第三章-1
第三章
庭師が暇を見つけ、切り株を引っこ抜いて、リシェル用の畑を準備していた。リシェル自身も小石を拾ったり、着々と準備を進めた結果、最近では畑らしく、リシェルの手でも鍬を使って耕せる場所もできてきた。
(でも、あんまり深く掘り返したくない)
リシェルの腕力でも、頑張ればできるはずなのだが、表面しか耕せない。
(どうして? どうしてこんなに、いやな……怖い、感じがするのかしら)
*
原因が見つからない。
再三、アルフリートは、リシェルの家族や友人らに、昔変わった事件はなかったか問い合わせている。
そのたびに、庭木に登って落ちたとか子ども同士で喧嘩をしたとか、仲裁があったとか、些細な「事件」が報告された。が、リシェルが「取り憑かれる」体質になった決定打は見つからなかった。
「アズライルいわく、ある程度魔力を持つ者がリシェルに接近すると、吸い込まれて、気がついたら取り憑いている、という感じになるようだが……」
城にいる、他の古い魔法使いの残滓達を、アズライルがリシェルに張り付いて追い払っているともいう。今のところ、真偽のほどは、アルフリートには見えてこない。
「なぜだ?」
外が騒がしくなってきた。
ため息をついて、眉間の皺をちょっと指でもみほぐし、アルフリートは立ち上がった。
書斎を出ると、使用人がアルフリートを捕まえにかかった。
「リシェル様がお倒れに!」
*
畑仕事をしていて気が遠くなった。それだけだ。
(こんなに大騒ぎされてしまって……恥ずかしい……)
上掛けを頭まで引き上げ、かぶったまま、リシェルはうつむく。
「畑……」
伯爵まで来たらしい。呟きがすぐ近くで聞こえて、リシェルはますます身を縮めた。
「大騒ぎになってしまって、ごめんなさい」
リシェルが涙声で謝ると、
「畑……」
伯爵は、先程と同じ言葉しか言わなかった。
「そうか……、お前の両親が言っていた。お前は幼いころ、畑で遊んでいて、そこに埋まっていた死体を掘り返したことがあると」
「……? 覚えて、ません」
いや――覚えている。
(もしかして、小さい頃に見た、あの時の……)
リシェルは思い返す。
あの日、畑を掘っていた。
リシェルの家では、三人家族(当時リシェルには祖父母もいたが、商売で船に乗っていたので家にいなかった)で食べることのできる程度の、野菜を育てている。それから、鶏を数羽、羊が一頭。これは近所の人にもらったものと、商店街のくじ引きで当てたものだ。
「遠くへ行っちゃ、だめよ」
母親ののどかな声を聞きながら、少女は短い手足を動かし、畑の畝を越えていく。
「おっ、今年はいいカブが採れそうだなぁ。土の具合をごらん」
「まぁ本当! 貴方、よかったですねえ。カブのスープがお好きですもの」
両親が浮かれて会話しているのをよそに、リシェルは畝の間におさまり、つまらない、とばかりに土を掘り返す。やわらかい土を掘っても、楽しくはない。徐々に畝を外れ、固い土のほうへ移った。
つまんない。けれど、土を掘り返すうち、虫が出てきたりして、気は紛れた。
「あっ」
不意に生臭いにおいがして、少女はびくりと手を止める。
ひどく臭う。それは、人の――体。死体。
その、意味がよく分からないまま、それでも、その衝撃は、少女の心のどこかに、穴を開けた。
そのときに――憑かれやすい体質を得たのだろうか?
「まさか」
アルフリートの声が聞こえる。
「ただの死体だと……思っていたが」
それきり、辺りが静かになった。
(?)
リシェルは、ぱち、と瞬きする。いつの間にか、目をつぶっていたらしい。ほの白い空間に、リュウが寝そべっていたので、自分が眠っていることに気がついた。
*
「うわっ」
耳元で声がして、リシェルはがばりと跳ね起きた。
辺りはまだ薄暗く、すぐにはよく見えなかった。ただ、見たこともない大きな牛が、ベッドの上に立っている。
「……牛じゃない?」
牛の数倍は大きい。肌はごつごつとしていて鱗も生え、比翼を広げて、ベッドの上でバランスを取っていた。
「――竜?」
「引きずり出されちゃった」
「その声は……リュウ? 夢の中の人?」
「そうだけど」
ばつが悪いのか、ぶっきらぼうに、その竜は言い返した。
「最初から竜だって言ってたじゃない。僕だって、まさか、実体まで呼び出されるとは思わなかったよ!」
「実体? どういうことなの?」
「知らない」
子どもみたいにふてくされられ、リシェルはリュウに手を伸ばした。
「知らない、じゃあないと思うわ。貴方、私の夢に出ていたのね? 人の布団に潜り込むなんて」
「夢には出たけど、実際に城に入ってきてたわけじゃないし! 変質者みたいに言わないでくれる? 一応、体はちゃんと森に隠して、中身だけ来てたんだもの。なのに、誰かが君に魔法をかけた。他のなまくら魔法使い達は、僕が君の夢に訪ねてきてたことも知らなかったくせに……。いわば僕のユーレーと僕の体を繋ぐ、見えない糸ってヤツを、魔法使いの誰かが、引っ張ったんだ。君に触れている僕のユーレーを利用されて、本体を釣り上げられちゃったんだよ」
ぶるりと身震いした竜の目は、恐ろしげなところは全くない。ただの子犬のようだった。
「とにかく。状況が変わっちゃった。そろそろ危ないって、やな予感もしてたのに……来てた僕が悪いんだ。君にも振られたし、もういいや」
「待ってリュウ、貴方、」
風が起こって、木の葉のような光が乱舞し、視界を遮る。それがおさまってから、リシェルは、自分以外に誰もいない部屋で呆然と呟いた。
「どうして私のところに来ていたの……?」 ――だって君が、助けてくれたから。
かすかな声が、リシェルの耳をくすぐった。
――人間は、誰も、助けてくれなかった。君だけが、さらわれた馬車から落ちた後の、僕のことを助けてくれたんだ。
*
ばたばたと駆ける足音がした。物が倒れる音もする。
動悸のする胸を押さえて、リシェルはノックされたドアに、返事をした。
ドアを開けて入ってきたのは複数名。メアリアン、伯爵、ルーベンス。ある意味、それなりに見慣れた面々だった。
「突然場が乱れた」
アルフリートは顔をしかめ、ステッキで床上を叩いた。
その表情は、険しいどころの騒ぎではない。
「最近どうも目くらましされている。ロスと魔法系統が似ていて、感知しづらい……城の防御魔法に引っかからないように、巧妙に似せてある。だが、今のは明らかにこれまでと違う。今のは何だ? お前か?」
「私がやったのかということであれば、違います、違うと思います……」
リシェルは、夜ごと夢に現れる者と、先ほど去っていった竜のことをどうにか伝えた。
「夢を介して……?」
アルフリートは怪訝につぶやく。
「たとえ夢でもさ、城に入られてるってことに違いはないよな。はい! 黙ります」
軽く言い放ったルーベンスは、アルフリートの怒りを察して宣言した。
「竜がリシェルの夢を訪れて……その夢を使って、芋づる式に竜の本体を引っ張り出した? そんなことをしてどうする? 竜なんて何に使うんだ。呪いのために利用するのか?」
「一体誰が?」
リシェルとメアリアン、ルーベンスの声が重なる。アルフリートが答えかけた、そのとき。
「それはもう分かっていると思うけれどね」
突然、聞き慣れない声が響いた。
「残念だな。身内の気配は感知しきれないのか」
「灰髪……何の用だ?」
相手の言葉に対して、アルフリートは平静さを取り繕った。
「裏口から入ってきたのか? 私はお前の訪問について誰からも聞いていないのだが」
「訪問連絡をしていなくても君が魔法使いであるなら、警戒していればすぐに分かるよ?」
いつの間にか、室内、それも面々のごく近くに、うさんくさい微笑みを浮かべた紳士が佇んでいた。彼はにっこりと笑ったまま言う。
「いい加減うんざりだ。君達は平和ボケしているのかな」
「お前は、私にまともに取り合ってほしいのか? 完全に尻尾を掴んでからの方が、のらりくらりとされずに済むと思ったので放っておいたが……ならば聞こう? アズライルをそそのかして、暴発の可能性の高い魔法を使わせたのはお前か? 下手な小芝居で球根型の魔物を城に差し入れたな? それに乗じて呪いを背負わせた別の生き物を街と城に放ち、城の関係者が近くを通ったときに襲撃するよう細工をした。そのうちの一匹は城内で自滅したので、不発だった。間違いはないか?」
「だとしたらどうする? ――既に死んだ身の上で、アズライル、お前も私に、何か言う言葉はあるのかな?」
灰髪、レスタート・ロス・エルスが、冷たい目でリシェルを見やった。挑発する、笑いを含んだ言葉だった。
「……私に、アズライル様が取り憑いたことを、ご存じなんですか」
「そうだね」
知らないわけもない、と、レスタートは肩をすくめた。
「君達は、本当にバカだね。城に来ている竜のことにも気がつかないし」
「あれもお前の差し金か?」
「いや、全く。昔、父が捕まえ損ねた、はぐれ竜だよ。私のものになる予定だが、先日、お嬢さんに邪魔をされて、逃がしてしまった」
「私?」
リシェルは驚く。
「そうだよ。お嬢さん。折角、苦労して部下に捕まえさせようとした竜だ。二度も逃げられたとはいえ、今度は跡をつけさせているから、すぐに捕獲できるだろう」
「二度……?」
「一度目は、お嬢さんが逃がした。二度目は今さっきだね」
「まさか、馬車にはねられかけていた竜を助けたときのこと?」
レスタートは、笑みをもってこれに答えた。
アルフリートがステッキを手に、一歩踏み出す。
「ところで、お前はどうしてそれほど余裕を持って、私の前に立っていられるんだ?」
「これまで気づいていても動かず、動いたとしても鈍いお前達を、恐れる理由が見当たらないな」
レスタートの声がぶれる。消えて逃げるつもりだろうか。姿さえ歪む。
リシェルは強い目眩を感じた。強い怒りに、押し出される感じがする。
(兄上!)
慕っていた人に裏切られて、アズライルが叫んでいる。リシェルの体はリシェルを離れ、アズライルの指示に従った。
レスタートに殴りかかったアズライルは、相手が消えたのでよろけて転んだ。倒れ込んだ後はリシェルの意識に戻っている。
窓の外で、羽音がした。灰髪かと思いきや、窓を覆うほどに大きな影だ。
こつこつ、と、人の顔くらいの鉤爪が、窓を叩いた。
「間違えちゃった」
図体は大きいが、その声には聞き覚えがある。喋っているというより、澄んだ音が胸に直接、響いてきた。
「リュウ?」
「そうだけど。今さっき、まっすぐ飛び出しちゃったから、城の周りの結界に引っかかっちゃって……破ってもいいんだけど、怒られるのもいやで。ねぇ、外に出してくれる?」
「竜はすぐ見つかるってあいつが言ってたけど、本当だな」
ぽつりとルーベンスが呟いた。
窓を開けると、翼を畳んで竜が建物の中に入ってきた。外にいたときより随分縮んだ。リシェルが、道ばたで初めて見たときくらいの小ささである。
それでも、
「大きいじゃないか」
翼を広げて下り立った竜の姿に、アルフリートは目を細めた。
「私が見た竜は、さっき外にいたほど大きくはありませんでした! 今ここにいる、犬とかくらいの大きさで」
「サイズなんていくらでも変えられるんだけどな」
何つまらないことで言い合っているの、と竜は首を傾げた。
「リュウ、貴方が私に名乗ってくれたのは、種族が竜だという、自己紹介だったの?」
「そうだね」
「貴方の、本当のお名前は?」
竜は検分するように首を巡らせた。
「――そうだなぁ。リシェルが最初に、さっさと名乗ってくれなかったから、機会を逸してしまった」
「え」
「っていうのは冗談としてもさ。僕、名乗ってもいいのかなぁ」
ちら、と竜に見られ、アルフリートは眉を上げた。
「名を知ったところで、お前のことを捕らえも呪いもしない。ただ、ここを見張っている他の魔法使いが、いないとも限らない。名乗るかどうかはお前の自由だ」
「そりゃそうだ。僕の自由だ」
竜は翼を打ち下ろして、小さな見た目に似合わない、強い風を巻き上げた。頭を庇って腕を挙げたリシェルの、耳元に首を近づける。
「僕の名前は、リオニール」
「貴方を、リオと呼んでも大丈夫?」
比翼で包まれ、テントのような状態で、リシェルはできるだけ声を潜めた。
「いいよ。それなら、外で呼んでもいい」
「ありがとう、リオ」
「お礼を言うのは僕の方だよ。助けてくれたのは君なんだから」
「馬車にはねられかけていた、あのときのこと? あれはやっぱり、貴方なのね」
翼を離して、竜はリシェルに改めて言った。
「この際だから言うけど。君と現実世界で会うのは、今回で三回目だ」
「今と、さっき部屋で出会ったのと、貴方が馬車にひかれかけていたとき?」
「さっき? 夢のことは除くとして、城で今会ってる。それがまとめて一回。それと馬車のとき。その前にもう一回会っているよ。君は知らないだろうけど、君が畑を掘ったとき」
「城の畑?」
「違う違う」
「え……?」
話が読めずに困惑するリシェルに、アルフリートが用心深い口調で言った。
「リシェルが幼い頃、自宅の畑で死体を掘り返したとき、近くにいたのか?」
「そう。それ」
正解、とばかりに竜は笑った。目を細めて、口元や頬が緩んでいる。だが、それもすぐに無表情ともいえる暗さに戻った。
「あのとき、君を助けてやればよかった」
*
もともとは、苦労人の自殺だった。
リシェルの家の、畑近くの森で死んでいた。ちょうどよい、と、ロス家の下っ端の魔法使い達が拾ってきた。
彼らは森の奥で小型の竜を掴まえ、檻に詰め込み、この街にやって来たところだった。 とてもうまくいっている、と彼らは考えていた。
竜は――リオニールは、まだ何もされておらず、檻の中に入ったまま黙っていた。
当時、城にはアルフリートの叔父が常駐していた。アズライルとレスタートの父親は、城の封印を外し、呪いを兵器として手に入れたがっていた。
その日は、魔法使い達は城の防御を少しずつ弱らせるため、死体を埋めて用い、基礎的な呪いをかけた。そして竜を使う第二段階に到達する前に、呪いを城に跳ね返されてしまった。
用いた死体が発酵し、毒となって、臭いとともに拡散する。
魔法使い達は、防御もろくにできないまま、死んでしまった。
竜は、体を揺さぶった。術をかけた者が死んだので、何度か体当たりを続けているうち、檻を壊して外に出られた。
軽く炎を吐いて、死体になった人間達を、焼き清めた。こうして魔法使い達は跡形もなく消え去った。
呪いに用いられ、埋められた死体以外は。
竜はあくびをした。さぁ帰る前にひと眠りしよう。竜は茂みに隠れて、目を閉じた。
まさか死体が、一人の少女の手によって、掘り起こされるとは思いもしないで。
*
「その後、リシェルが死体を掘り出した。騒がしくなったから、僕はさっさと森に帰った。たかが人間の小娘だ。その場で死にもしなかったし、大したことはないと思ってた。でも人はもろいね。あのくらいのことで、力のある死者を吸い寄せるような、穴が開く」
竜はリシェルをじっと見つめた。黒い瞳孔が、夜のようだ。
「あのときは、連れ去られて閉口していた。解放されたらまた山へ戻って、魚や兎をはんで。季節が何度も巡ってから、軽くまどろんでいたら、また捕まった。まさか、あのときの子どもに、助けられるなんて思わなかった」
外で木々が大きくざわめく。竜が、きゅうっと目を細めた。
「あのとき、あの畑なんて、焼き払っておけばよかった」
考え込んだリシェルは、やがてゆっくりと顔を上げた。
「でも、貴方がそうしなかったから、私は遺体を見つけて、この体質になって、……そしてここで、メアリアンやルーベンスさんや、伯爵達に出会うことができたの。そのことが、全くいらなかったなんてことは、ないの」
「こんな城なんかじゃなくたって、友達くらいいるだろ」
「でも、その一人一人には、換えはないのよ?」
竜は、ふん、と鼻息を吹いた。アルフリートの方を向き、居住まいを正す。
「人間。この子を治してやってほしい」
「竜に頼まれずとも、その準備はしている。ただ、直接「穴」と表現されたものを治すことは難しい。本人が、あると思っていない――無自覚なものを、治すことは容易ではない」
「え。何。そういうものなの?」
ルーベンスが丸く目を見開く。
「俺も確かに、ハイになって、怪我してる足のこと忘れて、駆け回ったりもするけど」
「兵士の高揚と一緒にするな」
「でも、みたいなもんでしょ?」
「リシェルについては任されよう。お前を城から出すことに、反対もしない。ロス・エルス本家と違って、竜を殺して昔の呪いと相殺させるという考えもない。ただ、厄介な身内が、お前を狙っている。お前は、このまま無事に逃げられるのか?」
竜が、一瞬大きく膨らんだ。怖くて、リシェルは一歩退いた。
「竜殺しの魔女の一族め」
竜の呟きが、城の薄暗く湿った空気に触れて、広がる。
「城が呪われているのは、この地が呪われているからだ。同胞がここで、無為の死をとげている」
竜は足下の石床を爪の先でなぞった。これまでの、子どもっぽい口調は払拭され、異形の生き物らしさが溢れていた。
「その同胞は、魔法使い達の手で呪いの道具とされ汚される前に、身の一片たりとも使わせない、と誓って死んだらしい。竜は地に伏し、地は呪われ、亡霊がより集まり、ほころびが生まれ、異界へと繋がった。人の王は、それを治めるために、ここに、魔法使いを置いた。竜に呪われるような真似をしたくせ、生き残っていた魔法使いを。彼らに労役を課し、城を築かせ、地鎮と異界への「扉」の管理を任せた。未来永劫」
リシェルは勇気を出して、疑問を口に出した。
「この地が呪われたとき、どうして竜を殺した魔法使い達自身は、呪われなかったの?」
「彼らは竜の子孫だからさ」
竜は軽く肩をすくめた。
アルフリートが話を引き取る。
「その魔法使いは、人と竜の血を引いていた。薄まってきてはいるが、ロス家の人間は、竜の子孫だ。……この地を呪う竜は、国の戦争と、魔法使いの野心のために殺された。竜の命を原動力にした呪いを使って、この国は勝ち抜き、有利な条約を結ぶことができたが、この地には予想外の、強い、呪いの副産物が残された。この国を呪い殺してやる、という、強い恨みだ。同時に、竜は、同族を呪いきれなかった。竜の血を引く魔法使いは死なず、辺りの人間や森が死に始めた。女王陛下は――当時は、ミカエラ・ロッサ女王だったが、魔法使いに任務を与えた。子々孫々、その地の呪いを封じ続けよ。さもなくば解け、と。この城は、竜の血と骨と呪いの上に建っている。今のところ、封印することには成功しているし、城に一人も魔法使いがいなくても、城自体があれば抑えられる。周りに人が街を作ったのは、先祖達にも予定外だろうが。そういう、いわくのある家だ。……お前に、書物を見せ、この地で採れたものを食べさせ、生活させるのは、今は危険がほとんどないと分かっていても、心苦しい」
「心苦しい……」
復唱して、リシェルはそっと目を上げた。緑の瞳に射抜かれて、アルフリートの目が揺れる。けれど、受け止めて、逃げなかった。
「伯爵の、弱気なように見えて、逃げ出さない強さと優しさを、私は好きだと思います」
「回りくどい言い方だな。私は褒められているのか?」
アルフリートは、息で笑っている。
「いえ……そうですね。伯爵が、そういうもののおっしゃり方をするからです。……私に、そのお話を聞かせようと思ったのは、私を、友人のようなものだと、少しは思ってくださったからなんでしょうか」
アルフリートは困惑を返した。
リシェルも笑う。
「すみません、つい。私は、生まれてからずっと、この街で暮らしています。伯爵が心苦しいだなんて言われても、今更、ですよ」
竜はその場の空白を見計らい、「ところで」と口を挟んだ。
「僕、森に帰りたい。助けてくれたリシェルと、話をしたくて夢に出ていたんだけど、ずっとここにはいられないし。でも、そこの人の親戚が、狙ってくるんだよね。どうしたらいいと思う?」
「お前は……それが目的で、戻ってきたのか?」
「何が?」
アルフリートの視線を受けて、竜は、子どものように可愛らしく首を傾げた。
「分かった。お前のことを灰髪が追わないように、策を考えてやる」
「わーい。ありがとう」
竜の礼が届くか届かないかのところで、広間や廊下の窓が、一斉に砕け散った。
「またか!」
アズライルや球根が窓を割ってから、そう日は経っていない。
ルーベンスやマリーベル達が、アルフリートを庇って伏せている。リシェルもメアリアンから離れ、はたと気づいた。
とっさに、粉々になった破片を踏んで、窓に駆け寄る。
「リオ!?」
竜のものだろう、遠吠えが聞こえる。苦しそうな鳴き声だった。
「やられたな」
平静さを保ったアルフリートの発言に、ルーベンスが大声を出した。
「お前弱いのな!」
「弱くはない。防御しながら攻撃はしづらいだけで」
「弱いじゃねーか」
「リオ!」
リシェルは手が切れそうになるのも構わず、窓枠にすがりついた。枠は簡単に崩れ、屋敷の壁ごと、外へ落ちた。
壊れる音。音。耳でなく全身が引っかき回されているようだった。
「その、考えなしのところが! 強いとか勇敢というよりも、愚かなんだ」
リシェルを引き寄せ、アルフリートは魔法を用いて、庭に下りる。
「ご、ごめんなさい……」
腰が抜けたマリーベルを、メアリアンが部屋の奥へと引っ張っていった。ルーベンスは近くの木に飛び移り、下りてくる。
「そういうときは騎士が姫を助けるべきなんじゃないの?」
「黙れ。それと――下がっていろ。魔法の使えない者は足手まといだ」
「そうとは限らないんじゃない?」
ルーベンスは怯まない。
リシェルは、アルフリートの視線を追った。じわりと、庭の一角の、空がよどんで曇天になる。
「分かりやすいな」
口の端を上げて、アルフリートが踏み出した。
*
庭は即席の迷路と化していた。
「人の庭をよくもここまで壊してくれたな」
行けども行けども、出口がない。普段あるべき場所に、その木が生えておらず、リシェルも困った。でも、リオが呼ぶから。草を飛び越え、木の枝を払い、アルフリートに遅れまいと、前進した。
ルーベンスはというと、
「呼んだら行くから」
と、迷路になった庭の外で待機している。全員が術中に飛び込むよりも、後から別行動したほうが意外性があっていいじゃない、という弁だった。
庭木が茂って、空も見えない。
「これも、魔法ですか?」
「魔法でなかったら、神の仕業か?」
アルフリートに鼻で笑われ、リシェルは、「緊張しているんですね」と間の抜けた答えを返した。




