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第一章-4

 魔法伯爵の城には、古い古い「扉」がある。それも、いくつもあるのだった。

 たいてい、部屋の中には調度品が所狭しと並んでいる。天井からはカーテンが、あちこちつり下げられている。それらをかき分けた奥の奥、重たげな金属の鋲や金具がじゃらじゃらとつけられた、分厚い樫の木のドアがある。

 その向こうに何があるのか。誰も知らない。分かっているのは、その「扉」を開けることは禁じられている、ということ。

 そして――魔法伯爵が、その呼び名を賜っている原因は、魔物の出る異界への「扉」――それが存在する、呪われた土地を封印する任を与えられている。

 リシェルは、適当にドアを開けてみた。

 室内は、伯爵が使っている書斎よりも少し広かった。だが物が多く、古びたソファーやテーブルを避けないと進めなかった。リシェルは戸口から中を覗き、首を傾げた。

(特に、危なそうなものは見当たらない……?)

 別段、他の部屋と違わない。

 ただ、窓の手前に、天井近くまでの高さのある、肉厚のドアが、立っている。

 近づいてみる。

 そのドアは、吊られているわけでもないのに、垂直に立っていた。不審ではあるが、不気味ではない。

 リシェルは、ごく、と喉を鳴らした。

「開けたら危ないかしら……」

 でも、裏から見ても表から見ても、ただのドアだ。ドアノブは、金色が剥げかけている。リシェルはドアノブを掴んで、そっと押してみた。開かないのでほっとした。

 そして、手を離したら、ドアがぎいっと音を立てて開いた。

「えっ」

 ドアの向こうには、ごつごつした岩肌の斜面と、土くれの道が広がっていた。下草は緑で、外の景色とそう変わらない。

 少しだけ涼しい風が吹いてきて、リシェルはぶるり、と身震いをした。

 踏み出す勇気は出なかった。

「勝手に居候している身の上だもの、あんまり探検しすぎてもいけないわね」

 自分の言葉に、うん、と頷いてドアを閉めようとした。けれど、視界にちらりと何かがよぎった。

「――おばさま?」

 叔母の姿を見た気がして、リシェルはドアの内側に足を入れる。叔母は、リシェルが幼い頃に亡くなった。

 叔母である筈がない。分かっている。だけど。魔法を扱う魔法伯爵の城のことだから、もしかしたら。死者に、会うことも、できるのかもしれない。

 中に入ると薄暗かったので、一度室内に戻り、棚にあったカンテラを取る。火打ち石から火を移した。


「鏡?」

 初めは、ただの屋外に見えたけれど、カンテラを提げて入ってみれば、そこは随分と不可解だった。歩くたびに、自分の姿がちらちらと、左右に散らばって見える。たくさんの、縦に長い鏡達が、互い違いに、乱雑に立ち並んでいた。

 そこに乱反射した自分の姿が、際限もなく映り込む。

 カンテラをかざした少女は、湿った、冷たい空気をかぐ。足下はひたひたと濡れ、硬い岩肌がしっかりと存在している。

「ここは、どこなのかしら」

 ドアの向こう、ではあるが、――何なのだろう。

 たくさんの幻が飛び交った。フクロウのような声、可愛らしい小鳥の声。だが、気配を感じて振り向くと、自分の姿が映った鏡であったり、ただの茂みであったりする。

 道が分からなくなってきそうで、リシェルは叔母の捜索を諦め、戻ることにした。

 引き返そうとしたそのとき。

 どこへいくのかいと、しゃがれた声がかけられた、気がした。

「おばさま!」

 茂みの陰に、ヒトの顔が見えた。

 駆け寄りそうになった。

 カンテラの明かりがきちんと届く範囲に近づいてから、息を飲み、足を止める。

 最初は叔母に似て見えたけれど、それはとても小さかった。リスの巻き尾を揺らして、頭部だけ人間の姿で、小さな声で歌っていた。

 不気味ではある。だが、こちらが怯えてしまったら相手が傷つくかもしれない。あるいは好機と見て、襲いかかってくるかもしれない。

(どうしよう……)

 硬直したリシェルに、一斉に笑い声が浴びせられる。思わずカンテラを落としてしまい、火を失った。

「禁を破って出歩くとはな」

「! 伯爵」

 大きな掌が、後ろから少女の口元を押さえた。

「大きな声を出すな。場が乱れる」

 本物の伯爵なのだろうか。心臓が爆発しそうだ。

「申し訳ありません、勝手なことをして……さっき見たものが、私の叔母に、そっくりだったんです、でも違った……あれは何ですか?」

「悠長に話している場合ではないが……あれは過去の亡霊だ。基本的には、私の先祖に当たる。全員が、魔法使いだ。彼らはこの地を封じるために魔力を残した。その欠片が、ああした格好になって、今もまだ、封印の魔法を歌っている」

 美しくもなければ優しくもない、不気味な姿になって。自分自身の姿でさえ覚えることができず、忘れ去り、かろうじて形のあるものはあのような姿で走り回る。

「――では、叔母ではないんですね」

「ここにいるのは、基本的には数百年前の亡霊だから、無関係だろう」

「アズライル様も、ここにいたんですか?」

「いや。いないと思うが」

 アルフリートは簡単に答えてから、続きを言った。

「残されるのは記憶や人間そのものではなくて、その魔力だ。それも基本的には、封じる任務を与えられた者だけになる。昔はかなりの数がいたから、ここもこんな風景だが。最近では、ほとんど増えていない。アズライルは城で死んだが、ここにはいないはずだ」

 質問はそれだけか。アルフリートは闇の中で平静に告げた。

「正しいものも、正しくないものも、長くここにいると、出られなくなる。それとも、ずっとここにいるか?」

「いやです」

「では戻ろうか」

 リシェルから体を離し、手だけ繋いで伯爵は歩き出す。慣れた足取りで力強い。

「伯爵は、よくここに来られるんですか?」

「いや。出口を知っている理由を知りたいのか? 魔力で出口への糸を繋いである。道に迷うことはないだろう」

「あっ」

 森の景色に、ふいっと室内の光景が紛れて見えた。調度品がごちゃごちゃと並んでいる。四角い、その窓――ドアのところに、ルーベンスがいて手を振っていた。

「おっかえり」

「ただいま、帰りました」

「心配したよ」

 ルーベンスは両腕を広げてリシェルを抱きしめようとした。彼を押し退け、伯爵はリシェルを室内に戻す。そして、ベルトに挟んでいた黒くてつやつやしたステッキを引き抜き、ドアの前の地面に何かを描いてから、室内に入ってドアを閉めた。

「このドアはいけないな。立て付けが悪い」

「立て付けが悪いっつったら、普通は開きづらいっていう意味に使うと思うんだが」

「開きっぱなしになるのも、不便だという意味では同じことだ」

「そうか? そんなわけないだろ」

 っていうかさ、と騎士は、しょげているリシェルを見下ろした。

「そもそも、この部屋に簡単に入れるってのが問題じゃないの?」

「部屋も換気が必要だし、ゴミだらけになるのも困るから掃除をさせねばならん」

「いや、でもさあ。結構たびたび、入った子が消えてるじゃん。いろんな部屋で」

「たびたびではない。普通の使用人には中を掃除させていないし、基本的には執事が見回りをするようにと、指示している」

 だとすると、とリシェルは不意に気がついた。

 あの子は――たびたびリシェルに冷たく接するあの女性は、危ないと分かっていてリシェルをあの部屋の方へ進ませたのだろうか。

(そんなこと、ないと思うけれど)

 やっぱり大人しくしていよう。リシェルはとぼとぼと、あてがわれた部屋に戻った。

 それを見送り、アルフリートはため息をついた。背で一つに結んだ髪をルーベンスが引っ張るので払いのけ、歩き出す。

「今回は早い段階で発見できたから助かった。お前が目を配っていたためだ、礼を言う」

「まぁ俺もそのために雇われてる、ってわけでもないけど。暇だったし。何であんな子が取り憑かれたりするのか興味もあったし」

「……それで見張っていたのか」

「見張ってはないよ、失礼だなぁ」

 騎士が乾いた笑い方をするので、伯爵はわずかに目を細めたが特に指摘はしなかった。

「ともあれ……禁じられたものを勝手に破ってしまうのは、女子供の特権だな」

「女子供だけじゃないと思うけどね。俺も実は、開けてみようとしたことはあるんだけど」

「何」

「怖い目して睨まないでほしいなー。開かなかったんだよアレ」

「「扉」に呼応できる魔力がなければ、滅多には開かない」

「そうだったんだ。へぇ。使用人が持ち出そうとしたり好奇心出したりしても、食われる以外ないと思ってたから、何も起きなくてびっくりしたよ」

「がっかりした、の間違いだろう。全く」

 呆れて、アルフリートの声がかすれた。

「リシェルといい、お前といい、おおかた、アズライルの魔力が体内に残っていたのだろう。本人には、それを使えるだけの力も、使うセンスもないようだが。「扉」はそれを区別しなかったようだ」

「あぁ、あのユーレイ君ね」

 アズライルのことをそう呼ぶと、さほど怖いものではないように思える。

 靴音を響かせながら、アルフリートは窓の外に目をやった。

 ――アルフリートが伯爵となり、この城を継ぐことが決まった日、多くの者が反対した。彼は、魔法に関する術式を構築したり、古い魔術をほどく方法を研究していて、社交界にも出ず貴族と交流もしていなかった。そんな人物が、今更何をするというのか。ただ、魔力の大きさと「封印」の能力に関しては他に適任者がいなかった。

 数ヶ月が経ち、使用人や反対勢力を追い払うか懐柔して、「ここに住んでいる」者としての生活をできるようになった。だが、魔法使い達の内輪もめが起こるたびに城のどこかが壊れた。伯爵は眉間に皺を寄せて彼らを仲裁し、最終的には追い出した。

 女王陛下の召集時以外は社交に出かけない主が、貴族というより職人であることに、残った使用人達は気がついた。

 そうして随分経って――何年だろう――従兄弟は現れたのだ。強い者が、ここにいるべきだと言って。

 アズライルの銀色の髪は艶めかしく、ロイヤルブルーの瞳は社交界の乙女の胸を騒がせるのに十分だった。闇色の、しかめっ面の伯爵と違って、従兄弟は人気もあったし、多少高慢ではあったが魔法の腕もあり、まっすぐすぎるきらいはあるが「いい子」だった――とアルフリートは思っている。

 アルフリートと年のそう変わらないアズライルは、何度か訪ねてきては追い返されていた。だが、ある日ついに、伯爵を上回ることを証明してやる、と言い、晩餐の後に、暖炉の前で、魔法を使った。

 自分の力を、獣の形に変えて、城ごと壊すかのような激しい嵐を引き起こした。

 どうして、力のあるバカどもは、壊すことしか――「力比べ」しか思いつかないのだろう。どうして、どちらの身分が上なのか、どちらのほうがより社会的に認められているのか、強い者であるのか、自慢せずにはいられないのだろう。

 自分の研究分野で成果を出し、一刻も早く「呪いを封じたまま」解ききることが、一族を解放することにもなる。そこを頑張ればいいじゃないか。

 伯爵はそう思う。

 それは貴方が女々しいからですよと乳母はあきれ顔で言っていたが。

(あの娘は、どう思うだろうか)

 目を逸らし眉をひそめ、恐れて遠巻きにする社交界の娘達を思い出して、伯爵は再びため息をこぼした。

「根暗っていうんだよ」

 金色の髪を揺らして、寝そべったまま青年が言う。

「何のこと?」

「この城の、伯爵? アレ。自分ばっかり背負ってるみたいな顔をしている人のこと」

 リシェルも、伯爵の眉間の皺はどうにかしたいなと思いはする。だが、リュウがあまりにはっきりと物を言うので、伯爵を弁護しなければならない気分になった。

「伯爵のことは、仕方ないと思うの。お一人で、何か大変なことをしていて、それなのに身内の人からあれこれ、言われたりしているみたいで……私に取り憑いた人だって、伯爵に勝負を挑んで亡くなったって……大変なの。とても、気に病まれていると思う」

「そのぐらい、どんな人にだってあると思うけど」

「あるとしても。……そもそも、つらさは他の人と比べることができないものだと思う。どれほど小さなことだって、つらいことはつらいの。貴方にも、ある?」

「……あるけど」

 寝転がったリュウに断ってから、リシェルはその頭と背を優しく撫でた。

「こうしてね、撫でたりすると、痛みが和らぐの。お母様が教えてくれたわ」

「誰にでもやるの? 伯爵にも?」

 撫でられた猫のように目を細め、それでも眠気に負けまいとするように、リュウはリシェルをじっと見つめた。

「貴方は夢の中にいる人だから。普通は、よほど親しくならない限り、あまり、こうしたことはできないわね……」

「ふうん」

 いくらか、リュウは息を吐き出した。

「じゃあもう、伯爵なんて置いていきなよ。僕のお嫁さんになりな」

「あら、リュウは夢の中の人でしょう。それに私……」

 リシェルはかすかに笑いを漏らした。

「一応、もともとは、伯爵に呼ばれて城に来たんですから、他の人のお嫁さんにはならないわ。……それは冗談としても。私の体質のこともあるし、私、何か役に立ってから、家に帰ろうと思っているの。だから、貴方については行けないわ」

「……ふうん。つまんないの」

 リュウはふてくされて、そっぽを向いた。

「今、外は大変なことになってるんだけど。僕は君を引き留めておいても、いいんだけど。……でもそうしたら、君に嫌われるかもしれない。だから、優しくする」

「何を言っているの? ……私、また取り憑かれているの?」

「違うけど。もっと面倒かも。起きたいのならそう願って。――親切な僕に、感謝してね?」


 真っ白で暖かで優しい世界。そこから急に引っ張り出され、リシェルはしばし、暗がりの中で息を潜めていた。

 そこは、リシェルが借り受けている部屋だった。惨状になっている様子はない。

「リュウは、何のことを言っていたのかしら……」

 暗い中、手探りでベッドをおりる。嫌な予感で、動悸がした。小走りにドアに近づき、廊下へ出た。

 メアリアンは見回りをしていた。たまたまその日は当番で、広間の隣の部屋で、暖炉の火を――城の機能維持の為に必要だとかで――絶やさないよう、具合を見て、次の部屋に移ろうとしていた。

 あの、はた迷惑な小娘が来てから、掃除の量が増えて面倒になった。だが、今日は静かで、くつろいだ気持ちを取り戻しつつある。

 部屋を出ようとしたメアリアンは、気配を感じて振り向いた。

「――、何をしてるの?」

 暖炉の近くに人影がある。

 伯爵の腹心と言えるのか。とにかく、帯剣していても伯爵に気安く近づくことを許されている男の姿だった。

「薄汚い野良犬は、弱いもの同士、傷の位置がよく分かるのかしら」

 メアリアンは、こわばった声で男を嘲る。

「その目の色、ルーベンスじゃありませんね? 伯爵の従兄弟様は、冷たい青の瞳をしておられたそうですけれど。亡くなられてから、後ろ暗い存在になったんですか? そんな、つまらない傭兵風情に取り憑くだなんて!」

「使用人に用はない」

 ルーベンスの姿だが、彼とはまるで違う、冷たい目だった。メアリアンは息を飲む。

 相手が生身の男なら、メアリアンは大声を上げ、近くの植木鉢を投げつけることもできるのだ。隠しナイフを抜いて、応戦することさえ可能だった。

 だが――コレは、既に死んだ者だ。この世にはいない者だ。

 魔法使いの、底知れない目の輝きを見て、メアリアンは怖じ気づいた。

(勝てないかもしれない……!)

 気づけば距離を詰められていた。

 男の振りあげた掌が、メアリアンの横っ面に叩き込まれる。

「!」

 寸前で、誰かが代わりにそれを受けた。メアリアンには当たらなかった。

「どうしてっ、」

 メアリアンは声を上げる。寝間着姿の、金髪の新参者が、メアリアンの前に立っていた。

 どうして。弱いくせに。

「弱いくせに!」

 少し打たれただけで、その白い頬は赤らみ、唇は切れ、骨は折れそうな音を立てるのに。

「どうして!」

(どうして私なんかを庇うの)

 気取った余裕や、貴族のプライドでやるようなことではなかった。

 少女は何も答えない。膝から崩れ落ちたメアリアンの頭を抱きかかえ、自分の身で、しっかりと隠した。男が笑う。

「ふふ? いつまでそうしているつもりだ? そんなことをしても、誰もお前を助けたりはしない」

 黙ったまま、少女は相手を見上げていた。その、緑色の瞳で。

「私の気が変わるとでも? 皆が皆、そういう目一つで、悪事を恥じるなどあり得ない。容赦してもらおうという、お前のような、吐き気のする考えが、通じるものか」

「いいえ」

 毅然と、少女は顔を上げた。

「貴方は、人をぶって面白がるような人には、見えません」

「リシェル様! 逃げてください!」

 男が少女を――リシェルを打った。その手はリシェルの頬ではなく顎に当たる。男は体を打たず、よろめいたリシェルの顔を狙って数度打った。メアリアンは、かえってその異常性を感じる。リシェルを振りほどけないまま、助けて、と心の底で叫び続けた。

(殺されるかもしれないのに! なぜ逃げないの!)

 嵐のようにぶたれ、突き飛ばされても、リシェルはメアリアンを庇う。逃げ出さず、メアリアンが殴られないよう、体を前に出し続けた。

「貴方は」

 暴力の合間を縫って、リシェルが細い声を出した。

 ルーベンスの手は、普段は繊細に見えはする。だが、剣を握るため皮がしっかりとしている。その、しなやかで強い掌に打たれながら、リシェルは相手を睨み返した。

「貴方はアズライル様ですか?」

「いかにも」

「貴方は、人をぶつときに、とても、痛そうな顔をする。叩かれる相手の痛みも、苦しみも、知っているのなら。それに心を痛めるのなら。貴方は暴力を楽しむ人じゃない。これは一過性のことです。どうしてわざと、人を殴るの?」

 この相手が、激情でずっと暴力をふるうような心性の持ち主かどうかを、リシェルもメアリアンも知らないけれど。

「腹が立つのなら、そこへ座ってください。ちゃんと、説明してください。何がどうなって、貴方が傷ついたのか。腹を立てたのか。できないからって、わめいて暴れたり、しないで。それでいいなんて、貴方も思っていないはずです。大丈夫、時間をかけても、もどかしくてうまくいかなくても、いいんですよ。私は、聞きますから」

 リシェルは、丁寧に、慈しみを込めて言い聞かせた。凜と燃える、強い輝きの緑色の瞳。

 メアリアンは、熱いとさえ思える、柔らかな体温に守られながら、リシェルを見上げた。その少女は、腕力や知恵や能力は、もしかしたら他の者よりも弱いかもしれない。けれど、相手を見据える、芯の強さ。冷静さ。メアリアンを庇い続けて逃げない、強さ。

 ――「強さ」が、ある。

「傷ついた? だからといって、何をしてもいいというわけではない」

 黒ずくめの伯爵が室内に踏み込んできた。背に流れる黒髪が、一拍遅れてついていく。

「永久に瓶の中へ入るか? それとも人形に封じられたいか?」

「誰が! まともに戦え! お前がはぐらかすから、っ!」

 悔しげに地団太を踏む辺り、騎士に取り憑いているアズライルは幼く見えた。

「骨は折れていないようだな」

 伯爵はリシェルの頬に触れかけた。だが、リシェルがはずみで顔をしかめたので手を引っ込めた。ちら、と、リシェルに抱き込まれたメアリアンに視線を落とす。黒々として底の読めない眼差しだった。

「申し訳ございません伯爵、奥様の身を、お守りすべき立場でありながらっ……」

「いい。お前が庇われることを望んだのでなくて、リシェルが自らそうしたのだろう。……リシェルにやめろと言ったところで、聞くような感じもしないな」

 リシェルは涙ぐんではいるが、殴られても我慢して立ち続けていた。その根性に、伯爵も呆れているらしい。

「さてアズライル。用があるのは私にだけだろう。お前がそれを望むなら――来るがいい、決着を用意してやる」

 伯爵が部屋を出る。舌打ちしたアズライルは、ルーベンスの体を借りたまま進もうとした。そのとき、リシェルが駆けて、窓際の花瓶を掴み、振りかぶった。ルーベンスに取り憑いたアズライルは青い目を細め、せせら笑う。そんなもの何にもなりはしないのに、と。

 けれど。途中で顔色が変わった。

「貴様――」

 ばしっ、と南天と柊に似た枝が、男の頭をひっぱたいた。この時期には、実が付いていなくても葉が茂っている。魔除けと言われるそれらを、使用人達は飾りとして、それと魔除けのおまじないとして、花瓶にさしておいたのだろう。

 バランスを崩して青年が転ぶ。

「ってて……」

「ルーベンス?」

 メアリアンの声に、ルーベンスが片手を振って応じた。

「……あれ……もしかして今、緊急事態?」

 ルーベンスの一言に、メアリアンもリシェルも、肩の力を抜く。

 南天が効いたのか、中身のアズライルが伯爵を追っていったためなのか。たまたまルーベンスの目が覚めて体から追い出されたのか。ともあれアズライルは去ったようだった。

「手ぇ怪我したみたい……」

 リシェルはルーベンスに駆け寄って、彼の右手に布を巻き付けた。

「立てますか」

「どうにか」

 ルーベンスは、リシェルの小さい体に寄りかかりながら立ち上がった。

「それってほとんど意味をなさないような気がするんですけど。それと、貴方、奥様をぶったんですからね」

「何が?」

 メアリアンはぶつぶつ言いながら、リシェルからルーベンスを引きはがす。そしてルーベンスを蹴って、歩かせた。


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