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第一章-2

 乗合馬車が、街中の停留所に着いた。人々は思い思いに、市場や書店、勤め先などに散らばっていく。リシェルも席を立って、小銭を払って外へ出た。土埃が舞う路面を渡る。石畳で舗装された大通りに向かった。

 大昔、この辺りは全て森だったという。深い深い森の奥。黒々とした森には魔物や妖精や、それから竜が棲んでいた。やがて、魔法使いの一族が、この国の女王様に命じられ、城を築き、この地に眠る呪いを封じ込め続けることになった。

 いくら呪われた地であっても、魔法使いが封じているのであれば、盗賊などの危険がある場所よりはよほど安全だ。そう考えた人々が、その辺の森を開拓してもいいかと、魔法使いの住む城に行って聞いた。

 魔法使いにも人好きがいたもので、――というより、どうでもよかったようで、大したこともできまい、とばかりに、開拓を許可したのが、この街の始まりである。

 開拓地は、初めのうちは狭い範囲だった。やがて、城が外れにあるような、大きな街へと発展した。魔法使いとしては、予定外のことだろう。あっという間に人が集まり、よってたかって市場などの流通拠点や生活一式を揃えてしまった。居住権を主張し出して、今では、城なんて邪魔なので(大きいし陰気だし、華やかなパーティーをするわけでもない)出ていってほしいと思われている向きもある。

 歩きながら、リシェルは、街の歴史について反芻した。

 別に、いいことも悪いことも、特筆すべきことは何もなかった。

(ひとまず、お父様のしたことを謝ってこなくては)

 城の者が、本当にリシェルをよこせといったのかどうか。疑問ではある。だが、親がバラを拾って叱られたことは事実だろう。謝罪し、事情を掴んで、鼻で笑われるなりして話を片づけて帰ればいい――。

 薄水色の空に、小鳥が飛び交う。

 リシェルは、ともすれば弱気になりそうな気持ちを引っ張るため、胸を張って、大きな城門の、小さな木戸のノッカーを叩いた。

 天井は、思ったよりも高くなかった。想像していたのが三階建ての建物程度の高さだったから、ではある。リシェルが見上げると、天井は十分に高い。先程通った階段も、むやみに広々としていたが、複数の使用人が忙しそうに働いて、壁も手すりも磨いていた。あちこち、そうして清潔に保たれている。

 鞄一つで家を出たリシェルは、それを体の前で抱きしめたまま立ち尽くした。ここは、広間、というものだろうか。

 場塞ぎになるテーブルなどがないので、室内はひたすら、無駄に広い。隅に観葉植物が群れているが、それも遠い。壁に装飾画が掛けられているが、遠くてよくは見えなかった。

 一段高くなった前方に、玉座めいたものがあるのかと思ったら特になく、長いカーテンが、目隠しとして下げられているだけだった。

 伯爵を待つようにと言われたが、このままだと日が暮れそうである。静かで、人の足音さえしなかった。

 立ったままうとうとしかけたリシェルの耳に、くすぐったい感触がした。

(?)

 目を開けると誰もいない。耳を押さえて振り向いても、何も居はしなかった。

「何かしら……」

 自分の声がひどく頼りない。

 疑問に思いながらも前を向くと、カーテンの奥から使用人が数人出てきた。彼らは客が来ていることに気がついて「あら」といった表情になってから、そそくさと部屋を出ていった。滅多に来客がないのだろう。のどかな感じ、ではある。

 そのとき、廊下のほうから、ひどく面倒くさそうなため息が聞こえた。

「伝えた筈だ。その件についてはリッガントに任せる」

「ですが」

「くどい」

 若いが、学校を出たてというほどではない、青年の声だった。眉間に皺を寄せた黒髪の男が、廊下を進む。扉の向こう、廊下を見ていたリシェルは、その男と目が合った。

 男はひときわ顔をしかめ、少し肩口で振り返った。小声で配下に指示を飛ばす。

「――だ。それから、先ほどの使用人。管理はどうした」

「は。申し訳ございません」

 執事らしき老人が、綺麗に腰を折り曲げて、礼をした。老人は、すぐに対処させましょう、と「マリーベル!」使用人頭であろう女性の名を呼びながら過ぎ去っていった。

「何で君、こんなところにいるの」

「!」

 ぼんやりと事態を見送っていたら、唐突に声をかけられた。見れば、リシェルのすぐ近くに人が立っている。全く気がつかなかった。

「ごめんなさい、他のことに気を取られて、貴方に気づきませんでした」

「え? いや、気づかれてても困るし」

 不可解なことを言い返して、青年は首を傾げた。栗色の髪に木の葉がついている。

「俺は、ここのボスの騎士」

「伯爵の?」

「そうそう。で。何だっけ。君」

 リシェルは、上から軽く人差し指でさされて、つむじがちょっとむずむずした。

「私はリシェル・カーライルと申します。このたびは父がご迷惑をおかけして――」

「待って待って。ここで謝られても俺迷惑だし」

「めいわく……」

「こっちに来て。ほんと、こんなとこ案内するなんてなぁ。こんなちっさい女の子なら、もうちょっと緊張させないところで接見したっていいじゃないの。わざわざさぁ、広間なんて悪趣味ィ」

 軽やかに腕を取られ、リシェルはよろけてたたらを踏んだ。この青年は、とても調子が良い感じだ。迂闊についていくと痛い目を見そうな気がした。

「あの、ここで伯爵を待つようにと言われましたので、勝手に動くわけにはいきません」

「いいって! 気にしないって!」

「気にします」

 リシェルは毅然とした態度を取る。

 青年は身軽に、リシェルの周りをくるくると回った。彼は随分背が高い。裾の長い上着が翻ったとき、帯剣しているのがちらりと見えた。

「どーして」

「どうしてもです」

 リシェルは手を取られたまま回されて、目が回った。それでも鞄を離さずに、その場にしっかりと踏みとどまった。

「……ふうん、そうきたか」

「何が、……!」

 不意に青年に軽々と抱え上げられ、リシェルは悲鳴を飲み込んだ。どうにか意味の分かる言葉を吐き出す。

「おろしてください!」

「荷物を運ぶのはめんどくさいけどさぁ。女の子なら楽しいから問題ないし」

「おろしてください!」

「ここの主に会いに行くんだろ? 正直俺、さっきそいつに頼まれたから大丈夫」

「はい?」

「行こう行こう。ここで押し問答してても、仕方ないし」

 勝手に結論づけて、青年はのしのしと歩き出した。彼に担がれたリシェルも、本人の意志と関係なく、運ばれていく。

「ひとさらいー!」

「あははははははは」

 いくらか舌足らずに叫んだリシェルに、相手はただ爆笑した。

「つーれてきーたよー」

 ドアを開け、青年は、叫び疲れたリシェルをおろした。

「ルーベンス」

 室内にいた黒髪の人物が、硬質な声を投げかける。

「ノックをしろ。解雇するぞ」

「えっマジで。どうしよう。俺失職?」

「路頭に迷っても助けないからな」

「それはないよなぁ!」

 リシェルはふと気がついた。存外に狭い、本だらけのこの小部屋は、書斎だろうか。その中心で、黒髪を背で一つに束ねているこの男。先程、伯爵を待っているときに、リシェルは彼を見かけている。この人が伯爵本人なのだろうか。

「貴方が、伯爵ですか?」

 リシェルはおずおずと口を利いた。

「そうだ。アルフリート・ロス・エルスと言う。……災難だったな、御客人」

 伯爵が言って、ちらりと茶色の髪の青年を見やった。

「もうだめかと思いました……」

 リシェルは青ざめたままで応答した。そして、同情めいた言葉をかけてくるときの伯爵が、随分、冷ややかではないようなので、城に来て初めてほっとした。

「使用人の方々も、笑うかあぜんとするかで、全く助け船を出してくださらなくて……」

 しょぼくれたリシェルの様子に、再び声を上げて笑おうとした青年だが、伯爵に一瞥されて沈黙した。

「さて。名を聞こう」

「あっ、はい。私はリシェル・カーライルと申します。本日は父がご迷惑をおかけして――」

「迷惑?」

 さも初耳のように、癖なのか眉間の皺を増やしてこちらを睨む。

 知っている限りの事情を説明したところ、隣にいる青年が、口を押さえて息だけで笑い、伯爵はいっそう顔をしかめた。

「あの……この件を……伯爵はご存じなかったのでしょうか」

「いや。知ってはいるが……」

「知ってるよね! 俺いたもんそんとき。税の申告がどうたらで、城にいても埒が明かないから役所に行って、書類揃えるのに別宅で作業してたときだもん。あんっまりちまちまちまちました作業だったからアルフリートがぶっちぎれててさぁ。そんななのに「庭でバラの花取ってるやつがいる」とか使用人がぷんすかして来るんだもん。難癖いっぱいつけて怒鳴って、使用人を追い出したんだよねっ」

 ねっ、じゃないと思う。

 そのせいで父は驚き、母と涙しながら、リシェルを城へと送り出したのだ。

 しかし――まぁ、当然ながら、多大な行き違いを感じる。

「怒っていらしたのは事実だとしても、別に、私を娶るという話は、なさっていないんですよね?」

「だっからさあ。その前段階として、夫婦になってくれる相手もいなくて城の継承とかどうするんだとか、この人いろいろバカにされててねー。キレてつい口に出してしまったんだよ」

「お前が適当な説明をするな」

「何か他に説明する言葉があるかよ?」

「……」

「ないだろ。ないな。俺すごいな」

 ひとしきり胸を張った青年は、やがて辺りの沈黙に堪えかね、自ら黙った。

「ルーベンスの言うことは話半分でいいとして。私も急いでいたとはいえ暴言を吐いたことは謝罪しよう。使用人にも、こうしたときの対応方法については指導を明確にしておく」

 声を荒げることなく、温度を感じないほど静かな口調で、伯爵は続けた。

「それで、いいか」

「あっ、はい。許していただけるのであれば……」

「それはよかった。こたびは不明確な指示がそのまま伝わり、不便をかけた。それにしても……バラでジャムを作りたいとは、父君も変わった趣味を持っている」

「それは今朝、母と喧嘩して……仲直りの種を探して歩いていたからだと思います。このたびは本当にご迷惑をおかけしました」

 リシェルは安堵して、ようやく、伯爵に微笑みかけるゆとりができた。

「それから……私は、家に帰っても大丈夫ですか?」

「? 構わんが」

 伯爵の言葉に、ルーベンスが非難の声を上げた。

「ばっかだなぁ! 折角自分から嫁に来てくれるっていうのに! さっきこの子を待たせてる間に使用人が何してたと思うー? どこの誰なのかちゃーんと調べてさー。実家から手紙も貰ってきてんの」

 そんな暇がどこにあったのだろう。確かに、やたら待たされたが、リシェルの家と城とでは、往復すると数刻かかる。やはり、魔法使いの住む城、という噂は事実なのだろうか。

「この手紙を読んでみろよ。魔法伯爵におかれましては娘を娶っていただきありがとうございます云々」

 青年が胸元から取り出した手紙を、伯爵は無言で奪い取った。伯爵は席に座ったままだった。

(素早い……!)

 リシェルが感心しているうちに、伯爵の眉間の皺が何本か増量した。

(さっきは、皺の数が一本になっていたのね……)

 微妙な点について納得していると、伯爵はその場で別の用紙を取り出した。そして「冗談だからリシェルは帰っていい」という旨をさらさらとしたためて、リシェルによこした。使用人に渡して取り次がせるとか、そうした決まり事は一切なかった。

 ――狭苦しい主の書斎で、直接話をしているとかいうのも、決まり事からしたら大問題なのだろうが。

「でもさぁ」

 未練がましく青年が言う。

「置いとこうよ。この子。可愛いし。小さいし。俺も手は出さないし。あんたの性格と職業で、この先彼女ができるとは思いがたいよ。政略結婚のお話すらないじゃん」

「黙れ傭兵」

「だまんないー。というか俺は騎士。騎士ですから。話戻すけど、帰さなくたっていいじゃん。外暗いのに、可愛い女の子を一人で森に放り出す気!?」

 自称騎士は手をもみ合わせて身をよじった。

「可愛ぶるな。馬車を用意する。丁重にお送りすればいい」

「でも今日満月だし」

 伯爵が、そういえばと言いたげに眉間を揺らした。皺が減るかと思ったがそうでもない。

(何なのかしら……)

 満月であることにどんな意味があるのか知らないが、リシェルは、その沈黙が恐ろしかった。

 深いため息の後、伯爵は頬杖を突き、そしてすぐにそれをやめた。

「分かった。一晩だ」

「やったー!」

 リシェルの手を掴んで回った騎士に、伯爵はわずかに声を荒げた。

「だから。一晩だ。明日の朝になれば家に帰す。分かったな」

「……明日になったら気が変わってるかも」

「それはない」

「どうかなー」

 面白がる騎士を、伯爵は手の甲でしっしっと追い払った。

「その娘を客室へ案内してやれ。あぁ違うお前じゃない」

「行こっか」

「お前じゃない!」

 伯爵の声がささくれ立つ。

「最近この城はたるんでいるぞ……」

「太ったんじゃないの?」

 伯爵は騎士を見つめた。

 怒っているような呆れているような、バカにしているような。眉間の皺だけで多彩な表現をする人を、リシェルは初めて目の当たりにした。


 伯爵が呼ぶと、すぐさま年配の女性が足音もなく、すべるようにやってきた。驚いたリシェルの手から鞄を取り上げ、振り向いて「ルーベンス様。よそのお嬢様に何かなさったら、承知しませんからね」と険を飛ばした。

「何にもしやしないって。全然分かってないなぁ。俺は自分から行くんじゃない、向こうが襲いかかってくるんだ」

「目を輝かせて言わないでくださいまし」

「あと、年下に興味ないんだよねえ。俺。年上のナイスバディじゃないと。あんまり若いのってほら、ねえ。ロリコンじゃないし」

「お喋りするだけなら向こうへ行ってください」

「じゃお嬢さん、またねー」

 全く懲りていない自称騎士ルーベンスは、笑顔で手を振って、別の角を曲がっていった。年配の女性がため息をつき、それからリシェルに振り返った。

「急な宿泊ですから、いたらないこともあるかもしれませんがね。何かあれば、私、マリーベルか、またはメアリアンをおつけしますのでソレにお申しつけを」

「はい、突然訪問しまして、何から何まですみません」

「そういうときにはね。ありがとうございますって言うんですよ」

 ふくよかな体を揺らして、荷物を運びながらマリーベルが背中で言った。そっけないふうだが、どこか温かさを感じて、リシェルは思わず微笑みをこぼした。

「そうですね。ありがとうございます」

「さて。メアリアン! メアリ!」

 マリーベルが声を張る。ややあって、若い女性の声が応じた。

「何ですかマリーベル。食事の支度はスタッフが進めているし、部屋はちゃんと昼間に整え終えてますけど」

 黒髪を頭頂部で丸く結い、上に白い布をかぶせてリボンを垂らした女性が、どこからともなく現れた。

「まぁメアリ。貴方またどこから出てきたの」

「どこにいるのかも知らないで、適当に呼んだら出てくるって思ってらっしゃる貴方のほうが問題だと思いますけど」

「まぁ本当に口数の減らない子。メアリ、貴方この、今日のお客様をお部屋にご案内して。開いてる部屋をどこでも使っていいから」

「どこでも? 見晴らしのいい最上階?」

「メアリ!」

 マリーベルが身を震わせてメアリを叱った。

「貴方はまたそういう冗談を。野ざらしにしていいようなお客様ではありませんよ」

「じゃあ東館に?」

「ましてやだめです。向こうは宿泊できる部屋はありませんよ。素直に、そうですね、三階の、庭の見える部屋にして差し上げて」

「あーはいはい。月が見える部屋にします」

「頼みましたよ?」

 マリーベルは、おざなりな感のするメアリアンに鞄を押しつけ、さっさと一人で行ってしまった。取り残されたリシェルは、ひとまず、「よろしくお願いします、メアリさん」と挨拶した。

 メアリアンは、リシェルにちらりと視線を寄越した。その目は、伯爵とも似た、綺麗な黒だ。涼やかな目元にはこれといって表情はない。値踏みするかのような視線を送り、鼻息を吐いて、

「こちらです」

 メアリアンはようやく廊下を進み始めた。

 案内された部屋は十分すぎるほど広かった。五人以上眠れそうなベッドが壁際に寄せてある。窓の外には、暮れなずむ空。様々な種類の植物が並ぶ庭が見えた。

 リシェルが外を見ていると、メアリアンが明かりをつけた。鞄を置き、テラスはあるがあまり出ないようにと釘をさした。

「窓も開けないようにしてください。満月ですから。室内からでも、十分、外の景色は見えますからね」

「どうして、満月の夜に窓を開けてはいけないんですか?」

 リシェルの問いに、メアリアンが含み笑った。

「迷信ですが、満月には魔物が出ると申します。この地に限って言えば、気をつけるにこしたことはありません」

 食器の音すらかすかな、晩餐の席だった。食べ物がうまく喉を通らない。たびたび小さな咳をして、リシェルは食事の手を止めた。

(伯爵も、あんな顔をして食べていては、体に毒になりそう)

 思いはするが、面と向かって口を利く勇気は出ない。食事を摂る人間は、伯爵とリシェルだけだった。食事を出す使用人もごくごく少人数である。長テーブル数個分向こうにいる相手を、空の食器や飾りの果物籠越しに見ながら、リシェルはいつの間にかうとうとし出す。見かねたマリーベルが、伯爵が部屋を出たのをきっかけに、リシェルの手から食器を取った。

「あのっ、だ、大丈夫です、まだ」

「使用人と客を一緒くたにするわけにもいかない、かといって一人ぼっちで食べさせてもかわいそうだ……と伯爵がおっしゃいましたのでね、この席になったんですよ。でも貴方には大変でしたね」

 叱るのではなく同情めいて言われ、リシェルは身の縮む思いをした。不作法すぎて、恥ずかしい。

(でも、眠い……)

 リシェルは、ゆらゆらした蝋燭の明かりを見つめながら、立ち上がらせようとする人の手の、温かさを感じ――たところで、意識が途絶えた。


「食事中に居眠りする女の子って初めて見たな」

 ルーベンスが軽く言う。一方の伯爵、アルフリートは、無理もないと思っていた。リシェルは、親が、魔法を扱う伯爵の機嫌を損ねた、と肝を冷やして訪ねてきたのだ。行き違い(というか八つ当たり)だったと分かって、気が緩んだのだろう。

 リシェルの家は、田舎のそこそこ大きな家の末裔で、上流貴族と交流することもさほどなく、かといって家計にもゆとりがあり、のどかな生活を送っていたのだ。そのためか、彼女は緊張してはいたが、かどわかしにあいそうな、のんきな雰囲気も持ち合わせていた。

 今朝は腹が立っていたとはいえかわいそうなことをした――アルフリートは多少反省している。

「食事にほとんど手をつけていなかった。夜中に腹が減るかもしれないな」

「夜食頼んどくの?」

「敢えて厨房に言わずとも、使用人は勝手にやるだろう」

「あら。信頼?」

「どうだろうな」

 アルフリートは書類をめくる。光源もさほど明るくないため、そろそろ仕事は終えどきだった。

「お前もさっさと休め」

「んーハイハイ」

 ルーベンスは書斎の机に腰掛けて、だらしなく本を広げて生返事をする。

 最近城の連中はたるんでいる。と、アルフリートは苦く思う。既に、今日のうちに何度か思ったが。

 不意に、ルーベンスが口を開いた。

「今は?」

「何がだ」

「あの子。部屋に連れてったけど。ぐっすり眠ってるみたい」

「何が」

 腿にのせた紙面から目を離さず、自称騎士は言葉を続けた。

「今はあの子のこと、可愛いって思うか?」

「なぜいつもそういう話になる」

「そういう話以外にあんまりすることってないじゃない。この城じゃ、魔法使いってお前一人だろ。偉ぶったり足引っ張ったりするから、身内もそれ以外も、魔法使いを城に住ませてないし。つまり俺はただのヒトなわけよ。城の大半の使用人も、ただの人間なわけ。噂話とおいしいものと、ローカルニュースが大好きなのよ」

「噂話とローカルニュースの内訳が同じであるような気がするんだが」

 しかも、ゴシップと言うべきものともイコールで結ばれている。アルフリートはとりあえず、ため息をついてごまかした。

 柔らかく、くたっとした感触。頬をすりつけると、日向の優しい匂いがした。

(これは羽布団ね)

 お母様の部屋にあるものかしら。それにしては、お花の匂いもしないけれど。

 夢うつつに、寝返りを打つ。布団が遠のいてしまった。手探りする際に、弾みでうっすらと瞼が開いた。

 頬杖を突いた人が、リシェルのことを見下ろしていた。

「――!」

 一気に目が覚めた。飛び起きたリシェルに、

「起きた」

 と、寝そべったまま、頬杖を突いた人が感想を述べた。

「このまま熟睡し続けるのかと思った。よかった」

「……あの、貴方は?」

「僕?」

 さらさらとした金色の髪を揺らして、彼は笑った。

「リュウ」

「ここはどこなんでしょうか?」

「君の名前は?」

「リシェルです」

 答えながら、リシェルは、もしやうかつだっただろうか、と考えた。辺りにはゆらゆらと薄靄が広がり、他のものは何も見えない。寒くはないが――どうも、家の中でも外でもなさそうだ。普通の場所とは、とても思えない。

 立ったまま、リシェルはごく、と唾を飲む。寝転がって頬杖を突いた人は、どこか底光りする目を、リシェルに向けた。

 とても綺麗な人なのだが、見た目通りとは限らない。何しろ、この街はもともと、深い深い森の奥。昔であれば、魔物も出るようなところなのだ。――ここ百年は、そんな話を聞かないものだが。

「夢の中だよ」

 リュウは、リシェルの先ほどの質問に、簡単に答えた。

「君の夢の中。僕は、たまたまここにいるだけで、悪意も敵意もないし、気にしないで」

 ひらひらと手を振る仕草が、今日出会った自称騎士にも似ている。

「まぁ座りなよ。お茶もないけど、夢でそんなもの飲んだって仕方がないだろう」

 君の話を聞かせてほしいなと、リュウは言った。

「だってここは夢なんだもの。何をしてもいい。ごろごろしていたって構わないんだよ」

 リシェルは、最初のうちは警戒もしていた。だが、彼の周りだけ空気が暖かいことに気がついて、おずおずと近くに座り込んだ。どのみち、どこへ行くあてもないのだ。

 整理がてら、今日の出来事をぽつぽつと喋り始める。

「今日はね、パン屋さんに行く途中に、小さな竜の子を見つけたの」

「へえ」

「竜じゃなくて、トカゲかもしれない。あの子がちゃんと無事に、自分の家まで帰れていたらいいんだけど。……すぐに茂みに逃げてくれたから、きっと大丈夫ね。それから、私のお父様がよその家のバラを拾って、怒られて、私、お城へ謝りに行ったの」

「そうだね。見てたよ」

「そうなの?」

「だって夢だもの、ここ。君の中で多少は見聞きしたよ」

 よく意味が分からない。ちょっと眠くなってきたので、リシェルは「夢だからいいか」と曖昧なままにした。

「一晩泊めてくださるって……それでお布団がいつもと違うのね。変な夢を見るはずだわ」

「そればっかりのせいでもないと思うけど」

 一人で納得したリシェルに、リュウは気のないふうに相槌を打った。

「まぁ、城にいるせいでトラブルが起こってるのは確かだね」

「トラブル?」

 城の人に、迷惑をかけただろうか。食事も一人分多いし、寝間着も借りたし、客間で眠りこけているし、確かにそうだ。リシェルは頬を両手で挟んでうつむいた。

 リュウは寝そべった体勢のまま、見上げて言った。

「外は大変だよ。リシェル。君が起きたほうがいいのか、寝たままのほうがいいのか、僕には判断がつかないや」


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