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第一章-3

 書斎を出ようと思って伸びをしたルーベンスは、壁際で音がするのに気がついた。

「何、あの音」

「魔法避けだ。細く編んだ金属をつるしてある。全ての部屋に仕込んであるから、何度か遭遇したことがあるはずだが」

「聞いたことはあるけど、アレは魔力とかのリーチーに引っかかってんのかと」

「どういう意味だ」

「いや適当に言いましたごめんなさい」

 ともあれ、とルーベンスは上着の裾を翻し、机の上から軽く下りた。

「コレって俺だと対処できない? 逃げた方がいい?」

「傭兵とは思えない発言だな」

「傭兵じゃないしー。剣と力技ならともかく、魔法使い相手じゃあ騎士の出番じゃないな」

「仕える先がないくせに騎士を名乗るな」

「これでも昔は美しい姫君が言い寄ってきたもんなんだよ」

「それを騎士とは呼ばん」

 アルフリートは引き出しを開け、机の上の書類をしまう。そしてゆるりと立ち上がった。

「いざとなればお前を物理的な楯として使用する。そのために雇っているからな」

「殺さないで!」

 ルーベンスは甲高い声を出してからくすくす笑う。

「さて。ここしばらくこういうお客様が来なかったけれど、俺も久々に何か斬れるかな?」

 上着を払い、剣の柄に手を添えて、ドアに対して斜めに立つ。

 廊下の物音は聞こえない。使用人達も仕事が済み、適宜休憩に入っている頃合いだ。夜勤の者が起きていても、――細い紐がいくつか絡んで鎖となっている術具が、反応することは滅多にない。

 足音が聞こえる。足音の主の体重が軽いため、浮ついても聞こえる。ふと書斎のドアの前で止まった。

「気づいているだろう」

 ドアの外から内への、それは密やかな呼びかけだった。

 閉まっている限りこじ開けて入ることはできず、室内の者が応答すれば部屋に入る、そういう魔物もある。

 沈黙を返した二人に、外の人物は低く笑った。

「気配も分からないか? 器一つの違いでそのざまか……ならばあのときと同じ舞台で、見せてやろう」

 軽く、誰かがドアノブを叩く。ドアは簡単に開かれ、外に立つ人物の顔がわずかに覗いた。

 輝くロイヤルブルーの瞳。笑う口元は愛らしく、金の巻き毛が残像のようにドアの隙間を通り、そして去って行ってしまった。

「……今の、」

 騎士が身構えたまま呟く。伯爵は知らず止めていた息を吐き出して、机上のナイフを手に取り、部屋を出た。

「ちょっとアレ、どういうことだよ」

「これからそれを確かめる」

「だってさあ!」

 追う二人の歩幅は広い。すぐさま「少女」に追いつけると思っていた。だが、人影などどこにも見当たらない。

 気配もしない。けれどアルフリートは、躊躇いなく、一直線に進んでいく。

「知ってるの? アレ」

「知らん。ただあの「目」を知っている……。外見に惑わされるな。喋り方といい、気迫といい、あの少女とは別人だ」

「そりゃ、あの子って目が緑色だったじゃん」

「魔力も持たなかった。だが今はどうだ? アレはあの少女とは別人だが、私は、あの中身について心当たりがある」

「誰アレ」

 アルフリートは答えかけたが、口に引っかかってうまく出てこなかった。

 広間に置かれたものが全て、思い思いに浮いていた。斜めに、あるいは水平に、ばらばらの位置に浮かんでいる。花瓶と中の水が宙に浮いたまま静止しているのを避けて、アルフリートは広間に踏み込んだ。靴底がちりりと鳴るが、続いて入ったルーベンスのときには何の異変も起こらなかった。

 一段高くなったところの手前で、少女が仁王立ちをしていた。

「私の予想が正しければ、お前は既に死んでいる筈だが」

 アルフリートがのっけからそんな発言をするので、ルーベンスは幾分か上半身を退いた。

「えぇ死んでるの……?」

「中身のほうだ」

「中が腐ってるのはちょっと」

「そういう意味じゃない」

 二人のやりとりを、少女が鼻で笑い飛ばした。

「この体は、私の自由にさせてもらうぞ」

「つまりお前は、あれからずっと付近にとどまっていたのか? 以前から、その少女に憑いていたのか?」

「どっちがいい?」

 険のある眼差しのせいで、少女は随分と、アルフリートに似ても見えた。

「そっか……一年前にこの城で、うっかりバカやって死んだ、従兄弟ってヤツか!」

 当然だがルーベンスはその発言のせいで、少女に完全に敵視された。少女の、がるる、と言いたげな風情に、わーどうしよー、とルーベンスもあまり本気には恐れない。

「当たりだが少しは考えて物を言え」

「考えたらどういう感じになるわけ?」

「一年前に、自尊感情から自分が一番偉いんだと思い込んでなぜか城で魔法を暴発させて自滅した従兄弟だ」

「同じじゃん」

 少女の方から強い、鋭い風が吹く。

「同じじゃん怒られてんのも」

「怒られているわけじゃない。向こうは怒っているが、そのいい方は何か違うぞ」

「貴様ら、もめてる場合か?」

 浮いていたものが、一斉に不協和音を鳴らす。耳を塞ぐ前に破裂し、二人は破片から頭を庇って身を屈める。曲がりなりにも騎士なので、ルーベンスは前に出ようとした。だが、アルフリートがナイフを抜いたので、慌てて避ける。

「死者の記憶と魂を冒涜する呪いは、誰が編んだ?」

「誰も! 私は呼び起こされたわけではない。空いた器が転がり込んできて、ばかばかしいことに無防備に眠りこけている――他の愚かな亡霊に、取り憑かれずに済んでよかったと感謝してもらいたいね! 他の連中であれば、うっかりこの子を壊しかねない」

「お前なら、人殺しをしないと言えるのか」

「言えないと?」

 傲然と顎を上げて、少女は強い口調を保った。

「だから貴様は愚かなのだ。いいか、私は」

 不意に声が途絶えた。立ったまま虚空を見ていた少女が、数拍を置いてくずおれる。

「ちょっ、と。今行って安全?」

「分からん」

「分からん、じゃないでしょ」

「いくらか、当人が使う魔法の、筋を切った」

「魔法に筋ってあるの!?」

「流れのようなものだ。だが手応えはなかったから、それが効いたわけではなさそうだな」

 身じろぎした少女が、目を覚ます。

 瞳は緑。

「……あれ? あの、ここ……」

 どこですか、と、転んだときに破片だらけになった手で顔をこすりかけた。慌ててルーベンスは駆け寄って、少女の両手首を持ってつり上げた。

「えっ何ですか?」

「一応一難去ったみたいだけど、どうする、コレ?」

 伯爵はナイフをしまい、ため息をついた。眉間の皺が、先ほどよりも、一応、一本減っていた。

 マリーベルが、香りのよいお茶に、柔らかな杏のジャムをつぎ入れる。できあがったものをリシェルに渡した。広い城のわりに、書斎は狭い。本を避け、応接のローテーブルを挟んで伯爵達とソファーに座り、リシェルはお茶を口に入れた。

 縮こまっていた胃の腑が緩む。温かい血が、ぐるりと頭や手足に巡った。

「温かくて、おいしいです」

「よかった」

 マリーベルが心底ほっとした顔で、まだたくさんありますからねと、ジャムの瓶を見せてくれた。伯爵が――アルフリートが口を開く。

「広間のことについては、片づけさせているから気にするな」

「あの、はい、すみません……」

「お嬢さんはさ、全然分かってないのにとりあえず謝るってのを、やめてもいいと俺は思うんだけど」

 ルーベンスはアルフリートに睨まれて、すぐに黙った。

「一体、何が起こったんでしょうか」

「……この城で眠って以降、あの場で目が覚めるまでのことを、何も覚えていないのだな?」

「……、今日あったことを、夢の中でお喋りしてました」

 したことといったらそのぐらいだ。言ってみたが、ルーベンスに笑いをこらえる顔をされた。リシェルはちょっと傷ついた。アルフリートは笑わない。

「お前が眠っている間、体が留守になっていたようだ。この城で死んだ、私の従兄弟アズライル・ロス・エルスが、お前の体を乗っ取った」

「乗っ取った?」

「取り憑かれてたんだよ」

 ルーベンスが訳知り顔に口を挟んだ。

「俺知らなかった。魔法使いってあんなつまんないことすんの? モノ持ち上げてみたり、吹っ飛ばしたり。人数いりゃ誰にだってできるコトじゃん」

「お前はひとまず黙っていろ」

「あい」

 適当に返事をして騎士は肩をすくめた。

「城に来る以前から、取り憑かれやすい体質だったのか?」

「いえ……そうした話は、両親からも聞いたことがありません」

「家を出て、城に来るまでの間……あるいはここ数ヶ月の間に、妙なことは起きなかったか? 呪いを仕込まれるような」

「呪い?」

 ちょっと首を傾げたくなる単語が出てきた。リシェルはわずかに眉をひそめた。

「いえ、魔法使いの方と知り合う機会なんてありませんでした。魔術師になった友人がいますけれど、その子は数年前に武者修行の旅に出かけましたし……手紙もくれないんです」

「そうか。それは大変だったな」

 話が逸れそうになったので、伯爵は適当な返事をして、騎士に「心がこもってなーい」とヤジを飛ばされた。

「変わったことといったら、今朝……今朝? もう昨日になるんですか? 伯爵のバラを、父が」

「その話はもういい」

「それと、馬車にはねられそうだった竜の子を見ました」

「竜?」

 魔法使いと、魔法使いのいる城に勤務する者らに、一様に不審げに見つめられてしまい、リシェルは内心ひどく慌てた。

「えっ、あの、は虫類の鱗がちゃんとついてて」

「大きさは?」

「猫か犬くらいで。パンを入れる大きな籠と同じくらいの大きさでした」

「小さすぎるな」

「竜見たことないから分っかんないけど。卵もでっかいイメージがある」

「トカゲかもしれない……」

「あぁ、トカゲだったのかもしれませんね」

 竜といえば、トカゲと違い、後ろ足で立っていたり、火を吐くものとして、絵本でも描かれている。

「火も吐かなかったし、尻尾がちょっと長かったし」

「しかしまぁ、ソレが呪いを媒介した可能性もある」

 調べよう、と伯爵は請け合った。

「ただ、この辺りで竜を見た、という話は聞いたことがないな」

 リシェルは部屋に戻ることにした。

 使用人がつき従い、リシェルが寝床に潜り込むと、おやすみなさいませとドアを閉める。

 そのとき、

「甘ったれたお姫様」

 毒づく声が聞こえた。密かにぐっさりと傷つきながらも、言い返せず、リシェルは「悪いのは私なんだから。案内してくれた彼女は、彼女なりに優しい人なのよ」と心の内で呟いた。

 アルフリートは、夜明けを待って使いを送った。目隠しをされた御者が馬のいない馬車台に座る。いつもの通り、伯爵が命じれば矢のように、見えない馬が走り出す。

 そうして入手した、リシェルの両親からの文によると――リシェルはどうやら、昔から、ごくまれに、見知らぬ何かを取り憑かせることがあったようだ。

 ――そうしょっちゅうというわけではございません。ただ、いわれのありすぎる場所へ旅行をすると、何かしらの怪しげなものが取り憑いて、そのたびにその場所から連れ戻し、どうにかこうにか事なきを得てきたのです。もしや魔法伯爵ならば、娘のこの病を治すことができるかもしれないと願っております云々。

「つまり、私の失言をいいことに、体よく私を使おうということだな」

「ていうかさぁー……うーあー」

 軽口を叩こうとした騎士があくびをして、変なうめき声を出した。

「何を言っている」

「でまぁとにかくさぁ。あの子を捨てるの、捨てないの?」

「拾ってきたように言うな。通常であれば「悪魔払いごっこをなぜ私がせねばならん」と追い返すのだが――生憎、リシェルにはアズライルが手を出している。城内だけでなく外でもアレがリシェルに憑くことができるのかどうか。分からない以上、下手に彼女を外へ追い出すのは危険だろう」

「わーいお嫁さんだな!」

「そうじゃない」

「知ってるっての。わざとだっての」

 分っかんないんだから、とため息をついたルーベンスに、わざとだ、とアルフリートは眉間に皺を寄せたまま言い返した。


 ともあれ、従兄弟であるアズライルがリシェルに取り憑いているときに事情を聞かないと何も分からない。取り憑いていない間アズライルは幽霊のように漂っているのか否か、城外にいるリシェルにも取り憑けるのかどうか。リシェルについても、はっきりしたことが分からない。

「リシェルには魔力は特にない。簡単に何にでも体を乗っ取られるというわけでもないらしい。本人が森を歩いていても、特段何も起こらない。基本的には眠っている間に、よほどいわれのあるものに近くなければ、安全であるらしい」

「外から見てぱっと分かったりしないの? どこどこが悪いから、薬で治しましょ、って」

「捻挫したわけでもないのに、そう簡単に分かるか」

「魔除けで防御してたらいい、とか?」

「あいつがもう一度取り憑く前に、試してみるか」

 魔除けぐらいで何とかなるだろうか。伯爵は身を翻すと、小枝や小動物の骨、木の葉、化石、不思議な光り方をする小石が入った引き出しを開けた。

「いっつも思うけど、その引き出し、鴉の宝物入れみたいだよね。または子どもの」

「お前は口以外働かないのか」

「だって」

 と、騎士は唇をとがらせた。

「気持ち悪い顔をするな」

「だってー、暗殺者が出るわけでもなし、今んとこ平和すぎて、剣の出番がないんだもん。暇なんだもん」

「クビにするぞ。腕がなまらないよう鍛錬でもしてこい」

「言われなくてもやってるし」

 不満げに、騎士は部屋を出ていった。


 青い羽だと、色がアズライルの瞳を思い出させる。緑色の綺麗な羽を選んで、ビーズ玉と並べて紐で結び、リシェルの首にかけておいた。

「絶対に離さないこと。それから、事態が収束するまで城に住むこと」

 言い聞かせられたリシェルは、真面目な顔をして小刻みに頷いた。

「こんなもので追い払えるとでも本気で考えたのか?」

 せせら笑う、瞳の色は強い青色。ロイヤルブルーの瞳は、覗き込むこと自体が恐ろしいような、深さ、底の知れなさを感じさせた。

「邪魔だ退け」

 アルフリートは、いくらか睡魔の残る頭で言った。書斎の椅子に座ったまま、一瞬寝入りかけたのがいけなかった。風のように滑り込んできた少女は、自分の胸元の羽を片手で引きちぎった。そして目をぎらつかせて啖呵を切るが早いか、伯爵の首元に手をかけて覆い被さってきた。だがもともとの体重がさほどなく、腕力もたかが知れている。伯爵が面倒そうに振り払うと、簡単に椅子から転がり落ちた。

「ったいな、もう……」

 ぼやいたアズライルは、涙目でアルフリートを睨んだ。

「アルフリート。そもそも、私のことを全く感知できなかったくせ、何が城主だ。一族の誇りを何と心得ているんだ?」

「黙れ。話が進まないのを危惧して、今日は「物理的な攻撃」のできるルーベンスを追い払ってある――私は暴力を好まない。質問に答えて大人しくしていれば、無理はさせない」

「は? 何を言っているんだ貴様は? 死んでなおこの地にとどまり、人間に取り憑いて貴様を殺そうとしてる者相手に、何を余裕ぶってる。そんなだから! つまらないと言ってるんだ」

 立ち上がり、アズライルはゆらりと手を伸ばした。涼やかな風が現れ、書斎のカーテンと小物と本を引っかき回した。

「どちらが強いか。ソレで城主が決まるはずだ」

「違う」

 アルフリートはインク瓶に蓋をし、お茶のカップにも皿をかぶせながら、アズライルを一瞥した。

「いろいろな派閥が内々に根回ししながらやり合っているうちに、候補者が共倒れになり、当時生き残っていた者の中で、最も魔法の才のあった、封印者にふさわしい者が選ばれただけのことだ」

「貴様今さりげなく自慢しただろう」

「何のことだ」

 真顔のアルフリートに、アズライルは「怒るだけ無駄だと分かってはいてもやっぱりむかつく」という結論を呟いた。

「まぁいい。勝負だ若造!」

「お前と私はそう年が違わないし、お前は私より年下だが」

「やかましい!」


 激しい物音がするのだが、ドアが開かない。

 リシェルが部屋を出たので、跡をつけてきた騎士は、廊下でくあ、とあくびをする。

 まぁ大丈夫なんだろう。こっちは、魔法相手に、できることは何もないし。――物理的に、少女をぶった切るかどうかするなら、話は別だが。

 ひとしきり騒ぎがして、しん、と静まる。終わりかと思った騎士は立ち上がった。

「うわ!?」

 ドアが内側から吹っ飛んだ。

 転がって避け、振り向くと、いろんなものが飛び交っていた。本、得体の知れない生き物、光、音、水、炎。

「何やってんだあいつら」

 とりあえずルーベンスは、被害の及びそうにないところまで避難することにした。


 みんなの態度がよそよそしい。

 突然城で暮らし始めた田舎娘に対して、初日は優しかったのに。

 これは、昨夜も、やってしまったのだろうか。

 リシェルは勇気を出して、使用人に近づいた。使用人は、一瞬、ぴょん、と飛び退いた。

「あの、ごめんなさい……私、また何か、やりましたか……?」

「あっ、いえ! いいんですよ、貴方じゃないんですから」

 慰めの声は優しいが、目が合わない。リシェルの具合が悪いかもしれないということで、朝食はベッド脇に運ばれた。具合が悪いかもしれないなんて、リシェルの「体」は、昨夜何をしたのだろうか。一人でもそもそとパンを食べてから、リシェルはそっと部屋を出た。

 使用人に道を尋ね、伯爵を捜す。

 書斎の前で、割れた壺を捨て、濡れた本を乾かしていた伯爵と、使用人達に遭遇した。謝り倒したが、伯爵は相変わらず眉間に皺を寄せていたので、困っているのか怒っているのか分からない。使用人は無言で、リシェルを避けた。

 落ち込んだ様子のリシェルを置いて、伯爵は昼から外出した。ルーベンスは城内にいるが、全く姿を見かけない。

 ぼんやりしてもいられず、リシェルは借りた本を読んだりもしたが、なかなか一日は終わらなかった。

 探検、とまではいかないが、いろいろな階を運動がてら、歩いてみることにした。

 ほとんど全て、同じ色の大きなドアが、廊下にずらりと並んでいる。窓の外には背高い木々の梢が揺れて、小鳥が羽を休めていた。

「とても綺麗な緑」

 昨日貰った羽も、あんな緑色をしていた。残念ながらリシェルに「取り憑いた人」が捨てたらしく、手元にはない。

 忙しそうにしている使用人の側を通るときは緊張した。ただでさえ肩身が狭いのに、亡霊に取り憑かれて暴れたりしたのだ。なおさらリシェルは縮こまった。昨夜のことは伯爵も説明してくれない。その上、伯爵は今日は戻りが遅くなるというから、不安になる。

(大丈夫、大丈夫)

 自分に言い聞かせて歩く。

(眠らなければいいの。伯爵が戻って来るまで)

 歩いていると、これみよがしに睨んでくる使用人もいる。リシェルは早々に部屋に戻った。


 気づかない間に眠っていた。目が覚めたときに、喜びよりも冷や汗が出るのは辛かった。

(大丈夫かしら)

 部屋が荒れていたり、しないだろうか。

 幸いなことに、マリーベルに聞くと、今日は何も「起こして」はいないらしい。ほっとしたが、リシェルは必死で考えた。

(こんなことが続いては、気持ちが持たない)

 自分でも調べてみよう。解決できても、できなくても、何もしないよりは気分的にマシだった。


 翌朝、おそるおそるマリーベルに聞いてみると、その晩は誰も化けて出なかったという。

 リシェルは安堵する。そして、書庫を使う許可を貰って、「取り憑かれることについて」載っていそうな本を探すことにした。

(伯爵が調べていらっしゃるとしても、自分で何にも知らないのはいやだもの……)

 書庫内は、本が天井までびっしりと並び、壁を埋め尽くしている。リシェルは気持ちを奮い立たせた。


 昼過ぎまで簡単な本を読んでいたが、それでも疲れ果てて、リシェルは散歩に出かけた。

 ひとけのない廊下を歩いていると、先ほどまでの、熱に浮かされたようなわんわんとした耳鳴りが静まっていく。

(こんな調子で、大丈夫かしら)

 リシェルは小さく、ため息をついた。

 メアリアンは、仕事をしていた。ここは魔法を使う伯爵の城だ。しかし、メアリアン達は、魔法なんて使えない。

 下手に魔法を使える者が常駐すると、伯爵にあだなす恐れがある――ということで、魔法使いはほとんどゼロだ。

 魔法使いと言えば伯爵本人だけ。それから、城自体にかけられた魔法がある。あとは数人、伯爵の友人や教授が訪ねてくることがある。よけいな争いが起こるのを許さない、という伯爵の考えは、使用人達にもよく浸透している。美しく、優秀だった伯爵の従兄弟アズライルは、魔法の暴走によって命を落とした。魔法とは恐ろしいもので、あってもなくても、使用人達の生活にはさしあたって関係も問題もない。それがこの城での基本だった。

 ということで、魔法を使うことのできない普通の使用人達は、ひたすら地道に、手と道具を使って作業をしていた。大きな据え付けの鏡を磨いたり、廊下を掃き清めたり拭いたりする。日によって場所を変えて、大きな城をまんべんなく、少ない人数で掃除していた。

 それを、熱心に見つめる者がいた。

「!」

 奥様、と呼んでいいのか分からないが。

 金色の毛は、巻き毛と言うよりはいくらか羊のようにもつれ気味にふわふわしており、結んでいない。とても幼い印象を受けた。見た目も中身も、だ。

「どうも」

 つっけんどんに応対したメアリアンに、使用人仲間が慌てた。メアリアンを引っ張って下がらせる。

 少女は――リシェルは、気にした風もなく、気の良さそうな微笑みを浮かべた。

「この先には、何があるんですか?」

 世間話のつもりなのか、彼女はそんなことを言った。

「あぁ……異界に通じるっていう、「扉」があるんです」

「まぁ……それって、見ることはできますか?」

 メアリアンは頷いた。

「見られますけど。部屋に鍵はかかってないですし」

「アンっ!」

 止める仲間に構わず、メアリアンは「お気をつけて」と笑みを浮かべた。


「――何であんなこと言ったの」

 少女が廊下の先へと歩き去ると、仲間が小声で文句を言った。

「あそこは入っちゃだめなのに。もう何人も消えてるんだよ? ある日誰かが突然いなくなって、田舎に帰ったとか言われたり。部屋から出てきたら別人になってたとか。いろいろあるもの。それを、どうして……」

「あら、決まってるじゃない」

 メアリアンは素っ気ない。

「あんな子、どうなったって構いやしないわ」

「メアリアン!」

「伯爵の従兄弟様が化けて出るなんて、今までに一度もなかった。兆しすら。折角静かに眠っておられたのよ? あの子が来たせいで、叩き起こしてしまったのに違いない」

「でも、ねえ」

 実際にあの少女が、アズライルとどう関わっているのかも分からないため、強くは諫められなかった。メアリアンの口調に、使用人仲間は気をもんだ。

「……でも、まぁ、リシェル様はお優しいじゃないか。いつも笑って、ご挨拶してくださる」

「優しいだけなら、簡単よ」

「そうでもないんじゃないかねえ」

 簡単よ、と、メアリアンは思っていた。

 そのときには。


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