢よ。しかも、今回は私の友達が巻き込まれてるんだ。許せない。なめてんのかその伯爵は」

「違うの、お茶のときにも話した通り、私、魔法絡みで体質を改善したいことがあって、伯爵のところへ押し掛けて、善意で置いていただいているの。もともとは無関係なの、だから、伯爵の関係者として狙われたりすることはないって、伯爵も思って……」

「危ないなぁもう」

 使用人がやっと買い物を済ませて、駆けて戻ってきた。オルガノは息を吐き出し、

「供の者がいれば、もう大丈夫かもしれないけど」

 小さな真珠のついたネックレスを、リシェルの首にかけてくれた。

「お守り。魔除けになると思うから」

「思う、だなんて。腕のいい魔術師だって、よその街で評判になったんでしょう?」

「だって、ここの魔法使いは、本当に古い古い、歴史と呪いを抱えてるから。それに比べたら、私の使う、こんな魔除けなんて、簡単な手品みたいなものだよ。でも、全く持ってないよりはましだと思う」

「オルガノ……私を心配してくれて、ありがとう。でも、オルガノは大丈夫? これがなくなったら、危なくはない?」

「大丈夫大丈夫」

 オルガノは陽気に笑って、手を振った。

「全然問題なし。私はあんたほど危ない場所に、いないからね!」


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